2008年12月11日木曜日

スペイン内戦の旅 - テルエル


テルエル(Teruel)を訪ねる旅
今年三月のイースター休暇の時期にテルエル県を訪ねました。このBlogを一年前に開設した時にご紹介したスペイン内戦の回想録、「二十歳の戦争」の舞台であり、そして内戦の激戦地のひとつとして、当時は世界にその名を知られたテルエル地方を、実際に自分の目で見てみようと思ったからでした。
私が滞在していたバルセローナからは、サラゴサ乗換えの汽車を利用すればテルエル市までは5時間くらいですが、どうせ車がなくては現地に着いてから身動きがとれないだろうということで、車で行くことに決めました。テルエル市はバルセローナから約400キロ、ちなみにマドリッドからだと約300キロ、そしてバレンシア市からは140キロくらいの距離になります。


テルエルの戦い
旅の話を始める前に、まずスペインの内戦はいつ始まったのか、そしてテルエルの戦いとはなんだったのか、についてごくかいつまんでご説明しておきます。。

スペインでは1936年2月の総選挙で左翼選挙連合の人民戦線が勝ち、その結果誕生した左派共和主義政府は、フランスに比べ100年は遅れていると言われたスペイン社会民主化のため、さまざまな改革を実行に移し始めます。しかしこれに反発する右翼勢力が猛烈な反政府運動を繰り広げ、特に都市部では左右両勢力の若者たちによる武力衝突が頻繁に起きるなど、左右の対立が治安の悪化や社会不安をもたらす状態となり、保守的な軍人たちが共和国政府打倒のクーデターを起すための口実を与えることになりました。

1937年7月17日にまずモロッコの駐屯軍が反乱を起こし、それに呼応して7月18日から19日にかけて、スペイン本土各地でも軍部の反乱が起きます。これに対する共和国政府の対応は後手に回りましたが、首都マドリッドやバルセローナ、バレンシアなどの大都市では、労働者や市民が兵営から武器を奪うなどして武装し、また共和国政府に忠誠の立場を保つ一部の軍人や警察とも手を携え反乱軍に対抗したため、軍部の反乱はクーデターとしては成功しませんでした。
しかしスペインは共和国政府が支配する地域とフランコ将軍の率いる反乱軍が支配する地域に二分され、フランコ側はドイツ・イタリアからの軍事援助、共和国政府はソ連からの援助を受け、三年間に亙る内戦に突き進んだのでした。

テルエルの戦いが始まったのは、内戦開始から一年半が過ぎた1938年12月半ばのことで、その少し前に北部戦線で共和派を打ち破り大西洋岸のビルバオやオビエドなどスペインの重要な鉱工業地帯を支配下におさめたフランコが、一挙に首都マドリッド攻略を実行に移すべく着々とその準備を進めていた時期でした。
しだいに追い詰められていた共和国政府は、フランコのマドリッド攻撃を牽制するため第二戦線を開くことにし、県都とはいえ軍事的な重要性に乏しいためフランコ軍の守備が手薄だった、テルエル市をその目標に選びます。

共和国軍は1937年12月15日に12個師団(約10万人)の大軍を投入し、2個旅団(約6千人)のフランコ軍と何千人かのファランヘ党員などが守るテルエルに奇襲攻撃をかけます。
その結果、テルエル守備部隊は兵站路を断たれ孤立してしまいますが、一般市民を巻き込み市内の建物に籠もった上、要所には狙撃兵を配置するなどして徹底抗戦の態度で臨みました。
そのため共和国軍は旧市内の建物をひとつひとつ制圧して行くと言う難しい掃討作戦を余儀なくされ、テルエル市の占領に予想以上の時間がかかったうえ、攻撃部隊の損害が増える結果になりました。

1937年暮れから1938年初めにかけてのテルエル地方は例年になく厳しい冬に見舞われ、この地方には珍しく大雪が降ったり気温が零下20度近くまで下がった日もあったそうです。共和国軍もフランコ軍も兵站に問題を抱えており、寒さへの備えが充分でなかったため、兵士たちは凍傷など寒さによる被害に苦しむことになりました。
防寒具はおろか毛布すら充分とは言えない状態だったので、軍服の下に新聞紙を挟み込み寒さをしのいだとか、夜の歩哨に立った兵士が雪のなかで眠り込み翌朝凍死していた、などなどの話があります。少し誇張はあるでしょうが、「テルエルでは弾に当たって死なずとも寒さで死ぬ」などと言われたゆえんです。
当時の写真を見ると、共和国軍の兵士たちの中には、バレー靴のようなカタルーニャ産のアルパルガタサンダルを履いている者がいます。これで雪の中を長時間歩かされたら凍傷にかかっても不思議はないな、という気がします。

テルエル守備軍救援にかけつけたフランコ軍の増援部隊も、大雪のため一時は立ち往生するような有様で、救援の望みを断たれ食料も弾薬も尽きてしまったテルエル守備隊は、38年1月8日に共和国軍に降伏しました。
共和国政府は、フランコ軍を相手の戦いで勝利を納めたとして、テルエル市の占領を大々的に世界に向けて宣伝します。そして主だった指揮官の中にはその勲功で昇進した人もいます。このテルエルの戦いを報道するため現地入りした外国特派員の中には、ヘミングウエイやロバート・キャパの姿がありました。

もともと共和国政府が牽制作戦として始めたテルエル攻撃でしたが、フランコは一般の予想に反してマドリッド作戦を一時棚上げし、軍事的に余り重要とは思えないテルエル市の奪回を最優先することに決め、1月半ばに12個師団(約10万人)を投入し、500門の砲とドイツのコンドル兵団を含む空軍による火力を組み合わせて、共和国軍を徹底的に叩く作戦に出ます。
その結果両軍をあわせて延べ20万人を越える軍勢がテルエル市周辺で激突を繰り広げ、双方に大きな損害が出る結果になりました。

テルエル攻撃に際しては、共和国軍も精鋭部隊を送り込みましたが、最初の一ヶ月足らずの戦闘でその30%あまりが損害を受けたと言われます。その補充に多数の若い召集兵が前線に送り込まれましたが、フランコ軍の本格的な反撃が始まると、実戦経験のない若い兵士の中にはパニックに陥る者も出て、激しい砲撃とそれに続くフランコ軍の急進撃に、武器を捨て壊走する部隊もでるありさまでした。

共和国軍のテルエル占領からほぼ一ヵ月半が過ぎた2月22日に、フランコ軍はテルエル市を奪回し、二ヶ月を越えるテルエルの戦いは共和国軍の敗北で終ります。
つかの間とは言え勝利の喜びを経験したあとだけに、共和国側の落胆は大きく、前線の兵士の間では士気の阻喪、後衛の市民の間でも負け戦の気分が蔓延するという、大きな問題を残したテルエルの戦いでした。

テルエルの戦闘に参加した兵員数やその損害については、色々な説があり正確なところはよく分りません。
共和国軍は内戦終了と共に壊滅し、50万人と言われた兵力も参謀本部のスタッフもバラバラになり、その殆どが国外に脱出してしまったため、共和国側の詳しい記録が残っていないのがその原因のひとつです。
しかし両軍をあわせて延べ20万人を越える兵員がテルエルの戦場に投入され、捕虜になった分を含めるとその半数近く、すなわち10万人ぐらいの損害が出た、という説が妥当ではないかと見られます。

「二十歳の戦争」(内戦の回想録)
ミケル・シグアン氏の「二十歳の戦争」という内戦の回想録は、激しい戦闘が一段落したあとのテルエル戦線で、若い召集兵として内戦終了までの二年間を過ごした著者が、最前線での日常生活を若干のユーモアを込めて淡々と語っているものです。
シグアン氏は当時バルセローナ大学哲学科に在籍し、学生運動の幹部で当時のエリートでもあったので、望めば後衛で楽な任務につくことも可能でしたが、召集に応じて共和国軍の一兵士として塹壕で過ごすことを選びます。
内戦後は、スペインの大学における心理学研究と教育の分野でのパイオニアとなり、バルセローナ大学の心理学部長を勤めた方です。シグアン氏はことし90歳になりましたが、いまもバルセローナで著作活動を続けておられます。

テルエル市
前置きがずいぶん長くなりましたが、私たちは3月15日の朝9時ころに車でバルセローナを発ち、途中で昼食をとったあと、テルエルまであと160キロくらいのところにあるアルカニース(Alcañiz)のパラドールでひと休みをしました。アルカニースはテルエル県第二の町で、人口は16,000人くらいの落ち着いた雰囲気を持つ町です。
パラドールはもともと観光推進の国策に沿って設立された国営の高級ホテルチェーンで、中世のお城や古い館を改造し四つ星や五つ星のホテルをスペイン各地につぎつぎ開設して行きました。
今は公営企業となり、私たちがテルエル市で泊まったパラドールのように三つ星のホテルもあったりして、最近は中身にだいぶばらつきがあるようですが、アルカニースのパラドールは、お城のような中世のカラトラバ騎士団の僧院を改装した立派なもので、一度は泊まってみたいなと思わせる雰囲気を持ったホテルでした。

テルエル市は人口34,000人くらい、中世からの古い歴史を持つ町です。標高900米くらいですので、三月半ばでも夜になるとちょっと肌寒い感じでした。
テルエルからバレンシアまでは、今は立派なハイウエーが開通して車で一時間あまりとずいぶん便利になりましたが、内戦当時は山沿いの細い道路を峠越えをしながら行く旧道しかなかったため、片道三時間くらいはかかったようです。
テルエルの戦闘を取材していた写真家のキャパは、バレンシアのホテルに滞在し戦場まで車で通っていたそうですが、1938年1月2日の朝テルエル市近くの峠で、前夜からの積雪で数百台の軍用車が峠道のところでで大渋滞を起したため、わずか5キロを行くのに8時間も費やしたそうです。

フランコ軍の守備隊が最後までたて籠もったという、スペイン中央銀行などテルエル市内の中心部にある建物は、共和国軍の市内掃討作戦で徹底的に破壊されましたが、70年が過ぎた今はもうすっかり建てなおされて、それらしい痕跡はどこにも見当たりませんでした。
  

(テルエル市の中心Plaza del Torico)
内戦の時の激戦の場で、いまは観光の名所のひとつになっているのが、小さな雄牛(torico)が石の円柱にちょこんと乗っているトリコ広場です。
毎年7月のテルエルの守護聖人のお祭りでは、雄牛を町に放し若者たちがはやしたてながら一緒に通りを駆け巡るそうですが、雄牛はテルエル市のシンボルマークといった感じです。
なおtoricoはtoroの縮小辞で、小さいということのほかに親しみを込めた言い方でもあります。またTeruelの名前の由来は、そのむかし野生のToro(雄牛)が町を探していた人の道案内をした、という昔話にその起源があるという説もあります。


テルエルの墓地
旧市内のほかに、もうひとつの激戦地だったテルエルの墓地は、テルエル市の北方の街道に沿った丘の上にあり、町の出入りを制する拠点でもあったので、フランコ軍と共和国軍とが墓石を盾に銃撃戦を繰り返し陣取り合戦をした場所でした。当時の弾痕が残る墓石がいくつも見られます。
実はテルエルの墓地のありかがよく分らなかったので、パラドールのフロントデスクでお墓への道を尋ねましたが、若いフロントの担当者はちょっと驚いたような顔で私の顔をしげしげと眺めていました。外国人観光客で墓地へ行く道を尋ねる人は、余りたくさんいないからでしょう。

(今も弾痕の残るお墓)

大聖堂
旧市内の中心部にある大聖堂などムデハル様式の建築は内戦の被害を免れ、1986年に UNESCOの世界文化遺産に指定されて有名になりました。ムデハル様式は中世ヨーロッパの伝統にイスラム文化の伝統を加味したものだと言われます。何となくロマネスクやゴチックにイスラム様式を組み合わせたような、不思議な魅力を感じさせる建物です。


(大聖堂のムデハル様式の塔)

「テルエルの恋人」
もうひとつの名所でどの観光案内書にも載っているのが「テルエルの恋人」でしょう。13世紀に身分の違いから結ばれなかった悲恋の物語りの主人公たちのミイラが、今は晴れて同じ場所に納められているというお話です。14世紀のボッカチオのデカメロンにも同じような悲恋の物語があるそうですが、テルエルの人たちはこちらの方が本家だと考えているようです。このミイラ二体は内戦の時には被害を避けるため尼僧院の地下室に安置してあったそうです。


(テルエルの恋人)

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