2012年12月31日月曜日

Fujifilm X-E1を使って教会を撮る(How good is Fujifilm X-E1 for low light photography?)

Fujifilm X-E1は本当に高感度に強いか?(Is Fujifilm X-E1 really good for low light photography?)

Fuji X-E1 with XF18-55mm zoom lens
(For the summary in English please see the end of this article.)


なぜミラーレスなのか?

私はフィルム時代からのキャノン・ユーザーですが、重い一眼レフを抱えての旅が苦痛になってきたので、ミラーレスカメラを使おうと考え始めました。
ただし薄暗いロマネスク教会内部の壁画や柱頭彫刻などの細部を、三脚もフラッシュも使えないという条件で撮影することが多いので、たとえミラーレス・カメラといえども、APS-Cサイズで高感度に強いセンサーを備えたボデーと、解像力にすぐれたズームレンズの登場を待ちかねていました。しかしCanonにはそれらしい製品を出す気配が全くないのでしびれを切らしていたところ、11月にFujiflmからX-E1とXF18-55mmのズームレンズがkitで発売になったので、思い切ってCanonの機材を処分しFuji Xシリーズに切り替えることに決めました。

Fuji X-E1と18-55mmの組み合わせの利点
私がFujiのX-E1とXF18-55mmの組み合わせを選んだ理由は、小柄なサイズでありながら発色がすばらしいことと、ISO 6400-12800の高感度でも、パソコン画面上でなら十分使えるだけの画質の写真が、ごく手軽に撮れてしまうところにあります。

私の場合は、スペイン・ロマネスクについてのBlog記事の挿絵として撮る写真がほとんどなので、被写体は動かぬため、暗い環境で焦点合わせのスピードが若干落ちるのは許容範囲です。X-E1は入手してまだ一ヶ月ですが、これまでの経験ではオートフォーカスは予想以上にうまく作動しています。それにいざとなればマニュアルフォーカスに切り替えればいい、という安心感もあります。

スペインでは、カンカン照りのコントラストの強い屋外と、薄暗い教会内部を出たり入ったりしながら写真を撮ることが多いので、ISOその他の設定をひんぱんに変更しますが、X-E1はその点でも使い勝手のよいカメラです。

X-E1とXF18-55mmの使い勝手をテストする(Testing X-E1 in low light)
X-E1の高感度の使い勝手をテストするため、トロントのダウンタウンにある英国国教会大聖堂(Cathedral Church of St. James)を訪ねました。この大聖堂は19世紀後半の新ゴシック様式の教会で、ステンドグラス入りの窓がたくさんあり室内が明るいため、できるだけロマネスク教会の光量に近づけるよう、教会内部の撮影には曇りの日を選びました。

Photo(1) Anglican Cathedral Church of St. James (Toronto)

教会はチャーチ・ストリートと キング・ストリートの交差点に面した、人通りの多い場所にあります。

Photo(2) The church is located at the N.E. corner of Church & King(downtown Toronto)

Photo(3) Sightseeing bus passing the intersection

教会内部(Interior of the church)
カメラの高感度テストに人形などを撮っている例を見かけますが、光量が充分なスタジオ内でISO 25,600の写真が撮れるカメラでも、照明もなく手持ちで暗い教会内を撮るとなれば話が違ってきます。一番気になっていたのは、Fuji X-E1とXF18-55mmズームの組み合わせが、どれだけ実戦で役に立つだろうか、ということでした。結論から先に言えば、「暗い環境でも充分使い物になる」ということです。

Photo(4) View from the Aisle(ISO 6,400, 18mm f4, 1/30, AWB for all)


高感度テスト(High ISO sample photos-all are Jpeg images without post processing)
高感度テストは、教会内で一番暗そうな場所に手持ちのカメラを向けて行いました。なおカメラは初期設定のまま、画像は全てJpegで、トリミング以外の修正は加えておりません。
Photo(5) Church Organ(ISO 6,400,26.5mm f3.2,1/15)

Photo(6) Clock(ISO 6,400,44.4mm f4,1/20)
Photo(7)100% blow up of the clock

Photo(8) Clock(ISO 12,800,44.4mm f4,1/20)
Photo(9)100% blow up of the clock


Photo(10)Clock(ISO 25,600,44.4mm f4,1/30)
Photo(11)100% blow up of the clock

気がついたこと
1)私の腕では手ブレ防止付きの18-55mmズームでも、1/20秒以下ではブレが目立ちやすくなる、ということ。Stabilizationの過信は禁物。
2)ISO 12,800でもBlog用(PC画面での表示)なら使えること。場合によってはISO 25,600も使えそう。
3)露出補正ダイアルが動きやすいこと。クリックストップでもう少し固くならないか。その点は電源スイッチも同じ。バッグから取り出してみたらスイッチが入っていた、ということが何度かあった。
4)別売の純正Gripをつけて使っているが、それでもズームレンズを取り付けたときのホールド感はいまひとつ。別売グリップをつけると重くなるうえ、バッテリーやメモリーの取替えも面倒になる。もともとこの程度のGripならなぜ最初からボディーに組みこまないのか解せない。
5)メモリーカードが取り出しにくい。とくに手がかじかんでいる時には苦労する。バッテリーのドアーは、X100と同じくベースプレート方向に開くよう変更して欲しい。

しかし細かい要望はさておき、途中で設定が変わっているのに気づきあわてることの多かった、じゃじゃ馬のようなFuji X100に手こずらされたあとだけに、余計にX-E1の使い勝手の良さを痛感しています。まだまだ使いこなすにはそうとう時間がかかりそうですが、何と言っても発色がすばらしいし、そのうえX-E1とXF18-55mmのズームレンズの組み合わせは、軽くて使いやすく安心して長旅に持っていけるカメラだという感じがしています。

実は新製品の発売前にスペックを眺めていた段階では、Fuji X-E1と Sony NEX-6のどちらにするか迷っていましたが、X-E1にしようと決めたのは、カナダのあざらしなどを撮っておられる写真家、小原玲氏のBlogに出会ったのがきっかけでした。
http://reiohara.cocolog-nifty.com/blog/2012/11/x-e1evf-a8f2.html
小原氏のBlogには、写真のあるべき姿やプロ写真家から見たカメラの将来像などについて、日ごろ同氏が考え抜いている内容のエッセンスがつまっており、またFuji Xシリーズの活用法など現役のプロならではの実戦的なアドバイスもあって、楽しく読みながら考えさせられることの多い、内容の充実したBlogです。

(Summary in English)
How good is Fujifilm X-E1 for low light photography?

I've been a Canon user since the film days, but have decided to switch to Fuji X series, because I want to travel light. I take photos mostly for my blog on the Romanesque arts of Spain. I travel to Spain to take pictures of Romanesque monasteries and churches most of the time in very low light environment, no tripod nor flash permitted.

Until recently I've had some reservation for Fuji X series after struggling for months with X100, a charming but temperamental camera. Also lack of zoom lens and diopter adjustment were other reasons I passed the X Pro1.

The arrival of XE-1 and XF18-55mm zoom lens seemed to me almost an ideal solution for achieving what I had always wanted;travel light but capable of taking high resolution photos. The question is ''How good will it work the combination of Fuji X-E1 and 18-55mm zoom in a very low light environment?''

To test it I took the camera to the Anglican Cathedral Church of St. James in downtown Toronto. I chose one sunny day to take photos of the view of the church and streets, while a cloudy day for shooting inside the church under low light environment.
Please see the sample photos above. All images are in Jpeg without any post processing except for cropping. Camera settings remain at default. Camera was hand held with lens stabilizer switched on.

With this test result I'm confident that X-E1 and 18-55mm combination can replace the heavy Canon DSLR in my next trip to Spain.

(Some observations)
X-E1 will be used to take photos mostly of buildings or art works, consequently focusing speed is not a serious issue for me. Although in extremely dark condition sometimes I had to wait for seconds to focus properly, normally X-E1 rarely hunts in low light environment.
1) Shutter speeds slower than 1/20th sometimes caused blurred images. It depends entirely on photographer's skill, but excessive reliance on image stabilization does not seem to be a good idea.
2)Up to ISO 12,800 is acceptable for my use(for on screen view, though not apt for print) and in some cases ISO 25,600 is also usable.
3)Exposure compensation dial rotates too easily. I wish it will have more secure click stops. The power switch also moves too smooth. I found the camera had been switched on when taken it out of the bag.
4)The Fuji made grip is added to the X-E1 body, but it still lacks a comfortable hold to my taste. I wonder why we need to buy an extra grip, first of all, which should have been part of the body from the beginning.

Minor gripes aside, the X-E1 is a huge step forward from X100. For a long time I've not held in my hand a camera like X-E1; a joy to own and a joy to use.





2012年12月19日水曜日

スペイン・ロマネスクの旅(8) アララール山系の聖地と聖ミカエル教会(Sanctuary of Aralar - Church of Saint Michael)

(Map of Spain)

写真(1)山道で出会った馬の親子(Road to the Sanctuary)

写真(3)聖地の道路標識(Road sign of the Sanctuary)

写真(3)聖ミカエル教会遠望(Church of Saint Michael on the hill top)

アララールの聖地(Sanctuary of Aralar)

ナバラ州の首都パンプロナから北西に約30キロ、途中で放し飼いの馬の親子に出会ったりしながら、アララール山系の山道を標高1,200米くらいまで登りつめたところに、「アララールの聖地」または「サン・ミゲルの聖地」として知られる「聖ミカエル教会」があります。

アララール山系(Sierra de Aralar)は、標高1,200-1,400米くらいの山々が、ナバラとバスク地方のギプスコア県にまたがって点在する広い高原地帯で、一部が自然公園に指定されていますが、この地域には太古から人の住んだ形跡があり、大きな石を石室状に組み上げたドルメンが数十個発見されています。ドルメンはおそらく新石器時代から青銅器時代の間に築かれた墳墓であろう、との見方にしたがえば、紀元前数千年の昔から、アララール山系にはドルメンを築くだけの能力を備えた人たちが住んでいたことになります。

スペインで聖地(Santuario)と呼ばれるものの中に、キリスト教が到来する以前に土着信仰の聖地であったと思われる場所がいくつかありますが、アララールの聖地もそのひとつです。子を授かりたい夫婦が聖地に詣でる風習があったらしいことや、昔は教会の中に大きな石があり「その石にすわってミサに参列すると子宝が授かると信じられていた」などの伝承は、巨石信仰の色彩がつよい古来からの聖地を、キリスト教の聖地として取り込んでいった名残りではないか、という気がします。

聖ミカエル教会(Iglesia de San Miguel)

写真(4)教会東面の図(East view)

写真(5)後陣(Apse)

写真(6)プレロマネスク様式の痕跡を残す中央後陣(Central apse)

写真(7)北東面の図(North East view)

聖ミカエル教会(Iglesia de San Miguel)が現在の形を整えたの12世紀半ばですが、すでに9世紀にはプレロマネスク様式の小さな教会が同じ場所に存在したことが、教会周辺の発掘調査から判明しています。ただしこのプレロマネスク教会は10世紀前半のイスラム軍の侵攻により焼失し、11世紀後半にまず後陣と祭壇を含む内陣部分がロマネスク様式で再建されました。なお中央後陣の写真(写真(5)-(6))で黒ずんで見える石積みの箇所が、プレロマネスク様式の古い教会のものとされています。

七宝細工の祭壇画(Altarpiece of Limoges enamelware)

写真(8) 祭壇方向の図(View of the altar)

写真(9)祭壇(Altar)

写真(10)七宝細工の祭壇画 (Altarpiece of Limoges enamelware)

写真(11)祭壇画中央部分の拡大図(Altarpiece close up)

アララールの聖ミカエル教会といえば「七宝細工の祭壇画」をすぐ連想するほど、この縦1米、横巾2米の長方形の祭壇画は有名なものですが、これはフランスのリモージュの工匠たちの手で1175-1185年ころ制作された、という説が有力です。リモージュの七宝細工の起源は12世紀とされているので、比較的に早い時期のリモージュの名作のひとつということになります。中央の聖母とイエス像の部分を拡大した写真(11)からもうかがえる通り、銅板に実に手の込んだ加工がなされているのが分かります。
祭壇画はガラス入りの大きな額縁状のケースに納められ、祭壇のうしろに安置してありますが、私たちが教会を拝観したときは、ほかに人影もなくまた出入りも自由だったので、1970年代末に起きたという盗難事件の再発などがなければよいが、と祈るような気持ちになりました。

作品の質の高さから判断して、ナバラ王家の寄進になるものではないかという説もあるほど、本来なら大聖堂に寄進されてもおかしくないほど立派な七宝細工の祭壇画が、なぜ人里はなれた山中の教会の所蔵になっているのか、謎の部分があります。
しかし逆に見れば、古来の地場の聖地に建てられた聖ミカエル教会は、単なる田舎の一教会ではなく、むしろ11-12世紀のカトリック教会にとっては、ナバラからバスク地方にかけての布教戦略上、たいへん重要な拠点のひとつだったのではないか、とも考えられます。

ひとつのヒントは、聖ミカエル教会がロマネスク様式で再建された11世紀末に、パンプロナ司教の指導のもとにサン・ミゲル(聖ミカエル)信心会の組織作りが始まっていることです。この信心会(Cofradía de San Miguel)は、最盛期には会員4万人に達したと言われ、現在も存続しています。
サンティアゴ巡礼や十字軍運動が熱病のようにヨーロッパ全体をおおった時代に、信心会に加盟する信徒が急増するのは不思議ではありません。しかしスペインの中でもキリスト教の浸透が遅れたバスク地方とそれに隣接するナバラ地方の一部の信徒は、まだ内心では巨石信仰など土着信仰の名残りを引きずっていたと考えるのが自然ではないでしょうか。そういう信徒のキリスト教信仰を確かなものとするためにも、古来の聖地に聖ミカエル教会を建て、土着の信仰を取り込みながら、サン・ミゲル信心会の形で民衆の宗教エネルギーを教会に吸収していく必要があったのではないか。そしてナバラ王権もそれに賛同し、聖ミカエル教会にいろいろ寄進をしたのではないか。私はそんな風に推測しています。

聖地の風景

写真(12) 聖地から眺めたアララール山系(Aralar mountains)

写真(13) 教会周辺の風景(View from the Sanctuary)

写真(12)の右手前に見えるのが中央後陣、その奥の建物は教会に隣接する宿泊施設ですが、夏にはこの聖地に信徒が泊りがけで集うそうです。
聖ミカエル教会は20世紀後半の修復工事で相当手が加えられているため、建物自体の歴史的価値はいまひとつのようですが、七宝細工の祭壇画の見事さと、そして聖地の澄み切った空気が、訪れる者を魅きつけてやまない教会です。

(Summary in English)
Sanctuary of Saint Michael of Aralar(Navarra, Spain)

The Romanesque church of Saint Michael (Iglesia de San Miguel) is located on a hill top of the mountains of Aralar, about 30 km north west of Pamplona. The area is also called ''Sanctuary of Aralar'' or ''Sanctuary of Saint Michael''. The mountains of Aralar is also known for the existence of tens of dolmens(megalithic tombs) dating from the Neolithic to Bronze period. It means in this area people lived since hundreds, if not thousands, of years BC, who were capable of stoneworks.

The church is famous for its magnificent altarpiece of Limoges enamelwork made in late 12th century. The current church building was originally constructed during 11th to 12th century with significant repair work done in 1970's. Archaeological excavations have revealed that a pre-Romanesque church already existed since 9th century at the same place which apparently was destroyed by a Muslim incursion in mid 10th century.










2012年11月3日土曜日

スペインロマネスクの旅(7) サングェサのサンタ・マリア・ラ・レアル教会(The Church of Santa María la Real at Sangüesa, Navarra)

スペイン全図(Map of Spain)。
(For summary in English please see the end of this article)
サンティアゴ巡礼路図(Routes of St. James Way, by courtesy of Gronze.com)


サングェサのサンタ・マリア・ラ・レアル教会 (Santa María la Real at Sangüesa, Navarra)


写真(1) 教会東面の図(鐘塔はゴシック様式)(East view of the church, the bell tower is of Gothic style)


サングェサ(Sangüesa)
ナバラ州の首都パンプロナから東に40kmのサングェサ(Sangüesa)は、サンポルト峠からハカ(Jaca)を経由してプエンテ・ラ・レイナに至る、160kmにおよぶサンティアゴ巡礼路アラゴン道の巡礼都市です。アラゴン地方のロマネスク建築に縁の深いサンチョ・ラミレス・アラゴン国王(在位*1064-1094)は、1076年にナバラ王国の内紛を機にナバラを併合しますが、1090年にはサングェサに対して免税特権を含むハカ並みの都市法を認めたと言われます。これは11世紀末の時点でサングェサがすでにこの地域の物流の拠点であったことを物語るものです。いまは人口5,000人くらいの静かな町ですが、サンティアゴ巡礼の最盛期11-13世紀には、サングエサはピレネーを越えて人と物が行き交う巡礼ルートの重要な拠点のひとつとして、大いに賑わっていたようです。

サンタ・マリア・ラ・レアル教会(Santa María la Real)は、サンチョ・ラミレスの二代あとのアラゴン・ナバラ国王アルフォンソI世-戦闘王(在位1104-1134)が、1131年に聖ヨハネ騎士団にサングェサの王宮を寄付したのを契機に建設が始まったとされています。そして華麗な彫刻で有名なファサードが完成したのは12世紀末ころ、というのが通説です。''ラ・レアル'' の呼び名は、王宮付きの礼拝堂がその母体だったからでしょう。

サングェサは前回ご紹介したレイレ修道院からは15kmの距離にあり、サンポルト峠でピレネーを越えて北からやって来る巡礼者たちは、レイレ修道院にも足をのばしたに違いありません。
{*(注)サンチョ・ラミレス・アラゴン国王の在位期間を1069-1094年とする説もある}


教会正面(Façade)
サンタ・マリア・ラ・レアル教会は、彫刻で埋めつくされた華麗な教会の南正面(ファサード)が見どころですが、このファサードの制作を担当したのは、アラゴン地方の工匠サンフアン・デ・ラ・ペーニャのマエストロが率いる工房と、レオデガリウス(Leodegarius,フランス人名 Légerに相当)が率いる工房、というのが定説です。

レオデガリウスは、スペインに渡来する前にシャルトル大聖堂西正面の制作に携わったという話もあるほど、なかなか腕のよい工匠であったようです。カスティーリャ国王サンチョ三世(在位1156-1158)の夫人ブランカ(Blanca Garcés 1137-1156)の石棺は、スペイン・ロマネスクの傑作のひとつと言われるほど見事なものですが、1156-1158年の間に制作されたと推定されるこの石棺が、レオデガリウスのスペインにおける最初の作品であるとする説があります。


写真(2) Calle Mayorに面した教会の南正面-The façade faces the busy street, Calle Mayor.

サンタ・マリア・ラ・レアル教会は、西をアラゴン川にさえぎられた地形のため、ふつうは西にあるべき正面入り口が南側に設けられています。交通量の多い大通り(Calle Mayor)に面しているので、車の排ガスによる彫刻の劣化や拝観時の安全を考慮し、地元のロマネスク愛好家からは交通規制の要望が出ていますが、なかなか実現しないようです。この通りは中世には ''巡礼通り'' と呼ばれていたらしく、サンティアゴ巡礼に向かう巡礼者たちは、南正面の彫刻を最後にもう一度見上げたあと、教会のそばを流れるアラゴン川の橋を渡って西に向かったのでしょう。



写真(3) 教会南正面(The façade)

サンタ・マリア・ラ・レアル教会のファサードは大きく分けて、扉を囲むアーキボルト(またはヴシュール)と称する多層アーチおよび半円形のタンパン(褐色部分)と、その上に二段に分けて彫り込んだキリストと12使徒の像(大理石色)から構成されています。なお扉の右上と左上の隅には''持ち送り''と呼ばれる装飾があります。

上部二段のキリストと使徒の像は、サンフアン・デ・ラ・ペーニャのマエストロとその工房の作品で、下部の6本の人物円柱はレオデガリウスの作品であろう、というのはおおよそ見当がつきますが、残りの部分はよく分からないところがあります。


人物円柱
人物円柱というスペイン・ロマネスクでは余り目にしない作風の3人のマリア像ですが、左からマグダラのマリア、聖母マリア、ヤコブの母マリアが刻まれています。

写真(4) 3人のマリア像(from left to right: Mary Magdalene, Virgin Mary & Mary,mother of James)
写真(5) 聖母マリアが手にする本に刻まれた''レオデガリウスがこれを作った''というラテン語の銘文(''Leodegarius me facit''(Leodearius made this) is incised on the book held by the Virgin Mary)

中央の聖母マリアが手にした本には、''レオデガリウスがこれを作った''というラテン語の銘文が刻んであります。私たちはロマネスク美術は無名の工匠の手になるものという印象を持っていますが、中には余り人目につかない場所に自ら手がけたことを記しておくことはあります。しかしこのレオデガリウスほどおおっぴらに銘文を刻んだ例は余り見かけません。彼にはよほどの自信があったということでしょうか。


写真(6)ペテロ、パウロ、ユダの像(Peter, Paulo, Juda)

扉右側の人物円柱は、左からペテロ、パウロ、ユダの像です。ユダは首を吊った珍しい形ですが、これは巡礼者を騙す悪徳業者をユダになぞらえ、このユダのように罰を受けるぞと警告する意味があった、と見る説があります。

持ち送り装飾

写真(7) 正面扉右上隅の持ち送り装飾・食人鬼(Modillion of a Monster androphogous)


写真(8)正面扉左上隅の持ち送り装飾・雄牛(Modillion of a Bull)

これは''持ち送り装飾''または''軒下持ち送り''と呼ばれ軒下にあるものですが、正面扉の左右の上隅に装飾として配置されることがあります。

軒下持ち送りの題材には、キリスト教の教えとは関係なさそうな自由奔放なものがよく選ばれます。なぜ教会の軒下にこんなおどろおどろしい像が並んでいるのか、私もロマネスク教会を訪ねて疑問に思うことがしばしばあります。
最近これに関して「怪獣に呑みこまれるというのは、死と再生の物語を表しており、これは12世紀末のアラゴン北部の工匠たちの間で受け継がれていた、秘教的な世界観の表れである」という説を目にしました。ロマネスク教会の軒下持ち送りにしばしば見られる、見る者の意表を突くどこか異教的な雰囲気すら持つ題材は、ある工匠の単なる思いつきというより、もっとなにか深い根を持っているらしいということを最近うすうす感じ始めたところです。


タンパン
タンパンには、最後の審判図とその下に王冠をつけた聖母マリアを囲む12使徒が刻んであります。

写真(9) タンパン-最後の審判図(Timpanum-The Last Judgement)

写真(10) タンパン(Timpanum)

写真(11) マリアとイエスを囲む使徒たちク(Mary & Jesus with 12 disciples)

ファサード上部のフリーズ(frieze)
ファサード上部にはフリーズ(frieze)と呼ばれる2段の帯状装飾が見えますが、この部分には荘厳のキリスト(玉座のキリスト)を二人の天使と12使徒が囲む像が彫り込んであります。
これがサンフアン・デ・ラ・ペーニャのマエストロが率いる工房の作品であろう、というのは一見して分かりますが、私がサンフアン・デ・ラ・ペーニャ修道院の回廊で、手をのばせば届きそうな至近距離から眺めたあの柱頭彫刻の持つ迫力には及ばない、という感じがします。

なおサンフアン・デ・ラ・ペーニャ修道院の回廊については、2010年 9月 21日付け『サンティアゴ巡礼路のロマネスク教会(2)』のBlog記事をごらんください。
http://surdepirineos.blogspot.ca/2010_09_01_archive.html


写真(12)キリストを囲む天使と12使徒たち(Christ and 12 deciples)

写真(13) 4人の福音書記者の象徴に囲まれた荘厳のキリスト(Christ in Majesty)

写真(14) 使徒の像(Apostle)クリックして拡大(Click to enlarge)

教会内部
教会内部の後陣部分(写真-16北後陣の図参照)はロマネスク様式の原型を保っていますが、中央祭壇にある祭壇障壁画は16世紀初めの作品です。実は後陣の柱頭にも12世紀の彫刻があり、レオデガリウスの作品もあるのですが、写真を撮り損ねてしまいました。
なお彩色木彫のマリア像は13世紀の作品です。

写真(15) 中央祭壇を眺めた図(View of the Altar)

写真(16) 北後陣(North Apse- 12th century)

写真(17)聖母マリア像(St. Mary with Jesús, 13th century Romanesque wood carving)

(補足)
(1)聖ヨハネ騎士団について
聖ヨハネ騎士団は病院修道会(Hospitallers)の別名を持つ通り、11世紀前半にエルサレムに於いて巡礼者の救援と看護を使命に設立された修道院がその母体ですが、第一次十字軍のエルサレム攻撃(1099年)に呼応して大いに活躍したことで一躍有名になりました。

祈りと病人の看護が使命の修道士たちが、巡礼保護と自衛のために武装したのがそもそもの始まりなのでしょうが、十字軍運動のうねりの中で騎士出身の団員が増え、しだいに世俗の王侯と共に戦う戦士集団に変貌していったのだと思います。聖ヨハネ騎士団は12世紀の初めにスペインに進出し、アルフォンソI世(戦闘王)のレコンキスタに参画しますが、自らが戦利品として勝ち取った領地に加え、国王や諸侯から免税特権や多大の寄進を受けた結果、12世紀末にはイベリア半島の一王国にも匹敵するほどの富と権力を手にしたと言われます。

大聖堂でも大修道院でもなく、巡礼都市サングェサの一教会にすぎないサンタ・マリア・ラ・レアル教会が、あれだけ立派なファサードを持つに至ったのは、やはり聖ヨハネ騎士団のうしろだてがあったから、と考えるのが順当だろうと思います。
アルフォンソI世が1134年に戦死し、それと共にアラゴン・ナバラ連合王国も崩壊したので、ナバラ王国側にはこの教会建設に肩入れする余裕はあまりなかったかも知れません。しかし潤沢な資産を持つ聖ヨハネ騎士団がついていれば、教会建設の資金繰りにはあまり困らなかっただろうと思います。

(2)サンフアン・デ・ラ・ペーニャのマエストロ(Maestro de San Juan de la Peña)
サンフアン・デ・ラ・ペーニャ修道院の回廊など、12世紀後半のスペインロマネスクの傑作を残した無名の名工は、アラゴンとナバラで柱頭彫刻の名作をいくつも残しています。トンボのように大きな目をした人物像がその特徴のひとつです。

この無名の名工は、''サンティアゴ・デ・アグェロのマエストロ'' と呼ばれることもあります。サンティアゴ・デ・アグェロ教会は、ハカの南西60kmのアグェロの町から2kmほど離れた丘のうえに建つ12世紀の教会で、外見は教会らしい形をとっていますが、よく見ると未完のまま放置されています。もともとはかなり大規模な教会を建てる構想だったのでしょうが、いったい誰が何のために建てようとしたのか、憶測を交えた意見はいろいろあるものの、本当のところはよく分からないという謎の教会です。

作風から判断して、この教会の彫刻を担当したのはサンフアン・デ・ラ・ペーニャのマエストロとその工房ではないか、とする説が有力です。
参考までにサンティアゴ・デ・アグェロ教会の正面入り口と彫刻作品をふたつだけご紹介します(写真(18-20)。いずれも力強い迫力のある作品です。

写真(18) サンティアゴ・デ・アグェロ教会の正面入り口(Main door)

写真(19) 正面扉左隅の持ち送り装飾の装飾のひとつ。東洋の龍に似た怪物が人をくわえた図。(A modillion of Santiago de Agüero, work supposedly done by the Maestro of San Juan de la Peña)

写真(20)正面入り口左側の柱頭彫刻。手前の柱頭は二人の踊り子と竪琴を弾く男、奥の柱頭は鹿を捕らえる二頭の獅子(Capitals at main entrance-on the left)


(Summary in English)
Sangüesa is a quiet city with 5,000 population located at 40 km east of Pamplona, the capital city of Navarra. However, during 11th-13th centuries at the height of the pilgrimage of Saint James Way(Camino de Santiago) Sangüesa used to be one of the important stops for pilgrims and a center for commerce among the towns and villages on the Aragon route of the Camino.

The construction of the Santa María la Real church is supposed to have been started when the Alfonso-I(the Battler), King of Aragon & Navarra, donated in 1131 his royal palace of Sangüesa to Knights Hospitaller. The famous façade richly decorated with Romanesque carvings was finished towards the end of the 12th century.
It is believed that the 2 workshops participated the construction of this façade; one is led by so called ''Maestro de San Juan de la Peña'' alias ''Maestro de Santiago de Agüero'', and another was led by Leodegarius(French name Léger) who probably had participated the work of Chartre Cathedral's West façade before coming to Sangüesa.
The 6 statue-columns at the entrance(3 Marys on the left, Peter, Paul and hanged Juda on the right) are the work of Leodegarius and his workshop, because ''Leodegarius me facit''(Leodearius made this) is incised on the book held by the Virgin Mary as per the photo(5). The upper two lines of friezes should be the work of Maestro de San Juan de la Peña and his workshop.
The church retains the original construction of 12th century around apse area, while the bell tower is of later addition in Gothic style. It is found inside the church a 13th century wooden statue of Virgin Mary with Jesus in polychrome. The altarpiece is of early 16th century work.

Some people believe that Maestro de San Juan de la Peña worked for the construction of Santiago de Agüero church which is about 60 km south west of Jaca. It is an enigmatic church. Very little is known of who and for what purpose this church was constructed and why it has remained unfinished. It is noticed common style between the capitals of San Juan de la Peña Monastery, Church of Santiago de Agüero and Santa María la Real of Sanguüesa. For photos of San Juan de la Peña monastery's cloister please see my blog dated Sep 21, 2010.
(http://surdepirineos.blogspot.ca/2010_09_01_archive.html)








2012年9月1日土曜日

スペインロマネスクの旅(6) レイレのサン・サルバドール修道院(Monastery of San Salvador at Leyre)

レイレのサン・サルバドール修道院(Monastery of San Salvador at Leyre)

(スペイン全図)Map of Spain
(For summary in English please see the end of this article)

写真(1) レイレへの高原の道(The road to Leyre)

ナバーラ自治州の首都パンプローナから東に約50キロ、Yesaの町で国道をはずれさらに数キロばかり高原の道を走ると、標高1350米のArangoiti山を背に、Yesaの湖を見下ろすレイレ(Leyre, バスク語ではLeire)のサン・サルバドール修道院に着きます。


写真(2) 修道院全景(Monastery of Leyre)Click to enlarge(クリックして拡大)

この修道院の起源はっきりしません。しかし、西ゴート王国の時代(5-8世紀)から隠士たちの修行の場であったという説があるほど、レイレは瞑想の場にはうってつけの環境です。サン・サルバドール修道院が史料に登場するのは9世紀半ばのことで、蔵書を備えた立派な修道院として紹介されています。

11世紀半ばには、それまでのプレ・ロマネスクの建物の大改装が実現し、ロマネスク様式の修道院としての形が整ったようですが、その路線を敷いたのはサンチョ大王、ナバーラ国王Sancho Garcés-III(在位1004-1035)だとされています。

サンチョ大王の治世は、ナバーラ王国がアラゴンやカスティーリャまでを含む広大な地域に支配力を及ぼし、イベリア半島の一大勢力であった時期です。なおサンチョ大王は、これまでにご紹介したサン・フアン・デ・ラ・ペーニャ(San Juan de la Peña)修道院の再建やロアレ(Loarre)城の大改装に先鞭をつけたことでも知られるほか、クリュニー派との関係を深め有能な修道院長をフランスから招聘するなど、11世紀スペインの修道院改革にも関わりのあった人でした。

サン・サルバドール修道院は、ハカを経由するサンティアゴ巡礼路(アラゴン道)の霊場のひとつであり、ナバーラ王家との関係が深くその王廟でもあり、12世紀ころまでは王国の霊的活動の中心をなしていました。その点では、アラゴン王家の王廟であったSan Juan de la Peña修道院に共通するものがあります。

写真(2)は北方向から眺めた図ですが、手前が旧修道院の建物で現在はホテルに改造されています。左手の奥に見えるのは17世紀に建てられた新修道院で、いまも19名の修道僧が住む現役の修道院です。そして新旧の両修道院をつなぐ形で、鐘塔をそなえた教会が建っています。

後陣を眺める図
写真(3)東方から教会の後陣を眺めた図(Apse-East view of the church)

これは東から教会の後陣と鐘塔を眺めた写真ですが、後陣外壁には、鉄分や石英などを含んで赤みを帯びた大きな硬い石を使い、そのひとつひとつをたんねんに磨き上げ、丸みを持たせてしっかりと積み上げてあります。彫刻などの装飾にはいっさい頼らず、石のもつ重量感と、磨き上げた石の美しさを生かしきった壁面の仕上がりは見事です。
11世紀半ばのレイレの石工たちは、この硬い石に崇敬の念さえ覚えながら、力をこめて磨き上げ、積み上げていったのでしょう。見るからに力強い印象を与える後陣です。
この後陣の外壁は光線のぐあいにより、私が目にした赤みをおびた色ではなく、黄金色に映ることがあるそうです。

なお、上の方に3個、下の方に小さな4個の窓が見えますが、小さな4個の窓はクリプトの明り取り窓です。クリプトはよく地下礼拝堂と呼ばれるように、祭壇の地下に設けられるのがふつうですが、Leyreの教会は段差のある地形にあわせた二階建てで、一階部分がクリプトになっています。

クリプト
写真(4)クリプト(Cript)
写真(5)クリプト(Cript)
写真(6)クリプトの祭壇(Altar of cript)
写真(7)後陣の明り取り窓(Apse of cript)
写真(8) 中央の柱と柱頭彫刻(Column & Capital)
写真(9) クリプト柱頭彫刻(Capital of cript)
写真(10) クリプト柱頭彫刻(Capital of cript)

Leyreのクリプトは、教会の内陣(教会で聖職者が祭式を執り行う場所)の荷重を受け止め、内陣を下から支える構造物として設けられたものであり、あとになってその空間を修道士が礼拝堂として活用したもの、とする説があります。これまで私もいくつかのクリプトを訪ねてきましたが、これほどたくさんのアーチと支柱が立ち並ぶクリプトは見たことがありません。もともと礼拝堂として構想されたものではなかった、という意見にも一理あるような気がします。

200平米をこえる広さがあり、特に小さなクリプトではありませんが、一歩足を踏み入れると、まるで石壁とアーチと石柱で出来あがったた狭い迷路を巡るような印象です。柱頭の高さもばらばらで、どうも事前に細部にわたる設計図があったのではなく、現場で石を積みながら少しずつ手直しをしては、仕上げていったのではなかったか、という感じがします。この教会は、11世紀半ばのナバラの工匠たちにとっては初めて手がける大規模建築だったので、いろいろ手探りしながらの作業だったものと想像します。

石壁、アーチ、石柱、すべてが荒削りのままで、装飾としては、二人でやっと手が届きそうな巨大な柱頭に、単純な渦巻き文様がいくつか彫りこんであるだけです。しかしこの無骨な仕上げの石柱と柱頭彫刻が、手の込んだ微細な彫刻よりもかえって力強さを感じさせるのは、実に不思議です。
ふつう柱頭はとても手の届かない高さにあるか、あるいはSilos 修道院の場合などは、訪問者が柱頭彫刻に余り近づかないよう、ロープを周りに巡らせてあります。しかしこのLeyreのクリプトでは柱頭が目の高さにあり、ざらざらした柱頭彫刻を手でなぞってみることも可能です。そして、こうやってじっさいに石に触れたりしながらクリプト内を巡っていると、その重量感に圧倒されるほど、迫力を持つクリプトです


写真(11)クリプトの後方にある地下通路
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クリプトの後方にトンネル風の地下通路が設けられています。もともとは階上の教会とクリプトを結ぶ通路だったのでしょうが、いざと言う時には避難場所にもなったのでしょう。2011年11月のBlog記事でご紹介したLoarre城の教会もやはり二階建てで、敵に攻め込まれた時には、階下の礼拝堂が祈りの場から戦いの場に変わることを念頭においた設計になっていました。
中世の修道院は、寄進されたものを含めかなりの財宝を所持しているのが通例で、それだけに修道院も襲われた時への配慮は欠かせなかったようです。

西正面扉(Porta Speciosa)
写真(12)教会の西正面扉(Puerta Preciosa - Beautiful Gate of west facade)
写真(13)西扉中柱の彫刻(Capital of trumeau of west facade)
写真(14)西扉タンパンのキリスト・聖母・使徒の像(Figures of Christ & others on tympanum)
写真(15)西扉アーキボルトの彫刻(Carvings on archivolt - west facade)

クリプトの出入り口は後陣の側(東)にあり教会には直接通じていないため、いちど外に出て、修道院の敷地を半周するかたちで教会の西正面扉まで歩くことになります。
Leyreの西扉はスペイン語でPuerta Preciosaと呼ばれますが、Preciosaは、「美しい、素晴らしい、見事な」という意味です。日本語では「美麗の門」と訳されているようです。西扉の制作時期については諸説ありますが、後陣・クリプト部分よりほぼ1世紀あとの12世紀前半の作品とする説に従っておきます。

いまは石の地肌がむきだしになっていますが、もともとは派手な彩色をほどこし、ややどぎついくらい華美な彫刻群で埋め尽くされていたのでしょう。扉の前に立って見上げる彫刻は実に数多く、ずいぶん手の込んだ作品もあります。しかしあの後陣の外壁やクリプトの持つ迫力には及ばない、という感じがします。

サンティアゴ大聖堂の改装を手がけた、名工マエストロ・エステバンの作品も西扉を飾っているはずですが、あるスペインのロマネスク研究家が、「マエストロ・エステバンがLeyreの西扉の彫刻の一部を担当したという説は、時系列的に見てどうもおかしい」と述べているのをさいきん目にして、そうかも知れないという気がします。

この西扉が制作された時代背景を振り返ってみると、それは「戦闘王」Alfonso一世(アラゴン国王)がナバーラ国王を兼ね、イスラム勢力をアラゴン・ナバーラ地方から一掃し、領土を倍増させるなど、アラゴン・ナバーラ両王国が上昇気流に乗っていた時期でした。
また11-12世紀に爆発的に伸びたサンティアゴ巡礼に伴う人や物の動きは、その通路に沿ったナバーラ王国内の各地の霊場にもずいぶん経済的恩恵をもたらしたはずです。そして、より多くの巡礼者を呼び込むためにと聖遺物をかき集めたり、また教会の増改築を各地の霊場が競い合う風潮のあった時代ではないかと思います。

ナバーラ王国は、Alfonso一世の死(1134年)を機にサンチョ大王の末裔García Ramirezを王に擁立し、名実共に独立王国となります。しかし12世紀後半というのは、両脇をカスティーリャ王国とアラゴン=カタルーニャ連合王国という強力な二つの王国にはさまれたナバーラが、衰退の一途を辿り始める転換期でもありました。そして13世紀にはいると、ナバーラ王国の衰退にあわせるように、サン・サルバドール修道院も勢いを失っていきます。

教会内部の図
写真(16)教会内部(Interior of the church)
写真(17)教会(中央後陣-祭壇が手前に見える)Main Apse
写真(18) 教会(北後陣)North apse

写真(16)の正面奥に見えるのが祭壇のある中央後陣、それをはさんで左手に北後陣、右手に南後陣が見えます。教会内に視点をかぎれば、この三つの後陣部分をあわせて三廊で構成される内陣ということになるのだと思いますが、この内陣部分だけがロマネスク様式で、信徒たちの居場所である身廊部分は、ゴシック様式に改装されています。
なお内陣に対応する形で、その真下にクリプトが設けてあることは、先に申し上げた通りです。

ロマネスクの南門(礼拝堂への入り口)
写真(19)教会(ナバラ王家の霊廟)Pantheon of the Navarre kingdom
写真(20)教会(南礼拝堂への入り口)Romanesque south gate to the old chapel(view from the chapel)
写真(21)教会(南礼拝堂の柱頭彫刻)Capital of the Romanesque south gate

教会正面に向かって左側(北側)に、鉄柵に囲まれたナバーラ王家の王廟が見えます( 写真(19)。写真(20)は王廟の対面にあたる、南礼拝堂の入り口を礼拝堂の側から見た図です。この入り口はロマネスク期のものですが、もともとはたぶん教会の南入り口だったのでしょう。

サン・サルバドール修道院補足
写真(22) 旧修道院を改装したホテル・レストラン(Old monastery building converted to hotel-restaurant)
写真(23)レストラン内部(Restaurant-interior)
写真(24)Leyre修道院グレゴリオ聖歌隊のCD(CD of Gregorian Chant by Leyre's monks)   

スペインの修道院や教会に共通する苦難の歴史のひとつですが、サン・サルバドール修道院も19世紀半ばに、当時の自由政府の「教会改革」政策により、修道院の財産は没収のうえ競売に付され、修道会は解散を余儀なくされました。民間に払い下げられ、回廊が家畜置き場に使われたりしたロマネスク修道院が多かった中で、Leyreはナバーラ王家の王廟だったこともあり、比較的早い時期に再建が始まります。そして1954年にはサント・ドミンゴ・デ・シロス修道院の修道士の一部がレイレに移り、再び現役のベネディクト修道院として復帰しました。

元修道院と現役の修道院の違うところは、元修道院が博物館化しともすれば訪問客におもねるようなところがあるのに比べ、現役の修道院にはどこか張り詰めた雰囲気があることです。シロスの修道院はその最たるものでした。見事な柱頭彫刻の数々に見とれながら石畳の回廊を巡り歩いたとき、靴音が気になるほどの静けさと、回廊にみなぎっていた緊張感は忘れられません。

Leyreのサン・サルバドール修道院では、教会を拝観したあと旧修道院を改装したホテルのレストランで昼食をとりましたが、現役の修道院として節度を重んじることと、観光客を歓待することのバランスをうまくとっているのに感心しました。
LeyreもSilosと同じく、泊りがけの修道院生活を体験したい人には、信教を問わず(ただし男にかぎる)門戸を開いています。そして夕方のミサでは、毎日グレゴリオ聖歌を聴くことができるそうですが、残念ながら私たちはCDを記念に買い求めただけでした。また訪れてみたい修道院のひとつです。

(Summary of the Article)
The Monastery of San Salvador at Leyre is located about 50km east of Pamplona, Navarra.
Its origin dates back to prior to 9th century when the monastery of Leyre is mentioned in a docu ment.

A major renovation was done toward mid 11th century in a Romanesque style which was promoted by Navarre royal family, especially by Sancho Garces-III(Sancho the Great, 1004-1034). The Cript and the Chior are the parts which survived up to now out of this first major Romanesque renovation. In 12th century the magnificent West Gate(Porta Speciosa) was added which is also of Romanesque. In 17th century new monastery building was constructed.

The monastery maintained a close relationship with Navarre royal family and became its pantheon. It was also a center of the religious activities in Navarra until 12th century, but gradually lost its influence in 13th century.

The monastery of Leyre, same as many other Spanish monasteries, was once abandoned during mid 19th century due to the government's anti-clerical policy. However in 1954 a group of Benedictine monks from the Monastery of Santo Domingo de Silos reopened it. Currently it houses 19 monks.

The monastery is also a popular tourist site of Navarra. The old monastery building was converted to a hotel-restaurant open to the public. Also the visitors can enjoy Gregorian chant by Leyre's monks at every evening mass.