2010年12月21日火曜日

サンティアゴ巡礼路のロマネスク教会(4)Romanesque churches along ''EL Camino de Santiago''(4)

-サントドミンゴ・デ・シロス修道院 (Monastery of Santo Domingo de Silos)

スペイン地図-クリックして拡大(Click to enlarge)
(For the summary in English please see the end of this article)

(1)修道院への道(On the road to the Monastery)クリックして拡大(Click to enlarge)

サントドミンゴ・デ・シロス修道院

麦畑を両側に見ながら、ときには羊の群れとすれ違ったりする田舎道をゆっくり走っているうちに、スペインロマネスクの傑作で、いまも現役のベネディクト派修道院があることで有名な、サントドミンゴ・デ・シロスの町に着きます。マドリッドから240km、ブルゴスからは60kmの距離です。

(2)修道院遠景(View of the Monastery)クリックして拡大(Click to enlarge)

私たちが修道院を訪ねたのはことし3月の半ばでしたが、日中の気温は零度よりあがらず、町の広場の水汲み場には氷が張るほどの寒い日でした。イースター休暇の前で観光客はもともと少ない時期でしたが、例年にない寒さに人出が全くとだえてしまったようで、私たちが修道院の拝観を終え、暖をとるため目の前にあったバル(bar)に駆け込んだとき、バルの女主人は「きのうはお客がひとりも来なかった、きょうもあなたちだけかもしれないね」となげいていました。
人口300人の田舎町には不釣合いなほど広々とした駐車場が町の入り口にあり、大型観光バスや何百台もの車が殺到しても大丈夫という感じですが、私たちが着いたときには一台の車も見当たらなかったので、女主人がなげいたのも無理はありません。

(3)凍りついたマイヨ-ル広場の水汲み場(Fountain at the Plaza Mayor)

(4)マイヨール広場から眺めた修道院(View of the Monastery from the Plaza Mayor)クリックして拡大(Click to enlarge)

写真の奥に見えるのが修道院の教会部分ですが、有名な回廊への入り口は、教会の手前の坂を左にくだったところにあります。

(修道院の歴史)
サントドミンゴ・デ・シロス修道院が、前身のサンセバスティアン修道院の名前で史料に登場するのは10世紀のことですが、その当時すでによく知られた存在だったらしいことから、修道院の起源はさらに一世紀ぐらいさかのぼる9世紀末、すなわちレコンキスタ(再征服運動)と呼ばれるイスラム勢力とキリスト教徒領主勢力との戦いが、まだシロスの近辺でも続いていたころではないか、と推測されています。

10世紀の末ころ、コルドバに本拠をおくイスラムの勇将アル・マンス-ルの率いる軍勢が、東はバルセロナから西はサンティアゴにいたるまで、スペイン全土を荒らしまわった時期があります。そのときシロス修道院もその戦乱に巻き込まれ、壊滅的な打撃を受けてしまいました。そしてレオン国王フェルナンド1世(在位1037-1065)がその立て直しを聖ドミンゴに委嘱した1041年から、シロス修道院の再建が始まります。

聖ドミンゴは1000年ころの生まれといわれ、1073年に死ぬまでの32年間の院長在任中に、廃墟同然だったシロス修道院をスペイン有数のロマネスク修道院に仕上げた人物です。「ドミンゴ院長が祈れば全ての病気はそくざに治る」というたぐいの奇跡譚の主人公でもあり、戦乱時代の修道院長にふさわしい胆力と、高徳を兼ね備えたすぐれた指導者だったようです。その徳をしたって、レオン国王のほかエル・シッドなど地元カスティーリャ出身の貴族たちがすすんで領地その他の寄進に応じた結果、シロス修道院は財政面でも立ち直ります。

修道院があるブルゴスを中心とする旧カスティーリャ地方は、イスラム勢力の侵入路にあたったことからたくさんの城塞(castillo)が築かれ、そのため「カスティーリャ」と呼ばれるようになったという説があるくらい、もともとはレオン王国の辺境伯領でした。しかし、レコンキスタの進展とともに辺境領だったカスティーリャがしだいに重要性を増し、レオン・カスティーリャ王国として11世紀ころからスペイン政治の中心に躍り出てくるわけです。

ドミンゴ修道院長は死後3年目の1076年に聖人に列せられ、サントドミンゴ修道院と名前を変えたシロスの修道院には、聖ドミンゴの遺骸に詣でる巡礼者が殺到するようになりました。ちょうどサンティアゴ巡礼がヨーロッパ全体で急激に伸びた時代でもあります。そして、ドミンゴ院長のあとをついだ修道院長にも有能な人材が輩出し、スペインにおけるベネディクト派修道院のなかで、宗教面でも文化面でもつねに存在感を持つ修道院でした。また11世紀末から12世紀にかけては、有名な回廊建設にくわえて、「ベアトゥス黙示録注解」彩飾写本の制作など、宗教芸術の分野でもロマネスクの歴史に残るみごとな作品を残しています。

スペインのロマネスク教会や修道院にはよくあることですが、シロス修道院も19世紀半ばにいちど閉鎖され、長年の歴史が中断されましたが、幸い19世紀末にフランスのベネディクト派修道会の修道者たちの手で再建され、今日にいたっています。

私はこの数年間にスペインのロマネスク修道院をいくつか訪ねましたが、カタルーニャのモンサラット修道院をのぞけば、あとはすべて修道院跡ばかりでした。スペインでもサントドミンゴ・デ・シロス修道院のように、ロマネスク時代をしのばせる現役の修道院はごくわずかで、たいへん貴重な存在です。

(回廊)
シロス修道院の回廊が「スペインで最も美しい回廊」といわれるのは、11-12世紀の彫刻が見事に保存されていることのほかに、そこでいまもなお32人の修道士が、中世からのベネディクト会則に従う厳しい修道生活を送っていることと無関係ではないと思います。シロス修道院には、「ほんもの」のみが持つ、ある種の緊張感があります。そしてこの張りつめた空気と見事な彫刻とがあいまって、シロス修道院の回廊に一歩足を踏み入れた者を感動させるのだと思います。

私はこの回廊をご紹介する写真を全てモノクロームに変換することにしました。張りつめた空気はとても写真になりませんが、少なくとも浮き彫りや柱頭彫刻については、白と黒のコントラストだけのモノクロ画像が、シロス修道院の回廊で私が感じたものに近いと思うからです。


(5)東廊下からの眺めCloister(view from the east corridor)クリックして拡大(Click to enlarge)


(6)北廊下の眺めCloister(view of the north corridor)クリックして拡大(Click to enlarge)



(7)西廊下からの眺めCloister(view from the west corridor)クリックして拡大(Click to enlarge)


(8)西廊下の柱頭Cloister(capitals of the west corridor)クリックして拡大(Click to enlarge)


回廊は、四辺形の一辺が30米をこえるずいぶん大きなもので、しかも2階建てになっています。ただし拝観がゆるされるのは1階の部分に限られます。1階の回廊の四隅にほぼ等身大の浮き彫りパネルが2枚ずつはめこまれ、合計8枚の大きな石のパネルに新約聖書の物語が浮き彫りになっています。柱は合計64本で、それぞれに柱頭彫刻がほどこしてあります。絵柄はさまざまですが、植物や奇怪な動物を、象牙細工のような細かな彫りで仕上げた作品の多いのが、シロスの特徴です。

回廊拝観の順路は、入り口から見て右手にあたる東側通路から始まり、時計と逆回りに北、西、南と回るのがふつうです。西廊下の途中で作風が変わるところから、二人の石工の作とするのが通説です。そして全く作者の名前が分からないため、前半を担当したのが初代のマエストロ(11世紀末ころ)、後半を二代目マエストロ(12世紀初めころ)と呼ぶことにしています。


(浮き彫りパネル)(Reliefs by the first maestro)
8枚の浮き彫りのうち6枚が初代マエストロの作品とされています。その中からとくに有名な3枚を選びました。浅い浮き彫りで細部が大事だと思われるため、一部拡大した写真を添付しておきます。いずれも11世紀末の作品とされているものです。


(9)十字架降下(Descent from the Cross)クリックして拡大(Click to enlarge)


(10)十字架降下(Descent from the Cross)クリックして拡大(Click to enlarge)

画面の左に、イエスの傷ついた手にそっと頬をよせる聖母マリアを配し、その深い悲しみとマリアのやさしさを描こうとしたマエストロは、やはりロマネスクの人だったと思わせる作品です。プラド美術館にある、15世紀フランドルの画家ヴァン・デル・ヴァイデンの名画では、聖母マリアは気絶しています。時代が下るにつれ、しだいにドラマティックな描写になるようです。


(11)エマウスの弟子たち(Disciples at Emmaus)クリックして拡大(Click to enlarge)

(12)エマウスの弟子たち(Disciples at Emmaus)クリックして拡大(Click to enlarge)

イエスが復活して、エルサレム近くのエマウスで二人の弟子の前に現れた、というルカ福音書の場面です。この逸話はイエスの弟子たち、すなわち使徒たちの深い宗教体験を象徴するものだといわれます。帆立貝を縫い付けたサンティアゴ巡礼者の衣装を身にまとうイエスの姿に、シロスの修道士たちは、親しい永遠の同伴者を見たに違いありません。

厳しい修道生活に疲れたとき、あるいは信仰に迷いが生じたとき、この浮き彫りの前にたたずむ修道者の姿を、私は思い浮かべます。ロマネスクの時代には、シロス修道院の彫刻は単なる装飾ではなく、それは修道者が目には見えぬ神を身近に感じるための、架け橋のようなものであったはずですし、またいまもそうだろうと思います。シロス修道院の彫刻作品の迫力は、そこにあるという気がします。


(13)不信のトマス(Incredulous Thomas)クリックして拡大(Click to enlarge)

(14)不信のトマス(Incredulous Thomas)クリックして拡大(Click to enlarge)

ヨハネ福音書にある、復活を信じない使徒トマスが、イエスの脇の傷口に手を触れている場面です。初代マエストロは、この場面にはいあわせなかったはずの聖パウロを、イエスの向かってすぐ右隣りに配しています。生前のイエスに会ったこともなければ、当初はユダヤ教のラビ(律法学者)を志し、キリスト教徒迫害に回った過去をもつ聖パウロを、イエスにもっとも近い弟子として描くことで、見ても信じないトマスとイエスを見ずして信じたパウロを対比させているわけです。
聖パウロへのかくべつの思い入れと、そしてマエストロが「信ずる」ということについて、深く考えをめぐらす人であったらしいことをうかがわせる作品です。初代マエストロは修道士ではなかったか、と私が考えるひとつの理由です。


(柱頭彫刻)

64個の柱頭彫刻は、初代マエストロと二代目マエストロの作にほぼ等分される、というのが定説です。その中からいくつかの作品をご紹介します。

初代マエストロの柱頭彫刻(Capitals by the first maestro)



(15)植物文様(Vegetable pattern)クリックして拡大(Click to enlarge)


(16)獅子の頭を持つ怪鳥(Mystical birds)クリックして拡大(Click to enlarge)


(17)怪獣像(Mystical animals)クリックして拡大(Click to enlarge)

初代マエストロの柱頭彫刻は、ごくまっとうな植物文様もありますが、奇怪な鳥や動物を装飾化した図柄がたくさん目につきます。異様な図柄の説明は、ペルシャじゅうたん、オリエントの織物、装飾写本の挿絵などからヒントを得たという説、彫刻家の遊び心をあげる説、また全ての絵柄が悪との戦いなど何らかの象徴であるという説、とさまざまです。

たしかに、現代の私たちにはただ異様なものとしか映らない図柄にも、ちゃんとした出所があり、またそれぞれが何かの象徴であるのかも知れません。しかし奇怪な動物を描いた柱頭彫刻で回廊を飾ることが、世俗との関係を絶ち、物質や肉体の欲望を超克しようとする修道士たちに、いったいどんな意味を持っていたのか、という素朴な疑問が残ります。当時の修道院関係者の間でもきっと議論を呼んだに違いありません。
年代はさらに何十年もあとの話ですが、12世紀に革新的修道会として発展したシトー修道会は、宗教芸術を修行のさまたげとみなし、その価値を否定します。そしてそこから、教会には木の十字架のほか装飾的なものはなにも置いてはならない、という禁欲的なシトー会則が生まれます。

初代マエストロは、スペインのロマネスクではめったにお目にかからない、象牙細工のようなこまかな彫りをみごとに硬い石に刻む腕を持った人でした。しかし浮き彫りの制作では、テーマが新約聖書の物語という周知の内容であること、それに8枚組みパネルのような大作では絶対に失敗がゆるされぬため、新しい試みは極力さけ、技法面でも手堅く手馴れた彫りに徹したはずです。
しかし、柱頭彫刻の場合には、自らの能力の限界に挑戦する覚悟で、新しいテーマや技法に命がけで取り組んだと思います。30数個の作品の中には、彫り進むうちにつぎつぎとアイデアが浮かび、自然にノミが動いてどんどん図柄が変化していったような作品があったかもしれません。シロス修道院回廊の柱頭彫刻は、初代マエストロが修道士たちに向かって投げかけた、正解のない永遠の問い、常識への挑戦ではなかったのでしょうか。

これだけ優れた腕をもつ初代マエストロですが、その作品はシロス修道院いがいには見あたらないようです。中世の工人たちは定住せず、仕事を求めて遍歴の生活を送るのが常だったといわれるだけに、ふしぎなことです。しかし、もし初代マエストロが修道士であれば、修道院を出ることはできなかったわけで、その点もマエストロが修道士ではなかったかと私が想像する理由です。

二代目マエストロの柱頭彫刻(Capitals by the second maestro)
初代マエストロは回廊の完成を見ずして亡くなったようです。そしてそのあとをついだ二代目のマエストロは、初代が残した作品との連続性に留意しながら、独自の展開を図ります。二代目マエストロもたいへん優れた腕の持ち主でした。そしてその活躍の時期にあたる12世紀は、スペイン各地でロマネスク芸術がいっせいに花開き始めたころでした。

(18)編み籠文様(Basketwork pattern)クリックして拡大(Click to enlarge)

二代目マエストロも奇怪な動物の柱頭彫刻をたくさん彫っていますが、こんなすなおな編み籠文様の作品もあります。


(19)エジプトへの逃避(Escape to Egypt)クリックして拡大(Click to enlarge)

これはマタイ福音書にある、聖母マリアがイエスを懐に抱いてエジプトに逃れる場面です。二代目マエストロが、いかにもロマネスクらしい温かみのある人物などの描写に秀でた人だったことを、うかがわせる作品です。



(20)教会(Church of the monastery)クリックして拡大(Click to enlarge)

修道院の教会部分は、18紀にロマネスク教会を取り壊して、ネオクラシック様式にすっかり改装されてしまいました。惜しいことをしたと思います。しかし途中で改装資金が続かなくなり、回廊部分はロマネスク建築がそのまま手つかずで残ったのだそうです。



(21)CD of the Gregorian Chant by Choir of the Monasteryクリックして拡大(Click to enlarge)

シロス修道院のグレゴリオ聖歌隊は有名で、EMIからCDが出ています。礼拝の時間には美声を聴かせてくれるそうですが、残念ながら私たちはその機会に恵まれませんでした。

シロス修道院には宿泊所があり、外部の者にも修道院の生活を垣間見る機会を与えてくれる仕組みがあります。修道院のウェッブサイトによれば、受け入れの条件は男のみ、滞在日数は3日から8日の間、費用は食事つきで一泊38ユーロ(約4千円)となっています。
スペインのロマネスク修道院の多くが観光の対象となり、まるで博物館のようになりつあるなかで、中世の伝統と遺産を守りながらしかも開かれた修道院をめざす、サントドミンゴ・デ・シロス修道院には感服しました。


(Summary in English)
The Romanesque abbey of Santo Domingo de Silos, a Benedictine monastery known for its cloister and Gregorian Chant, is located in the land of Castilla, about 240 km of Madrid, 60 km from Burgos. The origin of the monastery is estimated to be during the late 9th century when the area used to be the battle field of the ''Reconquista'' (war of Spanish Christian lords against Islam rulers).

In 1041 Santo Domingo(Saint Dominic) was appointed by King Fernando I of Leon as the prior of the monastery which had been ravaged by Islam forces led by Al-Mansur who conducted incursions all over Spain from Barcelona to Santiago during the late 10th century. Prior Domingo not only achieved the reconstruction of the monastery during his 32 years of tenure but also made it one of the most important centres for spiritual and cultural activities in Romanesque Spain. The monastery is famous for its 2 story cloister which is decorated with the most beautiful stone carvings of the time. Also it is known for an illuminated manuscript copy of '' Beatus commentary on the Apocalypse'' now owned by the British Library, or enamelwork which preceded to those of Limoge.

In 1076, three years after his death, prior Domingo was canonized and became Santo Domingo. The monastery was named after the saint and a flood of pilgrims started arriving to visit the saint's remains. It was also the time when the pilgrimage to Santiago de Compostela got a big boost all over Europe.

The monastery was consecrated in 1088 but the construction continued. It is believed that the 2 carvers worked on the decoration of the cloister. As is common with Romanesque art nothing is known of these artists. One is called ''the first maestro'' and another ''the second maestro''
The first maestro made 6 out of 8 large reliefs which are placed one pair at each corner of the cloister. Out of 64 capitals the first maestro apparently made the first 30 something during the 11th century and the rest was done by the second maestro during the early 12th century. Both are excellent artists, but the first maestro is outstanding in carving on hard stones with fine details like ivory carving which is uncommon in Spanish Romanesque especially in late 11th century.

We visited the monastery in an early hour of March, 2010. It was a very cold and overcast day. There were no other visitors and the silence was the word to describe that morning in the cloister.
Only the lower cloister was open for the public visit. Santo Domingo de Silos is one of the few Romanesque monasteries in Spain where monks are still leading a monastic life. There was something genuine.

I've decided to convert the photos of the cloister into black and white, because no color matches to what I saw and felt on that day in the cloister.

2010年11月9日火曜日

サンティアゴ巡礼路のロマネスク教会(3)Spanish Romanesque Churches along ''El Camino de Santiago''(3)

サンタクルス・デ・ラ・セロスのロマネスク教会(Romanesque churches in Santa Cruz de la Serós)

(For the summary in English please see the end of this article.)


(1)サンタクルス・デ・ラ・セロス遠望(Valley of Santa Cruz de la Serós )


サンタクルス・デ・ラ・セロスの聖母女子修道院
(Monastery of Santa María in Santa Cruz de la Serós)

ハカ市から20キロ足らずの距離にあるサンタクルス・デ・ラ・セロスは、人口わずか150人くらいの谷あいの小さな町ですが、サンタマリア(聖母)女子修道院とサンカプラシオ教会という、二つの個性的なロマネスク教会があることで知られています。前回ご紹介したサンフアン・デ・ラ・ぺーニャ修道院への通り道にあたりますが、サンタクルスの町をぬけると道は急カーブの多い上り坂になり、それを7キロばかり行ったところに、サンフアン・デ・ラ・ぺーニャの旧修道院があります。



(2)サンタマリア修道院への道(Road to the Monastery)

(3)修道院への道(Road to the Monastery)

サンタクルス・デ・ラ・セロスを訪ねたのはことしの4月初旬でしたが、観光客の姿も見当たらず、鳥のさえずりと小川の水音だけがよく響く、田舎育ちの私には懐かしい雰囲気の町でした。



(4)サンタマリア修道院全景(Monastery of Santa María)

サンタマリア女子修道院は、10世紀に建てられた小さな教会がその前身ですが、11世紀初頭にサンフアン・デ・ラ・ぺーニャ修道院の修道女たちを受け入れ、女子修道院としての形が整ったと言われます。もともとアラゴン王家と縁のある修道院でしたが、サンチョ・ラミレス国王(在位1063-1094)の妹、サンチャ・ラミレス(通称ドーニャ・サンチャ)が修道院長になった1070年ころから、サンタマリア女子修道院は急速な発展をとげました。

ドーニャ・サンチャは、隣国のウルジェイ(Urgell)侯アルメンゴル3世に嫁ぎましたが、2年も経たぬうちに夫がイスラム勢力との戦いで戦死したため、生国のアラゴンに戻り、20数歳の若さでサンタマリア女子修道院長に就任します。ドーニャ・サンチャは持ち前の勝気な性格もあり、修道院入りしてからも兄のサンチョ・ラミレスを叱咤激励する形で、アラゴン王国の内外の政策に積極的に関与したようです。

1035年に誕生したアラゴン王国は、両脇を強大なカスティーリャ王国とカタルーニャ諸侯に挟まれた小国で、王国発展のためには、いやおうなくサラゴーサを本拠とするイスラム勢力に正面から挑み、その領土を侵食するしか道はない、という状況におかれていました。
二代目のアラゴン国王サンチョ・ラミレスは、自らの領地をローマ教皇に献上のうえ、改めてそれを封土として受けとる形で教皇との関係を深める一方、北フランス・ルシー家出身の夫人の人脈でフランス騎士の対イスラム戦参画をうながしたり、また王廟であるサンフアン・デ・ラ・ぺーニャ修道院をフランスのクリュニー修道会の傘下に置くなど、11世紀後半に教皇やフランスとの関係強化に向けていろいろ手を打ちました。そして急激な開国政策に対する王国内の異論を、ドーニャ・サンチャの後押しで強引に乗り切ったと言われます。

アラゴン王国の支援で財政基盤を確立したサンタマリア女子修道院は、ドーニャ・サンチャが1097年に死去したあとも、鐘楼の建設など12世紀を通じて拡大が続きました。しかし、16世紀にルターが口火を切った宗教改革運動がピレネー以北を襲い、それに対応する形で対宗教改革運動と呼ばれるカトリック教会刷新の動きが活発化し始めたころ、サンタマリア女子修道院の閉鎖が決まり、修道女たちはハカに移転します。そのけっか修道院は地区教会となり、一時は見捨てられた状態に陥ったこともあったようで、げんざい残っているのはこの写真にある教会の部分だけです。


修道院の隠し部屋(Hidden room of the monastery building)

ふつうロマネスク教会の鐘楼は西の正面入り口の側に建てられるものですが、このサンタマリア修道院教会は鐘楼が後陣のそば(東方向)にあるという、特異な形をしています。
また赤い矢印で示してある、四辺形の小さな窓付きの建物が屋根に乗っかっているのが見えますが、この部屋に昇るには教会の壁に組み込んだ秘密の通路を経由する必要があることなどから、外敵に襲われた場合の避難場所か、あるいは宝物の保管場所ではなかったかと推測されています。これもひじょうに珍しい構造です。
サンタマリア修道院教会は、あまりほかに例を見ない実にユニークな構造を持っていますが、個々には特異な部分を含みながら、全体でほどよく調和がとれているのに感心します。腕の良い石工が手がけたことをうかがわせる教会です。


(6)後陣(Apse)
(7)後陣軒下の飾り持ち送り(Modillion)

サンタマリア修道院は、ハカ大聖堂とほぼ同じ時期に工事が始まった早い時期のロマネスク建築ということもあり、1世紀あとに登場するサンフアン・デ・ラ・ぺーニャ修道院の回廊など、スペイン・ロマネスクを代表する傑作に比べると、いささか彫刻類が見劣りするのはいたし方のないところです。それでも、修道院は11世紀末から12世紀にかけては資金的にも恵まれた状況にあり、腕のいい石工を起用することができたらしく、上の写真の後陣やその軒下の飾り(「持ち送り」と呼びます)などからも、その名残りがうかがわれます。


(8)南扉(South door)

教会の南側に古い扉が残っていますが、これは今はなくなってしまった回廊に続く出入り口だったようです。扉の上に位置する半円形のタンパンに彫りこんである「キリストの銘」(キリストの頭文字X Pを組み合わせた図柄)と呼ばれる紋章(英語ではChrismon)の浮き彫りは、修道院の前身である古い教会時代のものと言われます。


(9)西正面扉 (West entrance)
(10)キリストの銘の浮き彫り (Chrismon)

西正面入り口のタンパンにある「キリストの銘」(Chrismon)の浮き彫りは、ハカ大聖堂のものによく似ていますが、実はこのサンタマリア修道院の方が時代的には先で、アラゴン地方でよく見かけるChrismonのお手本になった、というのが定説のようです。二頭のライオンが取り囲む車輪の中にちりばめてあるX, P, Alfa, Omegaなどの文字はいずれもキリストを表し、またふたつのXが交差する図柄については、ひとつのXは実は十字架でキリストの受難を表わしている、などの解釈もあります。
なお、教会の入り口にキリストの像そのものではなく、Chrismonのような象徴的な絵柄を浮き彫りにする習慣が、なぜこの地方で広まったのかは良く分かりません。




(11)南側の柱頭(South capital)

(12)北側の柱頭(North capital)

西正面入り口に向かって右側(南)の柱頭の絵柄は植物紋様で、左側(北)の柱頭は人間と動物の組み合わせになっています。これは異なる二人の石工の手になるもので、北側の人間と動物の彫刻は、風化による劣化を考慮しても、もともと作品としての質があまりよくなかったのではないか、という感じがします。



(13)教会内部(Interior of the church)

教会の内部は、ひとつの身廊にひとつの後陣という、単純で実にすっきりとした構造になっています。王家や大貴族と深い縁のあったスペインのロマネスク教会の中には、どことなく気品を感じさせるものがありますが、サンタマリア女子修道院もそのひとつです。



サンカプラシオ教会(San Caprasio church)

(14)サンカプラシオ教会(San Caprasio church-south view)

サンタマリア修道院のすぐ近くにあるサンカプラシオ教会は、内部が奥行き10米、横幅4米足らずのごく小さな教会ですが、11世紀前半の建築と推測される当初の姿を忠実に復元するかたちで修復がなされています。北イタリアのロンバルディア様式がアラゴン地方に及んだ好例として、スペインロマネスク建築史の教科書でよく引用される教会です。

ロンバルディア様式の特徴のひとつは、写真のようにアーチとその支柱をかたどった石積みの装飾を壁面に多用することですが、軒下近くから地面に向けまっすぐに延びる線とアーチの繰り返しが、実にすっきりとした印象を与えます。教会の入り口は向かって左側、手前に見える井戸の後方に位置しています。

なおサンカプラシオ教会の建設時期に関して、アラゴン地方の資料ではこれを11世紀前半の初期ロマネスク建築とする意見が圧倒的ですが、ロマネスク建築史関係の資料の中には、サンカプラシオ教会を11世紀後半の作品とみなすものもあり、年代に関しては若干疑問が残りますが、より古い時代の作品と見る11世紀前半説に従っておきます。




(15)後陣と鐘楼(Apse & Bell tower)

これは東側から後陣を眺めた写真ですが、鐘楼は12世紀に付け加えられたものです。写真を拡大してみるとよく分かりますが、いろいろサイズの異なる石をうまく組み合わせて教会の壁を積み上げています。中世の巡礼者の中には、次の目的地まで石を背負って歩き、新教会の建材として寄進する者もいたという話がありますが、ふとそんなことを思わせる教会です。

教会の名前になっているSan Caprasio(Saint Caprasius)は余りなじみのない聖人ですが、4世紀初めに、フランス(アキテーヌ地方)で殉教したようです。




(16)教会内部(Interior of the church)

教会の内部も彫刻類などは一切なく、そっけないほど簡素なものです。ゴシック大伽藍のステンドグラスや壮大な石組みはたいへん見事なものですが、それとは比較にならない小さな規模ながら、不ぞろいの石材をひとつひとつ選んでは丹念に積み上げ、今から1000年近くも前にすばらしい教会を組み上げてくれた、名もないアラゴンの石工たちに敬服します。
サンカプラシオ教会には、訪れる者をすがすがしい気持ちにさせてくれる何かがあります。


(Summary of the article)
Santa Cruz de la Serós is a small town of 150 people, located at less than 20 km from the city of Jaca. The town is known for 2 early Romanesque churches; Monastery of Santa María and Church of San Caprasio. The town is also one of the stops for pilgrims on the way to the Monastery of San Juan de la Peña which is at 7 km following a winding uphill road.  

Monastery of Santa María de la Serós
Santa María de la Serós was a nun's monastery established in early 11th century accommodating the nuns from the Monastery of San Juan de la Peña where both monks and nuns had been living in the same building. Santa María monastery had a boost during the time of Doña Sancha as abbess who assumed the post around 1070. Sancha Ramirez, known as Doña Sancha, was a sister of King of Aragon, Sancho Ramirez(1042-1094), and was a very influential person in the court of Aragon Kingdom.

The building of the monastery was expanded during the late 11th through 12th century on the place where an old church had existed since the 10th century. It was the best time for Santa María de la Serós. Later in mid 16th century the monastery was closed and the nuns moved to Jaca. The monastery became a parish church and what remains now is only the church building.

Santa María church has a very unique composition; the bell tower is built next to the apse(east side), while normally a bell tower is located close to the west main entrance. Another thing is a roof top room next to the bell tower, pointed by a red arrow on the photo(5). The access to this room is only possible through a hidden ladder built into the church wall. It could have been a refuge for emergency or a storage for treasures. In spite of an unusual design the church remains very well balanced and looks nice.

Photo(8)shows an old door which is supposed to have connected the church with the now disappeared Romanesque cloister.
The Photo(9)(10) show the main entrance(west)and the tympanum.
The chrismon symbolizing the Christ is carved on the tympanum which is believed to be older than that of the Cathedral of Jaca. Similar chrismons are found at other churches in Aragon.

Photo(11),(12) show capitals at both sides of the main entrance. The quality of carving is not comparable to that of San Juan de la Peña which represents one of the best Romanesque sculptures in Spain. The vegetable leaf pattern on the right capitals is of a decent quality, while the carving quality of human and animals on the left side capitals could be better. They should have been the work of two different carvers
The inside view of the church shows a very simple construction; one nave and one apse.

The Church of San Caprasio(Saint Caprasium)
The church of San Caprasio is located close to the Santa María monastery and is well known as one of the best examples of Lombard architecture in Aragon. There are different opinions concerning the period of construction of the church; most of Aragon researchers believe it to be early 11th century, while others refer to the last quarter of the 11th century as the probable time for the construction. The church is dedicated to a French saint, Saint Caprasius who became a martyr in Aquitaine in early 4th century. The bell tower was added in 12th century.
It's a little gem among Romanesque churches in Aragon.

2010年9月21日火曜日

「サンティアゴ巡礼路のロマネスク教会(2)」 Spanish Romanesque Churches along ''El Camino de Santiago''(2)

サンフアン・デ・ラ・ぺーニャ修道院(Monastery of San Juan de la Peña)
スペイン地図 Map of Spain


(1)修道院への道(The road to San Juan de la Peña)
(Please see the summary in English at the end of this article)

サンフアン・デ・ラ・ぺーニャ修道院(Monastery of San Juan de la Peña)
前回ご紹介したハカ大聖堂から西に20数キロ、急カーブの続く山道を標高1,100米くらいまで一気に登ると、まるで岩山に彫り込んだような異様なその姿と、回廊の彫刻で有名なサンフアン・デ・ラ・ぺーニャ修道院が、とつぜん右手に現れます。ぺーニャ(peña) は岩とか岩山を指すので、サンフアン・デ・ラ・ぺーニャ修道院は、「岩山の聖ヨハネ修道院」という意味になります。

(2)修道院(The Monastery)

サンフアン・デ・ラ・ぺーニャ修道院の歴史と時代背景
この修道院、正確には修道院跡が、どのような事情でそして誰の手でこの岩山に建てられたのか、その起源ははっきりしません。7世紀ころから岩山の洞窟に起居し、瞑想の生活を送る隠修士と呼ばれるごく少数の修道士たちがいた、という伝承はあるものの、修道院として記録に登場するのは10世紀ころの話。有名な修道院ながら、その歴史には謎の部分を含んでいます。

前回にも述べた通り、11世紀の後半にアラゴン王国がサンチョ・ラミレス王(在位1063-1094)のもとで、徐々にイスラム勢力の支配地を侵食し領土拡張の勢いを示し始めたころ、サンフアン・デ・ラ・ぺーニャ修道院はアラゴン王家の霊廟となり、同時にサンティアゴ巡礼路の聖地のひとつとして有名になります。そして王家や貴族からの寄進により拡張工事が進み、11世紀の終わりころには回廊を除き、ほぼ現在の姿に近いロマネスク修道院としての形が整いました。

11世紀後半は、ハカ大聖堂とサンフアン・デ・ラ・ぺーニャ修道院がアラゴン王家の庇護を受け、アラゴン地方での宗教活動の中心として大いに発展した時期です。しかしサンチョ・ラミレス王が1094年7月、自らの将来を賭けたウエスカ攻略戦の最中に戦死したため、長男のペドロ1世がそのあとを継ぎ1096年にイスラム勢力からウエスカを取り戻しますが、12世紀に入るとサンフアン・デ・ラ・ぺーニャ修道院を取り巻く環境はしだいに変わっていきます。地の利を得たウエスカが新しい首都となり、政治や宗教活動の中心がしだいに新しい首都に移って行ったためです。ハカ大聖堂と同じく、サンフアン・デ・ラ・ぺーニャ修道院にも、時代の流れに取り残された歴史があります。

(3)新修道院(現在はホテルと記念館に改装)(New Monastery converted into a hotel)
(4)旧修道院への山道(Mountain road to the Old Monastery)

1675年2月に発生した火災は三日三晩続き、修道院の建物が甚大な被害をこうむったため、1キロぐらい離れた場所に新修道院が建てられましたが、2007年にはその新修道院の建物も改装され、パラドールと呼ばれる4星のホテルと、アラゴン王国とロマネスク修道院の記念館になっています。パラドールからは小型バスがサンフアン・デ・ラ・ぺーニャ旧修道院向けに出ていますが、写真のような中世以来の旧道を歩いてもホテルから20分ぐらいの距離です。


(5)教会と回廊(修道院南面)(South view, Church & Cloister)

おおざっぱに言えば、手前に見える回廊の床から下の部分が「旧教会」(10世紀の前ロマネスク様式の建築)で、それを土台に「新教会」と呼ばれる11世紀以降のロマネスク建築をその上に継ぎ足した構成になっています。なお回廊部分は12-13世紀の建築とされています。



(6)修道院の西面(West view of the Monastery)

これは同じ修道院を西側から道路ごしに眺めたものですが、左の横長の建物が2階建ての修道士たちの居住区で、内部で「旧教会」につながっています。中央に見える教会の建物は、半円形のガラス窓から上が「新教会」、その下が「旧教会」に当たります。なおこの写真では見えませんが、修道院の入り口は建物の左横についています。


前ロマネスク様式の旧教会(10世紀)
(7)旧教会(Old church, pre-Romanesque style)

旧教会(前ロマネスク様式)
この写真は1階(実際には半地下)の修道士たちの居住区から、その奥に位置する旧教会の方向を眺めたものです。旧教会は細長い明り取りの窓が二つあるだけの、まるで洞窟を思わせる雰囲気です。なお奥が明かるいのは人口照明によるものです。
この修道士の居住区は11世紀の拡張工事で付け加えられたものですが、ガイドの説明では、この修道院の初期には20人足らずの修道士と修道女が共同生活をしていたが、修道女たちは11世紀末ころにに数キロ離れたサンタ・クルス・デ・ラ・セロスに創建された女子修道院に移った、とのことでした。この1階の居住区もほとんど陽がささず湿気もあり、住む場所としては最悪ですが、こんな環境に耐えるのも修行の内、苦行が宗教体験を深める、というような見方があったのでしょうか。


(8)二連の祭壇(Twin altars of the old church)

旧教会はまさしく岩山を削って建てたという感じで、ふつうなら二つの祭壇のうしろが半円形に張り出し、明り取りの窓が付くところですが、むろん窓はなく岩盤がむき出しのままです。
この旧教会のように10世紀の建築は、ロマネスク(11-12世紀)に先立つという意味で、前ロマネスク(Pre-Romanesque)様式と呼ばれますが、祭壇前や教会内部の仕切りに使用されている馬蹄形アーチは、前ロマネスク建築でよく見かけるもので、これが建設時期を判断するひとつの手がかりにもなります。
なお祭壇と教会内部が二つに仕切られているのは、修道士と修道女がそれぞれ別の祭壇を必要としたため、という説があります。



(9)壁画(Mural painting)

左祭壇の天井に、12世紀ころの作品と推定される壁画が一部残っています。大半は17世紀の火災で焼け落ちてしまったのでしょう。


貴族たちの霊園
(10)貴族の霊園(Pantheon of Nobles)
(11)貴族の霊園(Pantheon of Nobles) 
(12)貴族の霊園(Pantheon of Nobles)

地下の旧教会を出て新教会に向かう途中に中庭があり、その中庭の左手、岩壁に沿ってアラゴン王国の有力貴族たちの霊園が設けられています。棺を収納した扉には各自の紋章が彫りこんであり、彫刻としてもなかなか立派なものがあります。なお王家の墓はこの霊園の後ろ、外から見えない場所に位置しています。なお中庭の正面奥に見えるのが、1094年に完成したロマネスク様式の新教会への入り口です。


新教会(ロマネスク様式-11世紀)
(13)新教会(Romanesque church)

ロマネスク様式の新教会には三つの祭壇がありますが、地下の旧教会と同じく、いずれも祭壇の奥は岩壁のため窓はありません。写真の明かりは人工照明によるものです。


(14)中央後陣(Central apse)

(15)教会の岩天井(Rock ceiling of the Romanesque church)
祭壇に近い部分は岩天井になっていて、しばらくじっと見つめていると圧迫感を感じるほど、迫力のある天井です。


(16)回廊への扉(Pre-Romanesqsue door to the Cloister)
ロマネスク教会の右手の扉は回廊に通じています。この回廊への入り口は優雅なイスラム風の馬蹄アーチを描いており、地下の旧教会と同時期の作、すなわち10世紀ころの前ロマネスク様式の作品というのが通説です。ただし新教会自体は11世紀のロマネスク建築でありながら、なぜこの入り口だけが1世紀前のものなのかというのは、いろいろ議論のあるところです。もともと地下の旧教会にあったものを移転して再利用した、という説に従っておきます。馬蹄形、鍵穴形など呼び名はいろいろありますが、このイスラム風アーチを見ると、年月を経て磨きぬかれた様式が持つ、端整という言葉がふさわしい美しさを感じます。

(17)馬蹄形アーチ(Horseshoe arch)
これは同じ入り口を回廊の側から眺めたものです。アーチは18個の石で構成されていて、写真ではよく見えませんが、その石のひとつひとつに文字や紋様が刻んであります。「この扉は、信ずる者に天国への道を開く」という意味のラテン語文が彫りこんであるそうです。


回廊(Cloister)
(18)回廊(Cloister)

回廊
教会から一歩足を踏み出すと、吹きさらしの回廊に出ます。ふつう修道院の回廊というのは、四方を壁で囲み、廊下は屋根付きで、中庭には芝生や木々あるいは噴水などを配してあり、修行に疲れた修道士たちの心をなごませるような配慮を感じさせるものですが、この回廊は屋根代わりの岩山が頭上におし迫り、西北からの寒風がもろに吹き付けるというぐあいで、とても心休まるどころではありません。私が訪ねたのは四月初めのことでしたが、身を刺すような冷たい風が吹き、カメラのシャッターを押す手がかじかんで仕方がありませんでした。東方向からは岩山が迫っているため、回廊は西に向かって開いていますが、そのため晴天の日でも日没前の数時間しか陽が当たらないという、なかなか厳しい環境です。

(19)回廊(Cloister)

これは回廊の西の端(写真の左手方向)が、もともと壁で遮蔽してあったらしいことをうかがわせる写真です。赤い矢印で示してある部分が、大火の際に崩壊してしまった西壁の一部かと推測されます。


(20)回廊(Cloister)

これは回廊の南側から教会を眺めた写真ですが、アーチ部分の装飾にハカ大聖堂でおなじみの、「ハカのサイコロ紋様」と呼ばれる切り餅を並べたような紋様が見られます。この回廊は12-13世紀の建築で、ハカ大聖堂よりだいぶ後のものですが, ハカ紋様がいかに広範にアラゴン一帯に広がっていたかを物語っています。


柱頭彫刻
この修道院は、ほかに例を見ない独特の回廊で知られていますが、中でも柱頭の彫刻が見ものです。扱われている題材は、聖書からとった物語、修道院での生活、奇怪な動物などさまざまです。作者についてはロマネスクの常で、確かなことはほとんど何も分かっていません。ただ、作品の質やスタイルの違いから判断して、時代を異にする少なくとも二人、もしくは二つ以上の工房の手になるものであろう、というのが通説です。
そして12世紀ころと推測される初期の作品を手がけた石工を「サンフアン・デラ・ペーニャのマエストロ」(Maestro de San Juan de la Peña)と呼んでいますが、大きな目をむく人物像は、いちど見たら忘れられない、不思議な迫力に満ちています。

なお回廊は17世紀の大火で甚大な被害をこうむり、そのあと長らく修道院自体が見捨てられた状態だったこともあり、教会に隣接している回廊の北側部分には全く何も残っておらず、また岩山に近い東側もその大半が消滅しています。残りの部分も修復の手がはいっているため、柱頭の位置など果たして創建時の通りかどうか、判然としないところがあります。

しかし実際に柱頭彫刻の前に立ってみると、やはり噂にたがわず迫力のある作品が多いのに感服しました。20個を越える柱頭彫刻の中から、私が特にひかれた7個を選んでご紹介しようと思います。この7個の作品全てが、同じマエストロの手になるとの確証はありませんが、その点はさておき、若干私の独断をまじえて補足説明を加えておきます。

アダム(Adam)
(21)アダム(Adam)

旧約聖書のアダムとイブの物語を題材にしたものですが、左隣に立っているはずのイブは、脚の部分を残してすっかり削り取られています。妖艶なイブの姿態が修道院にはふさわしくない、と判断された時代があったのでしょうか。


ヨセフの夢
(22)ヨセフの夢(Joseph's Dream)

イエスの父ヨセフが眠っているとき天使が夢に現れ、「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている。」(『マタイ福音書2-13』)と告げた場面です。

マエストロは、記憶に刻みつけてある福音書のこの一節を繰り返し口にしながら、のみをふるったに違いありません。大変な事態になりそうなお告げを聞くヨセフを、あくまで安らかな表情に仕上げたマエストロは、やはり神の手に全てを委ねることのできた時代の人だったと思います。


カナでの婚礼
(23)カナでの婚礼(Wedding at Cana)

ガリラヤ地方のカナの町で結婚式に招かれ、水をぶどう酒にかえた、というイエスの初めての奇跡を題材にしたもので、「イエスが、水がめに水をいっぱい入れなさい、と言われると、召使いたちは、かめの縁まで水を満たした。」(『ヨハネ福音書 2-7)』)にあたる場面です。


ラザロの死

(24)ラザロの死(The Death of Lazarus)

この作品についてはさまざまな解釈があります。ここでは、イエスがエルサレム近くのベタニアを訪ねたとき、友人ラザロの姉妹マリアが、せっかくのイエスの来訪がラザロの死にまにあわなかったことを、イエスにとりすがって嘆いた場面、という解釈に従っておきます。

『マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足もとにひれ伏し、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょう」と言った。イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、言われた。「どこに葬ったのか。」彼らは、「主よ、来てご覧ください」と言った。イエスは涙をながされた。』(『ヨハネ福音書11-32-35』)

このあと、ラザロがイエスの手で生き返る、という奇跡が起きるわけですが、その場面は隣の柱頭に彫りこんであります。
もともとは彩色がほどこしてあったものらしく、色塗りの跡がかすかに残っているのが目に付きます。マリアの鼻が欠けているのはちょっと残念ですが、イエスもそして杖を手にイエスに従う二人の弟子も無傷のようです。

ロマネスク彫刻の説明に能を引き合いに出す意見を目にしたことがあります。ちょっとした動作や背景の違いで、人物の性格や状況、あるいは時の流れを象徴的に表現する能は、ロマネスク彫刻の象徴的な表現に通じるものがある、という見方です。

ロマネスク美術の素朴なところがいい、という人は結構いますが、この彫刻を眺めていると、素朴なというよりもっと何か深いもの、いろいろな約束ごとを踏まえたうえで、極力説明をはぶいた簡潔な表現が持つ力強さ、とでも言うものを感じます。

わずか数十センチの柱頭スペースに、誰もが熟知している聖書の物語を刻むにあたって、マエストロはよほど考え抜き、説明しなくても分かる部分はすっかり削り落としたうえで、骨太のエッセンス部分だけを刻み付けようとしたのではないでしょうか。
大理石より硬い地場の石材を使わざるを得なかったスペインの石工たちは、あまり細かい細工は得意でなかったなど、技術的な制約もあったかのも知れませんが、私はむしろ、大きな筆で一気にぐいっと一本の線を引くような力強さを愛でた人たちではなかったか、と想像するわけです。

エルサレムに迎えられる
(25)エルサレムに迎えられる(The Triumphant Entry into Jerusalem)

イエスとその弟子たち一行がエルサレムに近づくと、群集はイエスを預言者、あるいは救世主として歓呼の声で迎えますが、そのときイエスは、やがてその人たちの期待を裏切る結果になるだろうこと、そしてまた自らが十字架にかけられる運命にあることも見通していた、という場面です。この作品をマエストロの最大の傑作と評価する人もいます。

「弟子たちは行って、イエスが命じられたとおりにし、ろばと子ろばを引いて来て、その上に服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。大勢の群集が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は木の枝を切って道に敷いた。」(『マタイ福音書21-6-8』)

最後の晩餐
(26)最後の晩餐 (The Last Supper)

最後の晩餐の場面を描いたものとしては、15世紀末ころのダヴィンチの作品が最も有名ですが、この柱頭彫刻は食卓の席順や、イエスと使徒たちの動きに独特なものがあります。ふつうはパンを裂くはずのイエスが、となりのユダに何かを与え、ユダが裏切り者であることを示そうとしている、というのが通説のようです。そしてイエスにもたれかかって居眠りしているらしいのがヨハネ、そのさらに右からヨハネの肩に手をやり、ゆり起こそうとしているらしいのがペテロとされています。

このヨハネは福音書や黙示録の作者で、イエスに最も愛された一人と言われます。説教するイエスのとなりで居眠りをするなど、この彫刻以外にもヨハネの居眠りの場面はいろいろほかにも例があるようです。聖書には食卓の席順など詳しい状況説明があるわけでもないため、それぞれが独自の解釈で晩餐の場面を描くわけですが、最後の晩餐は列席者の間で騒がしいほどの議論があった、という解釈もあります。イエスの左隣にユダを座らせ、晩餐の席で居眠りをするヨハネを刻んだマエストロは、何を語りたかったのでしょうか。

この作品もやはり彩色をほどこした名残が見られますが、写真を撮る立場から言えば、もう少し磨いてホコリをとってくれると見栄えがするのに、という気持ちです。これも忘れがたい作品のひとつです。

石工たちの争い

(27)石工たちの争い(Struggle among stonemasons)

これは聖書とは全く関係のない話で、二人の男が争っている場面です。ツルハシのような道具で相手をなぐりつけているのは、あるいは工事現場で実際にあった場面を再現しているのかも知れません。


サン・フアン・デラ・ペーニャのマエストロに限らず、11-12世紀ころの石工たちは、西ヨーロッパ全体が発展期にある時代を生きた人たちでした。「生活は楽ではないし、まだあちらこちらでいくさは続いているが、だんだん世の中も落ち着いて来た。ひと昔まえに比べればいい時代になった」ということを、多くの人々が実感していた時代です。そして、発展期の社会は、将来は明るいという楽観的な見方を育てます。さらに言えば、たとえ毎日の生活が苦しく、与えられた題材が暗い話であっても、全てを笑い飛ばし一心に石を刻む、勢いあふれる石工が良しとされた時代ではなかったかと思います。特に11-12世紀のスペインはいわば戦国時代で、一介の騎士の出でありながら、キリスト教領主とイスラム勢力の間をうまく泳ぎ、最後はバレンシア国の主に登りつめたエル・シッドのような人物が出た時代です。そんな時代が、底抜けに明るい豪快な作品を生み出したのではないでしょうか。

ロマネスク絵画で、殉教者の拷問・処刑などの場面が、ゴシック以降ほど陰惨なものにならないのは、そのことと関係があるような気がします。いかなる苦難に遭遇しても、それを神の試練だと考えることのできる人たちは、たとえ戦乱の時代にあっても将来への希望を失わなかったのだと思います。絶望感や時代の閉塞感とは無縁の底抜けに明るい石工たちが、何ものにもとらわれずぞんぶんに腕をふるった作品が教会を飾り、多くの人たちがまたそれを良しとした時代、それがスペインのロマネスク時代ではなかったか、とマエストロの作品を眺めながらつくづく思うわけです。

(Summary of the article)
The Romanesque Monastery of San Juan de la Peña
This spectacular monastery is located about 20 km west of the Cathedral of Jaca which was introduced in the last blog article(July18, 2010). The monastery is built into a huge rock at an altitude of over 1,000 meters. The name of the monastery means ''Saint John of the Rock''

The monastery appears on historical documents of the10th century, but a legend says that it was preceded by a group of hermits living in a cave of the rocky mountain since 7th century.
The monastery, same as the cathedral of Jaca, grew during 11th century under the patronage of Kingdom of Aragon, especially during the time of King Sancho Ramirez (reign 1063-1094). The monastery was appointed as the Kindom's royal pantheon and became well known as one of the monasteries on the pilgrimage route of Camino de Santiago. The famous cloister was added during 12-13 century

A big fire occurred in February 1675 which lasted three days and practically destroyed the monastery. A new monastery building was constructed short after that at another location about 1.5 km from the old monastery. In 2007 the new monastery building was transformed into a 4 star hotel and the historical museums of Kingdom of Aragon and the Monastery.

The monastery is composed roughly of two parts; the lower church of 10th century pre-Romanesque style, and the upper church of Romanesque style with an impressive cloister under the huge rock. The cloister was built during 12-13 centuries and contains a series of magnificent capitals carved by so called ''Master of San Juan de la Peña''. Practically nothing is known of the ''Master'' who could have been a group of excellent stonemasons who, during middle ages, did the job of masons, carvers and sometimes architects. Due to significant difference of style and quality among the capitals it is believed that the work was carried out by at least two different ''Masters'' during different periods, being the first one named as the ''Master of San Juan de la Peña''

The 7 capitals shown above are what impressed me most among over 20 capitals of the cloister.
One art critic says that we should pay attention to symbolic expressions employed by the Romanesque artists, especially by carvers, in a similar way as when we watch the Japanese Noh play in which a subtle inclination of the face could mean a great emotion, a short walk could mean miles of trip etc.