2012年11月3日土曜日

スペインロマネスクの旅(7) サングェサのサンタ・マリア・ラ・レアル教会(The Church of Santa María la Real at Sangüesa, Navarra)

スペイン全図(Map of Spain)。
(For summary in English please see the end of this article)
サンティアゴ巡礼路図(Routes of St. James Way, by courtesy of Gronze.com)


サングェサのサンタ・マリア・ラ・レアル教会 (Santa María la Real at Sangüesa, Navarra)


写真(1) 教会東面の図(鐘塔はゴシック様式)(East view of the church, the bell tower is of Gothic style)


サングェサ(Sangüesa)
ナバラ州の首都パンプロナから東に40kmのサングェサ(Sangüesa)は、サンポルト峠からハカ(Jaca)を経由してプエンテ・ラ・レイナに至る、160kmにおよぶサンティアゴ巡礼路アラゴン道の巡礼都市です。アラゴン地方のロマネスク建築に縁の深いサンチョ・ラミレス・アラゴン国王(在位*1064-1094)は、1076年にナバラ王国の内紛を機にナバラを併合しますが、1090年にはサングェサに対して免税特権を含むハカ並みの都市法を認めたと言われます。これは11世紀末の時点でサングェサがすでにこの地域の物流の拠点であったことを物語るものです。いまは人口5,000人くらいの静かな町ですが、サンティアゴ巡礼の最盛期11-13世紀には、サングエサはピレネーを越えて人と物が行き交う巡礼ルートの重要な拠点のひとつとして、大いに賑わっていたようです。

サンタ・マリア・ラ・レアル教会(Santa María la Real)は、サンチョ・ラミレスの二代あとのアラゴン・ナバラ国王アルフォンソI世-戦闘王(在位1104-1134)が、1131年に聖ヨハネ騎士団にサングェサの王宮を寄付したのを契機に建設が始まったとされています。そして華麗な彫刻で有名なファサードが完成したのは12世紀末ころ、というのが通説です。''ラ・レアル'' の呼び名は、王宮付きの礼拝堂がその母体だったからでしょう。

サングェサは前回ご紹介したレイレ修道院からは15kmの距離にあり、サンポルト峠でピレネーを越えて北からやって来る巡礼者たちは、レイレ修道院にも足をのばしたに違いありません。
{*(注)サンチョ・ラミレス・アラゴン国王の在位期間を1069-1094年とする説もある}


教会正面(Façade)
サンタ・マリア・ラ・レアル教会は、彫刻で埋めつくされた華麗な教会の南正面(ファサード)が見どころですが、このファサードの制作を担当したのは、アラゴン地方の工匠サンフアン・デ・ラ・ペーニャのマエストロが率いる工房と、レオデガリウス(Leodegarius,フランス人名 Légerに相当)が率いる工房、というのが定説です。

レオデガリウスは、スペインに渡来する前にシャルトル大聖堂西正面の制作に携わったという話もあるほど、なかなか腕のよい工匠であったようです。カスティーリャ国王サンチョ三世(在位1156-1158)の夫人ブランカ(Blanca Garcés 1137-1156)の石棺は、スペイン・ロマネスクの傑作のひとつと言われるほど見事なものですが、1156-1158年の間に制作されたと推定されるこの石棺が、レオデガリウスのスペインにおける最初の作品であるとする説があります。


写真(2) Calle Mayorに面した教会の南正面-The façade faces the busy street, Calle Mayor.

サンタ・マリア・ラ・レアル教会は、西をアラゴン川にさえぎられた地形のため、ふつうは西にあるべき正面入り口が南側に設けられています。交通量の多い大通り(Calle Mayor)に面しているので、車の排ガスによる彫刻の劣化や拝観時の安全を考慮し、地元のロマネスク愛好家からは交通規制の要望が出ていますが、なかなか実現しないようです。この通りは中世には ''巡礼通り'' と呼ばれていたらしく、サンティアゴ巡礼に向かう巡礼者たちは、南正面の彫刻を最後にもう一度見上げたあと、教会のそばを流れるアラゴン川の橋を渡って西に向かったのでしょう。



写真(3) 教会南正面(The façade)

サンタ・マリア・ラ・レアル教会のファサードは大きく分けて、扉を囲むアーキボルト(またはヴシュール)と称する多層アーチおよび半円形のタンパン(褐色部分)と、その上に二段に分けて彫り込んだキリストと12使徒の像(大理石色)から構成されています。なお扉の右上と左上の隅には''持ち送り''と呼ばれる装飾があります。

上部二段のキリストと使徒の像は、サンフアン・デ・ラ・ペーニャのマエストロとその工房の作品で、下部の6本の人物円柱はレオデガリウスの作品であろう、というのはおおよそ見当がつきますが、残りの部分はよく分からないところがあります。


人物円柱
人物円柱というスペイン・ロマネスクでは余り目にしない作風の3人のマリア像ですが、左からマグダラのマリア、聖母マリア、ヤコブの母マリアが刻まれています。

写真(4) 3人のマリア像(from left to right: Mary Magdalene, Virgin Mary & Mary,mother of James)
写真(5) 聖母マリアが手にする本に刻まれた''レオデガリウスがこれを作った''というラテン語の銘文(''Leodegarius me facit''(Leodearius made this) is incised on the book held by the Virgin Mary)

中央の聖母マリアが手にした本には、''レオデガリウスがこれを作った''というラテン語の銘文が刻んであります。私たちはロマネスク美術は無名の工匠の手になるものという印象を持っていますが、中には余り人目につかない場所に自ら手がけたことを記しておくことはあります。しかしこのレオデガリウスほどおおっぴらに銘文を刻んだ例は余り見かけません。彼にはよほどの自信があったということでしょうか。


写真(6)ペテロ、パウロ、ユダの像(Peter, Paulo, Juda)

扉右側の人物円柱は、左からペテロ、パウロ、ユダの像です。ユダは首を吊った珍しい形ですが、これは巡礼者を騙す悪徳業者をユダになぞらえ、このユダのように罰を受けるぞと警告する意味があった、と見る説があります。

持ち送り装飾

写真(7) 正面扉右上隅の持ち送り装飾・食人鬼(Modillion of a Monster androphogous)


写真(8)正面扉左上隅の持ち送り装飾・雄牛(Modillion of a Bull)

これは''持ち送り装飾''または''軒下持ち送り''と呼ばれ軒下にあるものですが、正面扉の左右の上隅に装飾として配置されることがあります。

軒下持ち送りの題材には、キリスト教の教えとは関係なさそうな自由奔放なものがよく選ばれます。なぜ教会の軒下にこんなおどろおどろしい像が並んでいるのか、私もロマネスク教会を訪ねて疑問に思うことがしばしばあります。
最近これに関して「怪獣に呑みこまれるというのは、死と再生の物語を表しており、これは12世紀末のアラゴン北部の工匠たちの間で受け継がれていた、秘教的な世界観の表れである」という説を目にしました。ロマネスク教会の軒下持ち送りにしばしば見られる、見る者の意表を突くどこか異教的な雰囲気すら持つ題材は、ある工匠の単なる思いつきというより、もっとなにか深い根を持っているらしいということを最近うすうす感じ始めたところです。


タンパン
タンパンには、最後の審判図とその下に王冠をつけた聖母マリアを囲む12使徒が刻んであります。

写真(9) タンパン-最後の審判図(Timpanum-The Last Judgement)

写真(10) タンパン(Timpanum)

写真(11) マリアとイエスを囲む使徒たちク(Mary & Jesus with 12 disciples)

ファサード上部のフリーズ(frieze)
ファサード上部にはフリーズ(frieze)と呼ばれる2段の帯状装飾が見えますが、この部分には荘厳のキリスト(玉座のキリスト)を二人の天使と12使徒が囲む像が彫り込んであります。
これがサンフアン・デ・ラ・ペーニャのマエストロが率いる工房の作品であろう、というのは一見して分かりますが、私がサンフアン・デ・ラ・ペーニャ修道院の回廊で、手をのばせば届きそうな至近距離から眺めたあの柱頭彫刻の持つ迫力には及ばない、という感じがします。

なおサンフアン・デ・ラ・ペーニャ修道院の回廊については、2010年 9月 21日付け『サンティアゴ巡礼路のロマネスク教会(2)』のBlog記事をごらんください。
http://surdepirineos.blogspot.ca/2010_09_01_archive.html


写真(12)キリストを囲む天使と12使徒たち(Christ and 12 deciples)

写真(13) 4人の福音書記者の象徴に囲まれた荘厳のキリスト(Christ in Majesty)

写真(14) 使徒の像(Apostle)クリックして拡大(Click to enlarge)

教会内部
教会内部の後陣部分(写真-16北後陣の図参照)はロマネスク様式の原型を保っていますが、中央祭壇にある祭壇障壁画は16世紀初めの作品です。実は後陣の柱頭にも12世紀の彫刻があり、レオデガリウスの作品もあるのですが、写真を撮り損ねてしまいました。
なお彩色木彫のマリア像は13世紀の作品です。

写真(15) 中央祭壇を眺めた図(View of the Altar)

写真(16) 北後陣(North Apse- 12th century)

写真(17)聖母マリア像(St. Mary with Jesús, 13th century Romanesque wood carving)

(補足)
(1)聖ヨハネ騎士団について
聖ヨハネ騎士団は病院修道会(Hospitallers)の別名を持つ通り、11世紀前半にエルサレムに於いて巡礼者の救援と看護を使命に設立された修道院がその母体ですが、第一次十字軍のエルサレム攻撃(1099年)に呼応して大いに活躍したことで一躍有名になりました。

祈りと病人の看護が使命の修道士たちが、巡礼保護と自衛のために武装したのがそもそもの始まりなのでしょうが、十字軍運動のうねりの中で騎士出身の団員が増え、しだいに世俗の王侯と共に戦う戦士集団に変貌していったのだと思います。聖ヨハネ騎士団は12世紀の初めにスペインに進出し、アルフォンソI世(戦闘王)のレコンキスタに参画しますが、自らが戦利品として勝ち取った領地に加え、国王や諸侯から免税特権や多大の寄進を受けた結果、12世紀末にはイベリア半島の一王国にも匹敵するほどの富と権力を手にしたと言われます。

大聖堂でも大修道院でもなく、巡礼都市サングェサの一教会にすぎないサンタ・マリア・ラ・レアル教会が、あれだけ立派なファサードを持つに至ったのは、やはり聖ヨハネ騎士団のうしろだてがあったから、と考えるのが順当だろうと思います。
アルフォンソI世が1134年に戦死し、それと共にアラゴン・ナバラ連合王国も崩壊したので、ナバラ王国側にはこの教会建設に肩入れする余裕はあまりなかったかも知れません。しかし潤沢な資産を持つ聖ヨハネ騎士団がついていれば、教会建設の資金繰りにはあまり困らなかっただろうと思います。

(2)サンフアン・デ・ラ・ペーニャのマエストロ(Maestro de San Juan de la Peña)
サンフアン・デ・ラ・ペーニャ修道院の回廊など、12世紀後半のスペインロマネスクの傑作を残した無名の名工は、アラゴンとナバラで柱頭彫刻の名作をいくつも残しています。トンボのように大きな目をした人物像がその特徴のひとつです。

この無名の名工は、''サンティアゴ・デ・アグェロのマエストロ'' と呼ばれることもあります。サンティアゴ・デ・アグェロ教会は、ハカの南西60kmのアグェロの町から2kmほど離れた丘のうえに建つ12世紀の教会で、外見は教会らしい形をとっていますが、よく見ると未完のまま放置されています。もともとはかなり大規模な教会を建てる構想だったのでしょうが、いったい誰が何のために建てようとしたのか、憶測を交えた意見はいろいろあるものの、本当のところはよく分からないという謎の教会です。

作風から判断して、この教会の彫刻を担当したのはサンフアン・デ・ラ・ペーニャのマエストロとその工房ではないか、とする説が有力です。
参考までにサンティアゴ・デ・アグェロ教会の正面入り口と彫刻作品をふたつだけご紹介します(写真(18-20)。いずれも力強い迫力のある作品です。

写真(18) サンティアゴ・デ・アグェロ教会の正面入り口(Main door)

写真(19) 正面扉左隅の持ち送り装飾の装飾のひとつ。東洋の龍に似た怪物が人をくわえた図。(A modillion of Santiago de Agüero, work supposedly done by the Maestro of San Juan de la Peña)

写真(20)正面入り口左側の柱頭彫刻。手前の柱頭は二人の踊り子と竪琴を弾く男、奥の柱頭は鹿を捕らえる二頭の獅子(Capitals at main entrance-on the left)


(Summary in English)
Sangüesa is a quiet city with 5,000 population located at 40 km east of Pamplona, the capital city of Navarra. However, during 11th-13th centuries at the height of the pilgrimage of Saint James Way(Camino de Santiago) Sangüesa used to be one of the important stops for pilgrims and a center for commerce among the towns and villages on the Aragon route of the Camino.

The construction of the Santa María la Real church is supposed to have been started when the Alfonso-I(the Battler), King of Aragon & Navarra, donated in 1131 his royal palace of Sangüesa to Knights Hospitaller. The famous façade richly decorated with Romanesque carvings was finished towards the end of the 12th century.
It is believed that the 2 workshops participated the construction of this façade; one is led by so called ''Maestro de San Juan de la Peña'' alias ''Maestro de Santiago de Agüero'', and another was led by Leodegarius(French name Léger) who probably had participated the work of Chartre Cathedral's West façade before coming to Sangüesa.
The 6 statue-columns at the entrance(3 Marys on the left, Peter, Paul and hanged Juda on the right) are the work of Leodegarius and his workshop, because ''Leodegarius me facit''(Leodearius made this) is incised on the book held by the Virgin Mary as per the photo(5). The upper two lines of friezes should be the work of Maestro de San Juan de la Peña and his workshop.
The church retains the original construction of 12th century around apse area, while the bell tower is of later addition in Gothic style. It is found inside the church a 13th century wooden statue of Virgin Mary with Jesus in polychrome. The altarpiece is of early 16th century work.

Some people believe that Maestro de San Juan de la Peña worked for the construction of Santiago de Agüero church which is about 60 km south west of Jaca. It is an enigmatic church. Very little is known of who and for what purpose this church was constructed and why it has remained unfinished. It is noticed common style between the capitals of San Juan de la Peña Monastery, Church of Santiago de Agüero and Santa María la Real of Sanguüesa. For photos of San Juan de la Peña monastery's cloister please see my blog dated Sep 21, 2010.
(http://surdepirineos.blogspot.ca/2010_09_01_archive.html)