2009年12月17日木曜日

スペイン内戦を記録した写真家Agustí Centelles

Agustí Centelles - Spanish photographer called ''Robert Capa of Spain''(for the summary in English please see the bottom of this page)




スペイン内戦の写真家Agustí Centelles
スペイン内戦の写真家と言えば、大半の人はまずキャパ(Robert Capa 1913–1954)の名前を思い浮かべることだろうと思います。しかしカタルーニャの写真家アグスティ・センテーリャス(Agustí Centelles 1909-1985)は、撮影した写真の量においてもまたその質においても、キャパに勝るとも劣らない内戦の記録を残した人でした。

12月1日のスペイン各紙に、「Centellesの全作品、スペイン文化省が家族から70万ユーロで買い上げ」(現行レートで約9千万円)というニュースが載りました。1万枚を越えるネガフィルムは、そのほとんどが1930年代後半のスペイン激動の時代を記録した写真ばかりです。

Centellesは1909年にバレンシアで生まれ2歳の頃にバルセローナに移っています。家計を助けるため11歳で働き始め、学校に通ったのは一年ぐらい、あとは全て独学の人でした。子供の頃から写真に興味を持ち、新聞社のグラビア印刷部門でしばらく働いたあと、18歳でバルセローナの報道写真家Jopsep Badosaに弟子入りして写真家としての腕を磨きます。そして25歳(1934年)の時、分割払いで買ったライカ一台を手に報道写真家として独立しました。

Leica IIIa, the most popular Leica in 30’s & 40’s.(Centellesが最初に買ったと推測されるLeicaIIIの改良型(外見は変わらず)

Leicaが変えた報道写真
1920年代と30年代は、新聞がグラビア印刷を取り入れたり、米国のLife誌など写真主体の新しい週刊誌が誕生したりで、世界的に報道写真という新しい写真の分野が花開いた時期でした。

それにあわせるようにカメラの世界でも技術革新が進みます。1925年に第一号機が発売されたLeicaは、ボディーは堅牢な金属性、コートのポケットに入る小型サイズながら、既存の映画用35ミリ・ロールフィルムの採用により36枚の連続撮影ができること。またレンズ交換が可能で新聞写真サイズに引き伸ばせる解像度を持つ交換レンズが開発されるなど、従来のカメラのイメージを一変させる革命的な製品でした。そしてドイツの写真機業界では後発だったLeitz社を、一挙に小型カメラ業界のリーダーに押し上げた、ヒット商品でもありました。

第一次大戦の写真を見ると、戦場の兵士達はカメラの前でポーズをとっています。これは当時のカメラは三脚に固定し静止した被写体を撮るものだった、という技術的な制約もあったのでしょうが、肖像写真が主だった時代の写真観の反映でもあると思われます。

しかし高感度ロール・フィルムの開発と、ポケットに入れてどこにでも持ち運べるLeicaの登場により、動く被写体を追いかけるようなダイナミックな写真の撮り方が可能になります。そしてそれをスペインの戦場で実証したのがCapaやCentellesでした。
Centellesはスペインで最初にライカを使い始めた写真家の一人ですが、当時の新聞の編集者の中には、「そんなおもちゃみたいなカメラでは」と、頭から拒否した人もいたそうです。写真を一枚撮るたびにフィルムを差し替える必要のある大型カメラが、プロの道具と考えられていた時代の話です。




Centellesの代表作
La Fábrica社出版のスペイン写真家叢書(Biblioteca PhotoBolsillo, Madrid, 2006)の第15巻で、Centellesの主な作品が紹介されていますが、その表紙に使われている写真が彼の代表作のひとつです。
これは1936年7月19日にバルセローナ市内のDiputación通りで撮ったものとされていますが、共和国政府に対しクーデターを企てたフランコ派の反乱軍兵士を相手に、倒れた軍馬を盾に銃撃戦を展開している突撃警察隊員(guardia de asalto)の写真です。この日Centellesはライカを手に終日バルセローナ市内を駆けめぐり、反乱軍の決起から降伏までの激動の一日を記録しています。

(Photo:courtesy of © Agustí Centelles, VEGAP)Anarchist soldiers leaving for Aragon front(Barcelona,July-1936)
バルセローナからアラゴン戦線に向かうアナキスト民兵部隊(1936年7月)

1936年の夏、Centellesは前線に向かう民兵部隊と共にフリーランスのカメラマンとしてアラゴン戦線に赴き、初期の民兵部隊の戦いを撮りました。1937年には共和国軍兵士として召集されますが、Centellesが手にしたのは銃ではなくカメラでした。東部方面軍政治コミサール本部所属の写真課員として、引き続きアラゴン戦線での戦闘や銃後のバルセローナの模様を記録しています。



(Photo:courtesy of © Agustí Centelles, VEGAP)Victim of air-raid by Franco’s forces(Lerida Nov 2, 1937)フランコ軍によるレリダ市空爆の犠牲者(1937年11月2日)
Centellesは、戦意高揚や宣伝用のいわゆるプロパガンダ写真を撮らざるを得ない立場にありました。しかし共和国軍の写真課員として各地を飛び回るなかで、この夫の遺体を前に号泣する夫人の写真のような、見る者の心を打つ作品をいくつも残しています。この写真も彼の代表作のひとつです。
Centellesは、「死者の写真はクリーンに撮らなくてはならない」とよく口にしていたそうです。報道写真家は死者を悼む気持ちを失ってはいけない、と自らを戒める言葉でもあったのでしょう。
1937年から1938年初めにかけて、北はアラゴン州のピレネー地方から南はテルエルまで、各地の戦闘に従軍したCentellesは、バルセローナに呼び戻され、1938年4月付けで防諜組織の軍事情報局(SIM)所属の写真室長に就任します。実際にどんな業務だったのか詳しいことは分りませんが、のちにフランスに亡命しBramの強制収容所で書きとめた日記を中心とする『ある写真家の日記』(Diario de un fotógrafo, Ediciones Península, Barcelona, 2009)の中で、当時の状況に少し触れています。それから推測すると、フランス亡命に至るまでのバルセローナでの10ヶ月間は、街に出て報道写真を撮るよりも、むしろ内向きの仕事が多かったようです。


『ある写真家の日記』-フランス亡命の記録

(Photo:courtesy of © Agustí Centelles, VEGAP)The Concentration camp at Bram(Aude)ブラムの強制収容所

1939年1月26日のバルセロナ陥落の前日、Centellesは妻と1歳半の長男を父親に託し、写真機材と数千枚にのぼる内戦のネガフィルムを入れた旅行カバンを抱えてフランス亡命の旅に出ます。40万人を越える避難民が殺到して大混乱の国境をやっとの思いで通り抜けましたが、すぐフランス官憲の手で悪名高いアルジュレス(Argèles-sur-Mer)の強制収容所に送りこまれてしまいました。そして一ヵ月後の3月初め、アルジュレスからさらに120キロぐらい内陸に入ったオード県ブラム町(Bram, Aude)の強制収容所に移されます。

Bramは中世の城壁都市として有名なCarcassonneから20キロぐらい西にあり、そこに新設された強制収容所には15,000人から17,000人ぐらいのスペイン人亡命者が収容されました。新設とは言っても、一戸あたり100人を収容する25m x 6mサイズの木造宿舎170戸を、鉄条網で囲んだだけのもので、暴動などを警戒してのことでしょうが、宿舎は15戸(収容者1500人)ごとに鉄条網で区切られ、お互いの行き来には制限があったようです。床に藁を敷いたものがベッド代わりで、暖房はむろんのこと電気もなく、写真で見ると宿舎というよりまるで大きな馬小屋という感じです。

Centellesの日記は1939年1月12日付けでに始まり、バルセローナでの生活ぶりと、家族を置いてひとりフランス亡命の旅に出る悩みを吐露した部分を含んでいます。しかし日記の中心は半年におよぶBram収容所での日常生活の描写です。将来の不安と寒さにさいなまれ、雑居生活に神経をすり減らしながら、バルセローナに残してきた家族のことを思うCentellesの心境や、苛立つ収容者たちがつまらぬことで言い争いを始めたりする姿が、いきいきと描かれています。
Centellesは収容所の中でも写真を撮り続け、有料で警護の警察官や仲間の肖像写真を撮っては、食費の足しにしたこともあったようです。

こんなBramでの生活が半年ばかり続いたあと、運よくCarcassonneのある写真館での仕事が舞い込み、Centellesは1939年9月初めに出所することができました。フランス軍に召集された写真館主の代役として忙しい毎日を過ごしているうちに、フランスは1940年6月末からナチスドイツの占領下におかれてしまいます。そしてやがて始まったレジスタンス運動にCentellesも協力することになり、写真館の地下に秘密の写真ラボを設け、身分証明書の偽造作成などを手伝いました。

しかし1944年1月、ナチスドイツ秘密警察(GESTAPO)の手でCarcasonneのレジスタンス運動関係者の一斉検挙が行われ、Centellesが親しくしていた友人たちもナチスの強制収容所送りになりました。そしてCentellesにもGESTAPOの手が伸びる恐れが出たため、スペイン警察に逮捕されるのを覚悟で、バルセローナに逃れる決心をします。
Centellesは、フランス亡命いらい片時も離さなかったネガ入りの旅行カバンをCarcassonneの下宿先の家主に預け、1944年4月ひそかにバルセローナ市に戻りました。そして家族と合流のうえ、親戚を頼ってタラゴーナ県レウス町に移り住み、パン屋の手伝いをしながら、一家揃って目立たないようにひっそりと暮らします。

内戦直後の混乱した世情が落ち着いたころを見計らって当局に自首し、1947年にはバルセローナに引っ越すことができました。しかし、報道写真家として活動することは認められず、当時38歳のCentellesは宣伝写真などを手がけながら商業写真家として生きてゆくしかありませんでした。

1万枚のネガ
1975年の独裁者フランコの死と共にスペイン民主化の動きが始まったのを見届けたCentellesは、1976年にCarcassonneに出向き、預けてあった数千枚のネガを全て持ち帰ります。こうして内戦の記録を含むCentellesの写真はぶじ散逸を免れたわけですが、1976年に始まったスペインの民主化が、なるべく過去の問題にはお互いに触れないようにしよう、内戦の記憶は封印しよう、という当時の風潮の中で進んだこともあり、Centellesが時には命を賭けて撮り、フランス亡命中も肌身離さず保管した、内戦の記録に対する世間の関心はいまひとつ盛り上がりませんでした。Centellesとその家族にとっては割り切れない思いだったろうと推測します。

Centellesを「スペインのCapa」と呼ぶときには、「世界的に有名なCapaに似た写真家」という理解がその裏にあるような印象を受けます。しかしCentellesはCapaの亜流ではなく、優れた報道写真家でした。ただスペイン内戦に限って言えば、Centellesは戦争を地道に記録した人であり、Capaは戦争に人間のドラマを見出した人だった、という違いを感じます。

Capaは限られた取材日数の制約の中で、ドラマ性のある写真を求めるジャーナリズムの期待に応える必要がありました。そして見事にその期待に応えたCapaにはほんとうに感服します。
しかし、兵士たちと寝起きを共にしながら戦場で撮ったCentellesの写真には、ホテルから車で戦場に駆けつける外国人のCapaには撮れないものがありました。それがCentellesの写真の魅力のひとつだと思います。

最近の新聞報道によると、カタルーニャ自治政府(Generalitat)の一部の人たちは、本来カタルーニャの文化遺産であるべきCentellesのネガを、家族がスペイン中央政府にカネで売り渡したと非難しているそうです。それに対する家族の言い分は、「Generalitatに本当にその気があるなら25年間も時間があった筈だ。しかし、Generalitatはけっきょく何もしてくれなかった。中央政府が買い上げるという話が出たので、急に名乗りをあげただけだ。しかも中央政府とは違って、これから写真をどう公開してゆくつもりなのかGeneralitatには何のアイデアもない。」と反論しています。

Centellesの家族にしてみれば、Christie’sなどオークション会社経由で高い値段で売却する道もあった筈ですが、作品の公開という点を重視し、スペイン政府文化省に譲渡することに決めたのは立派な見識だと思います。もし事実が報道の通りなら、カタルーニャの一部の人たちの批判は、ちょっと的はずれという感じがします。

ともかく貴重な内戦の記録が、コレクターの手に落ちることもなくスペイン政府の手に渡り、こんご一般公開が進む可能性が出てきたのは喜ばしいかぎりです。現状ではひとつひとつの写真についてのデータの整理が不十分のようで、同じ写真でありながら違ったタイトルがついたり、付記される撮影場所や年月日が異なったりするケースを見かけます。これを機会にCentellesの伝記の編纂や、全ての作品についての考証作業が進み、新しい写真集の出版が実現することを願っています。

Centelles生誕百年の今年は、スペイン内戦終結七十周年であると同時に、フランスの強制収容所開設七十周年でもあります。そんな背景もあってのことでしょうが、収容所のあったBram町で最近Centellesの作品展が開かれました。フランス人にとっては余り思い出したくない記憶でしょうが、ちゃんと過去の歴史に向き合おうとする姿勢に敬意を表します。

またスペイン政府の後押しでCentelles国際報道写真賞を創設する構想もある由で、「スペインのキャパ」ではなく、「スペインの報道写真家、Agustí Centelles」が、世界に知られる時代が来ることを期待します。


Agustí Centelles - Spanish photographer called Robert Capa of Spain
(Summary)
Agustí Centelles(1909-1985),a Spanish photographer famous for his photos of the Spanish civil war(1936-39),is often called ''Robert Capa of Spain''.
The Spanish press reported in early December that the Spanish Ministry of Culture had agreed to buy the Centelles’s entire collection of 10,000 photos, mostly of the Spanish civil war era, from the family at 700,000 euros.
According the press some members of the Cataluña’s autonomous government (Generalitat) have bitterly criticized the decision of the Centelles family for selling the photo collection to the Spanish central government alleging it’s a cultural heritage of Cataluña. The family reportedly responded to it saying that the Generalitat had 25 years, if they had really wanted to acquire it indicating also that the Generalitat had ignored the family’s plea of assistance in the past for safeguarding of the collection.

Agustí Centelles was born in Valencia in 1909 but moved to Barcelona at 2. He started the career as professional photographer at 18 as an assistant to Josep Badosa, a popular photographer at the time in Barcelona. In 1934 at the age of 25 Centelles started on his own with a Leica which he had bought on installments. He was one of the first Spanish photographers who used Leica when the majority of professionals were relying on large format cameras.

The Leica camera which was developed by Leitz in 1925 has changed the way of taking photos. Robert Capa and Agustí Centelles proved that a small and versatile 35 mm film camera (‘’like a toy’’ for some traditional press people) could make brilliant photos of the war.

On July 19, 1936, the day of failed military coup in Barcelona, Centelles took the famous photo of 3 militias in urban police uniform(Guardia de Asalto) who were exchanging fire with the rebels with dead horses used as barricade.

As a free-lance war photographer he then followed militia groups, mostly anarchists from Cataluña,who went to the Aragon front to fight against rebel forces led by general Franco. In 1937 Centelles was drafted by the republican government and was handed a Leica instead of a gun. As a military photographer he witnessed, sometimes risking his life, many battles and miseries of the civil war. One of his master pieces is the woman crying in front of the dead husband, casualty of the air-raid in Lerida city.

On January 25, 1939, the previous day of taking Barcelona by Franco’s forces, Centelles chose to go on exile to France leaving his family in Barcelona. He carried with him a small suite case filled with thousands of negatives of the war. He was one of those over 400,000 refugees who tried to escape to France during the two weeks after the fall of Barcelona. He managed to cross the border in chaotic situation but was detained by French police and was sent to the concentration camp established by French government, first in Argèles-sur-Mer, and a month later in Bram near Carcassonne.

We know how hard the life was at the camp through his diary(‘’A diary of a photographer, Bram 1939’’ ) which was published in Catalan and Spanish. Centelles comments in the diary that the French government treated Spanish exiles as if they were criminals. There was no electricity nor heating and the food was poor at the Bram camp for 15,000 exiles, which was considered to be a ‘’model’’ camp by the French government.

Fortunately for Centelles, in September 1939 he found a job at a photo studio in Carcassonne whose owner had been drafted by the French government. Centelles became a free man after 6 months of internment. But the freedom did not last too long. In June 1940 France was occupied by Nazi Germany and the French resistance movement started. Centelles collaborated with the resistance setting up a secret photo lab in the basement of the studio and made forged IDs for resistance members.

In January, 1944 GESTAPO arrested hundreds of members of resistance in Carcassonne including some of the best friends of Centelles who were sent to Nazi’s concentration camp. In view of possible persecution by GESTAPO Centelles decided to return to Barcelona risking the arrest by Spanish police.

In April, 1944 Centelles entrusted the suite case of his negatives to the care of the landlord in Carcassonne from whom he had rented the house and secretly returned to Barcelona. After joining the family he moved to the town of Reus(Tarragona province) where he had relatives and worked as a baker.

In 1947 Centelles turned himself to the police and moved to Barcelona. No criminal charges were laid on him, however Centelles was denied to work as a photojournalist, his specialty. Only choice for a 38 year old ex-photojournalist was to work as a commercial-industrial photographer which he did in the rest of his life.

In 1976 when the transition to democracy started in Spain one year after the death of Franco, Centelles went to Carcassonne and recovered his negatives. However, the attitude of majority of the Spanish people those days was; ‘’not to dig the past, try to forget the painfull memories of the civil war and reach the reconciliation’’. As a consequence the negatives which Centelles had made risking his life and kept as a treasure, did not receive the due attention from the public. It was a disappointment for Centelles and his family. He died in Barcelona in December,1985 at the age of 76.

A series of expositions of his work have been organized in Spain and in France as well. Currently an exposition is on going at the town of Bram as commemoration of 70th anniversary of the end of Spanish civil war and the start of internment of Spanish exiles. With the acquisition of the collection by the Spanish Cultural Ministry the public access to the Centelles’s work is expected to be improved and better organized including future expositions in those countries as USA where Centelles still remains mostly unknown.

2009年11月16日月曜日

スペイン内戦の旅ーテルエル(3)

アンドレ・マルローの『希望』と永遠のスペイン
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アンドレ・マルローとスペイン内戦
アンドレ・マルロー(André Malraux 1901-1976)は、1936年7月にスペイン内戦が始まったとき、共和国政府支援のためいち早く国際航空隊を組織し、内戦の渦中に身を投じた人です。そして航空機に関しては全くの素人ながら、将来の戦争で空軍の果たす重要な役割を予見していた人でした。1936年8月に発足し、のちに ‘’スペイン飛行中隊(Escuadrilla España)‘’ と呼ばれる国際航空隊は、フランス製の爆撃機Potez-540のほか旧式の護衛戦闘機などをあわせ30機前後を保有する部隊でした。マルロー自身もときおり爆撃機に乗り込み、実戦に参加しています。 

約半年間を戦場で過ごしたあと、マルローは1937年2月に国際航空隊が共和国空軍に編入されたのを契機に、戦場を離れ北米での講演旅行など文筆面で共和国支援の活動を続けます。そして、スペイン内戦の経験をもとに執筆した小説『希望』を1937年末に出版したのに続き、1938年の夏からはその映画版『希望―テルエルの山々』(L’Espoir - Sierra de Teruel)の制作に没頭しました。なお小説『希望』の日本語訳は、新潮文庫(岩崎力訳、上下二冊)から1971年に出ています。



 Potez-540 bomber

スペイン飛行中隊(Escuadrilla España)
映画『希望 - テルエルの山々』は、小説『希望』第三篇の後半でテルエルの爆撃行を扱っている部分を、脚本として再構成したものです。映画のあらすじは、1937年2月半ばのある明け方、スペイン飛行中隊の三機のPotez-540がバレンシア近郊の共和国軍飛行場を発進し、テルエル市北方のフランコ軍秘密飛行場の爆撃に向かいます。基地のありかを通報した農民を案内人として指揮官機に同乗させ、フランコ軍の秘密飛行基地を上空から発見し徹底的に爆破しました。(映画では、続けて近くにある重点目標の橋の爆破にも成功することになっています)。
隠密爆撃は大成功でした。しかしその帰途、フランコ軍の別の基地から飛び立ったHeinkel 51戦闘機の攻撃に遭い、一機のPotez-540がテルエル市北東のバルデリナレス村(Valdelinares)近くの山中に墜落してしまいます。
生存者がいるとの通報に、バレンシア基地から指揮官のマニャン(Magnin)が大急ぎで車で救助に駆けつけました。しかし車で行けるのはリナレス・デ・モラ村(Linares de Mora)まで。墜落現場に近い標高1600米を越えるバルデリナレス村までの10キロの急な山道を、歩いたりロバの背に揺られたりして片道三時間をかけて登り、地元の人たちの協力を得てぶじに負傷者を救出し遺体を収容する、という物語です。

秘密飛行場を超低空飛行で探しあて、爆撃に成功するまでの緊迫感、Heinkel 51戦闘機との息を呑む空中戦の場面など、小説も映画もどちらも実戦を経験したマルローならではの描写が際立っています。なおこの『希望』に登場するテルエル空爆の話は1936年の話で、その一年後の1937年12月から1938年2月にかけてのテルエル市攻防をめぐる激戦、いわゆる「テルエルの戦い」とは別物です。



 View of Linares de Mora

Linares de Mora
リナレス・デ・モラはテルエル市の北東80キロ足らずの高地にあり標高1300米、いまは立派な舗装道路が通じていて、テルエル市から車で一時間ちょっとの距離です。しかし70年前のリナレスへの道はずいぶん違った雰囲気だったようです。

小説『希望』の中で、バレンシアから車でやってきた航空隊指揮官のマニャンが、ふもとのモラ・デ・ルビエロスの町からリナレスに向かった時の様子を、マルローはこんな風に描写しています。

「やっとマニャンはリナレスに向けて出発した。そこ(モラ・デ・ルビエロスの町)を出た彼は永遠のスペインに入って行ったのだった。(中略)いたるところ段々畑と岩と木だけなのだ。車が斜面をおりるだびごとに、マニャンは飛行機が絶望的にこの地面に近づいていく情景をまざまざと見る思いだった」
(岩崎力訳新潮文庫(下巻))

「永遠のスペインに入って行った」というのは、フランス語の原文に近い日本語訳なのでしょうが、英語版では‘’At last, Magnin left for Linares. From now on, he was in touch with the very soul of Spain’’(S. Gilbert & A. Macdonald訳)となっています。
この部分は、「まるで中世の昔から時間が止まっているような、いかにもスペインらしい世界に足を踏み入れた」、という意味ではないかと思います。



Linares de Mora(view from the town)

映画『希望 - テルエルの山々』(L’Espoir - Sierra de Teruel)
「リナレスは城壁にかこまれた町である。子供たちが門の両側の城壁によじのぼっていた。」というのが、マニャンの目に映ったリナレス・デ・モラの第一印象でした。
いまは城壁に囲まれた町というよりはもっと開けた雰囲気ですが、リナレスは典型的な過疎地帯で、内戦当時は人口千人くらいの比較的大きな村でしたが、いまでは住民は300人前後にまで減っています。

スペイン共和国政府がなけなしの財布をはたいて拠出した資金援助をもとに、映画『希望 - テルエルの山々』の撮影は、1938年8月からバルセローナ市のモンジュイックの丘にあるスタジオを使って始まりました。バルセローナでは年初いらいフランコ軍とイタリア軍による空爆が激しくなり、停電がひんぱんに起きフィルムの現像にも支障を来たす状態で、ネガは全てフランスに送りパリのパテ社で現像したそうです。
リナレス一帯はすでにフランコ軍の支配地域だったので、墜落機の乗組員を救助する野外シーンは、バルセローナ近郊のモンセラット山で2500人のエキストラを動員してロケをしています。

マルローは、バルセローナ市がフランコ軍の手に落ちる直前まで踏み止まり撮影を続けましたが、1939年1月下旬に撮影機材一式を車に積みこみ、多くのスペイン人亡命者であふれかえっているフランス国境を越えます。撮り残した分はフランスで仕上げ、音楽はダリウス・ミヨーが担当し、映画は1939年6月に完成しました。
内々の試写会では大好評で、1939年8月に一般公開を予定していましたが、フランス政府の検閲に引っかかり陽の目をみませんでした。結局公開されたのは戦後の1945年のことで、その年のルイ・ド・リュック映画賞を受けています。

検閲で公開禁止の決定が出た背景には、フランコ政権の意向を汲んだ当時の駐スペイン大使ぺタン将軍が、ダラデイエ内閣に働きかけたためと言われます。そして1940年6月にフランスを占領したナチスの手で、『希望』のオリジナル・ネガフイルムは廃棄処分されましたが、コピー済みのポジフィルムが別の場所に保管されていたため、全損の難を逃れました。

私の手元にあるのは、2003年にポジフィルムから起こしたフランス製のDVD(スペイン語版)ですが、『テルエルの山々』はまるでサイレント映画でも見るような力強い映像が印象的です。私はこの記事を書くため改めて見ましたが、繰り返し見ても十分鑑賞に堪える作品です。劣悪な環境でよくこれだけの内容の作品を作り上げたものと感心します。

マルローが「テルエルの戦いの同志たちに」と副題をつけた小説『希望』を書いた1937年は、まだスペイン共和国政府の勝利に希望を持てる時期だったのかも知れません。しかしその映画化に取り組んだ1938年後半は、もう内戦が共和国の敗北に終るのは目に見えているという情勢でした。しかしマルローは『希望』の撮影に没頭します。

映画は、山の斜面を埋め尽くすほどのおおぜいの村人たちが、右の拳を高く挙げ連帯の挨拶を送るなか、担架に担がれた負傷者とロバの背にくくりつけた棺を守る人たちの長い長い列が、静かに山道をおりてくる場面で終ります。「もう何も手伝ってもらうことはないので家で休んでくれ」と告げられた老人が、『いや、まだ私にも感謝の気持ちを表すことはできる』と右の拳を高く挙げ、棺を見送る人たちに加わる話は、小説にはなく映画の脚本で付け加えた部分です。

フランコ軍の砲撃がしだいに近づくのを耳にしながらバルセローナに踏み止まり『希望』の撮影を続けたマルローは、たとえスペイン共和国政府に終わりが来ることはあっても、人間の尊厳を踏みにじる勢力との戦いが終わることはない、と固く信じていたのだろうと思います。

そして、まだ死者に対して感謝の気持ちを表すだけのことはできる、と主張する老人の話を脚本につけ加えたり、何千人ものエキストラを動員しダリウス・ミヨーの音楽が響き渡るあの大掛かりな行列の場面を映画の結末としたのは、戦死した全ての同志に対する鎮魂の祈りという面もあるでしょうが、むしろ、ファシズムとの戦いは必ず生き残った者の手で続けられて行く、というマルローの将来への確信を表現したかったのではないでしょうか。マルローはスペイン内戦の次に来るものを予感したからこそ、あえて『希望』という名の映画制作に打ち込んでいたのだろうと思います。


 Mosqueruela, medieval town on the highland east of Teruel

Mosqueruela
リナレス・デ・モラからさらに15キロぐらい山肌ぞいに曲がりくねった道を走ると、モスケルエラ(Mosqueruela)という変わった名前の町に着きます。標高1470米、人口700人くらいの、中世からの古い歴史を持つ町です。この山岳地帯はかつては牧羊が盛んで、モスケルエラは羊毛の集散地として19世紀まで栄えた町です。しかしこの地方は19世紀後半のカルリスタ戦争と呼ばれる内戦の舞台となり、農民は離散し牧羊は壊滅的な打撃を受けてしまいす。



Mosqueruela's city wall

中世の町モスケルエラ
この写真はロマネスク建築を思わせる町の城壁の一部です。モスケルエラの町の歴史は13世紀にまで遡ります。モスケルエラから北東に延びる山沿いの道でつながるこのあたりの山岳地帯を、マエストラスゴ地方(Maestrazgo)と呼びますが、中世の名残りを感じさせる、小さな町に出会うことの多い地域です。



Narrow street of Mosqueruela

永遠のスペイン
私たちが石畳のせまい道をぶらぶら歩いていたとき、買い物の途中らしい老婦人とすれ違いました。「こんにちは」と挨拶したら、「どちらから?」と尋ねられました。一瞬とまどいましたが、「バルセローナから」と答えたところ、「まあ、そんな遠いところから」と本当に驚いた風でした。この老婦人にとっては、400キロ離れたバルセローナは外国のように感じられたのかも知れません。うっかり「日本から来た」などと口にしなくてよかったな、と思いました。

老婦人は、もし私たちが道を尋ねたら、自分の買い物はさておき一緒に案内してくれそうな人でした。アンダルシアでもこんな地元の人たちに出会いました。時代の流れから取り残されたように見えながら、実は昔からの生活のリズムを大切にすることで心安らかな毎日を送り、外来者に出会えば素直に驚き、そして暖かく接することのできる人たち。そんなスペイン人が、マルローの「永遠のスペイン」に住む人たちではなかったかと思います。

2009年4月16日木曜日

スペイン内戦の旅(3)亡命者たちの長い旅



1939年4月1日にフランコ将軍が内戦勝利宣言をして、足掛け3年に及ぶスペイン内戦が終わってから、今年でちょうど70年。ということで、スペインではこのところ内戦終結70周年にちなむテレビ番組や展示会、或いは新聞雑誌の特集記事を含め内戦をテーマにした出版物がずいぶん目に付きます。
その中でも特に目を引くのは、1939年1月末から2月初めにかけて、50万人近いスペイン人がフランコ軍の追求を逃れ一斉にフランス国境に押し寄せた、いわゆる「亡命スペイン人」の話題です。





1939年の年が明けた時点で、バルセロナに向け破竹の勢いで押し寄せるフランコ軍を押しとどめる力はもう共和国軍にはなく、兵士はもとより指揮官の中にも脱走する者が出る始末。共和国軍は徐々に崩壊しつつあるというのが実態でした。
一方バルセロナ市民のあいだでも、食料その他の生活必需品の欠乏が日増しに深刻になり、そのうえたび重なる空襲が続いたこともあり、厭戦気分が広がっている状態でした。そんな状況では、共和国側にまともなバルセロナ市の防衛戦を組織できるはずもなく、共和国政府はバルセロナからフランス国境に近いフィゲラスの町に移転を始めます。そしてフランコ軍は、ほとんど戦闘らしいものもなしに1939年1月26日にバルセロナ市を制圧しました。

内戦が始まって以来、フランコ軍が占領した地域では、共和派の軍人や政治家は勿論のこと、共和派の支持者と見なされるだけで、一般市民も逮捕されたり処刑されたりする例がひんぱんに起きたため、フランコ軍による攻撃が迫ってきた1月下旬ころから、バルセロナではフランスに逃れようとする共和派の人たちの動きが雪崩を打ったように始まりました。
50万人近い亡命者と言えば、全員が手を繋げば東京から大阪にまで届いてしまうほどの人数です。フランスに向け避難しようとする人たちを満載した車やトラックや馬車や、そして中には子供の手を引いて歩く人たちで、バルセロナからフランス国境までの約150キロの道路は大混乱の状態に陥ります。

戦局の成り行きを見れば、大量の共和派の避難民が発生するだろうことは、ある時点で充分予想された筈ですが、共和国政府の対応は後手に回りました。
実際に膨大な数の避難民が受け皿もないままフランス国境に向け動き始めたのを見て、共和国政府は急遽フランス政府に対し15万人の亡命者受け入れを要請しますが、フランス政府は最初この要請を拒否しました。しかし人道上の問題だという内外の批判もあり、1月28日に非戦闘員のみを対象に入国を認めます。
ついで2月5日には武器を持たないという条件で、共和国軍兵士の入国が許可されました。しかし2月10日にはフランコ軍が国境に達したため、フランス政府は再び国境を閉じてしまいます。わずか二週間たらずの間に、20万人を越える共和国軍の兵士と20数万人の市民がピレネー山脈を越え、大混乱のうちにとにかくフランスに入国したわけです。

もともとスペイン国境に近い南フランスの町は、人口数百人、数千人という小さな町がほとんどで、住民も保守的な人たちの多い地域です。そこへ前触れもなく一挙に何万人単位の避難民が押し寄せたのですから、フランス側の受け入れ態勢が整わなかったのは仕方のないことです。
しかし問題は当時のフランスの世論が、スペイン共和国政府に対して好意的でなかったことでした。それに加えてフランコ側は、共和派のスペイン人は革命をめざすアカであり、教会を焼き僧職者を殺戮した犯罪者である、というキャンペーンを張りました。もともと保守的な南フランスの小さな町々の住民が、共和派の亡命者たちを望まざる不法入国者として冷たい目で見たのには、こんな背景がありました。

子供の手を引き、命からがらピレネー山脈を越えて来たスペイン人の―家が、通りかかった家で一杯の水を頼んだら冷たく断られた、という類の証言には事欠きません。そしてほとんどの亡命者は急ごしらえの強制収容所に送り込まれました。
なかでも悪名高いのはアルジュレス・シュール・メール(Argeles sur mer)の収容所です。フランス政府は砂浜に鉄条網を張り巡らせただけで全く何もない浜辺に、何万人というスペイン人の亡命者を、まるで家畜でも扱うように囲いこんだのでした。

70年前にカタルーニャ地方からピレネー山脈越えでスペインの亡命者たちがフランスに入ったルートには、主なものだけで三つありました。私は今年の三月にそのルートのひとつで、スペインのポール・ボウ(Portbou)の町からフランス側の国境の町セルベール(Cerbere)へ抜ける、地中海岸沿いのスペイン亡命者たちの足跡を辿り、その北にあるアルジュレス・シュール・メールの収容所跡を訪ねてみました。

Town of Portbou(Click on the photo to enlarge)

ポール・ボウはスペイン国鉄の終着駅で、トンネルを抜けるともうフランスです。最近の国際列車は軌道の巾を国境の駅でレールに合わせて調整できるようですが、スペイン国鉄は広軌でフランス国鉄とは線路巾が異なるため、昔はパリ発スペイン行きの夜行列車はポール・ボウ駅が終点で、そのあとバルセロナまで行くには、スペイン国鉄に乗り換えたものでした。

ポール・ボウは冬は突風の吹き荒れることが多い町で、むかし一度訪ねたことがありますが、その時はよく晴れた日だったにもかかわらず沖には三角波が立ち、山肌にへばりつくようにつけられた道路を歩くと、海からの突風で吹き飛ばされそうになったのをよく覚えています。ロバート・キャパの有名な作品のひとつに、冬のピレネー越えをする子供づれの亡命者一家の写真があります。

このポール・ボウの国境越えのルートは、スペイン内戦中の最大の激戦地だったエブロ川の戦いで活躍し、いちばんむずかしい撤退のしんがり役をつとめた、タグエーニャ第15軍団長の率いる部隊が辿ったルートでもあります。その共和国軍最後の部隊が国境を越える場面を、私はむかしロバート・キャパの自伝的小説「ちょっとピンボケ」の中で読んだ記憶があります。
それはこんな内容でした。「共和国軍の精鋭部隊がピカピカに磨き上げた銃を肩に、白馬に跨った共和国軍のモデスト将軍の前を右の拳をあげて敬礼しながら行進する。そして涙をこらえ「また戻って参ります」と叫びながら、次々に国境線を胸を張って越えて行く。フランス国境警備隊は驚き、一斉に捧げ銃の姿勢でこれを迎えた」、ということになっていました。
タグエーニャ司令官の回想録を読むと、兵士たちは連日の戦闘と長い行軍で疲労困憊していたようだし、モデスト将軍(当時は大佐)が白馬に乗っていたのどうか、フランス国境警備隊が本当に捧げ銃をしたのか、などはどうもはっきりしませんが、きっとキャパの目には、そうであって欲しいスペイン共和国人民軍の凛々しい姿が二重写しになっていたのでしょう。

Memorial of 100,000 Spanish exiles

フランスとの国境にはスペイン亡命者の記念碑が建てられています。碑文の趣旨は、「10万人のスペイン共和国の市民が三年間のフランコに対する戦いの後、1939年2月にこの道を辿って亡命の途についた。彼らはヨーロッパにおける反ファシズムの戦いの先駆者であった」という内容です。

ただし70年前にこの人たちが国境を越えたときのフランス政府の対応は、まるで共和派のスペイン人は未開発国からの不法入国者であるかのような扱いだった、というのが大方の意見です。
バルセロナの女流作家テレサ・パミエスは当時19歳で、共産党系のカタルーニャ統一社会主義青年連盟の指導者の一人でしたが、国境を越えた時の思い出をこんな風に語っています。「オーバーの上に白衣を着込んだ何人かの男たちが、私たちを家畜運送用の貨車に押し込む前にいろいろ質問をする。シラミはいないか、疥癬を病んでいないか、喀血していないか、性病に罹ってはいないか、金製品を持っていないか、フランスの通貨は持っているか、そして私たち娘に対しては、処女かどうかと尋ねる。フランス語のできるヌリは通訳しながら泣いていた」

Vineyard on the hill

フランス国境の町Cerbereを過ぎて地中海岸沿いに北上して行くと、小高い丘の急斜面は見渡すばかりのぶどう畑が続きます。いつか南スペインのハエン地方で目にした、山の急斜面を埋め尽くしたオリーブ畑を思わせる風景です。ガルナッチャ種のぶどうを主体にした糖度の高いワインの産地で、私たちも試飲してみましたが、ちょっとロゼを甘くしたような口当たりのよいワインでした。

Tomb of Antonio Machado

スペイン国境から北に15キロぐらい海岸沿いに走ると、コリウール(Collioure)の町に着きます。スペイン人の間では、この町は詩人のアントニオ・マチャードのお墓がある場所として知られています。
アントニオ・マチャード(1875-1939)は、今も幅広い愛読者を持つスペインの詩人ですが、 内戦の時には共和国政府支持の立場を鮮明にして、バルセロナ陥落の直前までスペインに踏み止まります。そして1939年1月末、病弱の母親と共にバルセロナからポール・ボウ経由で国境越えをしてコリウールの町にたどり着き、淋しくホテル住まいをしていましたが、一ヵ月後の2月末に失意のうちに亡くなっています。

町の墓地を入るとすぐ目に付く場所にマチャードのお墓があり、いつも誰かが花を手向けているようです。最近になってスペインでは、「マチャードはスペインの誇る国民詩人であり、従ってそのお墓はスペインに移すべきだ」、と主張する人が出てきました。
またコリウールの町がマチャードのお墓を観光資源に利用している、というたぐいの議論も耳にしますが、実際に現地を訪ねてみると、コリウールの町にはマチャードのお墓のありかを示す標識も見当たらず、通行人に何度も道を尋ねながら、やっと墓地にたどりつけたようなしだいで、「マチャードを観光に利用云々」の批判は、的外れだと思います。

Argeles sur mer - a concentration camp for the Spanish exiles was maintained on this beach during 1939 to mid 4o's

コリウールの町からさらに5キロくらい北に進むと、アルジュレス・シュール・メールに着きます。長く何キロにもわたって美しい砂浜が続く海辺の町です。夏は海水浴客で賑わうようですが、70年前にはたぶん地中海岸沿いの寒村のひとつだったのでしょう。

「やっと自由の国フランスに逃れることが出来た」とほっとしたスペインの亡命者たちを待っていたのは、このアルジュレス・シュール・メールの強制収容所でした。
それは収容所とは名ばかりで、最初は全く何もない砂浜をただ鉄条網で長方形に囲っただけでのもので、2月の真冬の時期に身を切るような海からの冷たい風に吹きさらされながら、毛布もなにもない人たちが砂浜を掘り、その穴に身を横たえて寒さをしのぶ「収容所」でした。
もちろん最初はトイレも水もなく、やがて少しずつバラック小屋が建てられますが、衛生状態が悪く赤痢が蔓延したりしたそうです。どういうわけかフランス赤十字は介入せず、わずかに米国と英国のクエーカー教徒が主として子供たちを中心に援助の手を差し伸べたたのと、スイスの国際赤十字からの救援があったのみ。
収容されたスペイン人たちは、寒さと空腹もさることながら、犯罪者なみに扱われ人間としての尊厳を傷つけられたことが、何といっても耐えがたかったと言います。

Old photo of the concentration camp

今回案内してくれたのは、バルセロナ郊外に住むA夫妻でしたが、A夫人の叔父様に当たる方は、内戦の末期に17歳で共和国軍に加わり、そのあと亡命者の一人としてこの収容所で過ごしたようです。
私たちが現地を訪ねたのは3月末のよく晴れた日でしたが、それでもカメラのシャッターを押す手がかじかんでしまうほどの冷たい風が、海から吹きつけていました。
A夫人の叔父様は、経緯はよく分りませんが、最後はナチスがオーストリアに設けたマウトハウゼン(Mauthausen)の強制収容所送りとなり、そこで若い生涯を閉じたということです。そう語りながら、いろんな思いが一挙にこみ上げてきたのでしょう、A夫人はそっと涙を拭っていました。

南フランスには、10箇所を越えるスペインからの亡命者を収容する施設がもうけられましたが、収容所生活を経験した人たちの証言を読むと「スペイン人亡命者は犯罪人扱いされた。フランス政府はスペイン人が長逗留しないようわざと酷い待遇をしたのだ。自由・平等・博愛という言葉はフランス人の間だけのことで、スペイン人には適用されなかった」などの発言が目に付きます。

そんな収容所生活から逃れるため、フランス政府が組織した外国人労働者中隊(CTE)に加わり、フランス軍の陣地構築や弾薬製造工場など危険な作業に従事した元共和国軍兵士の数は、何万人にも上りました。
またフランス外人部隊に志願した人、1940年6月にフランスがドイツ占領下におかれてからは、フランスのレジスタンス運動に参加した元兵士もいました。このうち、数千人の元共和国軍兵士が第二次大戦中に戦死し、さらに数千人がドイツ軍の捕虜としてナチスの強制収容所に送られ死亡しています。

共和派の人たちの中には、もし欧州でファシズムに対する戦争が始まれば、他国に先駆けファシズムと戦っている共和国政府に対し世界の支援が集まるはずだ。それまではフランコとの戦争を戦い抜くべきだ、と考えた人は少なくありませんでした。皮肉なことに内戦に敗れたスペイン共和国の兵士たちは、亡命先のフランスで第二次世界大戦に巻き込まれ、再びファシストとの戦いに命をかけることになったわけです。

亡命者の中には、運良くメキシコはじめラテンアメリカ諸国に移民として受け入れて貰った人たちもいました。その数は2万人前後ではないかと推定されます。これらのラテンアメリカに移住したスペイン亡命者については、また稿を改めて述べようと思っています。

40数万人の亡命者のうち大半が南フランスの強制収容所での生活に絶望し、再び内戦後のスペインに戻ります。しかし帰国と同時にフランコ政府の手で逮捕され、入獄あるいは処刑されるという厳しい処分を受けた人たちが多数にのぼりました。そしてぶじに生き延びた人たちも、その後のフランコ体制下の30数年間を、肩身の狭い思いで暮らすことになります。

 Memorial of Spanish Republicans interned in the concentration camp

砂浜の片隅に、強制収容所があったことを示す看板と記念の石碑が建っています。アルジュレスの町の人たちにとって、いや或いはフランス人にとって、この強制収容所の歴史は忘れ去ってしまいたい記憶のひとつではないかと思います。私たちが石碑を見つめている間に、何人もの人が犬を連れて通り過ぎましたが、誰ひとり立ち止まることはありませんでした。ましてや夏の海水浴客に至ってはなおさらのことでしょう。

歴史上のできごとのうち、歴史を書く人や読む人にとって都合の悪い内容は、とかく忘れ去られたり無視されたりするものです。
しかし、この美しい砂浜にむかし強制収容所があったこと、そしてフランスはファシズムと戦ったスペインの亡命者たちを、この強制収容所に閉じ込めたという事実を石に刻み、その記憶を石碑の形でいつまでも残しておくべきだと考える人たちが、たとえ少数とは言え存在することに、私は歴史にちゃんと向かい合おうとするフランス人の姿勢を見る思いがします。