2010年11月9日火曜日

サンティアゴ巡礼路のロマネスク教会(3)Spanish Romanesque Churches along ''El Camino de Santiago''(3)

サンタクルス・デ・ラ・セロスのロマネスク教会(Romanesque churches in Santa Cruz de la Serós)

(For the summary in English please see the end of this article.)


(1)サンタクルス・デ・ラ・セロス遠望(Valley of Santa Cruz de la Serós )


サンタクルス・デ・ラ・セロスの聖母女子修道院
(Monastery of Santa María in Santa Cruz de la Serós)

ハカ市から20キロ足らずの距離にあるサンタクルス・デ・ラ・セロスは、人口わずか150人くらいの谷あいの小さな町ですが、サンタマリア(聖母)女子修道院とサンカプラシオ教会という、二つの個性的なロマネスク教会があることで知られています。前回ご紹介したサンフアン・デ・ラ・ぺーニャ修道院への通り道にあたりますが、サンタクルスの町をぬけると道は急カーブの多い上り坂になり、それを7キロばかり行ったところに、サンフアン・デ・ラ・ぺーニャの旧修道院があります。



(2)サンタマリア修道院への道(Road to the Monastery)

(3)修道院への道(Road to the Monastery)

サンタクルス・デ・ラ・セロスを訪ねたのはことしの4月初旬でしたが、観光客の姿も見当たらず、鳥のさえずりと小川の水音だけがよく響く、田舎育ちの私には懐かしい雰囲気の町でした。



(4)サンタマリア修道院全景(Monastery of Santa María)

サンタマリア女子修道院は、10世紀に建てられた小さな教会がその前身ですが、11世紀初頭にサンフアン・デ・ラ・ぺーニャ修道院の修道女たちを受け入れ、女子修道院としての形が整ったと言われます。もともとアラゴン王家と縁のある修道院でしたが、サンチョ・ラミレス国王(在位1063-1094)の妹、サンチャ・ラミレス(通称ドーニャ・サンチャ)が修道院長になった1070年ころから、サンタマリア女子修道院は急速な発展をとげました。

ドーニャ・サンチャは、隣国のウルジェイ(Urgell)侯アルメンゴル3世に嫁ぎましたが、2年も経たぬうちに夫がイスラム勢力との戦いで戦死したため、生国のアラゴンに戻り、20数歳の若さでサンタマリア女子修道院長に就任します。ドーニャ・サンチャは持ち前の勝気な性格もあり、修道院入りしてからも兄のサンチョ・ラミレスを叱咤激励する形で、アラゴン王国の内外の政策に積極的に関与したようです。

1035年に誕生したアラゴン王国は、両脇を強大なカスティーリャ王国とカタルーニャ諸侯に挟まれた小国で、王国発展のためには、いやおうなくサラゴーサを本拠とするイスラム勢力に正面から挑み、その領土を侵食するしか道はない、という状況におかれていました。
二代目のアラゴン国王サンチョ・ラミレスは、自らの領地をローマ教皇に献上のうえ、改めてそれを封土として受けとる形で教皇との関係を深める一方、北フランス・ルシー家出身の夫人の人脈でフランス騎士の対イスラム戦参画をうながしたり、また王廟であるサンフアン・デ・ラ・ぺーニャ修道院をフランスのクリュニー修道会の傘下に置くなど、11世紀後半に教皇やフランスとの関係強化に向けていろいろ手を打ちました。そして急激な開国政策に対する王国内の異論を、ドーニャ・サンチャの後押しで強引に乗り切ったと言われます。

アラゴン王国の支援で財政基盤を確立したサンタマリア女子修道院は、ドーニャ・サンチャが1097年に死去したあとも、鐘楼の建設など12世紀を通じて拡大が続きました。しかし、16世紀にルターが口火を切った宗教改革運動がピレネー以北を襲い、それに対応する形で対宗教改革運動と呼ばれるカトリック教会刷新の動きが活発化し始めたころ、サンタマリア女子修道院の閉鎖が決まり、修道女たちはハカに移転します。そのけっか修道院は地区教会となり、一時は見捨てられた状態に陥ったこともあったようで、げんざい残っているのはこの写真にある教会の部分だけです。


修道院の隠し部屋(Hidden room of the monastery building)

ふつうロマネスク教会の鐘楼は西の正面入り口の側に建てられるものですが、このサンタマリア修道院教会は鐘楼が後陣のそば(東方向)にあるという、特異な形をしています。
また赤い矢印で示してある、四辺形の小さな窓付きの建物が屋根に乗っかっているのが見えますが、この部屋に昇るには教会の壁に組み込んだ秘密の通路を経由する必要があることなどから、外敵に襲われた場合の避難場所か、あるいは宝物の保管場所ではなかったかと推測されています。これもひじょうに珍しい構造です。
サンタマリア修道院教会は、あまりほかに例を見ない実にユニークな構造を持っていますが、個々には特異な部分を含みながら、全体でほどよく調和がとれているのに感心します。腕の良い石工が手がけたことをうかがわせる教会です。


(6)後陣(Apse)
(7)後陣軒下の飾り持ち送り(Modillion)

サンタマリア修道院は、ハカ大聖堂とほぼ同じ時期に工事が始まった早い時期のロマネスク建築ということもあり、1世紀あとに登場するサンフアン・デ・ラ・ぺーニャ修道院の回廊など、スペイン・ロマネスクを代表する傑作に比べると、いささか彫刻類が見劣りするのはいたし方のないところです。それでも、修道院は11世紀末から12世紀にかけては資金的にも恵まれた状況にあり、腕のいい石工を起用することができたらしく、上の写真の後陣やその軒下の飾り(「持ち送り」と呼びます)などからも、その名残りがうかがわれます。


(8)南扉(South door)

教会の南側に古い扉が残っていますが、これは今はなくなってしまった回廊に続く出入り口だったようです。扉の上に位置する半円形のタンパンに彫りこんである「キリストの銘」(キリストの頭文字X Pを組み合わせた図柄)と呼ばれる紋章(英語ではChrismon)の浮き彫りは、修道院の前身である古い教会時代のものと言われます。


(9)西正面扉 (West entrance)
(10)キリストの銘の浮き彫り (Chrismon)

西正面入り口のタンパンにある「キリストの銘」(Chrismon)の浮き彫りは、ハカ大聖堂のものによく似ていますが、実はこのサンタマリア修道院の方が時代的には先で、アラゴン地方でよく見かけるChrismonのお手本になった、というのが定説のようです。二頭のライオンが取り囲む車輪の中にちりばめてあるX, P, Alfa, Omegaなどの文字はいずれもキリストを表し、またふたつのXが交差する図柄については、ひとつのXは実は十字架でキリストの受難を表わしている、などの解釈もあります。
なお、教会の入り口にキリストの像そのものではなく、Chrismonのような象徴的な絵柄を浮き彫りにする習慣が、なぜこの地方で広まったのかは良く分かりません。




(11)南側の柱頭(South capital)

(12)北側の柱頭(North capital)

西正面入り口に向かって右側(南)の柱頭の絵柄は植物紋様で、左側(北)の柱頭は人間と動物の組み合わせになっています。これは異なる二人の石工の手になるもので、北側の人間と動物の彫刻は、風化による劣化を考慮しても、もともと作品としての質があまりよくなかったのではないか、という感じがします。



(13)教会内部(Interior of the church)

教会の内部は、ひとつの身廊にひとつの後陣という、単純で実にすっきりとした構造になっています。王家や大貴族と深い縁のあったスペインのロマネスク教会の中には、どことなく気品を感じさせるものがありますが、サンタマリア女子修道院もそのひとつです。



サンカプラシオ教会(San Caprasio church)

(14)サンカプラシオ教会(San Caprasio church-south view)

サンタマリア修道院のすぐ近くにあるサンカプラシオ教会は、内部が奥行き10米、横幅4米足らずのごく小さな教会ですが、11世紀前半の建築と推測される当初の姿を忠実に復元するかたちで修復がなされています。北イタリアのロンバルディア様式がアラゴン地方に及んだ好例として、スペインロマネスク建築史の教科書でよく引用される教会です。

ロンバルディア様式の特徴のひとつは、写真のようにアーチとその支柱をかたどった石積みの装飾を壁面に多用することですが、軒下近くから地面に向けまっすぐに延びる線とアーチの繰り返しが、実にすっきりとした印象を与えます。教会の入り口は向かって左側、手前に見える井戸の後方に位置しています。

なおサンカプラシオ教会の建設時期に関して、アラゴン地方の資料ではこれを11世紀前半の初期ロマネスク建築とする意見が圧倒的ですが、ロマネスク建築史関係の資料の中には、サンカプラシオ教会を11世紀後半の作品とみなすものもあり、年代に関しては若干疑問が残りますが、より古い時代の作品と見る11世紀前半説に従っておきます。




(15)後陣と鐘楼(Apse & Bell tower)

これは東側から後陣を眺めた写真ですが、鐘楼は12世紀に付け加えられたものです。写真を拡大してみるとよく分かりますが、いろいろサイズの異なる石をうまく組み合わせて教会の壁を積み上げています。中世の巡礼者の中には、次の目的地まで石を背負って歩き、新教会の建材として寄進する者もいたという話がありますが、ふとそんなことを思わせる教会です。

教会の名前になっているSan Caprasio(Saint Caprasius)は余りなじみのない聖人ですが、4世紀初めに、フランス(アキテーヌ地方)で殉教したようです。




(16)教会内部(Interior of the church)

教会の内部も彫刻類などは一切なく、そっけないほど簡素なものです。ゴシック大伽藍のステンドグラスや壮大な石組みはたいへん見事なものですが、それとは比較にならない小さな規模ながら、不ぞろいの石材をひとつひとつ選んでは丹念に積み上げ、今から1000年近くも前にすばらしい教会を組み上げてくれた、名もないアラゴンの石工たちに敬服します。
サンカプラシオ教会には、訪れる者をすがすがしい気持ちにさせてくれる何かがあります。


(Summary of the article)
Santa Cruz de la Serós is a small town of 150 people, located at less than 20 km from the city of Jaca. The town is known for 2 early Romanesque churches; Monastery of Santa María and Church of San Caprasio. The town is also one of the stops for pilgrims on the way to the Monastery of San Juan de la Peña which is at 7 km following a winding uphill road.  

Monastery of Santa María de la Serós
Santa María de la Serós was a nun's monastery established in early 11th century accommodating the nuns from the Monastery of San Juan de la Peña where both monks and nuns had been living in the same building. Santa María monastery had a boost during the time of Doña Sancha as abbess who assumed the post around 1070. Sancha Ramirez, known as Doña Sancha, was a sister of King of Aragon, Sancho Ramirez(1042-1094), and was a very influential person in the court of Aragon Kingdom.

The building of the monastery was expanded during the late 11th through 12th century on the place where an old church had existed since the 10th century. It was the best time for Santa María de la Serós. Later in mid 16th century the monastery was closed and the nuns moved to Jaca. The monastery became a parish church and what remains now is only the church building.

Santa María church has a very unique composition; the bell tower is built next to the apse(east side), while normally a bell tower is located close to the west main entrance. Another thing is a roof top room next to the bell tower, pointed by a red arrow on the photo(5). The access to this room is only possible through a hidden ladder built into the church wall. It could have been a refuge for emergency or a storage for treasures. In spite of an unusual design the church remains very well balanced and looks nice.

Photo(8)shows an old door which is supposed to have connected the church with the now disappeared Romanesque cloister.
The Photo(9)(10) show the main entrance(west)and the tympanum.
The chrismon symbolizing the Christ is carved on the tympanum which is believed to be older than that of the Cathedral of Jaca. Similar chrismons are found at other churches in Aragon.

Photo(11),(12) show capitals at both sides of the main entrance. The quality of carving is not comparable to that of San Juan de la Peña which represents one of the best Romanesque sculptures in Spain. The vegetable leaf pattern on the right capitals is of a decent quality, while the carving quality of human and animals on the left side capitals could be better. They should have been the work of two different carvers
The inside view of the church shows a very simple construction; one nave and one apse.

The Church of San Caprasio(Saint Caprasium)
The church of San Caprasio is located close to the Santa María monastery and is well known as one of the best examples of Lombard architecture in Aragon. There are different opinions concerning the period of construction of the church; most of Aragon researchers believe it to be early 11th century, while others refer to the last quarter of the 11th century as the probable time for the construction. The church is dedicated to a French saint, Saint Caprasius who became a martyr in Aquitaine in early 4th century. The bell tower was added in 12th century.
It's a little gem among Romanesque churches in Aragon.