2011年2月12日土曜日

スペインロマネスクの旅(1)


(For summary in English please see the end of this article)

「スペインロマネスクの旅」について

ロマネスク時代は11世紀と12世紀で、13世紀はゴシックの時代とよく言われます。しかしそれはピレネー以北の話で、スペインの場合は、13世紀に入ってもまだ引き続きロマネスク様式の教会がたくさん建てられていることから、私はスペインのロマネスクは13世紀の半ば頃まで、と考えています。
それはまた、サンティアゴ巡礼が急激に伸び、レコンキスタ(「再征服運動」すなわち対イスラム戦)が大きな進展を見せた時期であり、そしてヨーロッパ全体を見れば十字軍の時代でもありました。

3年前に「カタルーニャのロマネスク教会」というタイトルで、バルセローナ近辺の教会を紹介しようと、気軽な気持ちで写真入りBlog記事を書いたのが、その始まりでした。そして、バルセローナの友人たちの案内であちらこちらの教会や修道院跡を訪ね回っているうちに、いつの間にかロマネスクの不思議な魅力のとりこになってしまったわけです。

昨年の春、アラゴン地方とカスティーリャ地方の修道院や教会を訪ね、ロマネスク様式はずいぶん地方色ゆたかなものであること、そしてスペインロマネスクの歴史と、レコンキスタやサンティアゴ巡礼の歴史とは、からみあった糸のように切り離せないものであることに、改めて気づかされました。

「スペインロマネスクの旅」シリーズは、「サンティアゴ巡礼路のロマネスク教会」に続くもので、サンティアゴ・デ・コンポステーラを旅の最終目的地とすることに変わりはありません。
しかし、中世のサンティアゴ巡礼が、ただひたすら先を急ぐだけの旅ではなく、霊験あらたかとされる霊場があれば、巡礼者たちは回り道をすることもいとわなかったように、私のスペインロマネスクの旅も、ときどきわき道にそれたりしながら、スペイン各地の霊場をゆっくり巡る旅にしようと考えています。



[サンフアン・デ・ドゥエロ修道院] (Monastery of San Juan de Duero)

修道院の所在地ソリア(Soria)
マドリッドの北東に位置するソリア県は、新潟県に匹敵する1万平方キロの面積に、10万人に満たない人が住むスペイン一の過疎地帯です。しかし、イベリア半島を縦断しポルトガルのポルトに至る、全長800キロに及ぶスペイン第二の大河、ドゥエロ河の水源にあたるこの地域は、ローマ時代から戦略上の重要拠点のひとつでした。そしてレコンキスタにおいても、ソリアはキリスト教徒勢力とイスラム勢力とが、ドゥエロ河をはさんで激戦を繰り返した場所です。

ソリア市はマドリッドから230キロ、人口4万人のこじんまりとした県都ですが、海抜1,000メートルの高地にあるため、冬は寒さの厳しいことで有名です。ソリア地方を訪ねたのは昨年3月半ばでしたが、季節はずれの大寒波に襲われ、スペイン旅行だからと軽装で出かけた私たちは、ほんとうに震え上がってしまいました。


1)ソリア市遠望(City of Soria)

2)ドゥエロ河にかかる橋(The Duero river)


ソリアの旧市街をぬけドゥエロ河にかかる橋を渡った対岸に、サンフアン・デ・ドゥエロ(ドゥエロの聖ヨハネ)修道院があります。ほとんど何も記録は残っていませんが、12世紀末から13世紀の初めころ、聖ヨハネ騎士修道会が建てた修道院だとされています。巡礼者用の病院なども併設されていたようですが、現在残っているのは教会と回廊部分のみ。
サンフアン・デ・ドゥエロ修道院の回廊は、スペイン・ロマネスクの本には必ず登場するほど有名で、ソリア市の観光名所のひとつでもあります

3)サンフアン・デ・ドゥエロ修道院全景(San Juan de Duero monastery)


4)修道院への道(The road to the monastery)


修道院教会(Church of the monastery)
教会に一歩足を踏み入れたときの印象は、まるで洞窟という感じです。天井近くの左右の壁と正面奥の後陣にごく小さな明りとりの窓があり、祭壇のあたりには人工照明も配置してありますが、それでも教会の中はうす暗く、カメラのISO感度を目いっぱい上げて何とか写真が撮れるという状態でした。

祭壇までの部分(身廊)は20メートル足らず、ほとんど装飾らしいものもない、小さなごく質素な教会ですが、主祭壇の手前に天蓋つきの小祭壇を左右に設けるという構成は、スペインのロマネスク教会ではあまりお目にかからない実に珍しいものです。東方のビザンティン教会やモスクなどを思わせる、特異な雰囲気をかもし出しています。
十字軍に参加したヨハネ騎士団の修道士たちが、東方で目にした建築のスタイルを取り入れたものであろう、という説があります。



5)修道院教会内部(Interior of the church)

6)小祭壇(Shrines)


小祭壇の柱頭彫刻(Capitals of the little shrines)
ロマネスク建築は、素材は近くで手にはいるものを工夫して使いこなすしかなかった時代のものです。硬かったりもろかったり、細工の難しい地場の石に取り組む石工は、しだいに大胆に細部を省く表現に活路を見い出していきます。サンフアン・デ・ドゥエロの柱頭彫刻も地場の石を素材に使ったもので、繊細な象牙細工のような彫刻というものではありませんが、忘れがたい独特の作品がいくつかあります。
向って右側の小祭壇の柱頭に彫り付けてある、聖書の有名な場面のいくつかをご紹介します。

7)イエスの誕生(The Birth of Jesus)

8)エジプトへの避難(The Flee to Egypt)

9)幼児殺戮(The Killing of Children)
イエス誕生の噂を耳にしたユダヤ王ヘロデが、ベツレヘムの二歳以下の幼児をすべて殺害するよう命じた、という聖書の物語を題材にしたもの。兵士の手から赤ん坊を守ろうとする母親、剣を振り上げたヘロデ王らしき人物の腕に、必死にとりすがる老婆の姿など。

10)洗礼者ヨハネの死(the Death of John the Baptist)
ヘロデ・アンティパスが、妻ヘロディアに言い含められた娘の望みをかなえるため、洗礼者ヨハネの首をはねさせた、という聖書の物語。しゃっちょこばった兵士、黙想中とも見えるヨハネの死顔、恐れおののく娘と平然と見守るヘロディアなど、写実とは縁のない描写ながら登場人物を的確に描き出しています。深刻な題材を扱いながらどこか戯画風的なのも、ロマネスク彫刻のひとつ特徴。


11)半鷲・半獅子の怪獣(the Griffin)
これは左側の小祭壇にある、鷲と獅子が合体した怪獣(グリフィン)の柱頭彫刻ですが、本来は獅子であるべき顔が人間になっています。あるいは修道院長の似顔だったかも知れない、などと想像してしまいます。こんな遊び心がロマネスクの楽しいところです。


回廊(Cloister)
サンフアン・デ・ドゥエロ修道院の回廊は、屋根が失われ一見廃墟のように見えます。
うす暗い教会から青空の下にある回廊に出た、ということもあるのでしょうが、まぶしい陽光になれた目にも、やはりサンフアン・デ・ドゥエロ修道院の回廊は明るいな、というのが第一印象でした。


12)回廊全景(The entire view of the cloister)
右に見える建物が教会で、方角は右手が北、正面が西。そしてその先の回廊の壁ごしに、ドゥエロ河の岸辺が見えています。回廊の柱頭には動物文様や植物文様が彫りこまれていますが、何と言っても主役はつぎつぎに変化していく四種類のアーチ列でしょう。教会の壁に近い北西の角から、時計の逆回り方向に回廊を見ていくことにします。



13)北西方向から見る(N.W. view of the cloister)


14)西のアーチ列(West arches)

15)西アーチ拡大図(Close up of the West arch)

アーチが交差しながらえんえんと続くのは、無限に続くもの、永遠の存在すなわち神を象徴するもの、という見方があります。イスラムの宗教美術においても、同じ文様を繰り返すのは、やはり無限の存在である神を表すものだと言います。

この特異な回廊のアイデアがどこから生まれたのかについては、いろいろ議論のあるところです。ヨハネ騎士団が東方からもたらした、イスラム建築にくわしいトレードの工人が手がけた、ノルマン騎士によるシシリー王国の様式の移入ではないか、などなど諸説があります。そしていずれの説にも共通しているのは、イスラムの影響が大きいと認めている点です。


16)南西の角から見る(View from the S.W. corner)

17)南のアーチ列(South arches)

18)南アーチ(South arches)

修道院は回廊を中心にそのまわりに居住区その他を配置して構成されます。町づくりで言えば回廊は町の中心をなす広場にあたるわけです。

回廊の建設を手がけたのは、トレードあたりから招聘したイスラム建築を熟知する工人だったのでしょうが、これだけ特異な回廊を構想したのは、ひょっとすると十字軍に参加した聖ヨハネ騎士団の老修道院長、イスラム文化に触れ、その質の高さに感銘を受けた経験を持つ人ではなかったか、などと私は想像するわけです。


19)東アーチ列(East view)

20)東アーチ(East arches)


21)北東の角のアーチ(N.E. corner arch)

柱頭彫刻(Capitals)
回廊の柱頭彫刻には動物、植物、組紐などの文様が採用されていますが、いずれも文様としての起源は古いものばかりです。組紐文様もアーチの連続と同じく、終わりのない永遠のもの、すなわち神聖なる存在を象徴する文様とされています。

22)植物文様(Vegetable pattern)

 
23)組紐文様(Twine pattern)

24)アカンサス(葉アザミ)文様(Acanthus pattern)

サンフアン・デ・ドゥエロ修道院の回廊は、屋根もなく廊下もなく、ましてや名工の手になる彫刻があるわけでもありません。
そこにあるのは、見る者を圧倒するような美の対極にある、人の心を落ち着かせ、内省にさそう静けさです。
もし椅子があれば、何時間でもじっと座っていたくなるような、そんな気持ちにさせる回廊でした。


(Summary in English)
This is the first of the new series of articles titled ''Romanesque Churches in Spain'' which is the continuation of the ''Romanesque Churches along the Camino de Santiago''. The first of the series will be about the San Juan de Duero monastery in Soria.
The city of Soria is located at 230 km North East of Madrid. It's a small provincial capital by the river Duero with the population of 40,000. The river Duero, number 2 longest river in Spain with 800 km to Port(Portugal), originates in the province of Soria. The area along the river was a battle field during the Reconquista(war against Islam rulers in Spain) where heavy battles were fought among Christians and Moslems.

The monastery of San Juan de Duero(St. John of Duero) was supposedly founded by the Knights of St. John during late 12 century to early 13th century. The monastery is located across the Duero river and close to the bridge. The monastery was abandoned in 18th century and only the church and the cloister now remain. The very unique cloister with Islamic influence is the most famous of the monastery, although it appears like a ruin with the roof disappeared long time ago.

The church is small but also unique with two small shrines added in front of the main altar. The church is of Romanesque but it reminds us of a Byzantine church. The capitals are decorated with stories of the New Testament and some mystic animals such as Griffin. They are not up to the quality of the Santo Domingo de Silos monastery, but still there are some impressive pieces.

Cloister is composed of four different style of arches. The chain of same shaped arches is supposed to symbolize the infinite, as a consequence, the God. There is no tall bell tower nor impressive stained glasses, but there is a very unique and peaceful cloister at San Juan de Duero.

2010年12月21日火曜日

サンティアゴ巡礼路のロマネスク教会(4)Romanesque churches along ''EL Camino de Santiago''(4)

-サントドミンゴ・デ・シロス修道院 (Monastery of Santo Domingo de Silos)

スペイン地図-クリックして拡大(Click to enlarge)
(For the summary in English please see the end of this article)

(1)修道院への道(On the road to the Monastery)クリックして拡大(Click to enlarge)

サントドミンゴ・デ・シロス修道院

麦畑を両側に見ながら、ときには羊の群れとすれ違ったりする田舎道をゆっくり走っているうちに、スペインロマネスクの傑作で、いまも現役のベネディクト派修道院があることで有名な、サントドミンゴ・デ・シロスの町に着きます。マドリッドから240km、ブルゴスからは60kmの距離です。

(2)修道院遠景(View of the Monastery)クリックして拡大(Click to enlarge)

私たちが修道院を訪ねたのはことし3月の半ばでしたが、日中の気温は零度よりあがらず、町の広場の水汲み場には氷が張るほどの寒い日でした。イースター休暇の前で観光客はもともと少ない時期でしたが、例年にない寒さに人出が全くとだえてしまったようで、私たちが修道院の拝観を終え、暖をとるため目の前にあったバル(bar)に駆け込んだとき、バルの女主人は「きのうはお客がひとりも来なかった、きょうもあなたちだけかもしれないね」となげいていました。
人口300人の田舎町には不釣合いなほど広々とした駐車場が町の入り口にあり、大型観光バスや何百台もの車が殺到しても大丈夫という感じですが、私たちが着いたときには一台の車も見当たらなかったので、女主人がなげいたのも無理はありません。

(3)凍りついたマイヨ-ル広場の水汲み場(Fountain at the Plaza Mayor)

(4)マイヨール広場から眺めた修道院(View of the Monastery from the Plaza Mayor)クリックして拡大(Click to enlarge)

写真の奥に見えるのが修道院の教会部分ですが、有名な回廊への入り口は、教会の手前の坂を左にくだったところにあります。

(修道院の歴史)
サントドミンゴ・デ・シロス修道院が、前身のサンセバスティアン修道院の名前で史料に登場するのは10世紀のことですが、その当時すでによく知られた存在だったらしいことから、修道院の起源はさらに一世紀ぐらいさかのぼる9世紀末、すなわちレコンキスタ(再征服運動)と呼ばれるイスラム勢力とキリスト教徒領主勢力との戦いが、まだシロスの近辺でも続いていたころではないか、と推測されています。

10世紀の末ころ、コルドバに本拠をおくイスラムの勇将アル・マンス-ルの率いる軍勢が、東はバルセロナから西はサンティアゴにいたるまで、スペイン全土を荒らしまわった時期があります。そのときシロス修道院もその戦乱に巻き込まれ、壊滅的な打撃を受けてしまいました。そしてレオン国王フェルナンド1世(在位1037-1065)がその立て直しを聖ドミンゴに委嘱した1041年から、シロス修道院の再建が始まります。

聖ドミンゴは1000年ころの生まれといわれ、1073年に死ぬまでの32年間の院長在任中に、廃墟同然だったシロス修道院をスペイン有数のロマネスク修道院に仕上げた人物です。「ドミンゴ院長が祈れば全ての病気はそくざに治る」というたぐいの奇跡譚の主人公でもあり、戦乱時代の修道院長にふさわしい胆力と、高徳を兼ね備えたすぐれた指導者だったようです。その徳をしたって、レオン国王のほかエル・シッドなど地元カスティーリャ出身の貴族たちがすすんで領地その他の寄進に応じた結果、シロス修道院は財政面でも立ち直ります。

修道院があるブルゴスを中心とする旧カスティーリャ地方は、イスラム勢力の侵入路にあたったことからたくさんの城塞(castillo)が築かれ、そのため「カスティーリャ」と呼ばれるようになったという説があるくらい、もともとはレオン王国の辺境伯領でした。しかし、レコンキスタの進展とともに辺境領だったカスティーリャがしだいに重要性を増し、レオン・カスティーリャ王国として11世紀ころからスペイン政治の中心に躍り出てくるわけです。

ドミンゴ修道院長は死後3年目の1076年に聖人に列せられ、サントドミンゴ修道院と名前を変えたシロスの修道院には、聖ドミンゴの遺骸に詣でる巡礼者が殺到するようになりました。ちょうどサンティアゴ巡礼がヨーロッパ全体で急激に伸びた時代でもあります。そして、ドミンゴ院長のあとをついだ修道院長にも有能な人材が輩出し、スペインにおけるベネディクト派修道院のなかで、宗教面でも文化面でもつねに存在感を持つ修道院でした。また11世紀末から12世紀にかけては、有名な回廊建設にくわえて、「ベアトゥス黙示録注解」彩飾写本の制作など、宗教芸術の分野でもロマネスクの歴史に残るみごとな作品を残しています。

スペインのロマネスク教会や修道院にはよくあることですが、シロス修道院も19世紀半ばにいちど閉鎖され、長年の歴史が中断されましたが、幸い19世紀末にフランスのベネディクト派修道会の修道者たちの手で再建され、今日にいたっています。

私はこの数年間にスペインのロマネスク修道院をいくつか訪ねましたが、カタルーニャのモンサラット修道院をのぞけば、あとはすべて修道院跡ばかりでした。スペインでもサントドミンゴ・デ・シロス修道院のように、ロマネスク時代をしのばせる現役の修道院はごくわずかで、たいへん貴重な存在です。

(回廊)
シロス修道院の回廊が「スペインで最も美しい回廊」といわれるのは、11-12世紀の彫刻が見事に保存されていることのほかに、そこでいまもなお32人の修道士が、中世からのベネディクト会則に従う厳しい修道生活を送っていることと無関係ではないと思います。シロス修道院には、「ほんもの」のみが持つ、ある種の緊張感があります。そしてこの張りつめた空気と見事な彫刻とがあいまって、シロス修道院の回廊に一歩足を踏み入れた者を感動させるのだと思います。

私はこの回廊をご紹介する写真を全てモノクロームに変換することにしました。張りつめた空気はとても写真になりませんが、少なくとも浮き彫りや柱頭彫刻については、白と黒のコントラストだけのモノクロ画像が、シロス修道院の回廊で私が感じたものに近いと思うからです。


(5)東廊下からの眺めCloister(view from the east corridor)クリックして拡大(Click to enlarge)


(6)北廊下の眺めCloister(view of the north corridor)クリックして拡大(Click to enlarge)



(7)西廊下からの眺めCloister(view from the west corridor)クリックして拡大(Click to enlarge)


(8)西廊下の柱頭Cloister(capitals of the west corridor)クリックして拡大(Click to enlarge)


回廊は、四辺形の一辺が30米をこえるずいぶん大きなもので、しかも2階建てになっています。ただし拝観がゆるされるのは1階の部分に限られます。1階の回廊の四隅にほぼ等身大の浮き彫りパネルが2枚ずつはめこまれ、合計8枚の大きな石のパネルに新約聖書の物語が浮き彫りになっています。柱は合計64本で、それぞれに柱頭彫刻がほどこしてあります。絵柄はさまざまですが、植物や奇怪な動物を、象牙細工のような細かな彫りで仕上げた作品の多いのが、シロスの特徴です。

回廊拝観の順路は、入り口から見て右手にあたる東側通路から始まり、時計と逆回りに北、西、南と回るのがふつうです。西廊下の途中で作風が変わるところから、二人の石工の作とするのが通説です。そして全く作者の名前が分からないため、前半を担当したのが初代のマエストロ(11世紀末ころ)、後半を二代目マエストロ(12世紀初めころ)と呼ぶことにしています。


(浮き彫りパネル)(Reliefs by the first maestro)
8枚の浮き彫りのうち6枚が初代マエストロの作品とされています。その中からとくに有名な3枚を選びました。浅い浮き彫りで細部が大事だと思われるため、一部拡大した写真を添付しておきます。いずれも11世紀末の作品とされているものです。


(9)十字架降下(Descent from the Cross)クリックして拡大(Click to enlarge)


(10)十字架降下(Descent from the Cross)クリックして拡大(Click to enlarge)

画面の左に、イエスの傷ついた手にそっと頬をよせる聖母マリアを配し、その深い悲しみとマリアのやさしさを描こうとしたマエストロは、やはりロマネスクの人だったと思わせる作品です。プラド美術館にある、15世紀フランドルの画家ヴァン・デル・ヴァイデンの名画では、聖母マリアは気絶しています。時代が下るにつれ、しだいにドラマティックな描写になるようです。


(11)エマウスの弟子たち(Disciples at Emmaus)クリックして拡大(Click to enlarge)

(12)エマウスの弟子たち(Disciples at Emmaus)クリックして拡大(Click to enlarge)

イエスが復活して、エルサレム近くのエマウスで二人の弟子の前に現れた、というルカ福音書の場面です。この逸話はイエスの弟子たち、すなわち使徒たちの深い宗教体験を象徴するものだといわれます。帆立貝を縫い付けたサンティアゴ巡礼者の衣装を身にまとうイエスの姿に、シロスの修道士たちは、親しい永遠の同伴者を見たに違いありません。

厳しい修道生活に疲れたとき、あるいは信仰に迷いが生じたとき、この浮き彫りの前にたたずむ修道者の姿を、私は思い浮かべます。ロマネスクの時代には、シロス修道院の彫刻は単なる装飾ではなく、それは修道者が目には見えぬ神を身近に感じるための、架け橋のようなものであったはずですし、またいまもそうだろうと思います。シロス修道院の彫刻作品の迫力は、そこにあるという気がします。


(13)不信のトマス(Incredulous Thomas)クリックして拡大(Click to enlarge)

(14)不信のトマス(Incredulous Thomas)クリックして拡大(Click to enlarge)

ヨハネ福音書にある、復活を信じない使徒トマスが、イエスの脇の傷口に手を触れている場面です。初代マエストロは、この場面にはいあわせなかったはずの聖パウロを、イエスの向かってすぐ右隣りに配しています。生前のイエスに会ったこともなければ、当初はユダヤ教のラビ(律法学者)を志し、キリスト教徒迫害に回った過去をもつ聖パウロを、イエスにもっとも近い弟子として描くことで、見ても信じないトマスとイエスを見ずして信じたパウロを対比させているわけです。
聖パウロへのかくべつの思い入れと、そしてマエストロが「信ずる」ということについて、深く考えをめぐらす人であったらしいことをうかがわせる作品です。初代マエストロは修道士ではなかったか、と私が考えるひとつの理由です。


(柱頭彫刻)

64個の柱頭彫刻は、初代マエストロと二代目マエストロの作にほぼ等分される、というのが定説です。その中からいくつかの作品をご紹介します。

初代マエストロの柱頭彫刻(Capitals by the first maestro)



(15)植物文様(Vegetable pattern)クリックして拡大(Click to enlarge)


(16)獅子の頭を持つ怪鳥(Mystical birds)クリックして拡大(Click to enlarge)


(17)怪獣像(Mystical animals)クリックして拡大(Click to enlarge)

初代マエストロの柱頭彫刻は、ごくまっとうな植物文様もありますが、奇怪な鳥や動物を装飾化した図柄がたくさん目につきます。異様な図柄の説明は、ペルシャじゅうたん、オリエントの織物、装飾写本の挿絵などからヒントを得たという説、彫刻家の遊び心をあげる説、また全ての絵柄が悪との戦いなど何らかの象徴であるという説、とさまざまです。

たしかに、現代の私たちにはただ異様なものとしか映らない図柄にも、ちゃんとした出所があり、またそれぞれが何かの象徴であるのかも知れません。しかし奇怪な動物を描いた柱頭彫刻で回廊を飾ることが、世俗との関係を絶ち、物質や肉体の欲望を超克しようとする修道士たちに、いったいどんな意味を持っていたのか、という素朴な疑問が残ります。当時の修道院関係者の間でもきっと議論を呼んだに違いありません。
年代はさらに何十年もあとの話ですが、12世紀に革新的修道会として発展したシトー修道会は、宗教芸術を修行のさまたげとみなし、その価値を否定します。そしてそこから、教会には木の十字架のほか装飾的なものはなにも置いてはならない、という禁欲的なシトー会則が生まれます。

初代マエストロは、スペインのロマネスクではめったにお目にかからない、象牙細工のようなこまかな彫りをみごとに硬い石に刻む腕を持った人でした。しかし浮き彫りの制作では、テーマが新約聖書の物語という周知の内容であること、それに8枚組みパネルのような大作では絶対に失敗がゆるされぬため、新しい試みは極力さけ、技法面でも手堅く手馴れた彫りに徹したはずです。
しかし、柱頭彫刻の場合には、自らの能力の限界に挑戦する覚悟で、新しいテーマや技法に命がけで取り組んだと思います。30数個の作品の中には、彫り進むうちにつぎつぎとアイデアが浮かび、自然にノミが動いてどんどん図柄が変化していったような作品があったかもしれません。シロス修道院回廊の柱頭彫刻は、初代マエストロが修道士たちに向かって投げかけた、正解のない永遠の問い、常識への挑戦ではなかったのでしょうか。

これだけ優れた腕をもつ初代マエストロですが、その作品はシロス修道院いがいには見あたらないようです。中世の工人たちは定住せず、仕事を求めて遍歴の生活を送るのが常だったといわれるだけに、ふしぎなことです。しかし、もし初代マエストロが修道士であれば、修道院を出ることはできなかったわけで、その点もマエストロが修道士ではなかったかと私が想像する理由です。

二代目マエストロの柱頭彫刻(Capitals by the second maestro)
初代マエストロは回廊の完成を見ずして亡くなったようです。そしてそのあとをついだ二代目のマエストロは、初代が残した作品との連続性に留意しながら、独自の展開を図ります。二代目マエストロもたいへん優れた腕の持ち主でした。そしてその活躍の時期にあたる12世紀は、スペイン各地でロマネスク芸術がいっせいに花開き始めたころでした。

(18)編み籠文様(Basketwork pattern)クリックして拡大(Click to enlarge)

二代目マエストロも奇怪な動物の柱頭彫刻をたくさん彫っていますが、こんなすなおな編み籠文様の作品もあります。


(19)エジプトへの逃避(Escape to Egypt)クリックして拡大(Click to enlarge)

これはマタイ福音書にある、聖母マリアがイエスを懐に抱いてエジプトに逃れる場面です。二代目マエストロが、いかにもロマネスクらしい温かみのある人物などの描写に秀でた人だったことを、うかがわせる作品です。



(20)教会(Church of the monastery)クリックして拡大(Click to enlarge)

修道院の教会部分は、18紀にロマネスク教会を取り壊して、ネオクラシック様式にすっかり改装されてしまいました。惜しいことをしたと思います。しかし途中で改装資金が続かなくなり、回廊部分はロマネスク建築がそのまま手つかずで残ったのだそうです。



(21)CD of the Gregorian Chant by Choir of the Monasteryクリックして拡大(Click to enlarge)

シロス修道院のグレゴリオ聖歌隊は有名で、EMIからCDが出ています。礼拝の時間には美声を聴かせてくれるそうですが、残念ながら私たちはその機会に恵まれませんでした。

シロス修道院には宿泊所があり、外部の者にも修道院の生活を垣間見る機会を与えてくれる仕組みがあります。修道院のウェッブサイトによれば、受け入れの条件は男のみ、滞在日数は3日から8日の間、費用は食事つきで一泊38ユーロ(約4千円)となっています。
スペインのロマネスク修道院の多くが観光の対象となり、まるで博物館のようになりつあるなかで、中世の伝統と遺産を守りながらしかも開かれた修道院をめざす、サントドミンゴ・デ・シロス修道院には感服しました。


(Summary in English)
The Romanesque abbey of Santo Domingo de Silos, a Benedictine monastery known for its cloister and Gregorian Chant, is located in the land of Castilla, about 240 km of Madrid, 60 km from Burgos. The origin of the monastery is estimated to be during the late 9th century when the area used to be the battle field of the ''Reconquista'' (war of Spanish Christian lords against Islam rulers).

In 1041 Santo Domingo(Saint Dominic) was appointed by King Fernando I of Leon as the prior of the monastery which had been ravaged by Islam forces led by Al-Mansur who conducted incursions all over Spain from Barcelona to Santiago during the late 10th century. Prior Domingo not only achieved the reconstruction of the monastery during his 32 years of tenure but also made it one of the most important centres for spiritual and cultural activities in Romanesque Spain. The monastery is famous for its 2 story cloister which is decorated with the most beautiful stone carvings of the time. Also it is known for an illuminated manuscript copy of '' Beatus commentary on the Apocalypse'' now owned by the British Library, or enamelwork which preceded to those of Limoge.

In 1076, three years after his death, prior Domingo was canonized and became Santo Domingo. The monastery was named after the saint and a flood of pilgrims started arriving to visit the saint's remains. It was also the time when the pilgrimage to Santiago de Compostela got a big boost all over Europe.

The monastery was consecrated in 1088 but the construction continued. It is believed that the 2 carvers worked on the decoration of the cloister. As is common with Romanesque art nothing is known of these artists. One is called ''the first maestro'' and another ''the second maestro''
The first maestro made 6 out of 8 large reliefs which are placed one pair at each corner of the cloister. Out of 64 capitals the first maestro apparently made the first 30 something during the 11th century and the rest was done by the second maestro during the early 12th century. Both are excellent artists, but the first maestro is outstanding in carving on hard stones with fine details like ivory carving which is uncommon in Spanish Romanesque especially in late 11th century.

We visited the monastery in an early hour of March, 2010. It was a very cold and overcast day. There were no other visitors and the silence was the word to describe that morning in the cloister.
Only the lower cloister was open for the public visit. Santo Domingo de Silos is one of the few Romanesque monasteries in Spain where monks are still leading a monastic life. There was something genuine.

I've decided to convert the photos of the cloister into black and white, because no color matches to what I saw and felt on that day in the cloister.

2010年11月9日火曜日

サンティアゴ巡礼路のロマネスク教会(3)Spanish Romanesque Churches along ''El Camino de Santiago''(3)

サンタクルス・デ・ラ・セロスのロマネスク教会(Romanesque churches in Santa Cruz de la Serós)

(For the summary in English please see the end of this article.)


(1)サンタクルス・デ・ラ・セロス遠望(Valley of Santa Cruz de la Serós )


サンタクルス・デ・ラ・セロスの聖母女子修道院
(Monastery of Santa María in Santa Cruz de la Serós)

ハカ市から20キロ足らずの距離にあるサンタクルス・デ・ラ・セロスは、人口わずか150人くらいの谷あいの小さな町ですが、サンタマリア(聖母)女子修道院とサンカプラシオ教会という、二つの個性的なロマネスク教会があることで知られています。前回ご紹介したサンフアン・デ・ラ・ぺーニャ修道院への通り道にあたりますが、サンタクルスの町をぬけると道は急カーブの多い上り坂になり、それを7キロばかり行ったところに、サンフアン・デ・ラ・ぺーニャの旧修道院があります。



(2)サンタマリア修道院への道(Road to the Monastery)

(3)修道院への道(Road to the Monastery)

サンタクルス・デ・ラ・セロスを訪ねたのはことしの4月初旬でしたが、観光客の姿も見当たらず、鳥のさえずりと小川の水音だけがよく響く、田舎育ちの私には懐かしい雰囲気の町でした。



(4)サンタマリア修道院全景(Monastery of Santa María)

サンタマリア女子修道院は、10世紀に建てられた小さな教会がその前身ですが、11世紀初頭にサンフアン・デ・ラ・ぺーニャ修道院の修道女たちを受け入れ、女子修道院としての形が整ったと言われます。もともとアラゴン王家と縁のある修道院でしたが、サンチョ・ラミレス国王(在位1063-1094)の妹、サンチャ・ラミレス(通称ドーニャ・サンチャ)が修道院長になった1070年ころから、サンタマリア女子修道院は急速な発展をとげました。

ドーニャ・サンチャは、隣国のウルジェイ(Urgell)侯アルメンゴル3世に嫁ぎましたが、2年も経たぬうちに夫がイスラム勢力との戦いで戦死したため、生国のアラゴンに戻り、20数歳の若さでサンタマリア女子修道院長に就任します。ドーニャ・サンチャは持ち前の勝気な性格もあり、修道院入りしてからも兄のサンチョ・ラミレスを叱咤激励する形で、アラゴン王国の内外の政策に積極的に関与したようです。

1035年に誕生したアラゴン王国は、両脇を強大なカスティーリャ王国とカタルーニャ諸侯に挟まれた小国で、王国発展のためには、いやおうなくサラゴーサを本拠とするイスラム勢力に正面から挑み、その領土を侵食するしか道はない、という状況におかれていました。
二代目のアラゴン国王サンチョ・ラミレスは、自らの領地をローマ教皇に献上のうえ、改めてそれを封土として受けとる形で教皇との関係を深める一方、北フランス・ルシー家出身の夫人の人脈でフランス騎士の対イスラム戦参画をうながしたり、また王廟であるサンフアン・デ・ラ・ぺーニャ修道院をフランスのクリュニー修道会の傘下に置くなど、11世紀後半に教皇やフランスとの関係強化に向けていろいろ手を打ちました。そして急激な開国政策に対する王国内の異論を、ドーニャ・サンチャの後押しで強引に乗り切ったと言われます。

アラゴン王国の支援で財政基盤を確立したサンタマリア女子修道院は、ドーニャ・サンチャが1097年に死去したあとも、鐘楼の建設など12世紀を通じて拡大が続きました。しかし、16世紀にルターが口火を切った宗教改革運動がピレネー以北を襲い、それに対応する形で対宗教改革運動と呼ばれるカトリック教会刷新の動きが活発化し始めたころ、サンタマリア女子修道院の閉鎖が決まり、修道女たちはハカに移転します。そのけっか修道院は地区教会となり、一時は見捨てられた状態に陥ったこともあったようで、げんざい残っているのはこの写真にある教会の部分だけです。


修道院の隠し部屋(Hidden room of the monastery building)

ふつうロマネスク教会の鐘楼は西の正面入り口の側に建てられるものですが、このサンタマリア修道院教会は鐘楼が後陣のそば(東方向)にあるという、特異な形をしています。
また赤い矢印で示してある、四辺形の小さな窓付きの建物が屋根に乗っかっているのが見えますが、この部屋に昇るには教会の壁に組み込んだ秘密の通路を経由する必要があることなどから、外敵に襲われた場合の避難場所か、あるいは宝物の保管場所ではなかったかと推測されています。これもひじょうに珍しい構造です。
サンタマリア修道院教会は、あまりほかに例を見ない実にユニークな構造を持っていますが、個々には特異な部分を含みながら、全体でほどよく調和がとれているのに感心します。腕の良い石工が手がけたことをうかがわせる教会です。


(6)後陣(Apse)
(7)後陣軒下の飾り持ち送り(Modillion)

サンタマリア修道院は、ハカ大聖堂とほぼ同じ時期に工事が始まった早い時期のロマネスク建築ということもあり、1世紀あとに登場するサンフアン・デ・ラ・ぺーニャ修道院の回廊など、スペイン・ロマネスクを代表する傑作に比べると、いささか彫刻類が見劣りするのはいたし方のないところです。それでも、修道院は11世紀末から12世紀にかけては資金的にも恵まれた状況にあり、腕のいい石工を起用することができたらしく、上の写真の後陣やその軒下の飾り(「持ち送り」と呼びます)などからも、その名残りがうかがわれます。


(8)南扉(South door)

教会の南側に古い扉が残っていますが、これは今はなくなってしまった回廊に続く出入り口だったようです。扉の上に位置する半円形のタンパンに彫りこんである「キリストの銘」(キリストの頭文字X Pを組み合わせた図柄)と呼ばれる紋章(英語ではChrismon)の浮き彫りは、修道院の前身である古い教会時代のものと言われます。


(9)西正面扉 (West entrance)
(10)キリストの銘の浮き彫り (Chrismon)

西正面入り口のタンパンにある「キリストの銘」(Chrismon)の浮き彫りは、ハカ大聖堂のものによく似ていますが、実はこのサンタマリア修道院の方が時代的には先で、アラゴン地方でよく見かけるChrismonのお手本になった、というのが定説のようです。二頭のライオンが取り囲む車輪の中にちりばめてあるX, P, Alfa, Omegaなどの文字はいずれもキリストを表し、またふたつのXが交差する図柄については、ひとつのXは実は十字架でキリストの受難を表わしている、などの解釈もあります。
なお、教会の入り口にキリストの像そのものではなく、Chrismonのような象徴的な絵柄を浮き彫りにする習慣が、なぜこの地方で広まったのかは良く分かりません。




(11)南側の柱頭(South capital)

(12)北側の柱頭(North capital)

西正面入り口に向かって右側(南)の柱頭の絵柄は植物紋様で、左側(北)の柱頭は人間と動物の組み合わせになっています。これは異なる二人の石工の手になるもので、北側の人間と動物の彫刻は、風化による劣化を考慮しても、もともと作品としての質があまりよくなかったのではないか、という感じがします。



(13)教会内部(Interior of the church)

教会の内部は、ひとつの身廊にひとつの後陣という、単純で実にすっきりとした構造になっています。王家や大貴族と深い縁のあったスペインのロマネスク教会の中には、どことなく気品を感じさせるものがありますが、サンタマリア女子修道院もそのひとつです。



サンカプラシオ教会(San Caprasio church)

(14)サンカプラシオ教会(San Caprasio church-south view)

サンタマリア修道院のすぐ近くにあるサンカプラシオ教会は、内部が奥行き10米、横幅4米足らずのごく小さな教会ですが、11世紀前半の建築と推測される当初の姿を忠実に復元するかたちで修復がなされています。北イタリアのロンバルディア様式がアラゴン地方に及んだ好例として、スペインロマネスク建築史の教科書でよく引用される教会です。

ロンバルディア様式の特徴のひとつは、写真のようにアーチとその支柱をかたどった石積みの装飾を壁面に多用することですが、軒下近くから地面に向けまっすぐに延びる線とアーチの繰り返しが、実にすっきりとした印象を与えます。教会の入り口は向かって左側、手前に見える井戸の後方に位置しています。

なおサンカプラシオ教会の建設時期に関して、アラゴン地方の資料ではこれを11世紀前半の初期ロマネスク建築とする意見が圧倒的ですが、ロマネスク建築史関係の資料の中には、サンカプラシオ教会を11世紀後半の作品とみなすものもあり、年代に関しては若干疑問が残りますが、より古い時代の作品と見る11世紀前半説に従っておきます。




(15)後陣と鐘楼(Apse & Bell tower)

これは東側から後陣を眺めた写真ですが、鐘楼は12世紀に付け加えられたものです。写真を拡大してみるとよく分かりますが、いろいろサイズの異なる石をうまく組み合わせて教会の壁を積み上げています。中世の巡礼者の中には、次の目的地まで石を背負って歩き、新教会の建材として寄進する者もいたという話がありますが、ふとそんなことを思わせる教会です。

教会の名前になっているSan Caprasio(Saint Caprasius)は余りなじみのない聖人ですが、4世紀初めに、フランス(アキテーヌ地方)で殉教したようです。




(16)教会内部(Interior of the church)

教会の内部も彫刻類などは一切なく、そっけないほど簡素なものです。ゴシック大伽藍のステンドグラスや壮大な石組みはたいへん見事なものですが、それとは比較にならない小さな規模ながら、不ぞろいの石材をひとつひとつ選んでは丹念に積み上げ、今から1000年近くも前にすばらしい教会を組み上げてくれた、名もないアラゴンの石工たちに敬服します。
サンカプラシオ教会には、訪れる者をすがすがしい気持ちにさせてくれる何かがあります。


(Summary of the article)
Santa Cruz de la Serós is a small town of 150 people, located at less than 20 km from the city of Jaca. The town is known for 2 early Romanesque churches; Monastery of Santa María and Church of San Caprasio. The town is also one of the stops for pilgrims on the way to the Monastery of San Juan de la Peña which is at 7 km following a winding uphill road.  

Monastery of Santa María de la Serós
Santa María de la Serós was a nun's monastery established in early 11th century accommodating the nuns from the Monastery of San Juan de la Peña where both monks and nuns had been living in the same building. Santa María monastery had a boost during the time of Doña Sancha as abbess who assumed the post around 1070. Sancha Ramirez, known as Doña Sancha, was a sister of King of Aragon, Sancho Ramirez(1042-1094), and was a very influential person in the court of Aragon Kingdom.

The building of the monastery was expanded during the late 11th through 12th century on the place where an old church had existed since the 10th century. It was the best time for Santa María de la Serós. Later in mid 16th century the monastery was closed and the nuns moved to Jaca. The monastery became a parish church and what remains now is only the church building.

Santa María church has a very unique composition; the bell tower is built next to the apse(east side), while normally a bell tower is located close to the west main entrance. Another thing is a roof top room next to the bell tower, pointed by a red arrow on the photo(5). The access to this room is only possible through a hidden ladder built into the church wall. It could have been a refuge for emergency or a storage for treasures. In spite of an unusual design the church remains very well balanced and looks nice.

Photo(8)shows an old door which is supposed to have connected the church with the now disappeared Romanesque cloister.
The Photo(9)(10) show the main entrance(west)and the tympanum.
The chrismon symbolizing the Christ is carved on the tympanum which is believed to be older than that of the Cathedral of Jaca. Similar chrismons are found at other churches in Aragon.

Photo(11),(12) show capitals at both sides of the main entrance. The quality of carving is not comparable to that of San Juan de la Peña which represents one of the best Romanesque sculptures in Spain. The vegetable leaf pattern on the right capitals is of a decent quality, while the carving quality of human and animals on the left side capitals could be better. They should have been the work of two different carvers
The inside view of the church shows a very simple construction; one nave and one apse.

The Church of San Caprasio(Saint Caprasium)
The church of San Caprasio is located close to the Santa María monastery and is well known as one of the best examples of Lombard architecture in Aragon. There are different opinions concerning the period of construction of the church; most of Aragon researchers believe it to be early 11th century, while others refer to the last quarter of the 11th century as the probable time for the construction. The church is dedicated to a French saint, Saint Caprasius who became a martyr in Aquitaine in early 4th century. The bell tower was added in 12th century.
It's a little gem among Romanesque churches in Aragon.