2008年12月30日火曜日

スペイン内戦の旅ーテルエルの戦い(2)





(このテルエル県の略図をクリックすると画像が拡大されます)


(モラ駅周辺)

スペイン内戦の回想録「二十歳の戦争」の著者ミケル・シグアン(Miquel Siguan)氏は、1938年1月に100人ばかりの若い同期の召集兵と共にバルセローナ市近郊の訓練基地を出発し、列車でテルエル戦線に到着した時の印象をこう述べています。

「今朝目が覚めたとき、列車の窓から見た光景にぼくは驚いた。何度も目をこすったぐらいだ。この汽車の旅では、ずいぶん変化に富んだ風景を次々と見てきたが、これまで目にしたのはどれも耕作地であり、人が住んでいる土地だった。ところが、いま目の前に広がっているのは無人の荒野だ。木も草もなければ、人間がいるという気配がまったく感じられない荒野である。ただのっぺりした平原が、これまた同じように一木一草も見当たらない裸の丘に囲まれているだけなのだ。」


(モラ駅舎)

「線路脇にかなり痛んだレンガ造りの建物があり、村の姿はどこにも見当たらないものの、残っている標識からそれがモラ村の駅らしい。近くを一本の道路が走っているが、それはまったく人気のない平原を一直線に延び、水平線のかなたに消えている。列車とぼくらだけが、このあたりで唯一の生命のしるしというわけだ。」 ………………………………………………………………………………………………
「人里離れた駅のプラットフォームに一団となって集まったぼくらは、まるでわずかばかりの身の回り品を抱えた移民の群れのようだ。」   (第一章「到着」)

テルエルの戦いから70年が過ぎた今年の春、私は「二十歳の戦争」の舞台となったテルエル県を訪ねてみました。この70年の間に開発が進み植林などが行われたということもあるのでしょうが、現地を見たかぎりではモラ駅周辺はたしかに依然として人気のないさびれた場所ではありますが、「木も草もなければ、人間がいるという気配がまったく感じられない荒野である」という回想録の記述とは少し違うな、という印象でした。
或いはこの部分は、家族にもそして緑あふれる故郷のバルセローナにも別れを告げ、激しい戦いが続く冬のテルエル戦線に着いた時の、当時19歳だった著者の心象風景と理解すべきなのかも知れません。
モラ駅、正確にはモラ・デ・ルビエロス(Mora de Rubielos)駅は、町まで15キロ近くも離れている無人駅で、今でも駅の周りには2-3軒の家があるだけで、一日に何本かの列車が発着する時は別なのでしょうが、ふだんは本当に人影もなく、一匹の犬の姿すら見かけない、まことにさびれた雰囲気でした。


(Mora de Rubielos)

モラ・デ・ルビエロス町は、テルエル市から40キロくらいの距離にあり、人口は1,600人でテルエル県東部地方では大きな町です。モラ町のみどころと言えば、14世紀から15世紀にかけて築かれた城壁の一部が残っているのと、同じ頃に町の中心部に建てられたモラ城やゴチック様式の聖マリア教会などが有名です。私たちは数時間滞在して、教会のすぐ前のレストランでコーヒーを飲んだだけでしたが、モラ町はこじんまりとして落ち着いた雰囲気を今も保つ、なかなか味のある町でした。


(Rubielos de Mora - Patio of the City Hall)

モラ町から10キロぐらい東に、ルビエロス・デ・モラ町(Rubielos de Mora)があります。名前が似ていてまぎらわしいのですが、ルビエロス町は人口700人ぐらいの小規模な町ながら、15世紀から16世紀にかけて築かれた城壁や古い建物や教会などがよく保存されていて、石畳の通りを散歩するのがとても楽しい町です。

ルビエロス町は、シグアン氏たち召集兵がモラ駅に到着したあと、迎えのトラックに座ることもできないほどのすし詰めの状態になり配属先の部隊を探してひと晩中あちらこちらと移動したあげく、やっとのことで明け方に町に着き、前線で初めての仮眠をとった場所でもありました。

「日の出も間近になったころ、やっとトラックが停まる。今度ばかりはほんとうに石畳の広場で停まった。トラックを降りる、というよりむしろ全員で転げ落ちる。そして落ちたところでそのままぼくらは横になって眠り込んでしまった。
二十歳の身体というのは、まるでゴムみたいに柔軟で、数時間の睡眠で疲れがすっかりとれてしまう。ぼくらが呼び起こされたときには、もう正午を過ぎていた。」
……………………………………………………………………………………………
「ぼくらが自分でいろいろ調べた結果、ここはルビエロス・デ・モラという古い大きな村で、なかなか豪壮で立派な建物もある。村の通りをぶらぶら歩いていたとき、意外なものに出くわした。戸締り厳重な修道院らしい建物から、男声合唱が聞こえてきたのである。それはどんな歌詞にでも合いそうな鼻歌のように「もしも手紙を寄越すなら おれの居場所はご承知だ テルエル占領したあとは ルビエロスで牢屋入り」と歌っている。一緒に歩いていた仲間たちもぼくと同じくらいびっくりしてしまい、いったいこれはどう説明すればいいのだと、いろいろ想像を巡らせる。でも、彼らは他に用事があるからと、ぼくを置き去りにして行ってしまった。彼らの用とは、ルビエロス村の娘たちは見かけ通り素っ気ないのか、この村には開いている居酒屋は一軒もないのか、確かめたいということなのだ。そんなわけで、ぼくは歌声の漏れてくる窓のそばにひとり残って、その歌についてあれこれと考えてみる。この歌についてはこれからも繰り返し考えることになるのだろう。」    (第一章「到着」)



(第84旅団の宿舎として使われたカルメル会の修道院、The old convent of the Carmelitas Calzados)

悲劇の第84旅団
シグアン氏がルビエロス町で修道院の窓越しに漏れ聞いた歌声の主というのは、前線復帰の師団長命令に不服従を唱えたため「反乱」の罪に問われ、修道院で身柄を拘束されていた第84旅団所属の兵士たちでした。この声の主がその後どうなったのかは分りませんが、この事件で下士官を含む46名の兵士が、裁判を経ることもなく師団長の即決で銃殺刑に処せられています。

1938年1月に第40師団のテルエル市内掃討作戦の先頭に立った第84旅団は、アナキスト民兵部隊を母体に編制された旅団で、2,000人くらいの兵力でした。当時共和国軍を支配していた共産党からは、規律面で問題が多いなどと何かにつけて批判のやりだまに上げられていたアナキスト部隊ですが、そのアナキストが母体の3個旅団(第82旅団、第84旅団、第87旅団)で第40師団が編制された時、国境警備隊の出身者で、メリダ市長を勤めた経験を持つニエト中佐が、新しい師団に共和国軍の規律を徹底させるという責任を担って第40師団長に就任しました。

1937年12月半ばに始まったテルエル市の攻防をめぐる戦いは、1938年1月8日のフランコ軍守備隊の降伏でひとまず共和国側の勝利となりましたが、勝った共和国軍も、例年にない厳しい寒さと雪に苦しみ、兵力の2割から3割を消耗するほどの激しい戦いが一ヶ月近くも続いたため、どの部隊も兵士の大半が病気や疲労で体力の限界に達していたというのが実情でした。中でも第84旅団の場合は、テルエル市内の掃討作戦を指揮した少佐が、テルエル占領に成功すれば長い休暇が与えられ、おまけに報奨金の支給や昇進もある筈だなどと、常識では考えられないやり方で士気を鼓舞したため、兵士たちは基地に戻り休息できる日を夢見て激しい戦いの日々に耐えていました。そして第84旅団の兵士たちに予備軍として一時休養、という待ちに待った命令が伝えられたのは1月半ばのことでしたが、ちょうどまさにその時フランコ軍によるテルエル奪回の猛反撃が始まり、各地で共和国軍の防衛線が破られ始めたため、すでに休養中の各部隊に対しても即時戦線復帰の命令が出されるという事態になっていた時でした。
特に84旅団の機関銃中隊など一部の部隊は、重い機関銃や弾薬を担ぎ、テルエル市近郊の塹壕から傷む足を引き摺りながら歩き続け、やっと一日がかりでルビエロス町の基地にたどり着いた途端、また即時戦線復帰の師団長命令が出たということで、それまでに溜まりに溜まっていた不満が一挙に爆発し、約束が違うとして戦線復帰命令を拒否する動きが起こりました。

ニエト師団長は、第84旅団の兵士たちが宿舎にしていたルビエロス市内の修道院に出向き、前線復帰を拒否する者には交代を派遣するので、武器を上官に預けた上そのむね申し出るよう命じました。実際に不服従を具体的な行動で示したのは旅団員の一割にも満たない200人足らずの兵士だったようですが、その全員が武器を棄てた途端に逮捕監禁され、そのうち下士官を含む46人については裁判なしの即決で銃殺が決まりました。そしてこの46人は、翌朝まだ夜が明けぬうちに理由も告げられずルビエロスの町外れに連行され、トラックから降りたところを機関銃の一斉射撃で銃殺されるという、まるでだまし討ちのような処刑が行われました。

1月8日のテルエル市占領までは、テルエル攻撃の尖兵としてロバート・キャパのカメラにおさまったりして英雄扱いだった第84旅団の兵士たちですが、わずかその10日後に一部の兵士は師団長から「反乱者」の烙印をおされて銃殺され、銃殺刑を免れた者も懲罰部隊送りの処分となりました。そして第84旅団は解隊と決まり、兵士たちはそれぞれいくつかの部隊に分散して配属され、テルエル占領の栄光に輝く第84旅団は消滅してしまいました。

「反乱者」とされたのは、その大半が文字も読めない農民で、内戦が始まると義勇兵としてバレンシアのアナキスト民兵部隊に加わり、ファシストと戦うことに命をかけた勇敢な兵士たちでした。しかし内戦開始から一年が過ぎ、共和国軍が組織化され義勇兵にも軍法が適用される事態になってもその意味がよく理解できなかったようで、師団長命令を拒否した時も、いまだにアナキスト部隊の伝統を信じて、兵士と部隊指揮官とはお互いに苦楽を分かち合う仲間であり、非人間的な命令を拒否しても上官は理解してくれる筈だ、などと思い込んでいた兵士もあったようです。そして上官の命令を拒否することが軍隊では死罪に値する可能性がある、などというのはたぶん彼らにとっては思いもよらないことだったのでしょう。そんな雰囲気の中でも、雲行きが怪しいと感じ混乱に乗じて逃亡した兵士や、過酷な処罰を予期して親しい部下に密かに逃亡を勧めた部隊長などもあったため、そのおかげで命拾いをした兵士がいたということです。

なぜニエト師団長が兵士たちの前線復帰命令拒否に対して常識はずれの過酷な処分で臨んだのか、それを理解するうえで重要だと思われる点がいくつかあります。
そのひとつは1938年1月1日付けの中央参謀本部長より各部隊長宛ての命令で、部隊の士気低下を招く言動に及ぶ者は銃殺を含む厳罰をもって対処するよう指示があったことです。ニエト師団長はこの指令に従い、命令不服従者には銃殺刑をもって対処すべきだと考えた可能性があります。

もうひとつは共和国軍の権力の中枢にいたのは共産党員が多かったということです。ちょうど同じ時期に、第11師団長が部隊員の消耗を理由に第22軍団長の前線復帰命令を拒否したのですが、それが共産党の英雄リステル第11師団長であったため、命令拒否を咎められることもなく、逆に軍団長がその命令を撤回するという結果になりました。おまけにその後リステル師団長はテルエル攻略の戦功で、民兵出身者としては初めての中佐昇進を果たしています。共産党員に対するえこひいきではないか、という批判が出るゆえんです。また共産党が権力を握る共和国軍では、アナキスト部隊はなにかと批判の対象になり易かったという背景もありました。ちなみにニエト第40師団長は社会党員でした。

そしてもう一つは、テルエル市内の掃討作戦の遅れなどで、軍上層部の間でニエト師団長の指揮ぶりにとかくの批判があったことです。従って師団長としては、命令不服従問題でさらに指揮官としての自分の名声に傷がつくことを懸念していたに違いありません。それと師団長は師団付き政治コミサール(政治委員)の意見を聞いてこの問題に対処したようですが、第40師団の政治コミサールは19歳の共産党員で、銃殺刑になった軍曹など下士官を含む46名の兵士を処刑対象者として選んだのもこの政治コミサールだったと言われます。19歳の若さで師団付き政治コミサールになるというのは、よほど本人が有能であると同時に共産党首脳との人脈にも恵まれたエリートだったからでしょう。政治コミサールはその報告書などを通じて部隊指揮官の言動を軍首脳に伝える役目も果たしますから、ニエト師団長は共産党出身の政治コミサールの目を意識せざるを得ない立場にありました。それやこれやで、師団長が第84旅団の兵士たちに対して厳しい態度で臨む姿勢を強調せざるを得ない状況にあったことは確かです。

しかし重さ50キロを越える鉄の固まりのような機関銃を担ぎ疲労困憊して基地に戻ったばかりの兵士たちが、指揮官に約束された長期休暇が反故になったたと憤っている時に、前線復帰命令に従わないからと裁判手続きも経ず即座に銃殺刑に処すべきだと判断したこと、しかも純朴な農民出身の兵士たちをだますようなやり方で身柄を拘束のうえ銃殺した、というような事情を勘案すると、ニエト師団長及びそれを補佐した政治コミサールの見識には疑問を感じざるを得ません。疲労困憊している部下のため、軍団長の前線復帰命令を拒否した第11師団長に比べて、余りにもその姿勢の違いが大きいことを痛感します。また命令拒否の事態に至ったのには、直属の部隊長が部下の兵士をよく掌握していなかったという問題もあるのでしょうが、はっきりしているのは銃殺などの厳しい処分を受けたのは兵士のみで、将校やそれを補佐すべき政治コミサールの責任がどう問われたのかはよく分りません。そしてニエト師団長もこのあと10ヶ月くらいで大佐に昇進しています。

この事件に関する公式な記録としては、第40師団長からレバンテ方面軍司令官に宛てた三頁の報告が残っているだけで、本来なら詳細な記録を残すべき師団付き政治コミサールなどの報告には、本事件の顛末に関する記載は見当たらないようです。実態に照らして過酷過ぎると思われる師団長の処分について、共和国軍首脳は公の記録として残すことを避けたかったのかも知れません。そんなこともあって、この事件は長いあいだ闇に葬られたままになっていましたが、最近になり少しずつその詳細が一般の目に触れるようになりました。


(ルビエロスの城壁)

ルビエロス町は城壁に囲まれ、石畳の通りを通行人と車が共有している古い町です。わずか人口700人くらいの規模の小さな町なのに、古い建物を修復しながらいい雰囲気の街づくりをしているな、と感心させられました

2008年12月11日木曜日

スペイン内戦の旅 - テルエル


テルエル(Teruel)を訪ねる旅
今年三月のイースター休暇の時期にテルエル県を訪ねました。このBlogを一年前に開設した時にご紹介したスペイン内戦の回想録、「二十歳の戦争」の舞台であり、そして内戦の激戦地のひとつとして、当時は世界にその名を知られたテルエル地方を、実際に自分の目で見てみようと思ったからでした。
私が滞在していたバルセローナからは、サラゴサ乗換えの汽車を利用すればテルエル市までは5時間くらいですが、どうせ車がなくては現地に着いてから身動きがとれないだろうということで、車で行くことに決めました。テルエル市はバルセローナから約400キロ、ちなみにマドリッドからだと約300キロ、そしてバレンシア市からは140キロくらいの距離になります。


テルエルの戦い
旅の話を始める前に、まずスペインの内戦はいつ始まったのか、そしてテルエルの戦いとはなんだったのか、についてごくかいつまんでご説明しておきます。。

スペインでは1936年2月の総選挙で左翼選挙連合の人民戦線が勝ち、その結果誕生した左派共和主義政府は、フランスに比べ100年は遅れていると言われたスペイン社会民主化のため、さまざまな改革を実行に移し始めます。しかしこれに反発する右翼勢力が猛烈な反政府運動を繰り広げ、特に都市部では左右両勢力の若者たちによる武力衝突が頻繁に起きるなど、左右の対立が治安の悪化や社会不安をもたらす状態となり、保守的な軍人たちが共和国政府打倒のクーデターを起すための口実を与えることになりました。

1937年7月17日にまずモロッコの駐屯軍が反乱を起こし、それに呼応して7月18日から19日にかけて、スペイン本土各地でも軍部の反乱が起きます。これに対する共和国政府の対応は後手に回りましたが、首都マドリッドやバルセローナ、バレンシアなどの大都市では、労働者や市民が兵営から武器を奪うなどして武装し、また共和国政府に忠誠の立場を保つ一部の軍人や警察とも手を携え反乱軍に対抗したため、軍部の反乱はクーデターとしては成功しませんでした。
しかしスペインは共和国政府が支配する地域とフランコ将軍の率いる反乱軍が支配する地域に二分され、フランコ側はドイツ・イタリアからの軍事援助、共和国政府はソ連からの援助を受け、三年間に亙る内戦に突き進んだのでした。

テルエルの戦いが始まったのは、内戦開始から一年半が過ぎた1938年12月半ばのことで、その少し前に北部戦線で共和派を打ち破り大西洋岸のビルバオやオビエドなどスペインの重要な鉱工業地帯を支配下におさめたフランコが、一挙に首都マドリッド攻略を実行に移すべく着々とその準備を進めていた時期でした。
しだいに追い詰められていた共和国政府は、フランコのマドリッド攻撃を牽制するため第二戦線を開くことにし、県都とはいえ軍事的な重要性に乏しいためフランコ軍の守備が手薄だった、テルエル市をその目標に選びます。

共和国軍は1937年12月15日に12個師団(約10万人)の大軍を投入し、2個旅団(約6千人)のフランコ軍と何千人かのファランヘ党員などが守るテルエルに奇襲攻撃をかけます。
その結果、テルエル守備部隊は兵站路を断たれ孤立してしまいますが、一般市民を巻き込み市内の建物に籠もった上、要所には狙撃兵を配置するなどして徹底抗戦の態度で臨みました。
そのため共和国軍は旧市内の建物をひとつひとつ制圧して行くと言う難しい掃討作戦を余儀なくされ、テルエル市の占領に予想以上の時間がかかったうえ、攻撃部隊の損害が増える結果になりました。

1937年暮れから1938年初めにかけてのテルエル地方は例年になく厳しい冬に見舞われ、この地方には珍しく大雪が降ったり気温が零下20度近くまで下がった日もあったそうです。共和国軍もフランコ軍も兵站に問題を抱えており、寒さへの備えが充分でなかったため、兵士たちは凍傷など寒さによる被害に苦しむことになりました。
防寒具はおろか毛布すら充分とは言えない状態だったので、軍服の下に新聞紙を挟み込み寒さをしのいだとか、夜の歩哨に立った兵士が雪のなかで眠り込み翌朝凍死していた、などなどの話があります。少し誇張はあるでしょうが、「テルエルでは弾に当たって死なずとも寒さで死ぬ」などと言われたゆえんです。
当時の写真を見ると、共和国軍の兵士たちの中には、バレー靴のようなカタルーニャ産のアルパルガタサンダルを履いている者がいます。これで雪の中を長時間歩かされたら凍傷にかかっても不思議はないな、という気がします。

テルエル守備軍救援にかけつけたフランコ軍の増援部隊も、大雪のため一時は立ち往生するような有様で、救援の望みを断たれ食料も弾薬も尽きてしまったテルエル守備隊は、38年1月8日に共和国軍に降伏しました。
共和国政府は、フランコ軍を相手の戦いで勝利を納めたとして、テルエル市の占領を大々的に世界に向けて宣伝します。そして主だった指揮官の中にはその勲功で昇進した人もいます。このテルエルの戦いを報道するため現地入りした外国特派員の中には、ヘミングウエイやロバート・キャパの姿がありました。

もともと共和国政府が牽制作戦として始めたテルエル攻撃でしたが、フランコは一般の予想に反してマドリッド作戦を一時棚上げし、軍事的に余り重要とは思えないテルエル市の奪回を最優先することに決め、1月半ばに12個師団(約10万人)を投入し、500門の砲とドイツのコンドル兵団を含む空軍による火力を組み合わせて、共和国軍を徹底的に叩く作戦に出ます。
その結果両軍をあわせて延べ20万人を越える軍勢がテルエル市周辺で激突を繰り広げ、双方に大きな損害が出る結果になりました。

テルエル攻撃に際しては、共和国軍も精鋭部隊を送り込みましたが、最初の一ヶ月足らずの戦闘でその30%あまりが損害を受けたと言われます。その補充に多数の若い召集兵が前線に送り込まれましたが、フランコ軍の本格的な反撃が始まると、実戦経験のない若い兵士の中にはパニックに陥る者も出て、激しい砲撃とそれに続くフランコ軍の急進撃に、武器を捨て壊走する部隊もでるありさまでした。

共和国軍のテルエル占領からほぼ一ヵ月半が過ぎた2月22日に、フランコ軍はテルエル市を奪回し、二ヶ月を越えるテルエルの戦いは共和国軍の敗北で終ります。
つかの間とは言え勝利の喜びを経験したあとだけに、共和国側の落胆は大きく、前線の兵士の間では士気の阻喪、後衛の市民の間でも負け戦の気分が蔓延するという、大きな問題を残したテルエルの戦いでした。

テルエルの戦闘に参加した兵員数やその損害については、色々な説があり正確なところはよく分りません。
共和国軍は内戦終了と共に壊滅し、50万人と言われた兵力も参謀本部のスタッフもバラバラになり、その殆どが国外に脱出してしまったため、共和国側の詳しい記録が残っていないのがその原因のひとつです。
しかし両軍をあわせて延べ20万人を越える兵員がテルエルの戦場に投入され、捕虜になった分を含めるとその半数近く、すなわち10万人ぐらいの損害が出た、という説が妥当ではないかと見られます。

「二十歳の戦争」(内戦の回想録)
ミケル・シグアン氏の「二十歳の戦争」という内戦の回想録は、激しい戦闘が一段落したあとのテルエル戦線で、若い召集兵として内戦終了までの二年間を過ごした著者が、最前線での日常生活を若干のユーモアを込めて淡々と語っているものです。
シグアン氏は当時バルセローナ大学哲学科に在籍し、学生運動の幹部で当時のエリートでもあったので、望めば後衛で楽な任務につくことも可能でしたが、召集に応じて共和国軍の一兵士として塹壕で過ごすことを選びます。
内戦後は、スペインの大学における心理学研究と教育の分野でのパイオニアとなり、バルセローナ大学の心理学部長を勤めた方です。シグアン氏はことし90歳になりましたが、いまもバルセローナで著作活動を続けておられます。

テルエル市
前置きがずいぶん長くなりましたが、私たちは3月15日の朝9時ころに車でバルセローナを発ち、途中で昼食をとったあと、テルエルまであと160キロくらいのところにあるアルカニース(Alcañiz)のパラドールでひと休みをしました。アルカニースはテルエル県第二の町で、人口は16,000人くらいの落ち着いた雰囲気を持つ町です。
パラドールはもともと観光推進の国策に沿って設立された国営の高級ホテルチェーンで、中世のお城や古い館を改造し四つ星や五つ星のホテルをスペイン各地につぎつぎ開設して行きました。
今は公営企業となり、私たちがテルエル市で泊まったパラドールのように三つ星のホテルもあったりして、最近は中身にだいぶばらつきがあるようですが、アルカニースのパラドールは、お城のような中世のカラトラバ騎士団の僧院を改装した立派なもので、一度は泊まってみたいなと思わせる雰囲気を持ったホテルでした。

テルエル市は人口34,000人くらい、中世からの古い歴史を持つ町です。標高900米くらいですので、三月半ばでも夜になるとちょっと肌寒い感じでした。
テルエルからバレンシアまでは、今は立派なハイウエーが開通して車で一時間あまりとずいぶん便利になりましたが、内戦当時は山沿いの細い道路を峠越えをしながら行く旧道しかなかったため、片道三時間くらいはかかったようです。
テルエルの戦闘を取材していた写真家のキャパは、バレンシアのホテルに滞在し戦場まで車で通っていたそうですが、1938年1月2日の朝テルエル市近くの峠で、前夜からの積雪で数百台の軍用車が峠道のところでで大渋滞を起したため、わずか5キロを行くのに8時間も費やしたそうです。

フランコ軍の守備隊が最後までたて籠もったという、スペイン中央銀行などテルエル市内の中心部にある建物は、共和国軍の市内掃討作戦で徹底的に破壊されましたが、70年が過ぎた今はもうすっかり建てなおされて、それらしい痕跡はどこにも見当たりませんでした。
  

(テルエル市の中心Plaza del Torico)
内戦の時の激戦の場で、いまは観光の名所のひとつになっているのが、小さな雄牛(torico)が石の円柱にちょこんと乗っているトリコ広場です。
毎年7月のテルエルの守護聖人のお祭りでは、雄牛を町に放し若者たちがはやしたてながら一緒に通りを駆け巡るそうですが、雄牛はテルエル市のシンボルマークといった感じです。
なおtoricoはtoroの縮小辞で、小さいということのほかに親しみを込めた言い方でもあります。またTeruelの名前の由来は、そのむかし野生のToro(雄牛)が町を探していた人の道案内をした、という昔話にその起源があるという説もあります。


テルエルの墓地
旧市内のほかに、もうひとつの激戦地だったテルエルの墓地は、テルエル市の北方の街道に沿った丘の上にあり、町の出入りを制する拠点でもあったので、フランコ軍と共和国軍とが墓石を盾に銃撃戦を繰り返し陣取り合戦をした場所でした。当時の弾痕が残る墓石がいくつも見られます。
実はテルエルの墓地のありかがよく分らなかったので、パラドールのフロントデスクでお墓への道を尋ねましたが、若いフロントの担当者はちょっと驚いたような顔で私の顔をしげしげと眺めていました。外国人観光客で墓地へ行く道を尋ねる人は、余りたくさんいないからでしょう。

(今も弾痕の残るお墓)

大聖堂
旧市内の中心部にある大聖堂などムデハル様式の建築は内戦の被害を免れ、1986年に UNESCOの世界文化遺産に指定されて有名になりました。ムデハル様式は中世ヨーロッパの伝統にイスラム文化の伝統を加味したものだと言われます。何となくロマネスクやゴチックにイスラム様式を組み合わせたような、不思議な魅力を感じさせる建物です。


(大聖堂のムデハル様式の塔)

「テルエルの恋人」
もうひとつの名所でどの観光案内書にも載っているのが「テルエルの恋人」でしょう。13世紀に身分の違いから結ばれなかった悲恋の物語りの主人公たちのミイラが、今は晴れて同じ場所に納められているというお話です。14世紀のボッカチオのデカメロンにも同じような悲恋の物語があるそうですが、テルエルの人たちはこちらの方が本家だと考えているようです。このミイラ二体は内戦の時には被害を避けるため尼僧院の地下室に安置してあったそうです。


(テルエルの恋人)

2008年10月29日水曜日

なぜいまスペイン内戦なのか(3)

―フランコは人間性に対する罪で裁かれるべきなのか?―

スペイン内戦とそれに続いたフランコ独裁体制の下で、体制にとり好ましからざる人物と見なされ、不法拘禁されたまま行方が分らなくなっているスペイン人の数は10万人を越えると推定されています。そしてその内の多くは内戦の渦中で正当な裁判を経ることもなく銃殺され、スペイン各地にある共同墓地とは名ばかりの土中に埋められたままになっているのが現状のようです。そしてこのフランコ体制の犠牲者たちは、内戦から70年が過ぎた今も正式に死亡が確認されることもなく、未だに「強制連行による行方不明」の状態にあります。

これらの犠牲者たちの肉親はその殆どがもう子供や孫の世代ですが、二年前からマドリッドの全国管区裁判所に対し20件を越える訴えを重ねていました。その趣旨は、内戦中と内戦直後のフランコ将軍とフランコ体制の指導者は、体制と意見を異にする市民を計画的に抹殺したのであり、それは「人間性に対する罪」を犯したものとして裁かれるべきこと、また共同墓地に埋葬されている筈の肉親を葬るために遺体の発掘と鑑定を求めるという内容です。

これらの訴えを裁判にかけるべきかどうかを予審判事として検討して来たのが、チリのピノチェット元大統領を逮捕しようとして有名になった全国管区裁判所中央予審部のバルタサル・ガルソン判事です。
ガルソン予審判事は10月16日付けで、フランコ将軍とフランコ体制の当時の指導者30数名が、人間性に対する罪を犯したか否かに関し捜査を進めること、また同時に19箇所の共同墓地での遺体発掘を認める、との決定を下しました。その中には詩人で内戦が始まってすぐ殺されたガルシア・ロルカが埋葬されているという、南スペインのグラナダ郊外にある共同墓地も含まれています。

ガルソン判事の決定は犠牲者の家族にとっては朗報ですが、スペインの世論がこれを圧倒的に支持するかとなると、それはまた別問題だと思います。内戦に関する議論になると、未だにスペインでは国民の意見が真っ二つに割れるのが常ですが、特に内戦から70年、フランコの死から30年の時間が過ぎたいま「人間性に対する罪」で50年前のフランコ体制の指導者を裁こうとしても、国民のコンセンサスを得るのは至難のわざでしょう。「何でいまさら古傷に触るのか」、「時間と費用の無駄遣いだ」、「共和派の罪を裁かないのは片手落ちだ」という類の反応が見られます。

本来はガルソン予審判事と歩調をあわせるべき全国管区裁判所の検察部長が、過去の最高裁の判決などを根拠に、この訴訟は全国管区裁判所として取り上げられないとの意見を今年の二月に公にしています。その論拠は、内戦当時の刑法には「人間性に対する罪」の規定は存在しなかったこと、また殺人などの通常犯罪に問われる場合でも、内戦とそれに続くフランコ体制の軍人や官憲を免責にしている1977年の特赦法が適用されること、そしてもし仮に大量殺戮などの罪があったとしても、全国管区裁判所の管轄はスペイン国外の事件に限られること、などの理由を挙げています。

これに対するガルソン判事の論拠は、現時点でスペイン内戦を司法の立場で見直す意図はないが、同じ内戦の犠牲者でありながら、勝利者(フランコ)側の犠牲者には戦後、国がその被害につき詳しい調査を行い補償の措置が取られたにも関わらず、敗者(共和派)は拘禁のうえ拷問されたり、10万人を越える行方不明者が出るという、国としての不公平な扱いが特に1952年頃まで顕著であるのは否定し得ない事実であること。
また今に至っても「強制連行による行方不明」が存在するということは、法的には未だ居所不明の不法拘禁が現在も継続しているということであり、これについては人間性に対する罪の観点から責任者の刑事責任が検討されるべきこと、また1977年の特赦法は重大な人権侵害までを免責とするものではないことなどの理由で、フランコ将軍および当時指導的立場にあった30数名の軍人や政治家の名前を上げ、「強制連行による行方不明」に関しその刑事責任につき取り調べを行うこと、そしてこれら行方不明者の実態を把握するため、7名の専門家による審査グループと10名の司法警察官による捜査チームを立ち上げるとしています。そして司法がいつまでも沈黙を守り続けることは、本来刑事責任を負うべき者に事実上の免責を与えることになりかねない、とも述べています。

但しフランコ将軍はじめ名前の上がっている軍人や政治家の全員がすでに死亡している以上、実際に法廷で裁くことは不可能であり、実際にガルソン判事が今後どうやって予審から訴訟にまで展開して行くのか不明な部分が多々あります。また検察部長が予審判事と対立している現状などを勘案すると、捜査も難航が予想されます。しかし、犠牲者の家族の訴えを玄関払いにするような対応ではなく、いわば火中の栗を拾うような難問に取り組もうとしているガルソン判事の姿勢から、司法の社会的あるいは歴史的な責任とは何か、検事や判事は何のために存在するのか、という司法制度の根底に関わる問いかけを感じます。

1977年の特赦法は、翌年に制定される民主憲法の捨石のような形で、内戦にまつわる刑事責任はお互いに問わないという形で左右の政治勢力の妥協が成立し、血塗られた内戦の歴史の一部を封印したものでした。そして当時の軍部や保守派に、独裁制から民主国家に向けての急速な変化を容認させるためには、この特赦法が必要だったのだ、あれはスペイン民主化のための止むを得ざる対価だったのだ、と今でも多くのスペイン人が口にします。1970年代をスペインで過ごした私は、1975年にフランコが亡くなった時、軍部の動きにみんなが神経を尖らせていた、当時の緊迫した雰囲気を思い出すことがあります。70年代のスペインは内戦にまつわる忌まわしい記憶をお互いに封印することで、国民の和解を図ったとも言えます。しかし同時にそれはフランコ体制の犠牲者への償いを先送りしたことでもありました。

あれから30年が過ぎ内戦を生きのびた世代も残り少なくなり、いずれも90歳を越える時期になったいま、行方不明の肉親を何十年ものあいだ探し続けてきた内戦の犠牲者の家族に、やっと不十分ながら司法の目が向けられようとしているという感じがします。そして、司法の場でいろいろな事実が今後公開されるにつれて、フランコ体制の責任を問うという議論は、予審判事と検察部長の対立だとか今回の予審の成否というようなレベルを越えて、もっと大きな公開の場での議論を巻き起こすテーマになるのではないかと思います。

ひとつの国が、そしてその国民が人間らしさを失わないためには、たとえ忌まわしい戦争についての記憶であってもその封印を解いて記憶を共有し、お互いがそれを忘れないように努めること、そして未だに救いの手が差し伸べられていない犠牲者がいれば救いの手を差し伸べ、未だに葬られていない死者があればそれを葬ること、それはスペイン人にとっても避けて通れない道だろうという気がします。

2008年6月28日土曜日

ロバート・キャパ(Robert Capa)とスペイン内戦(1)


-失われたネガフィルムの謎―

2008年1月末の世界各国の主要紙に、「キャパのネガフィルム、70年ぶりにメキシコで発見」、というニュースが載りました。
ロバート・キャパ(本名Endre Friedmann, 1913-1954)はユダヤ系ハンガリー人で、スペイン内戦が始まった1936年7月にはまだ22歳の無名に近い報道カメラマンでしたが、その年の9月に南スペインのコルドバ県で共和国側の民兵部隊を取材中に、あの有名な「崩れ落ちる兵士」の写真を撮り、一躍戦争写真家として世界にその名を知られることになりました。

この写真は、被写体の民兵がフェデリコ・ボレル(バレンシア県アルコイ町出身の25歳の繊維労働者)と身元が判明しており、また撮影日は1936年9月5日で、場所はコルドバ県セロ・ムリアーノ村の戦場、とデータが揃っているにも関わらず、ネガフィルムが失われていることもあって、「やらせ」ではなかったか、という噂を打ち消すための決定的な証拠に欠けるうらみがありました。

今回メキシコ市で発見されたのは、スペイン内戦の写真が主体のフィルム100本、3,500コマにも及ぶ大量のオリジナル・ネガフイルムで、現物はいまニューヨーク市にある国際写真センター(International Center of Photography)に移され、整理と複製などの作業が行われているところです。まだ「崩れ落ちる兵士」のネガが見つかったという確認はありませんが、そのうち何か手がかりになる情報が発見されることを、キャパの名誉のためにも望みたいところです。
またこれまで未公開の写真や、すでに公表済みの写真であっても、オリジナル・ネガから新たに作成する質の良いプリントが一般に公開されることを、大いに期待しています。

キャパは1939年9月に第二次大戦が始まると、すぐパリを離れ米国に脱出しますが、そのときパリ在住の友人にスペイン内戦などを取材した大量のネガフィルムを預けて行きました。しかしその後このネガの行方が分らなくなり、戦乱のどさくさにまぎれて全てが失われてしまったものとされ、キャパもそう信じ込んでいたようです。そして、キャパが1954年5月にベトナムで第一次インドシナ戦争を取材中に、地雷を踏んで亡くなったこともあり、その後ネガを追跡する手がかりが失われていたのでした。

パリに保管してあったはずのキャパのネガが、なぜ数十年後にメキシコ市在住のベンハミン・タルベル(Benjamin Tarver)という映像作家の所有物としてメキシコで発見されることになるのか、というのはまさにミステリーで、今後の調査に待つしかありません。
これまでに分っているのは、このキャパのネガが入った3個の小型旅行カバンが、1941-42年に駐フランス・メキシコ大使を務めたフランシスコ・アギラル(Francisco Aguilar)将軍の遺品として、将軍の未亡人の所有物になっていたこと。そして、未亡人の甥にあたるタルベル氏が、それを遺産相続していたことが判明しています。
実はキャパの写真に詳しい人たちの間では、この幻のネガフィルムは「メキシコの旅行カバン(Mexican Suitecase)」という名前で、かなり前からその存在が知られていたようですが、やっとニューヨークへお里帰りをしたわけです。

これまでの調べでは、ドイツ軍占領下のパリに保管されていたネガは、スペイン共和国の元兵士に託され、マルセーユに向けて運ばれたらしいこと。そして、スペイン内戦が共和国側の敗北に終わったあと、フランスに脱出しマルセーユ経由でメキシコに移住した共和派の人たちが沢山いたこと。などがパリとメキシコをつなぐ手がかりのひとつとして指摘されていますが、誰がどうやってパリからメキシコまで運んだのか、またどういう経緯でアギラル将軍の手に渡ったのか、などは不明のままです。

メキシコ市の乾燥した気候がフィルム保存には幸いしたのでしょう、70年を経たネガフィルムの劣化は余りひどくはないようです。この中にはキャパの作品以外に、デイビッド・シーモア(David Seymour)が撮った写真と、これまでキャパの恋人ということでしか名前を知られていなかった、ゲルダ・タロ(Gerda Taro)の作品がたくさん含まれています。
ゲルダ・タロ(本名Gerda Pohorylle, 1910-1937)はユダヤ系ドイツ人で、報道写真家としても一流の腕を持ち、初期のスペイン内戦を取材した素晴らしい写真があります。キャパと行動を共にしていたので、キャパの名前で公表された写真の中には、実際には彼女が撮ったものもあると言われています。残念ながら、1937年7月にマドリッドに近いブルネテ戦線で、撤退する共和国軍の混乱に巻き込まれ、戦車に轢かれて26歳の若さで亡くなっています。女流報道写真家としては、世界で初めての戦場の犠牲者でした。ゲルダについては、また回を改めてもう少し詳しくお話しをしようと思っています。

2008年5月5日月曜日

なぜいまスペイン内戦なのか(2)

―1977年の「特赦に関する法律」(Ley de Amnistía)―

前回は「歴史の記憶に関する法律」を話題に取り上げましたが、あの法律にちょうど30年先立つ1977年10月に、「特赦に関する法律」(Ley de Amnistía)が、まだフランコ体制の延長線上にあった当時の議会で成立しています。この「特赦法」は「歴史の記憶に関する法律」といわば表裏をなすものですので、1970年代後半にスペインで起きた民主化体制への歩み(これをtransiciónと称します)とからめて、その要点をごくかいつまんでお話してみましょう。

(独裁体制から民主主義体制へ)
1975年11月にフランコが死ぬと、スペインは独裁政治体制から民主主義体制に向けて大きく舵を切り始めます。38歳で国家元首を継承したフアン・カルロス国王も、そして1976年7月に首相に就任した44歳のアドルフォ・スアレスも、いずれも「フランコ体制」の出身者ではありますが、35年の長期に亙ってスペインを支配してきたフランコ独裁体制を解体して、1978年憲法と呼ばれる主権在民の新憲法を成立させ、スペインを民主主義国家に変えて行くことに力を尽くします。

当時の週刊誌が、「スアレスのハラキリ」というタイトルで、サムライの格好をしたスアレス首相が、自らの出身基盤であるフランコ体制を次々に解体して行く姿を漫画化した挿絵入りの特集記事を載せたことがありました。スアレス首相の勇気には賞賛を送る一方で、長年わがもの顔にスペインを支配してきた独裁体制の終焉をちくりと皮肉る調子の記事でした。そしてそれは当時の庶民の気持ちをうまく言い表したものだったと思います。

スペイン人は当時を振り返って、「あの民主化への移行は本当にうまく運んだ」と口をそろえて言います。それは「もう内乱はコリゴリだ」という気持ちが国民のあいだで過激な言動を抑える作用を果たした一方で、保守的な体質の軍部を過度に刺激しないよう、当時の政治家たちが現実的な妥協を重ねながら慎重にフランコ体制の解体を図った結果でもありました。

(特赦法が生まれた背景)
スアレス首相は保守派の根強い反対を押し切って、1977年4月には共産党の合法化を行い、そして6月に実施された総選挙で第一党の地位を固めると、新憲法制定に向けて与野党の歩み寄りを推し進めます。そして、新憲法を保守派に呑ませるための妥協策のひとつとして「特赦法」が生まれた、という風に私は理解します。

特赦法の狙いは、ひとことで言ってしまえば、「この法律が成立する以前に軍人が犯した反乱の罪ならびに官憲が犯した人権侵害の罪を問わない」ということです。
従って、たとえ1978年12月に施行された新憲法で人権尊重を謳っていても、内戦の犠牲者が過去に遡って人権侵害による被害を訴える法律的な基盤がなくなってしまうということでした。

それは内戦中にフランコ軍の占領地で起こった暴行や殺戮の犠牲になった人たち、或いは官憲による不当逮捕・拷問を経験した人たち、そしてその家族にとっては、耐え難い妥協だったことでしょう。ヘミングウェーの「誰がために鐘は鳴る」の女主人公マリアのように、父親が共和派の政治家であったというだけの理由で、両親はフランコ軍に銃殺され本人は頭を剃られて暴行されたというような話しは、ヘミングウェーの小説の上だけのこととも言い切れないようです。

しかし今でも殆どのスペイン人が「民主化実現のためには、あの特赦法は止むをえなかったのだ」と言います。そして、内戦の記憶がひとりひとりのスペイン人の心の奥深いところで封印される一方、国民の合意という形で1977年の「特赦法」によって、政治的にも内戦の記憶が封印されてしまったのでした。

その特赦法から30年が過ぎ、そして内戦から70年が過ぎた2007年になって、やっと「歴史の記憶に関する法律」が生まれました。そしてこの法律によって、内戦とフランコ独裁の犠牲者に対して、国として人権侵害の事実があったことを公に認め、多分に象徴的な意味合いが濃いとはいえ、何らかの救済措置を講じる姿勢を明確に示したことで、遅まきながら犠牲者の名誉回復を図る動きが正式に認知されたということでしょう。

スペイン内戦の歴史を辿っていると、「戦争の記憶を一度は封印しても、いつかはそれに向き合わねばねらない時が来る」ということを痛感します。そして「戦乱の犠牲者は復讐を求めるべきではない。ふたつに分かれてお互いに殺しあった国民が、和解に達するのがいちばん大事なことなのだ」と自らが内戦の犠牲者でもある詩人マルコス・アナが静かに語るとき、私にはそれがスペイン内戦の歴史を越えて現代に通ずる呼びかけだ、という風に響くわけです。

2008年4月20日日曜日

なぜいまスペイン内戦なのか?

―「歴史の記憶に関する法律」(La Ley de la Memoria Histórica) ―

(法律第52/2007号)
2007年12月26日に「歴史の記憶に関する法律」がスペインの国会で成立し公布されました。この法律のおもな狙いは、1936年の内戦開始から1975年のフランコ総統の死で独裁政治が終わるまでの40年間に、政治的な理由で不法に投獄されたり処刑されたり、あるいは亡命して外地で一生を終わった人たちを含めて、何十万人にも及ぶと見られるフランコ独裁政権の犠牲者たちの名誉回復を図ろうとするものです。また内戦中に左翼過激派に暗殺された聖職者たちも、この対象に含まれています。

この法律の骨子は、国として上に述べたような人権侵害があった事実を認め、犠牲者の名誉回復のため種々の処置をとること、具体的には、生存者に対する一時補償金の支給、共同墓地に埋葬された遺体の捜索・鑑定への協力、クーデターや独裁政治を賞揚する記念碑その他の撤去、フランコが建てた「戦没者の谷」と称するマドリッド近郊の戦没者記念施設の見直し、内戦及び独裁制に関する歴史資料の保存、亡命者の子孫に対するスペイン国籍の付与、一連のフランコ時代の治安関係法の廃止、などが謳われています。

すでに内戦から70年を経て、生存者がごく少くなっている現状を考えると、経済面での補償措置には実質的な意義はあまりないのでしょうが、犠牲者の家族にとっては、多分に象徴的な色彩が濃いとはいえ、不当な投獄・処刑が行われた事実を国が正式に認め、何らかの救済措置に踏み込んだことは朗報と言えます。

(封印されていた内戦の記憶)
私は1970年代に、フランコ将軍の死を間にはさんで足掛け10年近くをスペインで暮らしました。75年の11月に病床のフランコの死が近いことをラジオで聞いた近所の老人が、「少しは缶詰を買いだめしておかなくちゃ」と呟いていたのが印象に残っています。
あの頃は、内戦を身を以って体験した多くの人たちがまだ健在で、左右の政治勢力の激突がフランコ将軍のクーデターを生み、それがお互いに顔見知りの間ですら憎しみ殺しあうような悲惨な内戦にまで発展した記憶は、スペイン人の心の奥に傷のような形で残っていました。そして「軍人たちがまたクーデターでも起こすんじゃないか」というのは、当時の多くの市民の頭の片隅に常にあった懸念でした。

そして70年代と言えば、だいぶ緩和されたとは言えまだ言論統制があり、政府に都合のいい話しかおおやけには知らされない仕組みでしたので、内戦中にフランコ軍の占領地域で、共和派支持者とみなされた市民に対する暴行や大量虐殺があったことや、内戦終結の後も20万人を越える政治犯が獄中にいて、少なからぬ政治犯の処刑が内戦後も続いたことなどは、うわさ話として耳にすることはあっても、本当に何が起こったのか外国人にはその全貌がなかなか掴み難い時代でした。
そして地元の人たちから内戦についてくわしい話を聞く機会も多くはありませんでした。当時のスペイン人の大半は、余りにも痛ましい身内の戦争について思い出すことも語ることも気が重くて、いわば戦争の記憶に封印をして暮らしていた、というのが実態だったと思います。

(なぜいまスペイン内戦なのか
「歴史の記憶に関する法律」が内戦から70年を過ぎたいまになって成立した背景には、もう武器をとって戦争に参加した世代が90歳を越えるようになり、生き証人の数も少なくなって来たことで、スペイン人の内戦に関する記憶の封印もすっかり解け、冷静に過去を振り返る心の余裕が生まれて来た、という事情があると思います。
そして、フランコ独裁政治の犠牲者の名誉を回復することは、民主主義国家として果たすべき義務である、と言う社会主義労働者党内閣の考え方が大多数の国民に受け入れられた、ということでしょう。
しかし議会最大野党の国民党が法案に反対したことを見ても、必ずしも全国民が諸手を挙げて賛成しているとは思えないので、実際に地方自治体に判断が任される部分、たとえば独裁時代の名残を留めるシンボルマークの撤去などが、どこまで実行されるのか不明な部分があります。
またこの法律に勢いを得て、内戦または独裁政治による被害の補償を求めて、国を訴訟する動きが起こるのではないかという見方もあり、スペイン人にとってまだまだ内戦は完全に終わってはいない、という気がします。

(内戦に題材をとった映画)
このところ内戦をテーマにした映画の新作が毎年紹介されていますが、最近バルセロナで「13本のバラ」と「空を見上げて」という2本の映画を見る機会がありました。「13本のバラ」は内戦が終わった1939年の8月に、統一社会主義青年連盟(共産党系)の活動家とその友人たち合計13人の若い女性たちが、非合法の反政府運動に関わったというだけの理由で、マドリッドで銃殺刑にされた実話に基づく作品です。後半からメロドラマ調になってしまったのはちょっと残念でしたが、当時のマドリッドの緊迫した雰囲気の描写が目を引きました。
「空を見上げて」は、1938年3月のイタリー空軍機によるバルセロナ爆撃をテーマにした作品でした。バルセロナの空爆は3日間に亙り、2千人を越える被害者が出ています。その後の第二次大戦の被害に比べれば大したことはないような感じを受けますが、「非戦闘員を目標にした大都市の空爆」という、いわばそれまでの禁じ手をファシスト軍が使い始めたという意味で、歴史に残る出来事でした。
どちらも映画としての仕上がりは今ひとつという感じですが、バルセロナ市の空爆70周年ということもあり、いずれも暗いテーマにしてはずいぶん話題になった作品でした。

それと、完成はまだ2-3年先ということになっていますが、「オール・アバウト・マイ・マザー」で1999年のオスカー賞をとったペドロ・アルモドバル監督が、パブロ・ネルーダの友人で獄中詩人として名を知られるマルコス・アナの回想録(本名フェルナンド・マカロ。共産党員として内戦に参加、捕虜となり死刑の判決を受けるが、22年を獄中で過ごした後、1961年に釈放)の映画化を構想中、というニュースが今年2月に大々的に報道されました。

アルモドバルの新聞談話によると、この詩人の生涯に惹かれる理由のひとつとして、「フランコから非人道的な扱いを受けたことを、決して忘れはしないが復讐は求めない、という考え方で、しかも内戦の犠牲者が国民和解の妨げになってはならない、という態度を貫いているのに感銘を覚えた」と言っています。

マルコス・アナは19歳から41歳までの22年間を、仲間を救うため拷問に耐え黙秘を守り通して独房で過ごしました。その間に頭に浮かぶ詩を手製のインクで皿の裏に書き付けたりして詩作を続けたそうです。自分を警察に密告した友人の名前が判明しても、それには触れず「いま一番大事なことは、スペイン人が身を以って体験した内戦と、それに続く惨禍を二度と繰り返してはならない、ということだ」と物静かに語る88歳の詩人に、アルモドバルは「最近は何かと言えばすぐ犠牲者が町に出て、甲高く自らの痛みを訴える傾向にある中で、マルコス・アナは内戦犠牲者のあるべき姿を我々に示している」と語っています。

スペイン内戦の歴史を辿っていると、外国人の私ですら、ときおり残り少ない髪の毛が逆立つような思いにかられることがあります。戦争中もそして戦後も、一貫して「和解」は問題外とはねつけ、ファシズムに反対する勢力を徹底して殲滅することしか眼中になかったフランコ独裁政治のあり方を思うとき、「それでも復讐は求めるべきでない。内戦の犠牲者が国民和解の妨げになってはならないのだ」と主張するこの内戦の生き証人の言葉が、ずっしりと重みをもって響く由縁です。そしてその言葉は、きっとスペイン内戦だけに限らない真理を含んでいるのだと思います。

2008年1月14日月曜日

アンダルシアのオリーブ畑ー(2)

パコ・イバニェス(Paco Ibañez)が歌うミゲル・エルナンデス(Miguel Hernandez)の詩

            (この画像をクリックすると拡大できます)


カソーラ(Cazorla)の町からさらに北に行くと標高2000米前後の山がいくつもあり、その山腹にある小さな村をいくつか訪ねたのですが、その途中で切り立つような山肌に、びっしりとオリーブの木が植えられていたのを見て驚いてしまいました。とにかく木の根っこにでもすがらないと、とても登ることも難しいような急な斜面ばかりです。こんな場所にオリーブの木を植えて、手入れや収穫は一体どうするんだろうと不思議で仕方がありませんでした。

Olive field on top of the mountain


今はだいぶ機械化が進んでいるようですが、私が昔スペインで見かけたオリーブの収穫というのは、木の周りにシーツのような白い大きな布を広げ、数人の男たちが輪になって竿でオリーブの実を叩き落す、という実に原始的な人海戦術でした。
立っているのが精一杯の急な斜面で、腰をかがめてオリーブ畑の手入れをやり、収穫期には木につかまりながら実を叩き落す作業をしたであろう、むかしの日雇いオリーブ労働者のつらい生活を思ったとき、今から40年くらい前にパコ・イバニェス(1934- )が歌って評判になった「ハエンのアンダルシア人」(Andaluces de Jaen)の歌詞を思い出したのです。それはミゲル・エルナンデスの詩「オリーブ労働者」(Aceituneros)を、シングソングライターのパコ・イバニェスが、ギターの弾き語りで歌った曲です。

私はこの急斜面のオリーブ畑を目の前にして、なぜあの歌詞が、「オリーブ労働者よ、オリーブの木は地主のものではない、お前達のものだ、奴隷になるな、立ち上がれ」と激しい言葉で呼びかけているのか、その背景がやっと理解できたという感じがしました。そしてまた、なぜこの歌が60年代から70年代にかけてのスペインで、フランコ独裁体制にやり場のない不満を抱いていた若者たちの心を捉えたのか、その理由もよく分りました。
私の友人の「元若者たち」が、学生のころ親には内緒でパコ・イバニェスのアングラ公演に出かけたりしたものだ、と懐かしそうに話しているのを聞いたことがあります。

ハエンのアンダルシア人よ  Andaluces de Jaén,

誇り高いオリーブ労働者よ aceituneros altivos,

本気で答えてくれ、誰が、 decidme en el alma: ¿quién,

誰がオリーブの木を育てたのか quién levantó los olivos?

ひとりで育ったわけはない No los levantó la nada,

お金でも地主でもない ni el dinero, ni el señor,

黙した土地と    sino la tierra callada,

労働と汗と     el trabajo y el sudor.

で始まるこのミゲル・エルナンデスの詩は、スペイン内戦(1936-39)の最中に、共和国の兵士たちや市民の間でずいぶん愛唱されたものだそうです。アンダルシアの戦線では、スピーカーでこの詩をフランコ軍の塹壕に向けて朗読して投降を薦めた、という話もあります。

ミゲル・エルナンデス(1910-1942)はガルシア・ロルカとほぼ同世代のスペインの詩人ですが、貧しい家庭に育ち、羊飼いをやったりしていろいろ生活の苦労をなめたあと、内戦の時には共和国軍の文化委員の肩書きで、南スペインの戦線で共和国政府の宣伝活動に携わっていたようです。その時に作った詩のひとつがこの「オリーブ労働者」(Aceituneros)です。このほかにも、故郷に残してきた妻と生まれたばかりの息子を想う詩など、読む者の心を打つ作品があります。

共和国軍には、将校でも文字が読めないという民兵出身の部隊長がいたそうですから、兵士に至っては文盲は特に珍しいことでもなかったようで、そんな兵士達にも口伝えで愛唱されたというミゲル・エルナンデスの詩は、分り易くてしかも読む者の心を揺さぶるものがあるということでしょう。

彼は内戦後に逮捕され、獄中でも詩を書き続け、31歳の短い生涯を閉じています。

1975年まで35年間も続いたフランコ政権の下では、ミゲル・エルナンデスの作品を自由に発表するのは難しかったので、パコ・イバニェスもたぶん当時の検閲を避ける為でしょうか、歌のタイトルには詩の題名ではなく冒頭の一行を使っています。

私が持っているCD(Universal Musicは、''Paco Ibañez en el Olympia''というタイトルで、パリのオランピア劇場での実況録音版(1969年)です。

ミゲル・エルナンデスの作品は歌がつけやすいということでしょう、フラメンコ歌手を含めて沢山の歌手が彼の詩にメロデイーをつけて歌っています。

それについては、また別の機会にお話し致しましょう。

(スペイン語でミゲル・エルナンデスの作品を読んでみようと思われる方は、次のサイトをご覧下さい。''Aceituneros'' は ''Vientos del Pueblo''詩集に入っています。

http://mhernandez.narod.ru/viento.htm


2008年1月8日火曜日

カタルーニャのロマネスク教会ー(2)


Sant Pere de Graudescales教会



(本文に挿入してある画像をクリックすると、画面を拡大することができます)
今回は普通の観光案内書には載っていない、いわゆる知られざるカタルーニャのロマネスク教会をひとつご紹介したいと思います。

今から2年ばかり前の冬に、バルセロナの友人のG氏ご夫妻が、余り知られていない珍しいロマネスク教会があるのでご案内しよう、と誘って呉れました。場所はバルセロナから北西に100キロ足らずのところで、距離的には大したことはないのですが、途中から川沿いの細い山道を辿って行かねばならないのと、その上あいにくのお天気で霧に巻かれて見通しが悪くなったものですから、雪解けでぬかるんだデコボコ道を、まるで歩くようなのろのろ運転になり、予想以上に時間が掛かってしまいました。

途中で川に渡した木橋があったのですが、橋板が傷んでいてそのうちの何枚かは一部が欠け落ちたりしていましたので、G氏はしばらく橋の上で飛んだり跳ねたりして安全を確認していましたが、念のためみんな車を降りて車体を軽くして橋を渡ったり、などということもありました。
しかも、霧の中を行けども行けどもお目当ての教会が見つからず、「ひょっとして道を間違えたのでは」とか、「そろそろ引き返した方がいいのでは」、などという車中の雰囲気になりかかった頃、とつぜん霧が晴れ、松林の向こうに教会の屋根が見えたので一同大喜びでした。 Sant Pere de Graudescales church

この教会の名前は「グラウデスカレス村の聖ペテロ教会」という、ちょっと舌を噛みそうな名前ですが、10世紀にベネデイクト会の修道院として建てられたのが始まりだそうです。
もうかなり前からグラウデスカレス村は廃村になっており、教会も使われないまま長らく放置されていたようですが、1973年に文化財として今の姿に修復されたということです。

こじんまりした教会で私が持っていたレンズでも全景が写しこめること、そして前から見ても横から見ても実に美しい建物なので、束の間の霧の晴れ間を利用して夢中でシャッターを押していました。 Inside the church 教会の中は、ふだん使われていないこともあり、ごく質素な祭壇とベンチがあるだけで、あとは何の装飾もなくガランとしています。

しばらくするとまた霧が出始めたのでそこそこに引き上げましたが、帰り道に車の窓からうしろを振り返ってみると、教会のあった辺りの松林は再び霧にすっぽり包まれて見えなくなっていました。
まるであっという間に魔法の扉が閉まった、というような感じでした。
私にとっては忘れがたいロマネスク教会のひとつです。

この教会に就ては余り資料も見当たらず、これ以上の詳しい説明は出来ませんが、写真を何枚か添付しておきますのでご覧ください。 Road to the church

Posted by Picasa

2008年1月7日月曜日

アンダルシアのオリーブ畑 - (1)


Town of Cazorla

昨年の4月初めに、オリーブオイルの産地として知られる南スペインのハエン県を訪ねました。首都のハエン(Jaen)市まではグラナダから北に100km足 らず、そしてそこから更に100キロばかり東にある避暑地のカソーラ(Cazorla)の町に泊まって、周辺をドライブして回ったわけです。カソーラは人 口1万人足らずの町ですが、軽井沢並みの海抜800米ぐらいの高地なので、夏場は40度にも達する南スペインの暑さを逃れる避暑客で大変混雑するそうで す。でも私達が訪ねたのはイースター休暇の時期で、ホテルは結構混んでいましたが、道路が混むようなことはなくて助かりました。

グラナダ の飛行場でレンタカーをして、ハエン市に向けて北上し始めると、もうすぐ道路の両側はオリーブ畑となり、あとは行けども行けども緑一色のオリーブの木ばかりです。


Olive field in Jaen

ハエン県には6,000万本のオリーブの木があるという話です。まさか一本一本数えたわけでもないでしょうが、とにかくオリーブ畑から日が昇り、 そしてオリーブ畑に日が沈む、というのが実感になります。
たまに近道をしようとして細い農道を通り抜けたりすると、まるでオリーブの木のトンネルを抜けているような感じで、濃い緑色のオリーブの枝が両側から車に覆いかぶさって来て視界を遮ります。4日間も同じことを続けていると、目を閉じてもオリーブの木にとり囲まれた夢を見るという始末で、もうすっかり船酔いならぬ、「オリーブ酔い」という気分になってしまいました。
オリーブの木は植えてから8年ぐらいで実が採れるようになり、樹齢35-40年くらいがピークで、あとは次第に老齢化して70-80年でもう実は採れなくなるそうです。何だか人間の寿命みたいです。

お天気の方は、もともと雨が少ない地方の筈なのに、どういうわけか連日の雨に祟られて、望遠レンズまで付けて2台も持ってきたカメラを取り出すチャンスもありません。

Jaen in the rain


しばらく行くと、車のはるか右斜め前方の山の中腹あたりに、白壁の家が固まって、雛壇のように山肌からせり出している村が見えてきました。それにベールを被せたような霧が掛かっていて、まるで話しに聞いた桃源郷のような風景だったのですが、残念ながらそれもただ土砂降りの雨の車窓から眺めるだけで、あっという間に通り過ぎてしまいました。チャーチルの肖像写真などで世界的に有名な、カナダの写真家ユースフ・カーシュが、「私の本当の傑作は、私の記憶にしかない写真である」という意味のことを言っています。「逃がした魚はいつも大きい」というのは、釣り人だけの嘆きではなさそうです。


Baeza - Semana Santa




ハエン市から東に50キロぐらい、時間にして45分ばかり走るとバエサ(Baeza)の町に着きます。お隣のウベダ(Ubeda)と併せて5年前に世界文化遺産に登録されましたので、観光案内書などにも載っているかと思います。バエサは人口2万人足らずのこじんまりした町ですが、ローマ時代からの歴史を持つ古い町で、南スペインには珍しいロマネスクの教会があったりして、いまでも中世の雰囲気を残すなかなか味のある町です。

私達がバエサを訪ねた日もあいにくの雨模様のお天気で、地元の人たちは南スペインでは大事な年中行事である、イースター(Semana Santa)の行列が台無しになるのでは、と心配そうな表情で熱心にTVの天気予報を見つめていました。聞いてみるともう一年も前から準備を始めていて、鼓笛隊はじめ関係者はみんなリハーサルも済ませているので、何とか行列が出る時間だけでも雨が止んで欲しい、と真剣な表情です。

Paso entering the Cathedral of Baeza

カテドラルの入り口に人だかりがしていたので近寄ってみると、行列に使う山車(スペイン語では’’Paso’’)を大聖堂に持ち込み、マリア像をお載せする準備が始まるらしいと分りました。雨除けの大きなビニール袋で覆った山車が着いたのでカメラを構えたら、隣りに立っていた老人が私の手を押さえて「一寸待て」という合図をしました。写真を撮ってはいけないのかなと一瞬思ったら、どうも未だタイミングが早すぎる、と言うことらしいのです。山車がカテドラルの入り口に半分ぐらい運び込まれたところで、包んであった布とビニールのカバーを少し外して、ほんの一瞬だけ山車の素肌を披露するというわけです。ちょうど踊り子がスカートを一寸つまんで持ち上げる、という感じです。
あっという間に山車はカテドラルの中に運び込まれてしまいましたが、銀細工を周りに張り詰めた実に立派なものでした。隣の老人は私の顔を見て「撮れたか?」と聞いてきましたので、デジカメの再生で画面を見せてあげたら、ウンウンとうなずいて満足そうでした。見知らぬ観光客にもこうやって声を掛けてくれるのが、南スペインの旅の良さです。