2011年12月26日月曜日

スペインロマネスクの旅(4) ピレネー山麓セラブロの教会群(Romanesque Churches of Serrablo)

セラブロの教会群(Romanesque Churches of Serrablo)




フランス国境Formigalのスキー場(Ski slope at Formigal, French border)
Photo(1)ガリェゴ川上流の貯水池(Gállego River-reservoir)
Photo(2)ガリェゴ川(Gállego River)


セラブロの教会群(Churches of Serrablo,Huesca)

標高2,000米を越えるピレネー山中に水源を持つガリェゴ川は、フランスと国境を接するアラゴン州の北部 をゆっくり蛇行しながら、州都サラゴサ市の近くでエブロ川に注ぐ全長215kmにわたる川ですが、このガリェゴ川の上流にセラブロ(Serrablo)と呼ばれる地域があります。セラブロは、ガリェゴ川沿い40 kmの範囲内に10数ヶ所の小さなロマネスク教会が集中しているので有名な場所です。

げんざい私たちが「セラブロの教会群」と呼んでいるものは、そのほとんどが1970年代から地場のボランティア団体「セラブロ友の会」(Amigos de Serrablo)のメンバーが、週末などを利用してこつこつと修復してきた初期ロマネスク建築の礼拝堂が大半を占めています。17か所とされるセラブロの教会群のうち、じっさいに私が訪ねることのできたガリェゴ川沿いの5箇所の教会を、北から順にご紹介しようと思います。


歴史的背景
8世紀初めにほぼイベリア半島全土を制圧した、コルドバを首都とするイスラム勢力(ウマイア朝)は、サラゴサを中心にエブロ川流域からピレネーに至る一帯を上部辺境領と定め、サラゴサに太守をおきアラゴン州の大半とカタルーニャ州の一部を統治する体制をとっていました。いっぽう当初はピレネーの山岳地帯に追いつめられていたアラゴン地方のキリスト教徒勢力も、10世紀にはいると徐々に反攻に転じ、レコンキスタ(再征服運動)の大義名分を掲げてイスラム辺境領の侵食を開始します。そして、その過程で新しく支配地になったガリェゴ川上流地帯を領地として確保するため、入植を進めていきました。入植を担ったのは、隣国ナバラやアラゴンのキリスト教徒、そしてそれまでイスラム勢力の支配地に住んでいたキリスト教徒たちでした。イスラム支配下に住むキリスト教徒をモサラベ(mozárabe)と呼びますが、モサラベの中には当時の先進文化であるイスラムの建築や装飾の技能を身につけた者が多く、彼らはスペイン・ロマネスクに先立つモサラベ様式の建築・装飾の担い手でもありました。

そんな時代、すなわち10世紀半ばころから「セラブロの教会群」の通称を持つ小さな教会が、入植地につぎつぎと建てられていったと考えられています。ただしこれには異論があり、これら小教会群の建設時期は11世紀後半以降であるとする意見も根強く、研究者の間で意見が分かれている状態です。

ということで、私は「セラブロの教会群は、10世紀半ばに始まり足がけ2世紀にわたる長い期間に建てられた、プレロマネスクと初期ロマネスク様式が混在する教会群である」という説に従うことにします。なお「モサラベ様式」についてもいろいろ意見がありますが、ここでは「イスラム文化の影響を強く受けた、ロマネスクに先立つ10世紀ころのイベリア半島の美術・建築様式」と理解しておきます。


1) フォルミガル(バサラン)の礼拝堂(Church of Basarán at Formigal)


Photo(3) バサランの礼拝堂後陣(Church of Basarán at Formigal-Apse side)
Photo(4) バサランの礼拝堂北面(Church of Basarán at Formigal - North view)

一番北に位置しているのがフォルミガル(Formigal)町の礼拝堂です。Formigalはフランスとの国境にある標高1600mのスキー場としてこのところ発展を続けている町ですが、1970年代初めに30kmばかり南のバサラン(Basarán)にあった小さなロマネスクの礼拝堂を解体のうえ移転して復元し、町づくりの目玉にしました。もともと存在しなかった鐘塔を新たに付け加えたりした部分を除けば、おおむね正確な復元と見ていいようです。商業化の波に乗せられたのではないかとの批判があるかも知れませんが、崩れ落ちそうな古い教会には誰も目を向けようとしなかった時代に、ロマネスク礼拝堂を復元し後世に残しておこうとした試みのひとつ、と私は受け取っています。


2) ガビンの聖バルトロマイ教会(Curch of San Bartolomé at Gavín)


Photo(5)西からの図(West view)
Photo(6)拡大図(West side close view)
Photo(7)南からの図(South side)
Photo(8)鐘塔拡大図(Bell tower - Mozarabe style)

ガビン(Gavín)は人口100人足らずの集落ですが、聖バルトロマイ教会は、集落から少しはなれた谷あいのわずかな平地を利用して建てられていて、セラブロの教会群の中ではもっとも古いものに属する教会です。セラブロの教会群の建設時期に関してはいろいろ説が分かれていますが、ここでは「聖バルトロマイ教会は10世紀半ば頃のモサラベ様式の建築」との説に従っておきます。

この教会をロマネスクに先だつモサラベ建築と見なす根拠は、鐘塔と後陣の形やその装飾が、イスラム建築や西ゴート王国時代(6-8世紀)の建築の影響を強く受けている点にあります。鐘塔はミナレット(モスクに付随した塔)を思わせるところがあり、また後陣(教会の右手側、写真(7)参照)の形が四角であるのは、西ゴート王国時代の教会建築の特徴であること(ロマネスクでは、後陣は半円形に外に向けて張り出すのがふつう)。などなどの点をあげ、聖バルトロマイ教会はスペイン・ロマネスクに先立つ10世紀のモサラベ様式の建築であると見なすわけです。

確かにこの教会の鐘塔をじっと眺めていると、馬蹄形アーチの三連窓とその下に日輪をかたどったらしい装飾が、塔の四面それぞれに施してあるのが目をひきます。私たちがふだん見慣れたロマネスクとはだいぶ違う、とつくづく思います。あとでいろいろ修復・改修の手が入っていることもあり、建築年代に関して正解はないのかも知れませんが、やはり私はロマネスク以前の10世紀創建説に同意したくなります。


3)オリバンの聖マルティン教会(Church of San Martín at Oliván)


Photo(9)教会全図(San Martín, parish church of Oliván)
Photo(10)教会内部(Interior of the church)

オリバン(Oliván)は人口40人、ガビンよりもさらに小さな集落ですが、聖マルティン教会は教区教会として、今も地元の人たちの生活に密着した存在です。セラブロの教会群はそのほとんどが文化財となり、いまは教会として機能していないものが多いなかで、聖マルティン教会は実に珍しい例と言えます。

教会内部の写真(写真(10))を見ると、天井・屋根は木組みになっていますが、これはセラブロの教会群に共通する点です。ロマネスク建築に多く見られる半円形の石天井は、それを支える壁にたいへん大きな荷重がかかり、へたをすると天井が陥没する恐れがあるため、いろいろ工法に工夫をこらすわけですが、これらの教会群を手がけた工匠たちにはまだそれだけの技術力がなかったということでしょうか。この教会は1977年に「セラブロ友の会」による修復が完了しています。


4) ブサの聖ヨハネ教会(Church of San Juan at Busa)



Photo(11) 聖ヨハネ教会遠望(Veiw of the church of San Juan)
Photo(12)後陣方向からの図(View of the apse side)
Photo(13)南方向の図(South side)
Photo(14)教会入り口の装飾(Entrance door)
Photo(15)教会内部(祭壇方向)(Interior-altar)
Photo(16)教会内部(祭壇から西方を眺めた図)(Interior-view toward
the west)
Photo(17)三連窓(Window with 3 openings)
Photo (18)後陣(Apse)

ブサ(Busa)の聖ヨハネ教会は、礼拝堂の名がふさわしい小さな教会です。たぶん中世にはブサと呼ばれる集落の中心に位置していたのでしょうが、集落は消滅し教会だけが残ったようです。創建は11世紀後半とされ、セラブロの教会群の中では新しい部類に属します。スペイン内戦のときこの一帯は戦場になり、聖ヨハネ教会も被害をこうむりましたが、それでも中世以来の原型を最もよくとどめている例とされています。1970年代に「セラブロ友の会」の手で修復作業が始まり1977年に作業を終えましたが、その後1989年に最終的な手直しが行われ、現在に至っています。

セラブロの教会群は、いずれも装飾らしいものがあまり見あたらないのがその特徴ですが、教会の扉の上(写真14)に珍しくヤシの葉らしい装飾が彫り込んであります。これをアラビア語の祈りのことばと見る意見もありますが、実際にはどうなんでしょうか。もしそうだとすれば、キリスト教会の入り口になぜアラビア文字が?という疑問が湧きます。もっとも、10-12世紀ころのレコンキスタについて語る場合、イスラム文化は征服者によってイベリア半島ににもたらされた当時の先進文化であり、アラビア語を学び、イスラム風の衣装をまとうことにあこがれる人たちも多かった、という事情は忘れてならないところだと思います。
キリスト教スペインとイスラム・スペインの関わりについては別の機会に述べるつもりですが、同じ対イスラム戦争といっても、イベリア半島の「レコンキスタ」の歴史には、イスラムを抹殺すべきものとしか考えいなかったらしい、東方十字軍の歴史とは異なるものがある、ということだけ指摘しておきます。

祭壇から西方面を眺めた写真16では、三連の馬蹄形アーチ窓がシルエットになって見えます。これを外から見たのが写真17です。馬蹄形アーチはイスラム建築で多用され、モサラベ建築にもそれが引き継がれています。この三連アーチ窓は、「セラブロ友の会」のシンボルマークにも使われています。

後陣の写真(写真18)の軒下部分に、30本ばかりの短い円筒形の石材が装飾としてはめ込んであります。この円筒形はモールディング(繰り形)と呼ばれますが、後陣にまるではちまきでも締めたような形の装飾は、セラブロの教会群に共通する独特のものです。

聖ヨハネ教会の壁は、切り出した粗い石をそのまま積み上げたもので、建築技術の面だけを取り上げれば、稚拙なものとの評価を受けるかも知れません。しかしこの小さな教会には、11世紀の工人たちが祈るようにしてひとつひとつの石を積み上げていった、その武骨な手のぬくもりを感じさせるようなところがあります。それはまた、田舎のロマネスク教会でときどき出会う、素朴な木彫りのマリア像にも通じる暖かさです。


5) ラレデの聖ペテロ教会 (Church of San Pedro at Lárrede)


Photo(19) 聖ペテロ教会 - 鐘塔と後陣(View from the street)
Photo(20)南面の図(South side)
Photo(21)南入り口(South side -church entrance)

ラレデ(Lárrede)は人口14人、教会に隣接して数軒の家があるだけで、村とも呼べないごく小さな集落です。しかし聖ペテロ教会は堂々とした鐘塔を備え、セラブロの小教会群のなかではその規模と完成度においてひときわ抜き出た存在です。聖ペテロ教会は11世紀半ば頃に腕のよい工匠が手がけた建築であり、その現場で技術を習得した工人たちが、周辺の小さな教会の建設に携わったのであろうと推測されています。

三連のアーチ窓を持つ鐘塔は、シリア南部で見られるモスクの塔に似ているなど、イスラム建築の影響を指摘する見方があり、また後陣の連続したアーチ装飾については北イタリア・ロンバルディア建築の影響がよく指摘されます。モサラベ様式とロンバルディア様式が混在する、11世紀半ばころのガリェゴ川周辺の建築を代表する教会です。ほとんどのセラブロ地域のロマネスク教会が見捨てられた状態にあった中で、聖ペテロ教会だけは早くから注目を集め、1930年代に最初の修復が行われています。その後も何度か修復が行われ、数年前には鐘塔の修理がなされました。

「セラブロ友の会」(Amigos de Serrablo)は800名ていどの会員を持ち、この40年ばかりの間に一貫して地元の教会群の修復に従事してきた実績を持つ組織です。ビデオで会員の仕事ぶりを見る機会がありましたが、ハンマーひとつを手に屋根に上って、スレートかわらを一枚一枚丹念に敷いていく場面でした。ひとつの教会を仕上げるのには、たとえ人海戦術で取り組んでも相当な時間がかかりそうで、ずいぶん忍耐の要る作業だなと思いました。対象が礼拝堂的な小さい教会なので、ボランティア活動に頼るやり方でいいのでしょうが、やはり何といっても、初期ロマネスクの礼拝堂を忠実に復元したいと願う会員たちの熱意が、これだけの実績を生んだのだと思います。
カタルーニャでロマネスクのイメージにそぐわない、余りにも手を入れ過ぎた「ロマネスク」教会を目にして絶句した経験があるだけに、原形の復元を尊重する「セラブロ友の会」人たちの真摯な態度に感銘を覚えました。

(Summary in English)
Romanesque Churches of Serrablo
Serrablo is an area on the west bank of the Gállego River in the Northern part of Aragon. The river's source is in the Pyrenées which mark the border with France. There are 17 small pre-Romanesque or Romanesque churches which date back to 10-12 centuries. These small but very attractive churches are located within 40 km range along the upper west bank of the River Gállego.
This article is to introduce 5 churches of them which I visited during the spring of 2010.
In early 1970's the ''Association of Friends of Serrablo'' was formed by the volunteers who were committed to restoring the Romanesque churches in this area. Most of the churches had been in bad shape due to negligence of long time. The members of the Association, now with 800 membership, have dedicated their week ends or vacation time to the restoration work.

1) Church of Basarán at Formigal

This tiny church was moved in early 1970's from Basarán to the French border town Formigal which has been growing as a ski resort. The bell tower was added at the time of reconstruction and is not original. The reconstruction seems authentic except for the bell tower.
Photo(3)(4)

2) Curch of San Bartolomé at Gavín

This is one of the oldest among the churches of Serrablo. The bell tower shows sign of the Mozarabe style which is a modified Islamic art and architecture introduced mostly into the 10th century Spain by the hand of Christians living in Muslim Spain. There are different opinions as to the time of construction of this church; mid 10th century or 11th century. But I agree to the theory that the church should have been constructed in mid 10th century at the early stage of the Reconquest along the upper Gallego river.
Photos(5)(6)(7)(8)

3) Church of San Martín at Oliván

This is one of the few parish churches currently active. Most of the Serrablo churches remain as place of visit but not for worship.
Photos (9)(10)

4) Church of San Juan at Busa

This church is considered to be one the most faithful reconstruction of the original church which was constructed in mid 11th century. It was damaged during the Spanish Civil War of late 1930's but has been restored in 1970's. Busa seems to have been a village during the medieval time, but the village has disappeared except for this church. It's of a simple construction but has a lot of charm. A frieze of pipe shaped mouldings and blind arches are typical decoration of Serrablo churches. The window with 3 openings composed of horseshoe arches is also a fine example of Mozarabic influence and is used as a symbol mark for the Association of Friends of Serrablo.
Photos(12)(13)(14)(15)(16)(17)(18)

5) Church of San Pedro at Lárrede

The most famous among Serrablo churches for its size and quality of architecture. The construction time seems to be in mid 11th century. A good example of combination of Mozarabic and early Romanesque style. San Pedro of Lárrede represents the churches located in the upper Gállego river banks.
Photos(19)(20)(21)

2011年10月12日水曜日

スペインロマネスクの旅(3)アルケサル城(Castle of Alquézar)

アルケサル城と聖マリア修道院教会(Church of Santa María de Alquézar)

スペイン全図-(For the summary in English please see the end of this article.


Photo(1)アルケサル遠望(View of Alquézar)
Photo(2)アルケサル城と聖母マリア教会(The Castle and the St. Mary's Church of Alquézar)

アルケサル城(Castle of Alquézar)
アラゴン地方のウエスカ市(Huesca)から東に50 km、ピレネー山脈の裾野にあたるアルケサル(Alquézar)は、中世の雰囲気を残す人口300人くらいの小さな町。
サラゴサに本拠を置くイスラム勢力が、9世紀初めころ城塞を築いたのがその起源で、町の名もアラビア語で城塞を意味するアル・カスル(Al-Qasr)に由来すると言われます。アラゴン王サンチョ・ラミレスがアルケサルを攻略したのは1067年。城塞には修道院が設けられましたが、聖マリア修道院教会が完成したのはそれから30年後の1099年、サンチョ・ラミレスはその5年前にウエスカで戦死しており、献堂式がとり行われたのは長男ペドロ一世の時代でした。

レコンキスタの進展と共に、アルケサルの戦略上の重要性は急速に失われ、城も教会も一時は荒れ果てたようで、14世紀に回廊がゴシック様式で再建され、また聖母マリア教会は16世紀に建て替えられています。

ということで、現存する建物をロマネスク建築と呼ぶわけにはいきませんが、たとえ回廊の一部のみとはいえ、他に例を見ない独特のロマネスク柱頭彫刻が残っているため、アルケサル城を『スペイン・ロマネスクの旅』に含めることにしました。


Photo(3)教会入り口(Church entrance)

アルケサル城は、ロアレ城とはちがって宮廷がおかれたわけでもなく、また当時は名ばかりのアラゴン国王だったサンチョ・ラミレスには、のちにロアレ城改築につぎ込んだような豊富な資金もなかったはずなので、アルケサルの城塞も教会も、当初は質素なものであったろうと推測します。

Photo(4)回廊(Cloister)

回廊(Cloister)
回廊は一辺が10米前後の不等辺四辺形をしていますが、これは丘の上の狭い城塞の中に、
修道院や教会を建て込むための苦肉の策だったと思われます。現存する回廊は14世紀にロマネスクの柱や柱頭を活用して再建されたもので、回廊の壁に残る壁画もゴシック時代の作品です。
ロマネスク時代の作と言えるのは、写真の向って右側(北側)の一連の柱頭彫刻のみで、残りはすべて14世紀以降のものです。


柱頭彫刻(Romanesque Capitals)

Photo(5)アダム誕生(Creation of a man)
これは旧約聖書の創世記にある「主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった」(創世記第2章-7)の場面を表したものとされています。4人の天使に囲まれた神には三つの顔がありますが、これは三位一体の教義を示すものと言われます。神は横抱きにしたアダムの耳に右手を当て、生命を吹き込んでいるように見えます。スペインの柱頭彫刻ではほかに例を見ない、実に珍しい絵柄で、いちど見たら忘れられない作品です。赤色の彩色のなごりも場面に変化を与えています

Photo(6)回廊北側(ロマネスク柱頭のある側)から見た図(Cloister-North side)

Photo(7)耕すカイン(Cain plowing with beasts)
回廊北側に数個並んだロマネスク柱頭彫刻の真ん中に位置する、2頭の動物に犂を引かせて土地を耕すカインを描いた、とされるもの。

Photo(8)回廊北東方向を見た図(Cloister-North East view)
Photo(9)アダムとエバ(Adam & Eve)
Photo(10)ノアの箱舟(Noa's Arc)
Photo(11)聖ペトロほか(Saint Peters & others)

現存するアルケサルの柱頭彫刻は、旧約聖書の創世記を題材にしたものが多いのが特徴ですが、もともと浮き彫りのような浅い彫りは、風化が進み詳細の見分けがつきにくいものもあります

Photo(12)ヘロデ王誕生日の饗宴(Herod's birthday party)
Photo(13)ヘロデ王と洗礼者ヨハネ(Herod and John the Baptist)
これは新約聖書に題材をとったもので、写真(12)はヘロデの誕生祝いの饗宴の場面で、下方の真ん中にエビのように体を曲げて踊るサロメの姿が描かれています。写真(13)は左がヘロデ、右が首をはねられた洗礼者ヨハネ、その周りを何匹かの蛇が取り囲むという絵柄。

Photo(14)回廊の北東を眺める図(N.E. view of the cloister)
Photo(15)司教と聖職者たち(Bishop and clergymen)
Photo(16)パンを練るサラ(Sara preparing bread)
Photo(17)アブラハムの犠牲(Abraham's sacrifice)
写真(14)は回廊の北東の角に位置するふたつのロマネスク柱頭。回廊そのものは、ロマネスクの素材を活用して14世紀に再建されており、背景にゴシック壁画の一部が見える。
写真(16)は、アブラハムの妻サラがパンを焼こうとしている場面。
写真(17)はアブラハムが神の命に従い一人息子のイサクをいけにえに捧げようとしたとき、天使が現れ羊を身代わりに差し出すようすすめた、という旧約聖書(創世記22章)の場面で、「イサクの犠牲」と呼ばれることもあります。画面の下半分は、イサクの身代わりに雄羊を焼く図です。羊がまるでロバのように見えるのもご愛嬌です。

アラゴン地方のロマネスクを代表する、ハカ大聖堂、サン・フアン・デ・ラ・ペーニャ修道院、ロアレ城などの有名な柱頭彫刻に比べると、アルケサルの作品が見劣りするのは否めません。保存状態もあまり良くはないし、美術作品としては稚拙とも言えるアルケサルの柱頭彫刻に、私はスペインのロマネスクを訪ねてしばしば出会う、技の巧拙を越えたふしぎな魅力を感じます。

19世紀後半に、ピレネーの山村で聖石信仰について聞き取り調査を行ったあるフランスの考古学者の報告の中に、「そのむかし、人間がまっとうだった頃は、誰もが聖なる石を信じていた。石に祈り、そして石を敬っていたものだ。私は今も石を信じている」という村の古老の言葉が引用されているそうです。
その老人の発言は、カトリック教会からは異物崇拝、異教として排除される類のものであったし、聖石信仰そのものがすでに19世紀には消滅しつつあったのでしょうが、現代の私たちにとっては、何か忘れていたものを思い出させてくれるような響きを持つ言葉です。

カナダ西海岸の先住民族ハイダ族は、巨大なトーテムポールを数多く残していますが、作業を始める前にまず「トーテムポールを彫らせて頂いてよろしいか」と木に向って尋ねる習慣があったそうです。
アルケサルの柱頭彫刻に私たちが不思議な魅力を感じるのは、「人間がまっとうだった頃」の聖石信仰と、ロマネスク彫刻が無縁ではないことに、あらためて気付かせてくれるからではないか、私にはそんな気がしてなりません。

中世の町アルケサル

Photo(18)古い通り(A street of Alquézar)
Photo(19)中世の名残りをとどめる民家(Entrance of an old house)
photo(20)町の広場(Plaza of the town)

アルケサル城の拝観を終え、古い家並みが連なる石だたみの坂道をぶらぶら歩きながら下って来ると、町の広場に出ます。おみやげを売る店があるわけでもなく、広場をはさんで2軒のレストランがあるのみ。時がゆっくり流れるような印象を与える町でした。

(Summary of the article)
Castle of Alquézar
Alquézar(comes from ''Al-Qasr'' meaning castle in Arabic) is a small town 50 km east of Huesca. Moslems constructed a fortress in the early 9th century on a hill top of the town which was reconquered in 1067 by King Sancho Ramirez of Aragón. The Moslem fortress was converted into a castle-monastery but Alquézar quickly lost strategic importance during the following centuries. The Romanesque monastery and church became a ruin. In the 14th century the cloister was reconstructed making use of the Romanesque material. The Santa María church, originally consecrated in 1099, was reconstructed in the 16th century. The Romanesque of Alquézar is, as a consequence, limited only to a part of the cloister, but it's worth a visit.

The capitals are carved mostly based on the story from Old Testament. The carving is simple and not up to the level of perfection of the Aragonese Romanesque icon such as Jaca cathedral, San Juan de la Peña monastery or Loarre castle. But Alquézar has the charm of its own.    

2011年7月11日月曜日

スペインロマネスクの旅(2) Romanesque Churches of Spain(2)

ロアレ城(Loarre Castle)

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(For the summary in English please see the end of this article.)

スペインロマネスクとレコンキスタ(再征服運動)

ロアレ城は、アラゴン州ウエスカ市(Huesca)の近くにある11世紀の城砦ですが、レコンキスタ(再征服運動)と呼ばれる対イスラム戦争の過程で生まれた、スペインロマネスク建築の典型的な例なので、レコンキスタについてまず若干の説明を加えておきます。

レコンキスタとは、8世紀初めにイスラム勢力のイベリア半島征服によって失った領土を、スペイン北部のキリスト教徒領主たちが武力によって奪回を試みた領土拡張運動であり、それは8世紀にアストゥリアス地方で始まり、1492年のグラナダ王国の滅亡をもって終わる、というのが一般の理解だと思います。

しかし、「スペインのロマネスク時代は、レコンキスタの時代でもあった」と言うときには、レコンキスタは1248年のセビリャ陥落を以てほぼ終わったに近い、という理解がその背景にあると思います。レコンキスタが最も進展したのは11世期の初めから13世紀の半ばころまでですが、それは同時にスペインで、ロマネスク様式の教会がたくさん建てられた時代でもありました。

「ロマネスク時代は11-12世紀で、13世紀はゴシックの時代」とよく言われますが、ピレネーの南では少し事情が異なる、と最近私が異論を唱えるようになった背景は、スペインの田舎を回ってみると、13世紀にはいって建てられたロマネスク教会が結構あること、また11世紀から13世紀半ばころまでが、レコンキスタが最も進展した時期であるというのは、その間はいつもどこかで対イスラム戦が続いていたということです。やはりどの国でも壮大なゴシック大聖堂が次々に建ち始めるのは、世の中が落ち着き、あるていど富の蓄積が進んでからの話しだと思います。スペインではそれが13世紀後半以降のことであり、したがってスペインゴシックの時代は13世紀後半に始まる、逆に言えばそれまでがロマネスクの時代である、と理解するのが順当ではないかと思うゆえんです。

ところで、キリスト教徒領主とイスラム勢力との戦いは、まずイベリア半島北部のごく限られた地域で8世紀に始まりますが、それがスペイン各地で広い範囲にわたって頻発し始めるのは、11世紀初めにコルドバの後ウマイヤ朝が内紛で崩壊し始め、スペイン各地でイスラムの太守などが支配地で独立して、タイファ(taifa)と呼ばれる大小さまざまの小王国が乱立状態となってからのことです。イスラム勢力の分裂により、キリスト教徒領主勢力が勢いを得て、11世紀から戦線がしだいに南に下りながら戦闘が続いていきます。

しかし、レコンキスタと呼ぼうが、再征服運動と呼ぼうが、それは戦争であり、多くの人たちがその渦中で苦しみ、傷つき、そして命を落としたわけです。ピレネーの北では、ノルマン人やマジヤール人の侵攻に苦しんだ時代は9世紀から10世紀初めに終わり、10世紀後半は平和な世の中になります。そして、11世紀にはいるとロマネスクの花が一斉に開き始めます。

しかしイベリア半島では、逆に10世紀の末ころから、いつもどこかで戦いが続いているという時代が始まるわけです。そして、ピレネーの北では人々が平和な時代を喜び、神の栄光を讃えながら、ロマネスクやゴシックの教会を建てていたころ、イベリア半島では、同じく神の栄光を讃えながらも、人々は戦争の犠牲となった者たちの霊の救いを求めて祈り、また工匠たちは辛い戦争の記憶を払いのけながら、祈りを込めるようにして石を切っては教会の壁を築き、そして柱頭彫刻を刻んだのだと思います。スペインのロマネスク建築や彫刻の中に、たとえ技は稚拙であっても見る者の心を打つものがあるのは、それを作り上げた人々の祈りが伝わってくるからだろうと思います。

図式的理解にすぎる、との批判があるかも知れませんが、当時の先進文化であったイスラム文化の数百年にわたる影響と、そしてレコンキスタという戦争とが、ピレネーの北側の国々とはひと味もふた味も違う、スペインロマネスクを生みだしたのだと私は考えています。レコンキスタとスペインロマネスクとは、切っても切れない関係にあるということを、最近アラゴン地方やカスティーリャ地方のロマネスク教会を訪ねてみて、ますます痛感しているところです。

写真(1)ロアレ城への道(Road to the Loarre castle) クリックして拡大(Click to enlarge)

ロアレ城

ロアレ城は、アラゴン州の県都のひとつであるウエスカ市(Huesca)から30キロばかり離れた、標高1000mの岩山の頂上に建てられています。11世紀の初めころ、当時アラゴン地方の支配者でもあったナバラ王国のサンチョ3世(俗称サンチョ大王、在位1004-1035)が、ロアレ一帯をイスラム勢力(サラゴサ小王国)の手から取り戻したあと、辺境防衛の砦として1020-1030年ころに築いたものです。そして約50年後にアラゴン王国のサンチョ・ラミレス王(在位1063-1094)の手で大がかりな改修が行われ、20世紀になってから修復がなされましたが、ロマネスク様式の11世紀の城がほぼ元の形を保っている、非常に珍しい例です。

写真(2)ロアレ城 (View from the East) クリックして拡大(Click to enlarge)
写真(3)ロアレ城南面 (View from the South) クリックして拡大(Click to enlarge)

ロアレ城とアラゴン王国

ロアレ城について語ることは、サンチョ・ラミレス王について語ることであり、また11世紀のアラゴン王国の歴史にも深い関係があるため、その歴史的背景をかいつまんでご紹介しておこうと思います。

サンチョ大王の死(1035年)にともないナバラ王国から独立したアラゴン伯領は、アラゴン王国を名乗りハカを首都にしましたが、王国とは言っても領地はピレネー山麓付近に限られ、実態はイベリア半島全土の2%にも満たない狭い領土を支配するだけの地方領主に過ぎませんでした。

11世紀半ば頃のアラゴン王国は、増え続ける人口を養うため、小麦栽培に適した平原の耕作地を確保する必要に迫られていました。しかし西をナバラ王国とカスティリャ・レオン王国に、東をカタルーニャの諸伯領におさえられているため、「イスラム勢力に奪われたキリスト教徒の土地を奪回する」という、レコンキスタの大義名分を掲げて南下し、サラゴサ小王国の領土に食い込むのが唯一残された道、というのが実態でした。

ところで、アラゴン王国軍を迎え撃つサラゴサ小王国というのは、アラゴンの6倍の広さ(関東甲信越に静岡県を加えたくらいの面積)の領地を持ち、しかも地味豊かなエブロ川沿いの土地を300年間ちかく支配してきた実績を持つ、イスラム小王国の中では屈指の有力王国でした。しかもカスティーリャ・レオン王にパリア(paria)と呼ばれる軍事貢納金を支払いその庇護を受けるなど、状況次第でキリスト教徒領主との連携も辞さない、アラゴン王国にとっては誠に手ごわい相手でした。

父親の初代国王の戦死により、*1063年に20歳をすこし過ぎた年齢でアラゴン国王に就任したサンチョ・ラミレス王は、貧しい小国アラゴンが強敵のサラゴサ王国に対抗するには、ローマ教皇との繋がりを深め、それによってまず近隣のキリスト教徒領主たちに対する脇を固めることが先決だと考えます。そして、サンティアゴ巡礼を契機に急速に発展し始めたフランスとの交流を推し進めて産業の振興を図り、また軍事面では対イスラム戦の即戦力として、フランス騎士を招聘すること、などを実行に移していきます。

サンチョ・ラミレスはまず1068年ローマに赴き、アラゴン王国の領土を封土として教皇に差出しそれを再び受ける形で、教皇の臣下となりました。そして北フランスのルシー(Roucy)家から夫人を迎えたり、クリュニー修道会との関係を深めるなどして築いた人脈を頼りに、「教皇の臣下サンチョ・ラミレスのレコンキスタ」に、フランス騎士を呼び込みます。クリュニー修道会は、サンティアゴ巡礼に大いに肩入れした修道会ですが、クリュニーは、フランス騎士たちに巡礼としてスペインに赴きレコンキスタに参加すること、そして戦利品の一部を修道院に寄進するようすすめたと言われます。

ではなぜ教皇やクリュニー修道会がサンチョ・ラミレスの誘いに乗ったのかと言えば、教会改革を推し進め教皇権の強化を図ろうとしていた教皇には、西ゴート時代の伝統とそれに続くイスラム支配下で独自の発展を遂げたスペインの教会に対し、正統とされるローマ典礼を導入させローマ教皇の完全な支配下に置こうとする狙いがあったこと、またクリュニー修道会もイベリア半島での影響力拡大を志向していたため、サンチョ・ラミレスの申し出はお互いに好都合であった、という事情によるものと私は理解しています。

教皇の臣下となり脇を固めたサンチョ・ラミレス王は、念願のウエスカ攻略を視野に入れ始め、祖父にあたるナバラ王国サンチョ大王が築いたロアレ城を、対イスラム戦の基地として1070年ころからその大改修にとりかかります。そして改修の柱のひとつが聖ペトロ教会の建設でした。

戦乱の時代を生き抜いたサンチョ・ラミレス王は、定まった王宮を持たず、王の滞在場所が仮の王宮になるのが通例でした。そのため、ロアレ城は砦であると同時に仮の王宮でもあったわけです。しかし、戦線が移動すればまた別の場所が仮の王宮になるわけで、ロアレ城が期限付きの王宮であることは、誰の目にも明らかなことでした。

それにも関わらず、金があり余っているわけでもないサンチョ・ラミレス王が、仮住まいには立派すぎるほどの聖ペトロ教会を築いたのはなぜなのか。まるで岩盤を割って地中から躍り出たような印象を与える、ほれぼれするようなペトロ教会の力強い姿に脱帽しながら、私の脳裏をかすめたのはこの疑問でした。

*(注)アラゴンの初代国王ラミロ一世の戦死は、1063年のほか,1064年,1069年などの諸説がありますが、ここでは1063年説に従っておきます。

写真(4)城の入り口(Door to the Castle) クリックして拡大(Click to enlarge)
写真(5)階段(Stairs to the Church of St. Peter) クリックして拡大(Click to enlarge)
写真(6)クリプト(Cript)


聖ペトロ教会

城の入り口はただひとつで、石段で城内につながっています。聖ペテロ教会はその石段をまたぐかっこうになっていて、教会の床が同時に石段の天井でもあるという、実に巧妙な設計です。その石段の途中、左手に衛兵の詰め所があり、その向かい側(右手方向)にクリプト(地下礼拝堂)があります。クリプトはふつう祭壇の地下に設けられ、聖遺物などを納めておく場所です。古い教会を壊して新しく建てなおすとき、古い教会をクリプトとして地下に残すことがよくありますが、ロアレ城の場合は、クリプトと教会がいわば二階建ての形で新しく建てられたわけです。もし敵に攻められたときは、クリプトにも衛兵を配置して侵入して来る敵を石段の両脇から挟み撃ちにする、という考えがあったのでしょう。祈りの場所がいつでも戦いの場所に変わりうることを念頭においた設計が、ロアレ城に一種の緊張感をもたらしています。

写真(7)円蓋と後陣(Dome & Apse) クリックして拡大(Click to enlarge)
写真(8)祭壇方向の図(View of the Apse) クリックして拡大(Click to enlarge)

石段を登りつめ、左に進むと聖ペトロ教会の扉口に出ます。教会に足を踏み入れてまず感じるのは、祭壇手前の天井部分が円蓋(ドーム)になっていて、天井が高くゆったりとした雰囲気の教会だ、ということです。教会の内部は全長23m、幅10mくらいで、実際にはそれほど大きな教会ではありません。しかし円蓋の直径が8m、床から円蓋の要め石までの高さが20mもあるため、天井自体の高さは14m足らずでも、堂々とした格調の高い教会、という印象を与えるわけです。

サンチョ・ラミレス王が手がけた三部作というのがあります。ロアレ城、サン・フアン・デ・ラ・ペーニャ修道院、そしてハカ大聖堂です。修道院も大聖堂も完成したのはいずれも王の死後何十年も経ってからの話ですが、ロアレ城だけはウエスカ攻略という待ったなしの目標があったので、金に糸目をつけぬ覚悟で突貫工事で取り組んだものでしょう。
サンチョ・ラミレス王は、聖ペトロ教会が、ハカ大聖堂に先立つ当時のアラゴンでは数少ない本格的な教会建設であったため、11世紀スペインロマネスクの代表作のひとつを目指すぐらいの覚悟で、人と金を投入したものと思われます。しかし、当時のアラゴンの建築技術ではとても手に負えず、南フランスやイタリアあたりの熟達の工匠を多数起用したのであろう、とする説が有力です。

写真(9) 祭壇から見た図 (View from the altar) クリックして拡大(Click to enlarge)

写真(9)「祭壇から見た図」で、教会の壁の一部に岩盤がむき出しになっているのが見えます。岩山の狭い土地にできるだけ大きな教会を建てようとして、岩盤を壁に取り込んだものです。実は岩を削っている時間がなかっただけかも知れませんが、結果として迫力を生み出しているように思います。

また、聖書を暗記していた当時の人たちは、聖ペトロ教会を目にしたとき、イエスが使徒ペトロに向けて発した言葉、「それではわたしもあなたに言おう。あなたはペトロ(岩)、わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。黄泉の門(死の力)もこれに勝つことはできない」(マタイ福音書16章-18)を思い浮かべ、岩の上にどっしりと立つ聖ペトロ教会の姿に感銘を受けたに違いありません。

レコンキスタの過程で、キリスト教徒領主たちは征服した土地にまるで旗でも立てるように次々と教会を建て、支配者の交代を知らしめました。イスラム軍の前線基地からも見えるロアレ城を改修し、それを仮の王宮としたサンチョ・ラミレス王も例外ではありません。なかでも城砦には立派すぎるほどの聖ペトロ教会を建てた背景には、それによって神の栄光を讃える一方で、ウエスカをイスラム勢力から奪回する戦いもまた神の意思にかなう行為であることを、サンチョ・ラミレス王は新しい教会を建てることを通じて内外に示そうとしたのではなかったか、そう考えると、「なぜ一時的な仮王宮に大金をかけたのか」、という疑問へのひとつの答えが思い浮かびます。

写真(10)聖ダニエルとライオン(St. Daniel &Lions) クリックして拡大(Click to enlarge)
写真(11)聖ダニエルとライオン(St. Daniel &Lions) クリックして拡大(Click to enlarge)
写真(12)男と怪獣 (Man & Mystical animals) クリックして拡大(Click to enlarge)
写真(13)ライオンと植物の葉 (Lion & Leaves) クリックして拡大(Click to enlarge)

柱頭彫刻

写真(8)を見ると、祭壇の奥にある後陣が半円形に張り出していること、そして窓枠を含め、アーチを受ける柱頭のひとつひとつに彫刻が施してあるのがよく分かります。
写真(10),(11)は後陣の柱頭彫刻のひとつで、「男とライオン」とか「聖ダニエルとライオン」などと呼ばれるものです。写真(12)は「男とライオン」あるいは「男と怪獣」と呼ばれ、写真(13)は「ライオンと植物の葉」と呼ばれます。
聖ペトロ教会の柱頭彫刻の特徴は、作品としての完成度が高いわりには、物語性に欠けるということです。すなわち、柱頭彫刻によく見られるイエスの生涯や聖書の物語りなど、作品全体で何かを物語るというより、むしろ装飾としてそこにある、という感じがします。

個々の作品については、トゥール-ズあたりの有名なフランスロマネスクの彫刻との類似点を指摘し、従ってこれらはフランスの彫刻師の作であろう、と結論付ける説を見受けます。それはそれで大変興味のあるテーマですが、私がまず感じるのは、工匠(もしくは工房)が、まずはじめに一群の柱頭彫刻で何を表現するかについて深く考え抜き、そのうえでひとつひとつの作品に祈りをこめて彫り込んだ、という類の柱頭彫刻とはだいぶ異なるということです。

聖ペトロ教会は、岩山に聳え立つという立地条件もあり、それ自体が見る者を圧倒する迫力に満ちています。しかし彫刻だけを見ると、ひとつひとつは実に立派な作品ながら、どちらかといえば装飾に徹しているという感じがするわけです。突貫工事が求められたことから、柱頭彫刻は何を題材とするかも含め、多数の工匠がそれぞれ得意とするところにまかされたのではないか、私はそんな印象を持ちました。そのため、ひとつひとつの作品は実に素晴らしいものだけれど、全体を通して統一あるメッセージが伝わってこないという結果になったのではあるまいか、という気がするわけです。別の言い方をすれば、オールスターチームが名人芸を披露する試合を見ているような感じで、それはそれで楽しいことではあります。

そう考えると、ひとつひとつの彫刻が何を象徴しているのか、或いはある作品の題材が「聖ダニエルとライオン」なのか、それとも「男とライオン」なのか、というようなことを詮索するのは余り意味がない、とも言えそうです。


写真(14)窓枠の柱頭彫刻(外部)クリックして拡大(Click to enlarge)

窓枠のアーチを受ける柱頭のひとつひとつにも、見事な彫刻がほどこされています。教会内部と外側から見た例を写真(14),(15)で示しましたが、象牙細工のような細かい彫りのものもあり、これはスペインのロマネスク教会の柱頭彫刻では余りお目にかからないものです。当時のトゥールーズは宗教美術のメッカであり、またサンポルト峠を越えてハカに出る、サンティアゴ巡礼路の拠点のひとつでもありました。聖ペトロ教会の建設にトゥールーズあたりの工匠が参加したというのは、大いにありそうな話です。

写真(15)王妃の塔(Queen's Tower) クリックして拡大(Click to enlarge)

聖ペテロ教会の扉口に面して「王妃の塔」と呼ばれるナバラ王サンチョ大王が築いた初期ロマネスクの塔があります。ロアレとその近辺は、イスラム支配下で暮らすキリスト教徒がずいぶん多かった地帯です。イスラムの支配者たちは、キリスト教徒が税金さえ払えば原則として信教の自由を認めました。イスラム支配下のキリスト教徒をモサラベ(mozárabe)と呼びますが、サンチョ大王が11世紀初めにロアレの砦を築いたときには、イスラムの建築技術を身につけたモサラベたちが、石を切り塔を積んでいった可能性があります。ロアレ城はロマネスク様式ですが、この王妃の塔など古い建物の一部に、ロマネスクに先立つモサラベ様式の影響が指摘されるのは、そんな背景があるからだろうと思います。

写真(16)上部階 (Upper level) クリックして拡大(Click to enlarge)

教会よりもさらに一段高い位置、いわば3階にあたる部分に初期の古い建物が残っています。正面左が王妃の塔で、城の西南の角から見た図です。聖ペトロ教会は右手の一段低い場所にありますが、手前の建物にさえぎられて見えません。

写真(17)聖母礼拝堂 (Saint Mary's Chapel) クリックして拡大(Click to enlarge)

当初からの城付属の礼拝堂で、建設時期は王妃の塔などと同じく11世紀の初めです。長さ11m巾3mのごく質素なものです。

写真(18)外壁内の庭 (View from the top of the castle) クリックして拡大(Click to enlarge)

写真(19) ロアレ町遠望 (View of the town of Loarre)クリックして拡大

城の外壁は13世紀に付け加えられたものだそうですが、壁の厚みは1.5mくらいあります。アラゴン王国発祥の地は、段々畑ほどではありませんが、こんな風に狭い耕地の寄せ集めというのが多かったようです。写真(20)は城からロアレの町を眺めた図です。

サンチョ・ラミレスについて

隣国ナバラ王国の内紛により、1076年からナバラ国王を兼任することになったサンチョ・ラミレスは、多忙であったことに加え、ロアレ城に近いボレア、アイエルベの二つのイスラム軍の砦が堅固であったためその攻略に手間取り、念願のウエスカ攻略に着手するにはさらに10年以上を要します。

ロアレ城からウエスカを直接攻めるには30キロの距離は余りにも離れすぎていました。まとまった軍勢で有効な攻撃をかけるには、目標に近い前線基地を設ける必要があったため、1090年頃にウエスカから数キロ北のモンテアラゴン(Montearagón)に砦を築き、仮の王宮もそちらに移ります。

そしてウエスカ攻略がやっと手のとどくところまで来た1094年の夏、サンチョ・ラミレス王が攻撃の突破口を下見のためウエスカの城壁に近づいたとき、突然敵の放った矢が王に命中し、その傷がもとでモンテアラゴン城で亡くなったとされています。11世紀の50歳を過ぎた死というのは、決して若死にではありません。今で言えば80歳に近いのではないでしょうか。父親の初代国王ラミロ1世と同じく、老骨に鞭打って戦場をかけめぐり、鎖かたびらを身に着けたまま倒れたわけですが、念願のウエスカは1096年に長男のペドロ1世が攻め落とし、アラゴン王国の新しい首都とします。

ペドロ1世のあとを継いだ弟のアルフォンソ1世(戦闘王)の時代に、王国の領土はさらに何倍にも広がり、アラゴンはイベリア半島の有力王国のひとつになりますが、その発展の基礎はサンチョ・ラミレスの地道な施策にありました。ラミロ1世の長男にさえ生まれていなければ、サンチョ・ラミレスはあるいは修道院長か司教で安らかな人生を終わった人かもしれません。

しかし時代は彼に重荷を負わせたようです。ピレネー山麓の小国アラゴン王国の発展に道をつけるため、国内の保守勢力を説き伏せヨーロッパに向けて国を開き、そしてイベリア半島の列強に伍してレコンキスタに賭け、ひたすら戦場を駆けめぐりつつその実直な人生を終わったサンチョ・ラミレスですが、ひとつ贅沢をしたとすれば、それはロアレ城の聖ペトロ教会ではなかったかと思います。オーケストラの演奏がその指揮者の作品であるように、聖ペトロ教会は、サンチョ・ラミレスが工匠たちを指揮して生み出した、見事な作品だと私は思います。

(Summary in English)
Loarre Castle - 11th Century Romanesque castle near Huesca, Spain

Loare Castle is one of the best kept 11th century fortress-castles in Spain, and maybe in Europe. The castle is built on top of a rock mountain of 1,000 m. of altitude. It is located at 30 km NW of Huesca, the provincial capital of Huesca, Aragon.
It was originally built in early 11th century as a fortress by Sancho III, the Great, king of Navarre, who conquered the area from the Islam ruler based in Zaragoza. During 1070's Sancho Ramírez, king of Aragón and grandson of Sancho III, the Great, enlarged the castle as a base for assault to Huesca adding a new church dedicated to St. Peter. It was also designed to serve as a temporary palace of kingdom of Aragón, which has a tradition of establishing a moving palace at a place where the king stays at war.

Sancho Ramírez was born around 1042 and died in 1094 when he was preparing for an assault at the city of Huesca. He reigned as the king of Aragón during 1063-1094 founding basis for a small kingdom adjacent to the Pyrenees to develop into one of the powers in Iberia peninsula during the following century. Huesca was taken in 1096 by his son, Peter I and was made the capital of Aragón.

11th to mid 13th century in Spain was the time of Romanesque art and the Reconquista as well.
Reconquista is a movement of Christian lords in Northern Spain to regain the land occupied by Islam rulers since 8th century. Theoretically it ended in 1492 by the fall of Granada, but most of the work had been done by 1248 when Sevilla fell into the hand of Christians.

Among the Christian lords Sancho Ramírez was especially under pressure to expand the territory towards the Ebro river basin to secure wheat fields to cope with the increasing population, where the Islam kingdom of Zaragoza had control over the past 300 years. Huesca was a crucial target for Sancho Ramírez. He did everything he could to prepare for it; became a vassal of the Pope in 1068, and strengthened the ties with the Cluniac Order and invited French knights to participate the fight against Zaragoza kingdom.

Sancho Ramírez died before seeing the glorious days of Aragón, but his legacy remains. A king who opened the small kingdom to Europe and initiated new construction or remodelling of some of legendary Romanesque buildings such as; Cathedral of Jaca, monastery of San Juan de la Peña and Castle of Loarre, especially its magnificent St. Peter's Church on the rock.

The time of Romanesque art in Iberian peninsula was the time of Reconquista, which means the war.
During 11th to mid 13th centuries when people of north of Pyrenees were free of wars and dedicating to construction of monumental Romanesque churches or high towered Gothic cathedrals, but in Spain the wars calld Reconquista were being waged among Chrisitan lords and taifas(Islam kingdoms).
During the Recinquista or war, regardless whatever you call it, destruction continues and people will suffer and die as a consequence. The large monumental construction will only be possible after the peace arrives. That's one of the reasons, to my mind, that construction of Spanish Gothic cathedrals did not start in quantity until mid 13th century while Romanesque style continued a little longer than other countries.
Most of the people say ''The Romanesque period is of 11th to 12th century''. However I would say in Spain it is of 11th to mid 13th century for the reasons above mentioned.

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El autor queda agradecido a Margarita Gratacós por su interés y colaboración durante las visitas a las iglesias románicas de las tierras de Aragón.