2013年8月26日月曜日

スペインロマネスクの旅(11) フロミスタのサン・マルティン教会(Romanesque Church of San Martín de Frómista)



フロミスタのサン・マルティン教会(Romanesque Church of San Martín de Frómista)

スペイン全図(Map of Spain)

(For the summary in English please see the end of this article)

Frómistaの町


 

写真(1)高速道路の標識(Road sign on the highway ''Camino de Santiago'')

 

写真(2)フロミスタの町で見かけた巡礼(Pilgrims at Frómista)

 

写真(3)フロミスタの巡礼たち(Pilgrims at Frómista)

サンティアゴ巡礼路の有名な霊場のひとつ、フロミスタ(Frómista)のサン・マルティン教会は、ブルゴスから  ''Camino de Santiago''  の愛称を持つ高速道路を走れば、1時間たらずの距離です。私たちが現地を訪ねたのは2年前の5月はじめでしたが、雲ひとつない青空と見渡すかぎりの緑の麦畑を背景に、旧道をひたすら歩く巡礼者たちの姿が印象的でした。フロミスタは人口800人ぐらいのの小さな町で、ピレネーからサンティアゴまで800キロをこえる巡礼路(フランス道)の、ちょうど真ん中あたりに位置しています。

中世にはフロミスタの町は交通の要所で、15世紀ころまで救護所など巡礼者の受け入れ施設があり、多くのサンティアゴ巡礼者でにぎわっていました。
写真(4) サン・マルティン教会(Church of San Martín de Frómista)


フロミスタのサン・マルティン教会(San Martín de Frómista)
サン・マルティン教会は、ナバラ王国のムニア王妃(Munia)が、夫のサンチョ大王が1035年に亡くなった後、余生を出身地のカスティーリャで過ごすために建てさせた、とされる修道院の付属教会ですが、修道院の建物はいまは失われ、教会だけが残っています。
1066年付けのムニア王妃の遺言状に、フロミスタの修道院に財産を寄進する旨の記述があるため、サン・マルティン教会はハカ大聖堂などと同じく、11世紀後半のスペイン・ロマネスク聖堂の代表作、との見方がかつては有力でした。しかし最近はその様式などから判断して、教会そのものはムニア王妃が亡くなってからさらに数十年あと、すなわち12世紀にはいってから建てられたもの、というのが通説のようです。

写真(5)北側から見た図(North view)
写真(6)西塔と西扉(West tower)
写真(7)南面と教会入り口(South view and entrance)
写真(8)東面(後陣)(East view-apse)

サン・マルティン教会は、遠くから眺めても近くで見ても、均整のとれたまことに美しい姿ですが、実はげんざい私たちが目にする建物は、20世紀はじめに建築家マヌエル・アニバル・アルバレス(Manuel Aníbal Álvarez)の手で、建て替えに近い大改修が行われたものです。
北壁側に古い姿がすこし残っていると言われますが、西塔も西扉も20世紀の作です。南壁面の右手にある小さな扉が、ふだんは教会入り口として使われています。
サン・マルティン教会は、19世紀までは教区教会として現役であったようですが、いまは祈りの場ではなく、むしろ巡礼路の名所のひとつとして有名な存在です。

改修について

写真(9) 改修前(19世紀末)の教会の模型-南東図(Model of the chuch before reconstruction)

写真(10) 改修前の教会の模型-南西図(Model of the chuch before reconstruction-SW view)



改修前の姿を再現した模型(写真-9,写真-10)が教会の中に陳列してありますが、それを見ると、交差部の塔の上に鐘楼が乗せられ、鐘楼に通じる屋根つきの通路が作りつけてあったり、また南壁側の翼廊には白壁づくりの聖具保管室を建て増すなど、19世紀末のサン・マルティン教会は、ロマネスク様式とは似て非なる姿になっていたことがよく分かります。おまけに屋根が一部陥没し、建屋全体の崩壊も懸念される状態であったらしく、建て直すしかないとの結論に至ったのも無理からぬところです。



Manuel Aníbal Alvarez(1850-1930)は、1873年にマドリッド建築学校を卒業後イタリア・フランスで学び、母校で教鞭をとるかたわら、中世の教会の修復を手がけた人です。彼が活躍した19世紀末頃のヨーロッパの文化遺産修復に関する考え方は、「かくあるべき姿」を再現することに重きが置かれていたようで、そのためサン・マルティン教会の場合も、「その本来あるべき美しい姿を再現する」との考えで、修復よりはむしろ改修に重点が置かれました。その結果、廃墟になりかねない状態だったサン・マルティン教会が、美しいロマネスク様式の姿を「取り戻した」わけです。



ただ問題は、Aníbal Alvarez19世紀末の時点で推定したサン・マルティン教会の「あるべき姿」が、果たして本来のなのかどうかは誰にも分からないこと、また改修から100年のちのわれわれの目には、工事現場の管理に不十分な点があり、そのためオリジナルと修復部分の判別が難しくなっているなど、時代特定のための大事な手がかりが失われてしまったことでしょう。

柱頭彫刻のうち ''R'' 記号を記したものは、Réprica(複製)すなわち改修時に刻んだ現代の作品ということですが、中にはR記号のない複製もまじっているらしく、そんなところから、これは修復ではなく「改ざんである」などの酷評が生まれてくるゆえんです。



サン・マルティン教会の改修をめぐる論議は、各地のロマネスク教会を訪ねていつも感じる、文化遺産の「修復」はどこまで許されるべきか、という疑問に通じる大きなテーマでもあります。

軒持ち送り装飾(Modillion)
写真(11) 軒持ち送り装飾(Modillion)

写真(12) 軒持ち送り装飾(Modillion)

写真(13) 軒持ち送り装飾(Modillion)

写真(14)  軒持ち送り装飾(Modillion)



たんねんに数えた人の話では、300個ぐらいの持ち送り装飾が教会の軒下に刻んであるそうですが、やはりこれだけ手の込んだ装飾が施されたのは、サン・マルティン修道院がカスティーリャ王国と縁のある、格式ある修道院だったことを物語っているのだと思います。持ち送り装飾の大半はロマネスク時代のものですが、一部は現代の作がまじっているようです。

教会内部(Interior of the church)

写真(15)  身廊(Nave view towards altar)

写真(16)  中央後陣(Central apse)

写真(17)  左側廊(奥に改修前の模型が見える)(Left aisle)



教会の中に入ってまず感じるのは、ロマネスク教会特有のくすんだ色ではなく、全てが洗われたように真っ白で明るい感じがすることです。全長28m、横幅12m、天井高7 mと、それほど大きな規模の建物ではありませんが、教会のなかは広々とした印象を与えます。

柱頭彫刻(Capitals)

教会内には50個の柱頭彫刻がありますが、その中にはR記号のついた複製品もかなり含まれています。またR記号がついていないもので、素人目にもこれは複製では、と思わせるものがいくつか混じっているのは、ちょっと残念です。



私の目にとまった柱頭彫刻の中から、いくつかを選んでご紹介します。しゅろの葉などの植物文様をあしらったものが数も多く、また仕上がりの良い作品が目に付きます。


写真(18)  パルメット文(しゅろ葉文) Palm leaves pattern

写真(19)  植物、動物、人物の組み合わせ(Plant, animal, persons)

写真(20)  アダムとエヴァ(複製))(Adam & Eva - Réplica)。''R''記号の付いた複製にしては、良く出来ています。

写真(21)  しゅろの葉(Palm leaves)

写真(22)   人物(Persons)

写真(23)  しゅろの葉と人物の顔(Palm leaves & a human head)

写真(24)   イソップ物語ーカラスと狐(Tales of Aesop-crow and fox)

写真(25)  ライオンの乗った桶をかつぐ男たち(Men carrying a barrel with a lion on top)

写真(26)  からみあった茎(Stems interwound)

Munia王妃について

この記事を書きながら私が興味をそそられたのは、フロミスタのサン・マルティン修道院の創建に力をつくした、Muniaナバラ王妃の生涯でした。 Munia, Muniadonna, Doña Mayorなどいろいろな呼び名を持つ人ですが、995年カスティーリャ伯の長女に生まれ、1010(15)でナバラ王国のSancho大王(Sancho Garcés-III, 990-1035)に嫁ぎ、1012年長子García1016Fernando1020Gonzalo3人の男児を産みました。

そして小国ナバラが、東はピレネー山麓から西はガリシア海岸まで、イベリア半島北部の広大な地域に影響力を有していたころ、すなわちナバラ王国の黄金時代を王妃として過ごした人です。遺言書の日付が没年とすれば享年71歳、今なら百歳に近い長寿を全うした、ということになります。



しかし11世紀のイベリア半島は、レコンキスタ(対イスラム戦)のみならず、キリスト教徒領主や身内どうしが、互いに覇権を求めて争う戦国の世でもありました。Muniaは父を1017年に亡くしたあと、カスティーリャ伯を継いだ唯一の弟も、1029年に19歳で暗殺されるなど、身内を早く亡くしています。そして、1035年サンチョ大王の死により、ナバラ王国は庶子のラミロ (のちのアラゴン王RamiroI)を含む4人の息子たちの間で分割相続されますが、こんどは息子たちの間で領土を巡る反目が起き、長子ガルシア、末子ゴンサロと二人の実子に先立たれてしまいました。



そんなMuniaにとって、フロミスタに修道院を建て生国カスティーリャに帰るというのは、年老いてのちの郷愁にかられての行動ではなく、早くから将来を見通したうえで、「いざという時に頼るべきはカスティーリャ」との判断を下していたのではないか、という気がします。

政略結婚で嫁いだ先は、夫亡き後はしょせん異国であり、住み心地がよいはずはありません。一方カスティーリャには、嫁資として持たされた領地その他の資産もあり、もともとMuniaはナバラ王妃でなければ、弟の死後はカスティーリャ伯を継承していたはずの人で、フロミスタのあたりはわが領地という感じもあったことでしょう。

それに加えて、カスティーリャ伯を引き継がせた次男Fernando(のちのレオン・カスティーリャ国王フェルナンドI)の支配圏にあることから、修道院を建てるに際しても、カスティーリャ王家よりなんらかの支援が得られたのではないか、と推測します。



そう考えると、Muniaがフロミスタをさいごの地と定め、そこに修道院を建てようと行動を起こしたのは、晩年ではなく1035年のサンチョ大王の死からあまり遠くない時期ではなかったか、という気がするわけです。よく言われる「Muniaは晩年をFrómistaで過ごすため生国のカスティーリャに戻った」とは、「晩年になって戻った」のではなく、晩年のことも考慮にいれたうえ、まだ気力も体力も衰えないうちにフロミスタに住み着き、修道院創建に尽力したのではないか、と私は想像します。


なおフロミスタに建てたのは女子修道院ではなく、ベネディクト派の修道院であり、Muniaはその近くに住居を構え、覇権争いの犠牲となった一族や、自らの救いを修道士たちと共に祈りながら、晩年を過ごしたのだろうと思います。


Muniaスペイン中世史の脇役の一人に過ぎぬため、その生涯の記録はあまり目に付きませんが、フロミスタのサン・マルティン修道院教会という傑作を後世に残したことで、その名を歴史に刻むことになりました。




(Summary in English)

Church of San Martín de Frómista

The town of Frómista(province of Palencia) is located in S.W. of Burgos. It's one hour drive from Burgos taking the highway with the nick name of  ''Camino de Santiago''.

The Romanesque church of San Martín was part of the monastery founded in Frómista during 11th century by Munia, widow of King of Navarre and daughter of Count of Castile.   



Munia(995-1066), often called Muniadonna or Doña Mayor, decided to return to her land of Castile after the decease of her husband, Sancho el Mayor, king of Navarre, and founded the monastery at her place of retirement. In her will dated 1066 her properties were donated to the monastery for the construction of a new church which was finished in early 12th century in beautiful Romanesque style. 



At the end of 19th century the monastery had disappeared and the church building was almost crumbling after a series of ill designed reform as shown by the model(Photos No.9, No.10).

The current church building is the result of  reconstruction work carried out in early 20th century by professor Manuel Aníbal Álvarez (1850-1930) of Madrid School of Architecture, expert in restoration of medieval churches.



San Martín church ''recovered'' its beautiful Romanesque style and was reopened to the public in 1904. It's one of the successfully restored Romanesque churches I've visited, but it was not without criticism for its aggressive restoration policy.

Out of 50 capitals there are some with markings of ''R'' which means replicas. But unfortunately there are some other replicas which do not bear R marking. Apparently during process of restoration the control was not adequate in keeping track of what was original and what was added.



San Martín de Frómista church has ceased to be a place of worship since the restoration, but it remains very popular among contemporary pilgrims as well as tourists.