2012年9月1日土曜日

スペインロマネスクの旅(6) レイレのサン・サルバドール修道院(Monastery of San Salvador at Leyre)

レイレのサン・サルバドール修道院(Monastery of San Salvador at Leyre)

(スペイン全図)Map of Spain
(For summary in English please see the end of this article)

写真(1) レイレへの高原の道(The road to Leyre)

ナバーラ自治州の首都パンプローナから東に約50キロ、Yesaの町で国道をはずれさらに数キロばかり高原の道を走ると、標高1350米のArangoiti山を背に、Yesaの湖を見下ろすレイレ(Leyre, バスク語ではLeire)のサン・サルバドール修道院に着きます。


写真(2) 修道院全景(Monastery of Leyre)Click to enlarge(クリックして拡大)

この修道院の起源はっきりしません。しかし、西ゴート王国の時代(5-8世紀)から隠士たちの修行の場であったという説があるほど、レイレは瞑想の場にはうってつけの環境です。サン・サルバドール修道院が史料に登場するのは9世紀半ばのことで、蔵書を備えた立派な修道院として紹介されています。

11世紀半ばには、それまでのプレ・ロマネスクの建物の大改装が実現し、ロマネスク様式の修道院としての形が整ったようですが、その路線を敷いたのはサンチョ大王、ナバーラ国王Sancho Garcés-III(在位1004-1035)だとされています。

サンチョ大王の治世は、ナバーラ王国がアラゴンやカスティーリャまでを含む広大な地域に支配力を及ぼし、イベリア半島の一大勢力であった時期です。なおサンチョ大王は、これまでにご紹介したサン・フアン・デ・ラ・ペーニャ(San Juan de la Peña)修道院の再建やロアレ(Loarre)城の大改装に先鞭をつけたことでも知られるほか、クリュニー派との関係を深め有能な修道院長をフランスから招聘するなど、11世紀スペインの修道院改革にも関わりのあった人でした。

サン・サルバドール修道院は、ハカを経由するサンティアゴ巡礼路(アラゴン道)の霊場のひとつであり、ナバーラ王家との関係が深くその王廟でもあり、12世紀ころまでは王国の霊的活動の中心をなしていました。その点では、アラゴン王家の王廟であったSan Juan de la Peña修道院に共通するものがあります。

写真(2)は北方向から眺めた図ですが、手前が旧修道院の建物で現在はホテルに改造されています。左手の奥に見えるのは17世紀に建てられた新修道院で、いまも19名の修道僧が住む現役の修道院です。そして新旧の両修道院をつなぐ形で、鐘塔をそなえた教会が建っています。

後陣を眺める図
写真(3)東方から教会の後陣を眺めた図(Apse-East view of the church)

これは東から教会の後陣と鐘塔を眺めた写真ですが、後陣外壁には、鉄分や石英などを含んで赤みを帯びた大きな硬い石を使い、そのひとつひとつをたんねんに磨き上げ、丸みを持たせてしっかりと積み上げてあります。彫刻などの装飾にはいっさい頼らず、石のもつ重量感と、磨き上げた石の美しさを生かしきった壁面の仕上がりは見事です。
11世紀半ばのレイレの石工たちは、この硬い石に崇敬の念さえ覚えながら、力をこめて磨き上げ、積み上げていったのでしょう。見るからに力強い印象を与える後陣です。
この後陣の外壁は光線のぐあいにより、私が目にした赤みをおびた色ではなく、黄金色に映ることがあるそうです。

なお、上の方に3個、下の方に小さな4個の窓が見えますが、小さな4個の窓はクリプトの明り取り窓です。クリプトはよく地下礼拝堂と呼ばれるように、祭壇の地下に設けられるのがふつうですが、Leyreの教会は段差のある地形にあわせた二階建てで、一階部分がクリプトになっています。

クリプト
写真(4)クリプト(Cript)
写真(5)クリプト(Cript)
写真(6)クリプトの祭壇(Altar of cript)
写真(7)後陣の明り取り窓(Apse of cript)
写真(8) 中央の柱と柱頭彫刻(Column & Capital)
写真(9) クリプト柱頭彫刻(Capital of cript)
写真(10) クリプト柱頭彫刻(Capital of cript)

Leyreのクリプトは、教会の内陣(教会で聖職者が祭式を執り行う場所)の荷重を受け止め、内陣を下から支える構造物として設けられたものであり、あとになってその空間を修道士が礼拝堂として活用したもの、とする説があります。これまで私もいくつかのクリプトを訪ねてきましたが、これほどたくさんのアーチと支柱が立ち並ぶクリプトは見たことがありません。もともと礼拝堂として構想されたものではなかった、という意見にも一理あるような気がします。

200平米をこえる広さがあり、特に小さなクリプトではありませんが、一歩足を踏み入れると、まるで石壁とアーチと石柱で出来あがったた狭い迷路を巡るような印象です。柱頭の高さもばらばらで、どうも事前に細部にわたる設計図があったのではなく、現場で石を積みながら少しずつ手直しをしては、仕上げていったのではなかったか、という感じがします。この教会は、11世紀半ばのナバラの工匠たちにとっては初めて手がける大規模建築だったので、いろいろ手探りしながらの作業だったものと想像します。

石壁、アーチ、石柱、すべてが荒削りのままで、装飾としては、二人でやっと手が届きそうな巨大な柱頭に、単純な渦巻き文様がいくつか彫りこんであるだけです。しかしこの無骨な仕上げの石柱と柱頭彫刻が、手の込んだ微細な彫刻よりもかえって力強さを感じさせるのは、実に不思議です。
ふつう柱頭はとても手の届かない高さにあるか、あるいはSilos 修道院の場合などは、訪問者が柱頭彫刻に余り近づかないよう、ロープを周りに巡らせてあります。しかしこのLeyreのクリプトでは柱頭が目の高さにあり、ざらざらした柱頭彫刻を手でなぞってみることも可能です。そして、こうやってじっさいに石に触れたりしながらクリプト内を巡っていると、その重量感に圧倒されるほど、迫力を持つクリプトです


写真(11)クリプトの後方にある地下通路
Click to enlarge(クリックして拡大)

クリプトの後方にトンネル風の地下通路が設けられています。もともとは階上の教会とクリプトを結ぶ通路だったのでしょうが、いざと言う時には避難場所にもなったのでしょう。2011年11月のBlog記事でご紹介したLoarre城の教会もやはり二階建てで、敵に攻め込まれた時には、階下の礼拝堂が祈りの場から戦いの場に変わることを念頭においた設計になっていました。
中世の修道院は、寄進されたものを含めかなりの財宝を所持しているのが通例で、それだけに修道院も襲われた時への配慮は欠かせなかったようです。

西正面扉(Porta Speciosa)
写真(12)教会の西正面扉(Puerta Preciosa - Beautiful Gate of west facade)
写真(13)西扉中柱の彫刻(Capital of trumeau of west facade)
写真(14)西扉タンパンのキリスト・聖母・使徒の像(Figures of Christ & others on tympanum)
写真(15)西扉アーキボルトの彫刻(Carvings on archivolt - west facade)

クリプトの出入り口は後陣の側(東)にあり教会には直接通じていないため、いちど外に出て、修道院の敷地を半周するかたちで教会の西正面扉まで歩くことになります。
Leyreの西扉はスペイン語でPuerta Preciosaと呼ばれますが、Preciosaは、「美しい、素晴らしい、見事な」という意味です。日本語では「美麗の門」と訳されているようです。西扉の制作時期については諸説ありますが、後陣・クリプト部分よりほぼ1世紀あとの12世紀前半の作品とする説に従っておきます。

いまは石の地肌がむきだしになっていますが、もともとは派手な彩色をほどこし、ややどぎついくらい華美な彫刻群で埋め尽くされていたのでしょう。扉の前に立って見上げる彫刻は実に数多く、ずいぶん手の込んだ作品もあります。しかしあの後陣の外壁やクリプトの持つ迫力には及ばない、という感じがします。

サンティアゴ大聖堂の改装を手がけた、名工マエストロ・エステバンの作品も西扉を飾っているはずですが、あるスペインのロマネスク研究家が、「マエストロ・エステバンがLeyreの西扉の彫刻の一部を担当したという説は、時系列的に見てどうもおかしい」と述べているのをさいきん目にして、そうかも知れないという気がします。

この西扉が制作された時代背景を振り返ってみると、それは「戦闘王」Alfonso一世(アラゴン国王)がナバーラ国王を兼ね、イスラム勢力をアラゴン・ナバーラ地方から一掃し、領土を倍増させるなど、アラゴン・ナバーラ両王国が上昇気流に乗っていた時期でした。
また11-12世紀に爆発的に伸びたサンティアゴ巡礼に伴う人や物の動きは、その通路に沿ったナバーラ王国内の各地の霊場にもずいぶん経済的恩恵をもたらしたはずです。そして、より多くの巡礼者を呼び込むためにと聖遺物をかき集めたり、また教会の増改築を各地の霊場が競い合う風潮のあった時代ではないかと思います。

ナバーラ王国は、Alfonso一世の死(1134年)を機にサンチョ大王の末裔García Ramirezを王に擁立し、名実共に独立王国となります。しかし12世紀後半というのは、両脇をカスティーリャ王国とアラゴン=カタルーニャ連合王国という強力な二つの王国にはさまれたナバーラが、衰退の一途を辿り始める転換期でもありました。そして13世紀にはいると、ナバーラ王国の衰退にあわせるように、サン・サルバドール修道院も勢いを失っていきます。

教会内部の図
写真(16)教会内部(Interior of the church)
写真(17)教会(中央後陣-祭壇が手前に見える)Main Apse
写真(18) 教会(北後陣)North apse

写真(16)の正面奥に見えるのが祭壇のある中央後陣、それをはさんで左手に北後陣、右手に南後陣が見えます。教会内に視点をかぎれば、この三つの後陣部分をあわせて三廊で構成される内陣ということになるのだと思いますが、この内陣部分だけがロマネスク様式で、信徒たちの居場所である身廊部分は、ゴシック様式に改装されています。
なお内陣に対応する形で、その真下にクリプトが設けてあることは、先に申し上げた通りです。

ロマネスクの南門(礼拝堂への入り口)
写真(19)教会(ナバラ王家の霊廟)Pantheon of the Navarre kingdom
写真(20)教会(南礼拝堂への入り口)Romanesque south gate to the old chapel(view from the chapel)
写真(21)教会(南礼拝堂の柱頭彫刻)Capital of the Romanesque south gate

教会正面に向かって左側(北側)に、鉄柵に囲まれたナバーラ王家の王廟が見えます( 写真(19)。写真(20)は王廟の対面にあたる、南礼拝堂の入り口を礼拝堂の側から見た図です。この入り口はロマネスク期のものですが、もともとはたぶん教会の南入り口だったのでしょう。

サン・サルバドール修道院補足
写真(22) 旧修道院を改装したホテル・レストラン(Old monastery building converted to hotel-restaurant)
写真(23)レストラン内部(Restaurant-interior)
写真(24)Leyre修道院グレゴリオ聖歌隊のCD(CD of Gregorian Chant by Leyre's monks)   

スペインの修道院や教会に共通する苦難の歴史のひとつですが、サン・サルバドール修道院も19世紀半ばに、当時の自由政府の「教会改革」政策により、修道院の財産は没収のうえ競売に付され、修道会は解散を余儀なくされました。民間に払い下げられ、回廊が家畜置き場に使われたりしたロマネスク修道院が多かった中で、Leyreはナバーラ王家の王廟だったこともあり、比較的早い時期に再建が始まります。そして1954年にはサント・ドミンゴ・デ・シロス修道院の修道士の一部がレイレに移り、再び現役のベネディクト修道院として復帰しました。

元修道院と現役の修道院の違うところは、元修道院が博物館化しともすれば訪問客におもねるようなところがあるのに比べ、現役の修道院にはどこか張り詰めた雰囲気があることです。シロスの修道院はその最たるものでした。見事な柱頭彫刻の数々に見とれながら石畳の回廊を巡り歩いたとき、靴音が気になるほどの静けさと、回廊にみなぎっていた緊張感は忘れられません。

Leyreのサン・サルバドール修道院では、教会を拝観したあと旧修道院を改装したホテルのレストランで昼食をとりましたが、現役の修道院として節度を重んじることと、観光客を歓待することのバランスをうまくとっているのに感心しました。
LeyreもSilosと同じく、泊りがけの修道院生活を体験したい人には、信教を問わず(ただし男にかぎる)門戸を開いています。そして夕方のミサでは、毎日グレゴリオ聖歌を聴くことができるそうですが、残念ながら私たちはCDを記念に買い求めただけでした。また訪れてみたい修道院のひとつです。

(Summary of the Article)
The Monastery of San Salvador at Leyre is located about 50km east of Pamplona, Navarra.
Its origin dates back to prior to 9th century when the monastery of Leyre is mentioned in a docu ment.

A major renovation was done toward mid 11th century in a Romanesque style which was promoted by Navarre royal family, especially by Sancho Garces-III(Sancho the Great, 1004-1034). The Cript and the Chior are the parts which survived up to now out of this first major Romanesque renovation. In 12th century the magnificent West Gate(Porta Speciosa) was added which is also of Romanesque. In 17th century new monastery building was constructed.

The monastery maintained a close relationship with Navarre royal family and became its pantheon. It was also a center of the religious activities in Navarra until 12th century, but gradually lost its influence in 13th century.

The monastery of Leyre, same as many other Spanish monasteries, was once abandoned during mid 19th century due to the government's anti-clerical policy. However in 1954 a group of Benedictine monks from the Monastery of Santo Domingo de Silos reopened it. Currently it houses 19 monks.

The monastery is also a popular tourist site of Navarra. The old monastery building was converted to a hotel-restaurant open to the public. Also the visitors can enjoy Gregorian chant by Leyre's monks at every evening mass.