2008年12月30日火曜日

スペイン内戦の旅ーテルエルの戦い(2)





(このテルエル県の略図をクリックすると画像が拡大されます)


(モラ駅周辺)

スペイン内戦の回想録「二十歳の戦争」の著者ミケル・シグアン(Miquel Siguan)氏は、1938年1月に100人ばかりの若い同期の召集兵と共にバルセローナ市近郊の訓練基地を出発し、列車でテルエル戦線に到着した時の印象をこう述べています。

「今朝目が覚めたとき、列車の窓から見た光景にぼくは驚いた。何度も目をこすったぐらいだ。この汽車の旅では、ずいぶん変化に富んだ風景を次々と見てきたが、これまで目にしたのはどれも耕作地であり、人が住んでいる土地だった。ところが、いま目の前に広がっているのは無人の荒野だ。木も草もなければ、人間がいるという気配がまったく感じられない荒野である。ただのっぺりした平原が、これまた同じように一木一草も見当たらない裸の丘に囲まれているだけなのだ。」


(モラ駅舎)

「線路脇にかなり痛んだレンガ造りの建物があり、村の姿はどこにも見当たらないものの、残っている標識からそれがモラ村の駅らしい。近くを一本の道路が走っているが、それはまったく人気のない平原を一直線に延び、水平線のかなたに消えている。列車とぼくらだけが、このあたりで唯一の生命のしるしというわけだ。」 ………………………………………………………………………………………………
「人里離れた駅のプラットフォームに一団となって集まったぼくらは、まるでわずかばかりの身の回り品を抱えた移民の群れのようだ。」   (第一章「到着」)

テルエルの戦いから70年が過ぎた今年の春、私は「二十歳の戦争」の舞台となったテルエル県を訪ねてみました。この70年の間に開発が進み植林などが行われたということもあるのでしょうが、現地を見たかぎりではモラ駅周辺はたしかに依然として人気のないさびれた場所ではありますが、「木も草もなければ、人間がいるという気配がまったく感じられない荒野である」という回想録の記述とは少し違うな、という印象でした。
或いはこの部分は、家族にもそして緑あふれる故郷のバルセローナにも別れを告げ、激しい戦いが続く冬のテルエル戦線に着いた時の、当時19歳だった著者の心象風景と理解すべきなのかも知れません。
モラ駅、正確にはモラ・デ・ルビエロス(Mora de Rubielos)駅は、町まで15キロ近くも離れている無人駅で、今でも駅の周りには2-3軒の家があるだけで、一日に何本かの列車が発着する時は別なのでしょうが、ふだんは本当に人影もなく、一匹の犬の姿すら見かけない、まことにさびれた雰囲気でした。


(Mora de Rubielos)

モラ・デ・ルビエロス町は、テルエル市から40キロくらいの距離にあり、人口は1,600人でテルエル県東部地方では大きな町です。モラ町のみどころと言えば、14世紀から15世紀にかけて築かれた城壁の一部が残っているのと、同じ頃に町の中心部に建てられたモラ城やゴチック様式の聖マリア教会などが有名です。私たちは数時間滞在して、教会のすぐ前のレストランでコーヒーを飲んだだけでしたが、モラ町はこじんまりとして落ち着いた雰囲気を今も保つ、なかなか味のある町でした。


(Rubielos de Mora - Patio of the City Hall)

モラ町から10キロぐらい東に、ルビエロス・デ・モラ町(Rubielos de Mora)があります。名前が似ていてまぎらわしいのですが、ルビエロス町は人口700人ぐらいの小規模な町ながら、15世紀から16世紀にかけて築かれた城壁や古い建物や教会などがよく保存されていて、石畳の通りを散歩するのがとても楽しい町です。

ルビエロス町は、シグアン氏たち召集兵がモラ駅に到着したあと、迎えのトラックに座ることもできないほどのすし詰めの状態になり配属先の部隊を探してひと晩中あちらこちらと移動したあげく、やっとのことで明け方に町に着き、前線で初めての仮眠をとった場所でもありました。

「日の出も間近になったころ、やっとトラックが停まる。今度ばかりはほんとうに石畳の広場で停まった。トラックを降りる、というよりむしろ全員で転げ落ちる。そして落ちたところでそのままぼくらは横になって眠り込んでしまった。
二十歳の身体というのは、まるでゴムみたいに柔軟で、数時間の睡眠で疲れがすっかりとれてしまう。ぼくらが呼び起こされたときには、もう正午を過ぎていた。」
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「ぼくらが自分でいろいろ調べた結果、ここはルビエロス・デ・モラという古い大きな村で、なかなか豪壮で立派な建物もある。村の通りをぶらぶら歩いていたとき、意外なものに出くわした。戸締り厳重な修道院らしい建物から、男声合唱が聞こえてきたのである。それはどんな歌詞にでも合いそうな鼻歌のように「もしも手紙を寄越すなら おれの居場所はご承知だ テルエル占領したあとは ルビエロスで牢屋入り」と歌っている。一緒に歩いていた仲間たちもぼくと同じくらいびっくりしてしまい、いったいこれはどう説明すればいいのだと、いろいろ想像を巡らせる。でも、彼らは他に用事があるからと、ぼくを置き去りにして行ってしまった。彼らの用とは、ルビエロス村の娘たちは見かけ通り素っ気ないのか、この村には開いている居酒屋は一軒もないのか、確かめたいということなのだ。そんなわけで、ぼくは歌声の漏れてくる窓のそばにひとり残って、その歌についてあれこれと考えてみる。この歌についてはこれからも繰り返し考えることになるのだろう。」    (第一章「到着」)



(第84旅団の宿舎として使われたカルメル会の修道院、The old convent of the Carmelitas Calzados)

悲劇の第84旅団
シグアン氏がルビエロス町で修道院の窓越しに漏れ聞いた歌声の主というのは、前線復帰の師団長命令に不服従を唱えたため「反乱」の罪に問われ、修道院で身柄を拘束されていた第84旅団所属の兵士たちでした。この声の主がその後どうなったのかは分りませんが、この事件で下士官を含む46名の兵士が、裁判を経ることもなく師団長の即決で銃殺刑に処せられています。

1938年1月に第40師団のテルエル市内掃討作戦の先頭に立った第84旅団は、アナキスト民兵部隊を母体に編制された旅団で、2,000人くらいの兵力でした。当時共和国軍を支配していた共産党からは、規律面で問題が多いなどと何かにつけて批判のやりだまに上げられていたアナキスト部隊ですが、そのアナキストが母体の3個旅団(第82旅団、第84旅団、第87旅団)で第40師団が編制された時、国境警備隊の出身者で、メリダ市長を勤めた経験を持つニエト中佐が、新しい師団に共和国軍の規律を徹底させるという責任を担って第40師団長に就任しました。

1937年12月半ばに始まったテルエル市の攻防をめぐる戦いは、1938年1月8日のフランコ軍守備隊の降伏でひとまず共和国側の勝利となりましたが、勝った共和国軍も、例年にない厳しい寒さと雪に苦しみ、兵力の2割から3割を消耗するほどの激しい戦いが一ヶ月近くも続いたため、どの部隊も兵士の大半が病気や疲労で体力の限界に達していたというのが実情でした。中でも第84旅団の場合は、テルエル市内の掃討作戦を指揮した少佐が、テルエル占領に成功すれば長い休暇が与えられ、おまけに報奨金の支給や昇進もある筈だなどと、常識では考えられないやり方で士気を鼓舞したため、兵士たちは基地に戻り休息できる日を夢見て激しい戦いの日々に耐えていました。そして第84旅団の兵士たちに予備軍として一時休養、という待ちに待った命令が伝えられたのは1月半ばのことでしたが、ちょうどまさにその時フランコ軍によるテルエル奪回の猛反撃が始まり、各地で共和国軍の防衛線が破られ始めたため、すでに休養中の各部隊に対しても即時戦線復帰の命令が出されるという事態になっていた時でした。
特に84旅団の機関銃中隊など一部の部隊は、重い機関銃や弾薬を担ぎ、テルエル市近郊の塹壕から傷む足を引き摺りながら歩き続け、やっと一日がかりでルビエロス町の基地にたどり着いた途端、また即時戦線復帰の師団長命令が出たということで、それまでに溜まりに溜まっていた不満が一挙に爆発し、約束が違うとして戦線復帰命令を拒否する動きが起こりました。

ニエト師団長は、第84旅団の兵士たちが宿舎にしていたルビエロス市内の修道院に出向き、前線復帰を拒否する者には交代を派遣するので、武器を上官に預けた上そのむね申し出るよう命じました。実際に不服従を具体的な行動で示したのは旅団員の一割にも満たない200人足らずの兵士だったようですが、その全員が武器を棄てた途端に逮捕監禁され、そのうち下士官を含む46人については裁判なしの即決で銃殺が決まりました。そしてこの46人は、翌朝まだ夜が明けぬうちに理由も告げられずルビエロスの町外れに連行され、トラックから降りたところを機関銃の一斉射撃で銃殺されるという、まるでだまし討ちのような処刑が行われました。

1月8日のテルエル市占領までは、テルエル攻撃の尖兵としてロバート・キャパのカメラにおさまったりして英雄扱いだった第84旅団の兵士たちですが、わずかその10日後に一部の兵士は師団長から「反乱者」の烙印をおされて銃殺され、銃殺刑を免れた者も懲罰部隊送りの処分となりました。そして第84旅団は解隊と決まり、兵士たちはそれぞれいくつかの部隊に分散して配属され、テルエル占領の栄光に輝く第84旅団は消滅してしまいました。

「反乱者」とされたのは、その大半が文字も読めない農民で、内戦が始まると義勇兵としてバレンシアのアナキスト民兵部隊に加わり、ファシストと戦うことに命をかけた勇敢な兵士たちでした。しかし内戦開始から一年が過ぎ、共和国軍が組織化され義勇兵にも軍法が適用される事態になってもその意味がよく理解できなかったようで、師団長命令を拒否した時も、いまだにアナキスト部隊の伝統を信じて、兵士と部隊指揮官とはお互いに苦楽を分かち合う仲間であり、非人間的な命令を拒否しても上官は理解してくれる筈だ、などと思い込んでいた兵士もあったようです。そして上官の命令を拒否することが軍隊では死罪に値する可能性がある、などというのはたぶん彼らにとっては思いもよらないことだったのでしょう。そんな雰囲気の中でも、雲行きが怪しいと感じ混乱に乗じて逃亡した兵士や、過酷な処罰を予期して親しい部下に密かに逃亡を勧めた部隊長などもあったため、そのおかげで命拾いをした兵士がいたということです。

なぜニエト師団長が兵士たちの前線復帰命令拒否に対して常識はずれの過酷な処分で臨んだのか、それを理解するうえで重要だと思われる点がいくつかあります。
そのひとつは1938年1月1日付けの中央参謀本部長より各部隊長宛ての命令で、部隊の士気低下を招く言動に及ぶ者は銃殺を含む厳罰をもって対処するよう指示があったことです。ニエト師団長はこの指令に従い、命令不服従者には銃殺刑をもって対処すべきだと考えた可能性があります。

もうひとつは共和国軍の権力の中枢にいたのは共産党員が多かったということです。ちょうど同じ時期に、第11師団長が部隊員の消耗を理由に第22軍団長の前線復帰命令を拒否したのですが、それが共産党の英雄リステル第11師団長であったため、命令拒否を咎められることもなく、逆に軍団長がその命令を撤回するという結果になりました。おまけにその後リステル師団長はテルエル攻略の戦功で、民兵出身者としては初めての中佐昇進を果たしています。共産党員に対するえこひいきではないか、という批判が出るゆえんです。また共産党が権力を握る共和国軍では、アナキスト部隊はなにかと批判の対象になり易かったという背景もありました。ちなみにニエト第40師団長は社会党員でした。

そしてもう一つは、テルエル市内の掃討作戦の遅れなどで、軍上層部の間でニエト師団長の指揮ぶりにとかくの批判があったことです。従って師団長としては、命令不服従問題でさらに指揮官としての自分の名声に傷がつくことを懸念していたに違いありません。それと師団長は師団付き政治コミサール(政治委員)の意見を聞いてこの問題に対処したようですが、第40師団の政治コミサールは19歳の共産党員で、銃殺刑になった軍曹など下士官を含む46名の兵士を処刑対象者として選んだのもこの政治コミサールだったと言われます。19歳の若さで師団付き政治コミサールになるというのは、よほど本人が有能であると同時に共産党首脳との人脈にも恵まれたエリートだったからでしょう。政治コミサールはその報告書などを通じて部隊指揮官の言動を軍首脳に伝える役目も果たしますから、ニエト師団長は共産党出身の政治コミサールの目を意識せざるを得ない立場にありました。それやこれやで、師団長が第84旅団の兵士たちに対して厳しい態度で臨む姿勢を強調せざるを得ない状況にあったことは確かです。

しかし重さ50キロを越える鉄の固まりのような機関銃を担ぎ疲労困憊して基地に戻ったばかりの兵士たちが、指揮官に約束された長期休暇が反故になったたと憤っている時に、前線復帰命令に従わないからと裁判手続きも経ず即座に銃殺刑に処すべきだと判断したこと、しかも純朴な農民出身の兵士たちをだますようなやり方で身柄を拘束のうえ銃殺した、というような事情を勘案すると、ニエト師団長及びそれを補佐した政治コミサールの見識には疑問を感じざるを得ません。疲労困憊している部下のため、軍団長の前線復帰命令を拒否した第11師団長に比べて、余りにもその姿勢の違いが大きいことを痛感します。また命令拒否の事態に至ったのには、直属の部隊長が部下の兵士をよく掌握していなかったという問題もあるのでしょうが、はっきりしているのは銃殺などの厳しい処分を受けたのは兵士のみで、将校やそれを補佐すべき政治コミサールの責任がどう問われたのかはよく分りません。そしてニエト師団長もこのあと10ヶ月くらいで大佐に昇進しています。

この事件に関する公式な記録としては、第40師団長からレバンテ方面軍司令官に宛てた三頁の報告が残っているだけで、本来なら詳細な記録を残すべき師団付き政治コミサールなどの報告には、本事件の顛末に関する記載は見当たらないようです。実態に照らして過酷過ぎると思われる師団長の処分について、共和国軍首脳は公の記録として残すことを避けたかったのかも知れません。そんなこともあって、この事件は長いあいだ闇に葬られたままになっていましたが、最近になり少しずつその詳細が一般の目に触れるようになりました。


(ルビエロスの城壁)

ルビエロス町は城壁に囲まれ、石畳の通りを通行人と車が共有している古い町です。わずか人口700人くらいの規模の小さな町なのに、古い建物を修復しながらいい雰囲気の街づくりをしているな、と感心させられました

2008年12月11日木曜日

スペイン内戦の旅 - テルエル


テルエル(Teruel)を訪ねる旅
今年三月のイースター休暇の時期にテルエル県を訪ねました。このBlogを一年前に開設した時にご紹介したスペイン内戦の回想録、「二十歳の戦争」の舞台であり、そして内戦の激戦地のひとつとして、当時は世界にその名を知られたテルエル地方を、実際に自分の目で見てみようと思ったからでした。
私が滞在していたバルセローナからは、サラゴサ乗換えの汽車を利用すればテルエル市までは5時間くらいですが、どうせ車がなくては現地に着いてから身動きがとれないだろうということで、車で行くことに決めました。テルエル市はバルセローナから約400キロ、ちなみにマドリッドからだと約300キロ、そしてバレンシア市からは140キロくらいの距離になります。


テルエルの戦い
旅の話を始める前に、まずスペインの内戦はいつ始まったのか、そしてテルエルの戦いとはなんだったのか、についてごくかいつまんでご説明しておきます。。

スペインでは1936年2月の総選挙で左翼選挙連合の人民戦線が勝ち、その結果誕生した左派共和主義政府は、フランスに比べ100年は遅れていると言われたスペイン社会民主化のため、さまざまな改革を実行に移し始めます。しかしこれに反発する右翼勢力が猛烈な反政府運動を繰り広げ、特に都市部では左右両勢力の若者たちによる武力衝突が頻繁に起きるなど、左右の対立が治安の悪化や社会不安をもたらす状態となり、保守的な軍人たちが共和国政府打倒のクーデターを起すための口実を与えることになりました。

1937年7月17日にまずモロッコの駐屯軍が反乱を起こし、それに呼応して7月18日から19日にかけて、スペイン本土各地でも軍部の反乱が起きます。これに対する共和国政府の対応は後手に回りましたが、首都マドリッドやバルセローナ、バレンシアなどの大都市では、労働者や市民が兵営から武器を奪うなどして武装し、また共和国政府に忠誠の立場を保つ一部の軍人や警察とも手を携え反乱軍に対抗したため、軍部の反乱はクーデターとしては成功しませんでした。
しかしスペインは共和国政府が支配する地域とフランコ将軍の率いる反乱軍が支配する地域に二分され、フランコ側はドイツ・イタリアからの軍事援助、共和国政府はソ連からの援助を受け、三年間に亙る内戦に突き進んだのでした。

テルエルの戦いが始まったのは、内戦開始から一年半が過ぎた1938年12月半ばのことで、その少し前に北部戦線で共和派を打ち破り大西洋岸のビルバオやオビエドなどスペインの重要な鉱工業地帯を支配下におさめたフランコが、一挙に首都マドリッド攻略を実行に移すべく着々とその準備を進めていた時期でした。
しだいに追い詰められていた共和国政府は、フランコのマドリッド攻撃を牽制するため第二戦線を開くことにし、県都とはいえ軍事的な重要性に乏しいためフランコ軍の守備が手薄だった、テルエル市をその目標に選びます。

共和国軍は1937年12月15日に12個師団(約10万人)の大軍を投入し、2個旅団(約6千人)のフランコ軍と何千人かのファランヘ党員などが守るテルエルに奇襲攻撃をかけます。
その結果、テルエル守備部隊は兵站路を断たれ孤立してしまいますが、一般市民を巻き込み市内の建物に籠もった上、要所には狙撃兵を配置するなどして徹底抗戦の態度で臨みました。
そのため共和国軍は旧市内の建物をひとつひとつ制圧して行くと言う難しい掃討作戦を余儀なくされ、テルエル市の占領に予想以上の時間がかかったうえ、攻撃部隊の損害が増える結果になりました。

1937年暮れから1938年初めにかけてのテルエル地方は例年になく厳しい冬に見舞われ、この地方には珍しく大雪が降ったり気温が零下20度近くまで下がった日もあったそうです。共和国軍もフランコ軍も兵站に問題を抱えており、寒さへの備えが充分でなかったため、兵士たちは凍傷など寒さによる被害に苦しむことになりました。
防寒具はおろか毛布すら充分とは言えない状態だったので、軍服の下に新聞紙を挟み込み寒さをしのいだとか、夜の歩哨に立った兵士が雪のなかで眠り込み翌朝凍死していた、などなどの話があります。少し誇張はあるでしょうが、「テルエルでは弾に当たって死なずとも寒さで死ぬ」などと言われたゆえんです。
当時の写真を見ると、共和国軍の兵士たちの中には、バレー靴のようなカタルーニャ産のアルパルガタサンダルを履いている者がいます。これで雪の中を長時間歩かされたら凍傷にかかっても不思議はないな、という気がします。

テルエル守備軍救援にかけつけたフランコ軍の増援部隊も、大雪のため一時は立ち往生するような有様で、救援の望みを断たれ食料も弾薬も尽きてしまったテルエル守備隊は、38年1月8日に共和国軍に降伏しました。
共和国政府は、フランコ軍を相手の戦いで勝利を納めたとして、テルエル市の占領を大々的に世界に向けて宣伝します。そして主だった指揮官の中にはその勲功で昇進した人もいます。このテルエルの戦いを報道するため現地入りした外国特派員の中には、ヘミングウエイやロバート・キャパの姿がありました。

もともと共和国政府が牽制作戦として始めたテルエル攻撃でしたが、フランコは一般の予想に反してマドリッド作戦を一時棚上げし、軍事的に余り重要とは思えないテルエル市の奪回を最優先することに決め、1月半ばに12個師団(約10万人)を投入し、500門の砲とドイツのコンドル兵団を含む空軍による火力を組み合わせて、共和国軍を徹底的に叩く作戦に出ます。
その結果両軍をあわせて延べ20万人を越える軍勢がテルエル市周辺で激突を繰り広げ、双方に大きな損害が出る結果になりました。

テルエル攻撃に際しては、共和国軍も精鋭部隊を送り込みましたが、最初の一ヶ月足らずの戦闘でその30%あまりが損害を受けたと言われます。その補充に多数の若い召集兵が前線に送り込まれましたが、フランコ軍の本格的な反撃が始まると、実戦経験のない若い兵士の中にはパニックに陥る者も出て、激しい砲撃とそれに続くフランコ軍の急進撃に、武器を捨て壊走する部隊もでるありさまでした。

共和国軍のテルエル占領からほぼ一ヵ月半が過ぎた2月22日に、フランコ軍はテルエル市を奪回し、二ヶ月を越えるテルエルの戦いは共和国軍の敗北で終ります。
つかの間とは言え勝利の喜びを経験したあとだけに、共和国側の落胆は大きく、前線の兵士の間では士気の阻喪、後衛の市民の間でも負け戦の気分が蔓延するという、大きな問題を残したテルエルの戦いでした。

テルエルの戦闘に参加した兵員数やその損害については、色々な説があり正確なところはよく分りません。
共和国軍は内戦終了と共に壊滅し、50万人と言われた兵力も参謀本部のスタッフもバラバラになり、その殆どが国外に脱出してしまったため、共和国側の詳しい記録が残っていないのがその原因のひとつです。
しかし両軍をあわせて延べ20万人を越える兵員がテルエルの戦場に投入され、捕虜になった分を含めるとその半数近く、すなわち10万人ぐらいの損害が出た、という説が妥当ではないかと見られます。

「二十歳の戦争」(内戦の回想録)
ミケル・シグアン氏の「二十歳の戦争」という内戦の回想録は、激しい戦闘が一段落したあとのテルエル戦線で、若い召集兵として内戦終了までの二年間を過ごした著者が、最前線での日常生活を若干のユーモアを込めて淡々と語っているものです。
シグアン氏は当時バルセローナ大学哲学科に在籍し、学生運動の幹部で当時のエリートでもあったので、望めば後衛で楽な任務につくことも可能でしたが、召集に応じて共和国軍の一兵士として塹壕で過ごすことを選びます。
内戦後は、スペインの大学における心理学研究と教育の分野でのパイオニアとなり、バルセローナ大学の心理学部長を勤めた方です。シグアン氏はことし90歳になりましたが、いまもバルセローナで著作活動を続けておられます。

テルエル市
前置きがずいぶん長くなりましたが、私たちは3月15日の朝9時ころに車でバルセローナを発ち、途中で昼食をとったあと、テルエルまであと160キロくらいのところにあるアルカニース(Alcañiz)のパラドールでひと休みをしました。アルカニースはテルエル県第二の町で、人口は16,000人くらいの落ち着いた雰囲気を持つ町です。
パラドールはもともと観光推進の国策に沿って設立された国営の高級ホテルチェーンで、中世のお城や古い館を改造し四つ星や五つ星のホテルをスペイン各地につぎつぎ開設して行きました。
今は公営企業となり、私たちがテルエル市で泊まったパラドールのように三つ星のホテルもあったりして、最近は中身にだいぶばらつきがあるようですが、アルカニースのパラドールは、お城のような中世のカラトラバ騎士団の僧院を改装した立派なもので、一度は泊まってみたいなと思わせる雰囲気を持ったホテルでした。

テルエル市は人口34,000人くらい、中世からの古い歴史を持つ町です。標高900米くらいですので、三月半ばでも夜になるとちょっと肌寒い感じでした。
テルエルからバレンシアまでは、今は立派なハイウエーが開通して車で一時間あまりとずいぶん便利になりましたが、内戦当時は山沿いの細い道路を峠越えをしながら行く旧道しかなかったため、片道三時間くらいはかかったようです。
テルエルの戦闘を取材していた写真家のキャパは、バレンシアのホテルに滞在し戦場まで車で通っていたそうですが、1938年1月2日の朝テルエル市近くの峠で、前夜からの積雪で数百台の軍用車が峠道のところでで大渋滞を起したため、わずか5キロを行くのに8時間も費やしたそうです。

フランコ軍の守備隊が最後までたて籠もったという、スペイン中央銀行などテルエル市内の中心部にある建物は、共和国軍の市内掃討作戦で徹底的に破壊されましたが、70年が過ぎた今はもうすっかり建てなおされて、それらしい痕跡はどこにも見当たりませんでした。
  

(テルエル市の中心Plaza del Torico)
内戦の時の激戦の場で、いまは観光の名所のひとつになっているのが、小さな雄牛(torico)が石の円柱にちょこんと乗っているトリコ広場です。
毎年7月のテルエルの守護聖人のお祭りでは、雄牛を町に放し若者たちがはやしたてながら一緒に通りを駆け巡るそうですが、雄牛はテルエル市のシンボルマークといった感じです。
なおtoricoはtoroの縮小辞で、小さいということのほかに親しみを込めた言い方でもあります。またTeruelの名前の由来は、そのむかし野生のToro(雄牛)が町を探していた人の道案内をした、という昔話にその起源があるという説もあります。


テルエルの墓地
旧市内のほかに、もうひとつの激戦地だったテルエルの墓地は、テルエル市の北方の街道に沿った丘の上にあり、町の出入りを制する拠点でもあったので、フランコ軍と共和国軍とが墓石を盾に銃撃戦を繰り返し陣取り合戦をした場所でした。当時の弾痕が残る墓石がいくつも見られます。
実はテルエルの墓地のありかがよく分らなかったので、パラドールのフロントデスクでお墓への道を尋ねましたが、若いフロントの担当者はちょっと驚いたような顔で私の顔をしげしげと眺めていました。外国人観光客で墓地へ行く道を尋ねる人は、余りたくさんいないからでしょう。

(今も弾痕の残るお墓)

大聖堂
旧市内の中心部にある大聖堂などムデハル様式の建築は内戦の被害を免れ、1986年に UNESCOの世界文化遺産に指定されて有名になりました。ムデハル様式は中世ヨーロッパの伝統にイスラム文化の伝統を加味したものだと言われます。何となくロマネスクやゴチックにイスラム様式を組み合わせたような、不思議な魅力を感じさせる建物です。


(大聖堂のムデハル様式の塔)

「テルエルの恋人」
もうひとつの名所でどの観光案内書にも載っているのが「テルエルの恋人」でしょう。13世紀に身分の違いから結ばれなかった悲恋の物語りの主人公たちのミイラが、今は晴れて同じ場所に納められているというお話です。14世紀のボッカチオのデカメロンにも同じような悲恋の物語があるそうですが、テルエルの人たちはこちらの方が本家だと考えているようです。このミイラ二体は内戦の時には被害を避けるため尼僧院の地下室に安置してあったそうです。


(テルエルの恋人)