2017年11月11日土曜日

カタルーニャ独立宣言の謎



カタルーニャは本当に独立する気なのか


スペイン中央政府の禁止令を無視するかたちで、カタルーニャの分離独立を問う住民投票が実施された101日から、州議会でカタルーニャの独立宣言が採択された1027日までの4週間は、私が住むカナダのテレビでも、連日バルセロナからの映像が流れていた。

しかし急ぎすぎた独立宣言は、スペイン中央政府によるカタルーニャの自治権停止措置、すなわち州議会の解散と州政府首脳の罷免、そして州政府が中央政府の直接管理下に置かれる、という事態をまねき、カタルーニャ独立運動は宙に浮いてしまった感がある。

国民党のラホイ政権が、州議会の解散を命ずる一方で、まじかの1221日に新たな州議会選挙を設定したことで、中央政府の介入に対しては、長期にわたるデモやストで対抗する姿勢を見せていた独立派も、足をすくわれた格好になった。
そして、罷免されたプッチダモン州首相が、前閣僚数人を伴い10月末にベルギーに脱出してから2週間が過ぎたいま、カタルーニャ独立問題は、北米ではもはや話題にのぼらなくなってしまった。ニュースのサイクルは本当に短い。

副首相をはじめとする独立推進派の首謀者が反逆罪などの容疑で拘留されているため、その釈放を求めるデモやストなどが散発的に起きてはいるが、懸念されていた州政府官僚の抵抗も目立たず、中央政府による直接統治はたいした混乱もなく推移しているようす。
憶測記事らしいが、ラホイ首相は、拘留中のジュンケラス前副首相ほか数名の独立派首脳を早めに釈放し、「州議会選挙が弾圧の下に行われた」などの批判をかわすつもりでは、との見方も報道されている。

ということで、事態はいちおう落ち着いたように見えるが、実態は「1221日の州議会選挙まで一時休戦」ということだろう。もしも独立推進派が再びカタルーニャ州議会で過半数を占める選挙結果になった場合に何が起きるか、それは誰にも分からない。
過去のカタルーニャでの世論調査を見ると、500万人あまりの有権者のうち、独立を支持する人は50%に満たない。したがって、1027日の一方的な独立宣言が過半数の州民の支持を得ている、とも言いがたいのが実情だ。

カナダの憲法には、連邦を構成する各州に分離独立の権利を認める、世界に類を見ない条項がある。しかしそのカナダでも、「一方的な分離独立宣言は違法」という最高裁の判断が1998年に出ている。すなわち州の独立には、連邦政府との交渉を通じて合意に達することが求められている、ということだ。
どうみても、カタルーニャ州の一方的な独立宣言には無理があり、しかも独立のための環境が何も整っていない状況であっただけに、まさしく謎の独立宣言であった。

ひと昔まえ、スペインでは社会労働党が政権の座にあり、カタルーニャの人たちが長年望んでいた、自治憲章の改定が実現しそうな雰囲気にあった。バルセロナの友人たちが「自治拡大か独立か」について、けんけんがくがくの議論をしていた場で、「しかし、カタルーニャはスペインの一部なんだから......」とつい口を滑らせてしまった私にむかって、ふだんは物静かな白髪の友人が「スペイン内戦の歴史も知らぬ外国人の君に、何が分かるか」と指をふるわせながら、くってかかってきたことがある。
カタルーニャの人たちが、独立を語ると激してくるのは、「税金を中央政府に払いすぎている」というお金の問題だけでは終わらない、もっともっと心の奥底を揺さぶられる、民族としての尊厳を踏みにじられた記憶がよみがえってくる、そんなやるせなさがあるからなんだろう。

しかし、ケベックでも住民の大半が「自分はケベック人であり、またカナダ人でもある」と考えているのと同じく、住民の大半が「自分はカタルーニャ人であり同時にスペイン人でもある」と考えるカタルーニャで、議会の多数決にだけ頼っておし進める独立は、半数の住民に「カタルーニャ人かスペイン人か、どちらかを選べ」と強制するに等しい。それは隣近所の付き合いや友人関係を「独立賛成派と反対派」に引き裂いてしまう。もうすでにその兆候が見えている。ずいぶん酷な話だと思う。

ケベックの分離独立問題に関するカナダ最高裁の意見でも「ケベックは、連邦を構成する他の州に対して、自決権を根拠にみずからの分離独立を押し付けることはできない。一方的な独立宣言は、連邦制度ならびに法の原則に照らして違法である。また民主主義とは、単純な多数決の原理ですべてをとり進めることではなく、少数意見に対する十分な配慮が欠かせない」という趣旨の文言がある。

しかも独立は大変コストのかかる話である。スペイン国の累積債務はGDP100%近くまで積み上がっており、日本円にして150兆円ぐらいある。カタルーニャの独立推進派は一切負担しないと主張しているようだが、実際に独立となれば、GDPあるいは人口比で何十兆円かを分担せよ、との話が出てくると考えるのが常識だろう。

しかもカタルーニャ州政府の台所事情を見ると、長年の赤字財政で借金が積み重さなっていて、州債の格付けはジャンク・ボンド扱い。そのため金融市場での資金調達の道が絶たれている。したがって、中央政府からの短期融資の借り換えを頼りにして、毎年の予算を組んでいるのが実態。
格付け会社の「カタルーニャの見通しはネガティブ」との最近の警告を勘案すれば、「独立により税収が増え、州債の格付けも良くなる」との独立派の説明は、楽観的過ぎると思う。
EUはカタルーニャ独立を支持するだろう」との前提で、全てを進めてきたらしいが、通貨、徴税、財政、通商、外交、国防などなど、独立国として最低求められる課題について何も具体策を示せないまま、過激派の意見に引きずられて独立宣言だけが出てしまった、という風にしか見えない。

国民党のラホイ首相は、10年くらい前の野党党首時代に、カタルーニャ自治憲章の改定に徹底して反対し、すでに国会で承認済みだった憲章改訂について、保守派が支配する憲法裁判所から違憲判決を2010年に取り付け、新憲章を潰してしまった張本人である。最近の世論調査でも、カタルーニャ人の90%が「ラホイ首相は信用できぬ」と答えている。
国民党はフランコ独裁政治のしっぽを引きずっている政党で、強力な中央集権をよしとする政治観に立っている。しかも国民党をめぐる汚職問題で窮地に立たされていたラホイ首相は、カタルーニャに対して毅然とした態度を示すことで、支持率回復につなげようとしているかのように見える。
ラホイ政権が続くうちは、独立はむろんのこと、カタルーニャのさらなる自治権の拡大も、ひと筋縄ではいきそうもない環境にある。

カタルーニャ人が独立を切望する気持ちはよく分かるし、独立運動がこれからも続くことはまちがいない。しかし、分離独立にともなうコストには口をつぐみ、声高に独立を叫ぶだけの政治家は、たとえ意図していなくとも、切実な日々の問題から有権者の目をそらす結果をまねいていないだろうか。
独立を追求するには、それなりの犠牲やコストを覚悟する必要があるし、もし実現するにしても、何世代もの長い時間がかかるやもしれぬ話であろう。カタルーニャの人たちは、本当にそこまで腹をくくったのだろうか。

この2ヶ月くらいの間に2000社をこえる企業が、登記上の本社をカタルーニャからマドリッドその他に移転している。ほとんどが登記上の移転にとどまり、実際に本社機能まで移したケースは少ないようだが、1980年代にケベックで独立の動きが盛んになった時、企業のトロントへの大移動が起き、モントリオールの凋落が始まった。
バルセロナで似たようなことが起きないことを、私は心から祈っている。


(補足)
いまから10年前、いささか泥縄でスペイン内戦の歴史をたどり始めたころ、バルセロナ大学の名誉教授で心理学者、というよりむしろカタルーニャを代表する知識人のひとりとしてその名を知られた、故ミケル・シグアン教授にお目にかかる機会があり、同氏のスペイン内戦回想録『20歳の戦争』の著書を頂いた。
内戦回想録にはめずらしく、さわやかな読後感をもたらすその内容に感服して、シグアン教授のご了承をいただき、その翻訳をネット上で紹介しようと考えたのが、そもそもこのブロッグを10年前に立ち上げた背景だった。
20歳の戦争』は、さいわい共訳者の内田吉彦氏のお力で出版が実現し、ネット上で紹介の必要はなくなったが、ブロッグの方は、スペイン内戦についての私の覚え書きを記すようなかたちで始めることにした。

カナダに住みながら、最近はスペイン・ロマネスクを話題にしている私のブロッグで、なぜカタルーニャの独立問題を取り上げるのか、そしてなぜ『20歳の戦争』の表紙をブロッグのデザインに配しているのか、疑問を持たれる方がいるかも知れないので、ちょっと補足しておきます。

なおスペイン内戦がカタルーニャ人にとっていかにトラウマになったか、その背景となる内戦末期のカタルーニャの状況や、大量に発生したフランスへの亡命者たちについては、『スペイン内戦の旅(3)亡命者たちの長い旅』ですこし触れているので、あわせお読みいただければ幸甚です。
  






2017年10月12日木曜日

スペインロマネスクの旅(16) -Zamoraから Toroへ-

サモラ(Zamora)とトロ(Toro)のロマネスク教会訪ねる旅


 Photo: サンティアゴ巡礼路の道路標識(Road sign of El Camino)


Photo(1)サモラの夕景(Bell tower & Storks, Zamora city)

サモラ県都のサモラ市は人口万人、ローマ時代にさかのぼる古い町です。
サモラを経由してスペイン西部を南北につなぐ「銀の道」は、ローマ帝国時代に整備されたものですが、いまはサンティアゴ巡礼路のひとつとしてその名を残しています。
前回と前々回にご紹介した、Santa Maria de Moreruera修道院や Santa Marta de Tera教会も、この巡礼路沿いの聖所として、中世には多くの巡礼者が詣でた場所でした。

サモラ市からポルトガル国境までは60キロ、ポートワインで有名なオポルト市は、ドゥエロ川を西に下って300キロ。道路が整備されていなかった中世には、水運によるポルトガルとの交流も多かったはずです。

Google Map(Zamora & Toro)

サモラのカテドラル(Cathedral of Zamora)

サモラに司教座が設けられたのは、10世紀初めころのようですが、現在の大聖堂は12世紀半ば頃、ロマネスク様式で建てられたものです。しかしその後のたび重なる改装により、創建時の姿をそのまま残しているのは、教会内の一部(特にドーム)と、「司教の門」と呼ばれる南門ぐらいです。
くもの巣みたいな文様の、16本のリブを備えたドームは、トロの聖堂やサラマンカの大聖堂にも共通するスタイルですが、いちど見たら忘れられない、実にユニークなものです。

 Photo(2)大聖堂入り口(Entrance of the Cathedral)


 Photo(3)主祭壇とドームの図(Main Altar & Dome)


Photo(4)ドーム(Dome)

南門(司教の門)South gate( Bishop’s gate)
「司教の門」の別名を持つカテドラルの南入り口は、12世紀半ばの創建時の姿を保っていますが、フランス・ロマネスクの強い影響を感じさせるものがあります。入り口の左右に小さなアーチ状の装飾があり、そのタンパンにあたる箇所に、聖母マリア像(右側)と聖パウロ・使徒ヨハネらしい像(左側)が彫りこんであります。

 Photo(5) 南門(South gate, ‘’Bishop’s Gate’’)


 Photo(6) 南門-右側(South gate - right side)


 Photo(7) 聖母マリアとイエス像(Saint Mary with Jesus)


 Photo(8) 南門―左側(South gate - left side)


Photo(9) 聖パウロ・使徒ヨハネ(と思われる)(Saint Paul & Apostle John)


聖マリアマグダレナ教会(Church of Saint Mary Magdalena, Zamora)

カテドラルから5分くらいの旧市街にある、聖マリアマグダレナ教会(Santa María Magdalena)は、13世紀初めころの、スペイン・ロマネスク様式がほぼ終わりかけた時期の教会です。巡礼の看護で知られる聖ヨハネ騎士団に所属していたそうですが、彫刻で埋めつくされた華やかな正面入り口が有名です。

 Photo(10) 後陣の眺め(Santa María Magdalena - Apse)


 Photo(11) 聖マリアマグダレナ教会ファサード(Facade)


 Photo(12) 正面入り口(Main gate)


Photo(13) アーキボルト拡大図(Close up of archivolt)

Zamoraの旧市街(Old city quarter of Zamora)

私たちが滞在したホテル(Parador de Zamora)は、いまでも石だたみの古い通りが残る旧市街にあり、ドゥエロ川がすぐそばに見えます。カテドラルまでは歩いて10分たらず、昔ながらのパン屋だの民芸品の店などがすこし目に付くだけで、人通りも少ない静かな界隈でした。
スペインのパラドールは、もともとは国営の高級ホテルチェーンで、その多くが中世のお城や修道院や貴族の邸宅などをホテルに改装したものでした。しかし、1991年に独立した公企業として再編されてから、すこし経営方針が変わったのでしょうか、外見はふつうのホテルと変わらないパラドールも見うけられるようになりました。私たちがサモラで泊まったのは、15世紀の貴族の館を改装した伝統的な4つ星のパラドールで、料金は一泊€80(1万円)くらいでした。

 Photo(14)ドゥエロ川を旧市街から眺めた図 (View of the Duero river)


 Photo(15) サモラ旧市街(Old street of Zamora)


                                               Photo(16) 昔ながらのパン屋(Bakery)

 Photo(17) 記念品を売る店(Souvernir shop in old city quarter)



Photo(18) パラドール入り口(Entrance of the Parador - 15th C. Mansion)


トロの町(Toro city - Collegiate Church of Santa María La Mayor)

トロ市はサモラから東に40キロ、人口9,000人くらいの町ですが、立派なロマネスク教会(サンタマリア・ラ・マイヨール教会)があることで知られています。サモラと同じくローマ時代からの古い町でもあります。

Photo(19) 教会に通じる道(View of the street to the church - Toro)

サンタマリア・ラ・マイヨール教会

教会の建設時期はサモラのカテドラルとほぼ同じころ、すなわち12世紀後半で、ピレネーの北から輸入され遅れて始まったスペインのロマネスクも、しだいに終わりに近づきつつあったころでした。サモラの大聖堂と同じく独特のドームが目に付きます。

 Photo(20) サンタマリア・ラ・マイヨール教会(Collegiate Church of Santa María  
                                La Mayor)

 Photo(21) 東面図(Apse)


 Photo(22) ドームを眺める図(View of the Dome)


 Photo(23) 南門(South Gate)


 Photo(24) 教会内部(Church – interior)


Photo(25) ドーム(Dome - inside)


 Photo(26) *北門(North Gate) 

「栄光の門」の別名を持つ西門(West gate – ‘’Puerta de la Majestad’’)           サンタマリア・ラ・マイヨール教会の西門は華やな彫刻で埋まっていますが、13世紀末のゴシック時代のものです。

Photo(27)ゴシック様式の西門(West gate - Gothic style of late 13th C.)


ドゥエロ川(View of the Duero river)

サンタマリア・ラ・マイヨール教会に面した広場は高台になっていて、
そこから見下ろすドゥエロ川の展望は見事です。画面のまんなかに見えるのが中世からの「トロの大橋」ですが、「ローマの橋」と呼ばれることもあるのは、ローマ時代に木製の橋でもかかっていたからでしょうか。
トロは小さいながら、なかなか味わいのある町でした。


 Photo(28) 教会前広場からの展望(View of the Duero river)


 Photo(29) ドゥエロ川にかかる「トロの大橋」(Medieval stone bridge on the Duero river)


Photo(30) 道端をいろどるヒナゲシの花(Amapola flower)

*The photo(26) of the North Gate is courtesy of Mr. José Luis Filpo Cabana of Spain

2017年8月31日木曜日

スペインロマネスクの旅(15)モレルエラのサンタ・マリア修道院 Monastery of Santa Maria at Moreruera


モレルエラの聖母修道院跡 Monastery of Santa Maria at Moreruera(Zamora, Spain)

前回のサンタマルタ・デ・テラ教会を後にして、サモラ(Zamora)に向かう車中から‘’サンタマリア修道院まで3.7キロ‘’という道路標識が目についたので、「ちょっと回り道をしてみよう」ということになり、柵の中で放牧の牛がのそのそ歩いている姿を横目に見ながら、でこぼこ道をしばらく行くと、サンタマリア修道院の廃墟にたどりつきました。         
予定外だったので修道院については何も知らず、廃墟に身をおいた時に痛感する迫力に見とれただけでしたが、あの廃墟の持つ強烈な印象というのは、前々回のSant Pere de Rodes修道院をはじめて訪れた時、それと何十年も前のバルセロナで、未完というよりまるで爆風で壊れてしまったかのような、サグラダファミリア教会の前に立った時に、それぞれ感じたものでした

 Photo(1) サンタマリア修道院跡(教会の南側壁) Church wall of the Monastery(SW view)

Photo(2) 修道院跡への道路標識 Road sign to the Monastery




サンタマリア修道院は12世紀の半ばころ、サモラ市(Zamora)の北40キロくらいの人里離れた場所に建てられた、シトー会傘下の大修道院で、200名の修道士を収容していたそうです。
Photo(3) 修道院西面図 West view of the Monastery(right door is the main entrance of the church)


付属教会も長さ63メートルと大聖堂なみの巨大なものでした。
Photo(4) 修道院付属教会(西門から内陣方向を眺めた図) The church(view towards the chancel)


内陣の奥に巡礼のための周歩廊と七個の小アプス(祭室)を設け、内陣で執り行われる礼拝の儀式と切り離す、巡礼路の大教会の構成になっていますが、西部スペインを南北につなぐ、いわゆる「銀の道」にそった聖地のひとつとして、数多くの巡礼者が訪れる修道院だったのでしょう。
Photo(5) 内陣から週歩廊を見る図 View of the chancel towards ambulatory


次の写真は回廊があったと思われる場所から、教会を眺めた図ですが、たぶん石柱類は建材として売り払われたか、誰かが勝手に持ち去ってしまったのでしょう、いまは全く何も残っていません。もっともシトー会聖堂の常として、装飾類は修業の妨げと見なされていたことから、たぶん柱頭彫刻などに見るべきものはなかったのでしょうが。
 Photo(6)回廊跡から教会を見る図 (View from the cloister)

シトー会は働く修道士の集団とされていますが、人里離れた大修道院ともなれば、助修士と呼ばれて、保有地の農耕、家畜の世話、調理などなど、修道院の雑用を担う人々が、修道士とほぼ同じくらいの人数必要だったはずです。ということで、最盛期の13世紀ころのサンタマリア修道院では、何百人という人たちが日常院内を行き来していたことでしょう。この扉はたぶんその人たちの居住区と回廊や教会ををつなぐ、出入り口のひとつだったと思われます。
Photo(7)修道院内の扉口のひとつ (One of the doors in the Monastery) 

サンタマリア修道院は、いまは教会の内陣・後陣部分と建物の壁の一部が残るのみで、コウノトリがあちこちに巣を作る廃墟です。ただし残された石壁の重量感、物量感にはただなならぬ迫力があります。
Photo(8)修道院北面図 North view of the Monastery


私がサンタマリア修道院を訪ねたのは雨模様の日で、広い敷地を駆けずり回っているうちに雨が降り始め、あわてて車に逃げ込むしまつでした。そんなわけで、立派な後陣(7箇所の小アプス)の写真をとりそこなってしまいました。
ということで、スペインのTamorlans氏の写真をWikicommonsから引用させていただき、修道院の復元模型とあわせご紹介します。
Photo(9) 教会東面図 (East view of the church) by Tamorlan(Exterior de Santa María de Morerurea)

Photo(10)修道院復元模型(Model of the Monastery) by Tamorlan(Maqueta de la cabecera)
 https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Maqueta_del_Monasterio_de_Santa_Mar%C3%ADa_de_Moreruela_(detalle).JPG


サンタマリア修道院が廃墟になってしまった背景

サンタマリア修道院は、13世紀の最盛期を過ぎたあと、しだいに衰退を続けたようですが、決定的だったのは、多くのスペインの修道院や教会と同じく、19世紀半ばの国のデサモルティサシオン(desamortización永代財産解放)政策により、財産を没収され修道院が解散させられたことでした。

スペインのロマネスク教会の歴史をたどると必ず出会うのが、「19世紀のデサモルティサシオンにより、当修道院は壊滅的な打撃をこうむった」という記述です。
戦後の日本で農地改革が行われ、広い農地を保有する不在地主は消滅しましたが、スペインでは、19世紀半ばに国が修道院や教会の全ての財産を取りあげ、それを競売に付すという手荒な政策を実行したわけです。フランスでも1789年の革命のあと、教会が競売された例はあるようですが、スペインの場合は国策として徹底して実行に移した結果、ほとんどの修道院と多くの教会の建物が放棄され、宗教美術の作品や石柱類まで売り払われたり、略奪の対象になったりして、その多くが散逸してしまいます。

永代財産解放策がとられた時代背景には、19世紀はじめの反ナポレオン戦争を通じて、政治的な自由化を求める気運がスペイン国内で広まり、立憲君主制に基づく自由主義を志向する政権が実現して、教会改革を含む一連の自由化政策を実施し始めたこと。またそれへの反動として旧体制(絶対王政)への回帰を求める勢力が反乱を起こし、「カルリスタ戦争」と呼ばれる長い内戦に発展したことがあります。                                                  

もともと財政難の問題を抱えていた政府は、民衆の教会や聖職者に対する反感を利用して、大地主でもあった修道院や教会の財産を没収したうえで、自由化経済推進の大義名分のもと、国有化した農地その他の財産を民間に競売することで戦費を調達し、内戦に勝利をおさめます。しかし農地の民有化は、豊かな大地主や都市の金持ちがさらに土地所有を増大させる結果を生み、日本の農地改革のような自営農民の拡大にはつながりませんでした。この「持てる者」と「持たざる者」との格差がますます広がっていったことが、20世紀のスペイン内戦につながる問題だったわけです。