2011年7月11日月曜日

スペインロマネスクの旅(2) Romanesque Churches of Spain(2)

ロアレ城(Loarre Castle)

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(For the summary in English please see the end of this article.)

スペインロマネスクとレコンキスタ(再征服運動)

ロアレ城は、アラゴン州ウエスカ市(Huesca)の近くにある11世紀の城砦ですが、レコンキスタ(再征服運動)と呼ばれる対イスラム戦争の過程で生まれた、スペインロマネスク建築の典型的な例なので、レコンキスタについてまず若干の説明を加えておきます。

レコンキスタとは、8世紀初めにイスラム勢力のイベリア半島征服によって失った領土を、スペイン北部のキリスト教徒領主たちが武力によって奪回を試みた領土拡張運動であり、それは8世紀にアストゥリアス地方で始まり、1492年のグラナダ王国の滅亡をもって終わる、というのが一般の理解だと思います。

しかし、「スペインのロマネスク時代は、レコンキスタの時代でもあった」と言うときには、レコンキスタは1248年のセビリャ陥落を以てほぼ終わったに近い、という理解がその背景にあると思います。レコンキスタが最も進展したのは11世期の初めから13世紀の半ばころまでですが、それは同時にスペインで、ロマネスク様式の教会がたくさん建てられた時代でもありました。

「ロマネスク時代は11-12世紀で、13世紀はゴシックの時代」とよく言われますが、ピレネーの南では少し事情が異なる、と最近私が異論を唱えるようになった背景は、スペインの田舎を回ってみると、13世紀にはいって建てられたロマネスク教会が結構あること、また11世紀から13世紀半ばころまでが、レコンキスタが最も進展した時期であるというのは、その間はいつもどこかで対イスラム戦が続いていたということです。やはりどの国でも壮大なゴシック大聖堂が次々に建ち始めるのは、世の中が落ち着き、あるていど富の蓄積が進んでからの話しだと思います。スペインではそれが13世紀後半以降のことであり、したがってスペインゴシックの時代は13世紀後半に始まる、逆に言えばそれまでがロマネスクの時代である、と理解するのが順当ではないかと思うゆえんです。

ところで、キリスト教徒領主とイスラム勢力との戦いは、まずイベリア半島北部のごく限られた地域で8世紀に始まりますが、それがスペイン各地で広い範囲にわたって頻発し始めるのは、11世紀初めにコルドバの後ウマイヤ朝が内紛で崩壊し始め、スペイン各地でイスラムの太守などが支配地で独立して、タイファ(taifa)と呼ばれる大小さまざまの小王国が乱立状態となってからのことです。イスラム勢力の分裂により、キリスト教徒領主勢力が勢いを得て、11世紀から戦線がしだいに南に下りながら戦闘が続いていきます。

しかし、レコンキスタと呼ぼうが、再征服運動と呼ぼうが、それは戦争であり、多くの人たちがその渦中で苦しみ、傷つき、そして命を落としたわけです。ピレネーの北では、ノルマン人やマジヤール人の侵攻に苦しんだ時代は9世紀から10世紀初めに終わり、10世紀後半は平和な世の中になります。そして、11世紀にはいるとロマネスクの花が一斉に開き始めます。

しかしイベリア半島では、逆に10世紀の末ころから、いつもどこかで戦いが続いているという時代が始まるわけです。そして、ピレネーの北では人々が平和な時代を喜び、神の栄光を讃えながら、ロマネスクやゴシックの教会を建てていたころ、イベリア半島では、同じく神の栄光を讃えながらも、人々は戦争の犠牲となった者たちの霊の救いを求めて祈り、また工匠たちは辛い戦争の記憶を払いのけながら、祈りを込めるようにして石を切っては教会の壁を築き、そして柱頭彫刻を刻んだのだと思います。スペインのロマネスク建築や彫刻の中に、たとえ技は稚拙であっても見る者の心を打つものがあるのは、それを作り上げた人々の祈りが伝わってくるからだろうと思います。

図式的理解にすぎる、との批判があるかも知れませんが、当時の先進文化であったイスラム文化の数百年にわたる影響と、そしてレコンキスタという戦争とが、ピレネーの北側の国々とはひと味もふた味も違う、スペインロマネスクを生みだしたのだと私は考えています。レコンキスタとスペインロマネスクとは、切っても切れない関係にあるということを、最近アラゴン地方やカスティーリャ地方のロマネスク教会を訪ねてみて、ますます痛感しているところです。

写真(1)ロアレ城への道(Road to the Loarre castle) クリックして拡大(Click to enlarge)

ロアレ城

ロアレ城は、アラゴン州の県都のひとつであるウエスカ市(Huesca)から30キロばかり離れた、標高1000mの岩山の頂上に建てられています。11世紀の初めころ、当時アラゴン地方の支配者でもあったナバラ王国のサンチョ3世(俗称サンチョ大王、在位1004-1035)が、ロアレ一帯をイスラム勢力(サラゴサ小王国)の手から取り戻したあと、辺境防衛の砦として1020-1030年ころに築いたものです。そして約50年後にアラゴン王国のサンチョ・ラミレス王(在位1063-1094)の手で大がかりな改修が行われ、20世紀になってから修復がなされましたが、ロマネスク様式の11世紀の城がほぼ元の形を保っている、非常に珍しい例です。

写真(2)ロアレ城 (View from the East) クリックして拡大(Click to enlarge)
写真(3)ロアレ城南面 (View from the South) クリックして拡大(Click to enlarge)

ロアレ城とアラゴン王国

ロアレ城について語ることは、サンチョ・ラミレス王について語ることであり、また11世紀のアラゴン王国の歴史にも深い関係があるため、その歴史的背景をかいつまんでご紹介しておこうと思います。

サンチョ大王の死(1035年)にともないナバラ王国から独立したアラゴン伯領は、アラゴン王国を名乗りハカを首都にしましたが、王国とは言っても領地はピレネー山麓付近に限られ、実態はイベリア半島全土の2%にも満たない狭い領土を支配するだけの地方領主に過ぎませんでした。

11世紀半ば頃のアラゴン王国は、増え続ける人口を養うため、小麦栽培に適した平原の耕作地を確保する必要に迫られていました。しかし西をナバラ王国とカスティリャ・レオン王国に、東をカタルーニャの諸伯領におさえられているため、「イスラム勢力に奪われたキリスト教徒の土地を奪回する」という、レコンキスタの大義名分を掲げて南下し、サラゴサ小王国の領土に食い込むのが唯一残された道、というのが実態でした。

ところで、アラゴン王国軍を迎え撃つサラゴサ小王国というのは、アラゴンの6倍の広さ(関東甲信越に静岡県を加えたくらいの面積)の領地を持ち、しかも地味豊かなエブロ川沿いの土地を300年間ちかく支配してきた実績を持つ、イスラム小王国の中では屈指の有力王国でした。しかもカスティーリャ・レオン王にパリア(paria)と呼ばれる軍事貢納金を支払いその庇護を受けるなど、状況次第でキリスト教徒領主との連携も辞さない、アラゴン王国にとっては誠に手ごわい相手でした。

父親の初代国王の戦死により、*1063年に20歳をすこし過ぎた年齢でアラゴン国王に就任したサンチョ・ラミレス王は、貧しい小国アラゴンが強敵のサラゴサ王国に対抗するには、ローマ教皇との繋がりを深め、それによってまず近隣のキリスト教徒領主たちに対する脇を固めることが先決だと考えます。そして、サンティアゴ巡礼を契機に急速に発展し始めたフランスとの交流を推し進めて産業の振興を図り、また軍事面では対イスラム戦の即戦力として、フランス騎士を招聘すること、などを実行に移していきます。

サンチョ・ラミレスはまず1068年ローマに赴き、アラゴン王国の領土を封土として教皇に差出しそれを再び受ける形で、教皇の臣下となりました。そして北フランスのルシー(Roucy)家から夫人を迎えたり、クリュニー修道会との関係を深めるなどして築いた人脈を頼りに、「教皇の臣下サンチョ・ラミレスのレコンキスタ」に、フランス騎士を呼び込みます。クリュニー修道会は、サンティアゴ巡礼に大いに肩入れした修道会ですが、クリュニーは、フランス騎士たちに巡礼としてスペインに赴きレコンキスタに参加すること、そして戦利品の一部を修道院に寄進するようすすめたと言われます。

ではなぜ教皇やクリュニー修道会がサンチョ・ラミレスの誘いに乗ったのかと言えば、教会改革を推し進め教皇権の強化を図ろうとしていた教皇には、西ゴート時代の伝統とそれに続くイスラム支配下で独自の発展を遂げたスペインの教会に対し、正統とされるローマ典礼を導入させローマ教皇の完全な支配下に置こうとする狙いがあったこと、またクリュニー修道会もイベリア半島での影響力拡大を志向していたため、サンチョ・ラミレスの申し出はお互いに好都合であった、という事情によるものと私は理解しています。

教皇の臣下となり脇を固めたサンチョ・ラミレス王は、念願のウエスカ攻略を視野に入れ始め、祖父にあたるナバラ王国サンチョ大王が築いたロアレ城を、対イスラム戦の基地として1070年ころからその大改修にとりかかります。そして改修の柱のひとつが聖ペトロ教会の建設でした。

戦乱の時代を生き抜いたサンチョ・ラミレス王は、定まった王宮を持たず、王の滞在場所が仮の王宮になるのが通例でした。そのため、ロアレ城は砦であると同時に仮の王宮でもあったわけです。しかし、戦線が移動すればまた別の場所が仮の王宮になるわけで、ロアレ城が期限付きの王宮であることは、誰の目にも明らかなことでした。

それにも関わらず、金があり余っているわけでもないサンチョ・ラミレス王が、仮住まいには立派すぎるほどの聖ペトロ教会を築いたのはなぜなのか。まるで岩盤を割って地中から躍り出たような印象を与える、ほれぼれするようなペトロ教会の力強い姿に脱帽しながら、私の脳裏をかすめたのはこの疑問でした。

*(注)アラゴンの初代国王ラミロ一世の戦死は、1063年のほか,1064年,1069年などの諸説がありますが、ここでは1063年説に従っておきます。

写真(4)城の入り口(Door to the Castle) クリックして拡大(Click to enlarge)
写真(5)階段(Stairs to the Church of St. Peter) クリックして拡大(Click to enlarge)
写真(6)クリプト(Cript)


聖ペトロ教会

城の入り口はただひとつで、石段で城内につながっています。聖ペテロ教会はその石段をまたぐかっこうになっていて、教会の床が同時に石段の天井でもあるという、実に巧妙な設計です。その石段の途中、左手に衛兵の詰め所があり、その向かい側(右手方向)にクリプト(地下礼拝堂)があります。クリプトはふつう祭壇の地下に設けられ、聖遺物などを納めておく場所です。古い教会を壊して新しく建てなおすとき、古い教会をクリプトとして地下に残すことがよくありますが、ロアレ城の場合は、クリプトと教会がいわば二階建ての形で新しく建てられたわけです。もし敵に攻められたときは、クリプトにも衛兵を配置して侵入して来る敵を石段の両脇から挟み撃ちにする、という考えがあったのでしょう。祈りの場所がいつでも戦いの場所に変わりうることを念頭においた設計が、ロアレ城に一種の緊張感をもたらしています。

写真(7)円蓋と後陣(Dome & Apse) クリックして拡大(Click to enlarge)
写真(8)祭壇方向の図(View of the Apse) クリックして拡大(Click to enlarge)

石段を登りつめ、左に進むと聖ペトロ教会の扉口に出ます。教会に足を踏み入れてまず感じるのは、祭壇手前の天井部分が円蓋(ドーム)になっていて、天井が高くゆったりとした雰囲気の教会だ、ということです。教会の内部は全長23m、幅10mくらいで、実際にはそれほど大きな教会ではありません。しかし円蓋の直径が8m、床から円蓋の要め石までの高さが20mもあるため、天井自体の高さは14m足らずでも、堂々とした格調の高い教会、という印象を与えるわけです。

サンチョ・ラミレス王が手がけた三部作というのがあります。ロアレ城、サン・フアン・デ・ラ・ペーニャ修道院、そしてハカ大聖堂です。修道院も大聖堂も完成したのはいずれも王の死後何十年も経ってからの話ですが、ロアレ城だけはウエスカ攻略という待ったなしの目標があったので、金に糸目をつけぬ覚悟で突貫工事で取り組んだものでしょう。
サンチョ・ラミレス王は、聖ペトロ教会が、ハカ大聖堂に先立つ当時のアラゴンでは数少ない本格的な教会建設であったため、11世紀スペインロマネスクの代表作のひとつを目指すぐらいの覚悟で、人と金を投入したものと思われます。しかし、当時のアラゴンの建築技術ではとても手に負えず、南フランスやイタリアあたりの熟達の工匠を多数起用したのであろう、とする説が有力です。

写真(9) 祭壇から見た図 (View from the altar) クリックして拡大(Click to enlarge)

写真(9)「祭壇から見た図」で、教会の壁の一部に岩盤がむき出しになっているのが見えます。岩山の狭い土地にできるだけ大きな教会を建てようとして、岩盤を壁に取り込んだものです。実は岩を削っている時間がなかっただけかも知れませんが、結果として迫力を生み出しているように思います。

また、聖書を暗記していた当時の人たちは、聖ペトロ教会を目にしたとき、イエスが使徒ペトロに向けて発した言葉、「それではわたしもあなたに言おう。あなたはペトロ(岩)、わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。黄泉の門(死の力)もこれに勝つことはできない」(マタイ福音書16章-18)を思い浮かべ、岩の上にどっしりと立つ聖ペトロ教会の姿に感銘を受けたに違いありません。

レコンキスタの過程で、キリスト教徒領主たちは征服した土地にまるで旗でも立てるように次々と教会を建て、支配者の交代を知らしめました。イスラム軍の前線基地からも見えるロアレ城を改修し、それを仮の王宮としたサンチョ・ラミレス王も例外ではありません。なかでも城砦には立派すぎるほどの聖ペトロ教会を建てた背景には、それによって神の栄光を讃える一方で、ウエスカをイスラム勢力から奪回する戦いもまた神の意思にかなう行為であることを、サンチョ・ラミレス王は新しい教会を建てることを通じて内外に示そうとしたのではなかったか、そう考えると、「なぜ一時的な仮王宮に大金をかけたのか」、という疑問へのひとつの答えが思い浮かびます。

写真(10)聖ダニエルとライオン(St. Daniel &Lions) クリックして拡大(Click to enlarge)
写真(11)聖ダニエルとライオン(St. Daniel &Lions) クリックして拡大(Click to enlarge)
写真(12)男と怪獣 (Man & Mystical animals) クリックして拡大(Click to enlarge)
写真(13)ライオンと植物の葉 (Lion & Leaves) クリックして拡大(Click to enlarge)

柱頭彫刻

写真(8)を見ると、祭壇の奥にある後陣が半円形に張り出していること、そして窓枠を含め、アーチを受ける柱頭のひとつひとつに彫刻が施してあるのがよく分かります。
写真(10),(11)は後陣の柱頭彫刻のひとつで、「男とライオン」とか「聖ダニエルとライオン」などと呼ばれるものです。写真(12)は「男とライオン」あるいは「男と怪獣」と呼ばれ、写真(13)は「ライオンと植物の葉」と呼ばれます。
聖ペトロ教会の柱頭彫刻の特徴は、作品としての完成度が高いわりには、物語性に欠けるということです。すなわち、柱頭彫刻によく見られるイエスの生涯や聖書の物語りなど、作品全体で何かを物語るというより、むしろ装飾としてそこにある、という感じがします。

個々の作品については、トゥール-ズあたりの有名なフランスロマネスクの彫刻との類似点を指摘し、従ってこれらはフランスの彫刻師の作であろう、と結論付ける説を見受けます。それはそれで大変興味のあるテーマですが、私がまず感じるのは、工匠(もしくは工房)が、まずはじめに一群の柱頭彫刻で何を表現するかについて深く考え抜き、そのうえでひとつひとつの作品に祈りをこめて彫り込んだ、という類の柱頭彫刻とはだいぶ異なるということです。

聖ペトロ教会は、岩山に聳え立つという立地条件もあり、それ自体が見る者を圧倒する迫力に満ちています。しかし彫刻だけを見ると、ひとつひとつは実に立派な作品ながら、どちらかといえば装飾に徹しているという感じがするわけです。突貫工事が求められたことから、柱頭彫刻は何を題材とするかも含め、多数の工匠がそれぞれ得意とするところにまかされたのではないか、私はそんな印象を持ちました。そのため、ひとつひとつの作品は実に素晴らしいものだけれど、全体を通して統一あるメッセージが伝わってこないという結果になったのではあるまいか、という気がするわけです。別の言い方をすれば、オールスターチームが名人芸を披露する試合を見ているような感じで、それはそれで楽しいことではあります。

そう考えると、ひとつひとつの彫刻が何を象徴しているのか、或いはある作品の題材が「聖ダニエルとライオン」なのか、それとも「男とライオン」なのか、というようなことを詮索するのは余り意味がない、とも言えそうです。


写真(14)窓枠の柱頭彫刻(外部)クリックして拡大(Click to enlarge)

窓枠のアーチを受ける柱頭のひとつひとつにも、見事な彫刻がほどこされています。教会内部と外側から見た例を写真(14),(15)で示しましたが、象牙細工のような細かい彫りのものもあり、これはスペインのロマネスク教会の柱頭彫刻では余りお目にかからないものです。当時のトゥールーズは宗教美術のメッカであり、またサンポルト峠を越えてハカに出る、サンティアゴ巡礼路の拠点のひとつでもありました。聖ペトロ教会の建設にトゥールーズあたりの工匠が参加したというのは、大いにありそうな話です。

写真(15)王妃の塔(Queen's Tower) クリックして拡大(Click to enlarge)

聖ペテロ教会の扉口に面して「王妃の塔」と呼ばれるナバラ王サンチョ大王が築いた初期ロマネスクの塔があります。ロアレとその近辺は、イスラム支配下で暮らすキリスト教徒がずいぶん多かった地帯です。イスラムの支配者たちは、キリスト教徒が税金さえ払えば原則として信教の自由を認めました。イスラム支配下のキリスト教徒をモサラベ(mozárabe)と呼びますが、サンチョ大王が11世紀初めにロアレの砦を築いたときには、イスラムの建築技術を身につけたモサラベたちが、石を切り塔を積んでいった可能性があります。ロアレ城はロマネスク様式ですが、この王妃の塔など古い建物の一部に、ロマネスクに先立つモサラベ様式の影響が指摘されるのは、そんな背景があるからだろうと思います。

写真(16)上部階 (Upper level) クリックして拡大(Click to enlarge)

教会よりもさらに一段高い位置、いわば3階にあたる部分に初期の古い建物が残っています。正面左が王妃の塔で、城の西南の角から見た図です。聖ペトロ教会は右手の一段低い場所にありますが、手前の建物にさえぎられて見えません。

写真(17)聖母礼拝堂 (Saint Mary's Chapel) クリックして拡大(Click to enlarge)

当初からの城付属の礼拝堂で、建設時期は王妃の塔などと同じく11世紀の初めです。長さ11m巾3mのごく質素なものです。

写真(18)外壁内の庭 (View from the top of the castle) クリックして拡大(Click to enlarge)

写真(19) ロアレ町遠望 (View of the town of Loarre)クリックして拡大

城の外壁は13世紀に付け加えられたものだそうですが、壁の厚みは1.5mくらいあります。アラゴン王国発祥の地は、段々畑ほどではありませんが、こんな風に狭い耕地の寄せ集めというのが多かったようです。写真(20)は城からロアレの町を眺めた図です。

サンチョ・ラミレスについて

隣国ナバラ王国の内紛により、1076年からナバラ国王を兼任することになったサンチョ・ラミレスは、多忙であったことに加え、ロアレ城に近いボレア、アイエルベの二つのイスラム軍の砦が堅固であったためその攻略に手間取り、念願のウエスカ攻略に着手するにはさらに10年以上を要します。

ロアレ城からウエスカを直接攻めるには30キロの距離は余りにも離れすぎていました。まとまった軍勢で有効な攻撃をかけるには、目標に近い前線基地を設ける必要があったため、1090年頃にウエスカから数キロ北のモンテアラゴン(Montearagón)に砦を築き、仮の王宮もそちらに移ります。

そしてウエスカ攻略がやっと手のとどくところまで来た1094年の夏、サンチョ・ラミレス王が攻撃の突破口を下見のためウエスカの城壁に近づいたとき、突然敵の放った矢が王に命中し、その傷がもとでモンテアラゴン城で亡くなったとされています。11世紀の50歳を過ぎた死というのは、決して若死にではありません。今で言えば80歳に近いのではないでしょうか。父親の初代国王ラミロ1世と同じく、老骨に鞭打って戦場をかけめぐり、鎖かたびらを身に着けたまま倒れたわけですが、念願のウエスカは1096年に長男のペドロ1世が攻め落とし、アラゴン王国の新しい首都とします。

ペドロ1世のあとを継いだ弟のアルフォンソ1世(戦闘王)の時代に、王国の領土はさらに何倍にも広がり、アラゴンはイベリア半島の有力王国のひとつになりますが、その発展の基礎はサンチョ・ラミレスの地道な施策にありました。ラミロ1世の長男にさえ生まれていなければ、サンチョ・ラミレスはあるいは修道院長か司教で安らかな人生を終わった人かもしれません。

しかし時代は彼に重荷を負わせたようです。ピレネー山麓の小国アラゴン王国の発展に道をつけるため、国内の保守勢力を説き伏せヨーロッパに向けて国を開き、そしてイベリア半島の列強に伍してレコンキスタに賭け、ひたすら戦場を駆けめぐりつつその実直な人生を終わったサンチョ・ラミレスですが、ひとつ贅沢をしたとすれば、それはロアレ城の聖ペトロ教会ではなかったかと思います。オーケストラの演奏がその指揮者の作品であるように、聖ペトロ教会は、サンチョ・ラミレスが工匠たちを指揮して生み出した、見事な作品だと私は思います。

(Summary in English)
Loarre Castle - 11th Century Romanesque castle near Huesca, Spain

Loare Castle is one of the best kept 11th century fortress-castles in Spain, and maybe in Europe. The castle is built on top of a rock mountain of 1,000 m. of altitude. It is located at 30 km NW of Huesca, the provincial capital of Huesca, Aragon.
It was originally built in early 11th century as a fortress by Sancho III, the Great, king of Navarre, who conquered the area from the Islam ruler based in Zaragoza. During 1070's Sancho Ramírez, king of Aragón and grandson of Sancho III, the Great, enlarged the castle as a base for assault to Huesca adding a new church dedicated to St. Peter. It was also designed to serve as a temporary palace of kingdom of Aragón, which has a tradition of establishing a moving palace at a place where the king stays at war.

Sancho Ramírez was born around 1042 and died in 1094 when he was preparing for an assault at the city of Huesca. He reigned as the king of Aragón during 1063-1094 founding basis for a small kingdom adjacent to the Pyrenees to develop into one of the powers in Iberia peninsula during the following century. Huesca was taken in 1096 by his son, Peter I and was made the capital of Aragón.

11th to mid 13th century in Spain was the time of Romanesque art and the Reconquista as well.
Reconquista is a movement of Christian lords in Northern Spain to regain the land occupied by Islam rulers since 8th century. Theoretically it ended in 1492 by the fall of Granada, but most of the work had been done by 1248 when Sevilla fell into the hand of Christians.

Among the Christian lords Sancho Ramírez was especially under pressure to expand the territory towards the Ebro river basin to secure wheat fields to cope with the increasing population, where the Islam kingdom of Zaragoza had control over the past 300 years. Huesca was a crucial target for Sancho Ramírez. He did everything he could to prepare for it; became a vassal of the Pope in 1068, and strengthened the ties with the Cluniac Order and invited French knights to participate the fight against Zaragoza kingdom.

Sancho Ramírez died before seeing the glorious days of Aragón, but his legacy remains. A king who opened the small kingdom to Europe and initiated new construction or remodelling of some of legendary Romanesque buildings such as; Cathedral of Jaca, monastery of San Juan de la Peña and Castle of Loarre, especially its magnificent St. Peter's Church on the rock.

The time of Romanesque art in Iberian peninsula was the time of Reconquista, which means the war.
During 11th to mid 13th centuries when people of north of Pyrenees were free of wars and dedicating to construction of monumental Romanesque churches or high towered Gothic cathedrals, but in Spain the wars calld Reconquista were being waged among Chrisitan lords and taifas(Islam kingdoms).
During the Recinquista or war, regardless whatever you call it, destruction continues and people will suffer and die as a consequence. The large monumental construction will only be possible after the peace arrives. That's one of the reasons, to my mind, that construction of Spanish Gothic cathedrals did not start in quantity until mid 13th century while Romanesque style continued a little longer than other countries.
Most of the people say ''The Romanesque period is of 11th to 12th century''. However I would say in Spain it is of 11th to mid 13th century for the reasons above mentioned.

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El autor queda agradecido a Margarita Gratacós por su interés y colaboración durante las visitas a las iglesias románicas de las tierras de Aragón.

2011年2月12日土曜日

スペインロマネスクの旅(1)


(For summary in English please see the end of this article)

「スペインロマネスクの旅」について

ロマネスク時代は11世紀と12世紀で、13世紀はゴシックの時代とよく言われます。しかしそれはピレネー以北の話で、スペインの場合は、13世紀に入ってもまだ引き続きロマネスク様式の教会がたくさん建てられていることから、私はスペインのロマネスクは13世紀の半ば頃まで、と考えています。
それはまた、サンティアゴ巡礼が急激に伸び、レコンキスタ(「再征服運動」すなわち対イスラム戦)が大きな進展を見せた時期であり、そしてヨーロッパ全体を見れば十字軍の時代でもありました。

3年前に「カタルーニャのロマネスク教会」というタイトルで、バルセローナ近辺の教会を紹介しようと、気軽な気持ちで写真入りBlog記事を書いたのが、その始まりでした。そして、バルセローナの友人たちの案内であちらこちらの教会や修道院跡を訪ね回っているうちに、いつの間にかロマネスクの不思議な魅力のとりこになってしまったわけです。

昨年の春、アラゴン地方とカスティーリャ地方の修道院や教会を訪ね、ロマネスク様式はずいぶん地方色ゆたかなものであること、そしてスペインロマネスクの歴史と、レコンキスタやサンティアゴ巡礼の歴史とは、からみあった糸のように切り離せないものであることに、改めて気づかされました。

「スペインロマネスクの旅」シリーズは、「サンティアゴ巡礼路のロマネスク教会」に続くもので、サンティアゴ・デ・コンポステーラを旅の最終目的地とすることに変わりはありません。
しかし、中世のサンティアゴ巡礼が、ただひたすら先を急ぐだけの旅ではなく、霊験あらたかとされる霊場があれば、巡礼者たちは回り道をすることもいとわなかったように、私のスペインロマネスクの旅も、ときどきわき道にそれたりしながら、スペイン各地の霊場をゆっくり巡る旅にしようと考えています。



[サンフアン・デ・ドゥエロ修道院] (Monastery of San Juan de Duero)

修道院の所在地ソリア(Soria)
マドリッドの北東に位置するソリア県は、新潟県に匹敵する1万平方キロの面積に、10万人に満たない人が住むスペイン一の過疎地帯です。しかし、イベリア半島を縦断しポルトガルのポルトに至る、全長800キロに及ぶスペイン第二の大河、ドゥエロ河の水源にあたるこの地域は、ローマ時代から戦略上の重要拠点のひとつでした。そしてレコンキスタにおいても、ソリアはキリスト教徒勢力とイスラム勢力とが、ドゥエロ河をはさんで激戦を繰り返した場所です。

ソリア市はマドリッドから230キロ、人口4万人のこじんまりとした県都ですが、海抜1,000メートルの高地にあるため、冬は寒さの厳しいことで有名です。ソリア地方を訪ねたのは昨年3月半ばでしたが、季節はずれの大寒波に襲われ、スペイン旅行だからと軽装で出かけた私たちは、ほんとうに震え上がってしまいました。


1)ソリア市遠望(City of Soria)

2)ドゥエロ河にかかる橋(The Duero river)


ソリアの旧市街をぬけドゥエロ河にかかる橋を渡った対岸に、サンフアン・デ・ドゥエロ(ドゥエロの聖ヨハネ)修道院があります。ほとんど何も記録は残っていませんが、12世紀末から13世紀の初めころ、聖ヨハネ騎士修道会が建てた修道院だとされています。巡礼者用の病院なども併設されていたようですが、現在残っているのは教会と回廊部分のみ。
サンフアン・デ・ドゥエロ修道院の回廊は、スペイン・ロマネスクの本には必ず登場するほど有名で、ソリア市の観光名所のひとつでもあります

3)サンフアン・デ・ドゥエロ修道院全景(San Juan de Duero monastery)


4)修道院への道(The road to the monastery)


修道院教会(Church of the monastery)
教会に一歩足を踏み入れたときの印象は、まるで洞窟という感じです。天井近くの左右の壁と正面奥の後陣にごく小さな明りとりの窓があり、祭壇のあたりには人工照明も配置してありますが、それでも教会の中はうす暗く、カメラのISO感度を目いっぱい上げて何とか写真が撮れるという状態でした。

祭壇までの部分(身廊)は20メートル足らず、ほとんど装飾らしいものもない、小さなごく質素な教会ですが、主祭壇の手前に天蓋つきの小祭壇を左右に設けるという構成は、スペインのロマネスク教会ではあまりお目にかからない実に珍しいものです。東方のビザンティン教会やモスクなどを思わせる、特異な雰囲気をかもし出しています。
十字軍に参加したヨハネ騎士団の修道士たちが、東方で目にした建築のスタイルを取り入れたものであろう、という説があります。



5)修道院教会内部(Interior of the church)

6)小祭壇(Shrines)


小祭壇の柱頭彫刻(Capitals of the little shrines)
ロマネスク建築は、素材は近くで手にはいるものを工夫して使いこなすしかなかった時代のものです。硬かったりもろかったり、細工の難しい地場の石に取り組む石工は、しだいに大胆に細部を省く表現に活路を見い出していきます。サンフアン・デ・ドゥエロの柱頭彫刻も地場の石を素材に使ったもので、繊細な象牙細工のような彫刻というものではありませんが、忘れがたい独特の作品がいくつかあります。
向って右側の小祭壇の柱頭に彫り付けてある、聖書の有名な場面のいくつかをご紹介します。

7)イエスの誕生(The Birth of Jesus)

8)エジプトへの避難(The Flee to Egypt)

9)幼児殺戮(The Killing of Children)
イエス誕生の噂を耳にしたユダヤ王ヘロデが、ベツレヘムの二歳以下の幼児をすべて殺害するよう命じた、という聖書の物語を題材にしたもの。兵士の手から赤ん坊を守ろうとする母親、剣を振り上げたヘロデ王らしき人物の腕に、必死にとりすがる老婆の姿など。

10)洗礼者ヨハネの死(the Death of John the Baptist)
ヘロデ・アンティパスが、妻ヘロディアに言い含められた娘の望みをかなえるため、洗礼者ヨハネの首をはねさせた、という聖書の物語。しゃっちょこばった兵士、黙想中とも見えるヨハネの死顔、恐れおののく娘と平然と見守るヘロディアなど、写実とは縁のない描写ながら登場人物を的確に描き出しています。深刻な題材を扱いながらどこか戯画風的なのも、ロマネスク彫刻のひとつ特徴。


11)半鷲・半獅子の怪獣(the Griffin)
これは左側の小祭壇にある、鷲と獅子が合体した怪獣(グリフィン)の柱頭彫刻ですが、本来は獅子であるべき顔が人間になっています。あるいは修道院長の似顔だったかも知れない、などと想像してしまいます。こんな遊び心がロマネスクの楽しいところです。


回廊(Cloister)
サンフアン・デ・ドゥエロ修道院の回廊は、屋根が失われ一見廃墟のように見えます。
うす暗い教会から青空の下にある回廊に出た、ということもあるのでしょうが、まぶしい陽光になれた目にも、やはりサンフアン・デ・ドゥエロ修道院の回廊は明るいな、というのが第一印象でした。


12)回廊全景(The entire view of the cloister)
右に見える建物が教会で、方角は右手が北、正面が西。そしてその先の回廊の壁ごしに、ドゥエロ河の岸辺が見えています。回廊の柱頭には動物文様や植物文様が彫りこまれていますが、何と言っても主役はつぎつぎに変化していく四種類のアーチ列でしょう。教会の壁に近い北西の角から、時計の逆回り方向に回廊を見ていくことにします。



13)北西方向から見る(N.W. view of the cloister)


14)西のアーチ列(West arches)

15)西アーチ拡大図(Close up of the West arch)

アーチが交差しながらえんえんと続くのは、無限に続くもの、永遠の存在すなわち神を象徴するもの、という見方があります。イスラムの宗教美術においても、同じ文様を繰り返すのは、やはり無限の存在である神を表すものだと言います。

この特異な回廊のアイデアがどこから生まれたのかについては、いろいろ議論のあるところです。ヨハネ騎士団が東方からもたらした、イスラム建築にくわしいトレードの工人が手がけた、ノルマン騎士によるシシリー王国の様式の移入ではないか、などなど諸説があります。そしていずれの説にも共通しているのは、イスラムの影響が大きいと認めている点です。


16)南西の角から見る(View from the S.W. corner)

17)南のアーチ列(South arches)

18)南アーチ(South arches)

修道院は回廊を中心にそのまわりに居住区その他を配置して構成されます。町づくりで言えば回廊は町の中心をなす広場にあたるわけです。

回廊の建設を手がけたのは、トレードあたりから招聘したイスラム建築を熟知する工人だったのでしょうが、これだけ特異な回廊を構想したのは、ひょっとすると十字軍に参加した聖ヨハネ騎士団の老修道院長、イスラム文化に触れ、その質の高さに感銘を受けた経験を持つ人ではなかったか、などと私は想像するわけです。


19)東アーチ列(East view)

20)東アーチ(East arches)


21)北東の角のアーチ(N.E. corner arch)

柱頭彫刻(Capitals)
回廊の柱頭彫刻には動物、植物、組紐などの文様が採用されていますが、いずれも文様としての起源は古いものばかりです。組紐文様もアーチの連続と同じく、終わりのない永遠のもの、すなわち神聖なる存在を象徴する文様とされています。

22)植物文様(Vegetable pattern)

 
23)組紐文様(Twine pattern)

24)アカンサス(葉アザミ)文様(Acanthus pattern)

サンフアン・デ・ドゥエロ修道院の回廊は、屋根もなく廊下もなく、ましてや名工の手になる彫刻があるわけでもありません。
そこにあるのは、見る者を圧倒するような美の対極にある、人の心を落ち着かせ、内省にさそう静けさです。
もし椅子があれば、何時間でもじっと座っていたくなるような、そんな気持ちにさせる回廊でした。


(Summary in English)
This is the first of the new series of articles titled ''Romanesque Churches in Spain'' which is the continuation of the ''Romanesque Churches along the Camino de Santiago''. The first of the series will be about the San Juan de Duero monastery in Soria.
The city of Soria is located at 230 km North East of Madrid. It's a small provincial capital by the river Duero with the population of 40,000. The river Duero, number 2 longest river in Spain with 800 km to Port(Portugal), originates in the province of Soria. The area along the river was a battle field during the Reconquista(war against Islam rulers in Spain) where heavy battles were fought among Christians and Moslems.

The monastery of San Juan de Duero(St. John of Duero) was supposedly founded by the Knights of St. John during late 12 century to early 13th century. The monastery is located across the Duero river and close to the bridge. The monastery was abandoned in 18th century and only the church and the cloister now remain. The very unique cloister with Islamic influence is the most famous of the monastery, although it appears like a ruin with the roof disappeared long time ago.

The church is small but also unique with two small shrines added in front of the main altar. The church is of Romanesque but it reminds us of a Byzantine church. The capitals are decorated with stories of the New Testament and some mystic animals such as Griffin. They are not up to the quality of the Santo Domingo de Silos monastery, but still there are some impressive pieces.

Cloister is composed of four different style of arches. The chain of same shaped arches is supposed to symbolize the infinite, as a consequence, the God. There is no tall bell tower nor impressive stained glasses, but there is a very unique and peaceful cloister at San Juan de Duero.

2010年12月21日火曜日

サンティアゴ巡礼路のロマネスク教会(4)Romanesque churches along ''EL Camino de Santiago''(4)

-サントドミンゴ・デ・シロス修道院 (Monastery of Santo Domingo de Silos)

スペイン地図-クリックして拡大(Click to enlarge)
(For the summary in English please see the end of this article)

(1)修道院への道(On the road to the Monastery)クリックして拡大(Click to enlarge)

サントドミンゴ・デ・シロス修道院

麦畑を両側に見ながら、ときには羊の群れとすれ違ったりする田舎道をゆっくり走っているうちに、スペインロマネスクの傑作で、いまも現役のベネディクト派修道院があることで有名な、サントドミンゴ・デ・シロスの町に着きます。マドリッドから240km、ブルゴスからは60kmの距離です。

(2)修道院遠景(View of the Monastery)クリックして拡大(Click to enlarge)

私たちが修道院を訪ねたのはことし3月の半ばでしたが、日中の気温は零度よりあがらず、町の広場の水汲み場には氷が張るほどの寒い日でした。イースター休暇の前で観光客はもともと少ない時期でしたが、例年にない寒さに人出が全くとだえてしまったようで、私たちが修道院の拝観を終え、暖をとるため目の前にあったバル(bar)に駆け込んだとき、バルの女主人は「きのうはお客がひとりも来なかった、きょうもあなたちだけかもしれないね」となげいていました。
人口300人の田舎町には不釣合いなほど広々とした駐車場が町の入り口にあり、大型観光バスや何百台もの車が殺到しても大丈夫という感じですが、私たちが着いたときには一台の車も見当たらなかったので、女主人がなげいたのも無理はありません。

(3)凍りついたマイヨ-ル広場の水汲み場(Fountain at the Plaza Mayor)

(4)マイヨール広場から眺めた修道院(View of the Monastery from the Plaza Mayor)クリックして拡大(Click to enlarge)

写真の奥に見えるのが修道院の教会部分ですが、有名な回廊への入り口は、教会の手前の坂を左にくだったところにあります。

(修道院の歴史)
サントドミンゴ・デ・シロス修道院が、前身のサンセバスティアン修道院の名前で史料に登場するのは10世紀のことですが、その当時すでによく知られた存在だったらしいことから、修道院の起源はさらに一世紀ぐらいさかのぼる9世紀末、すなわちレコンキスタ(再征服運動)と呼ばれるイスラム勢力とキリスト教徒領主勢力との戦いが、まだシロスの近辺でも続いていたころではないか、と推測されています。

10世紀の末ころ、コルドバに本拠をおくイスラムの勇将アル・マンス-ルの率いる軍勢が、東はバルセロナから西はサンティアゴにいたるまで、スペイン全土を荒らしまわった時期があります。そのときシロス修道院もその戦乱に巻き込まれ、壊滅的な打撃を受けてしまいました。そしてレオン国王フェルナンド1世(在位1037-1065)がその立て直しを聖ドミンゴに委嘱した1041年から、シロス修道院の再建が始まります。

聖ドミンゴは1000年ころの生まれといわれ、1073年に死ぬまでの32年間の院長在任中に、廃墟同然だったシロス修道院をスペイン有数のロマネスク修道院に仕上げた人物です。「ドミンゴ院長が祈れば全ての病気はそくざに治る」というたぐいの奇跡譚の主人公でもあり、戦乱時代の修道院長にふさわしい胆力と、高徳を兼ね備えたすぐれた指導者だったようです。その徳をしたって、レオン国王のほかエル・シッドなど地元カスティーリャ出身の貴族たちがすすんで領地その他の寄進に応じた結果、シロス修道院は財政面でも立ち直ります。

修道院があるブルゴスを中心とする旧カスティーリャ地方は、イスラム勢力の侵入路にあたったことからたくさんの城塞(castillo)が築かれ、そのため「カスティーリャ」と呼ばれるようになったという説があるくらい、もともとはレオン王国の辺境伯領でした。しかし、レコンキスタの進展とともに辺境領だったカスティーリャがしだいに重要性を増し、レオン・カスティーリャ王国として11世紀ころからスペイン政治の中心に躍り出てくるわけです。

ドミンゴ修道院長は死後3年目の1076年に聖人に列せられ、サントドミンゴ修道院と名前を変えたシロスの修道院には、聖ドミンゴの遺骸に詣でる巡礼者が殺到するようになりました。ちょうどサンティアゴ巡礼がヨーロッパ全体で急激に伸びた時代でもあります。そして、ドミンゴ院長のあとをついだ修道院長にも有能な人材が輩出し、スペインにおけるベネディクト派修道院のなかで、宗教面でも文化面でもつねに存在感を持つ修道院でした。また11世紀末から12世紀にかけては、有名な回廊建設にくわえて、「ベアトゥス黙示録注解」彩飾写本の制作など、宗教芸術の分野でもロマネスクの歴史に残るみごとな作品を残しています。

スペインのロマネスク教会や修道院にはよくあることですが、シロス修道院も19世紀半ばにいちど閉鎖され、長年の歴史が中断されましたが、幸い19世紀末にフランスのベネディクト派修道会の修道者たちの手で再建され、今日にいたっています。

私はこの数年間にスペインのロマネスク修道院をいくつか訪ねましたが、カタルーニャのモンサラット修道院をのぞけば、あとはすべて修道院跡ばかりでした。スペインでもサントドミンゴ・デ・シロス修道院のように、ロマネスク時代をしのばせる現役の修道院はごくわずかで、たいへん貴重な存在です。

(回廊)
シロス修道院の回廊が「スペインで最も美しい回廊」といわれるのは、11-12世紀の彫刻が見事に保存されていることのほかに、そこでいまもなお32人の修道士が、中世からのベネディクト会則に従う厳しい修道生活を送っていることと無関係ではないと思います。シロス修道院には、「ほんもの」のみが持つ、ある種の緊張感があります。そしてこの張りつめた空気と見事な彫刻とがあいまって、シロス修道院の回廊に一歩足を踏み入れた者を感動させるのだと思います。

私はこの回廊をご紹介する写真を全てモノクロームに変換することにしました。張りつめた空気はとても写真になりませんが、少なくとも浮き彫りや柱頭彫刻については、白と黒のコントラストだけのモノクロ画像が、シロス修道院の回廊で私が感じたものに近いと思うからです。


(5)東廊下からの眺めCloister(view from the east corridor)クリックして拡大(Click to enlarge)


(6)北廊下の眺めCloister(view of the north corridor)クリックして拡大(Click to enlarge)



(7)西廊下からの眺めCloister(view from the west corridor)クリックして拡大(Click to enlarge)


(8)西廊下の柱頭Cloister(capitals of the west corridor)クリックして拡大(Click to enlarge)


回廊は、四辺形の一辺が30米をこえるずいぶん大きなもので、しかも2階建てになっています。ただし拝観がゆるされるのは1階の部分に限られます。1階の回廊の四隅にほぼ等身大の浮き彫りパネルが2枚ずつはめこまれ、合計8枚の大きな石のパネルに新約聖書の物語が浮き彫りになっています。柱は合計64本で、それぞれに柱頭彫刻がほどこしてあります。絵柄はさまざまですが、植物や奇怪な動物を、象牙細工のような細かな彫りで仕上げた作品の多いのが、シロスの特徴です。

回廊拝観の順路は、入り口から見て右手にあたる東側通路から始まり、時計と逆回りに北、西、南と回るのがふつうです。西廊下の途中で作風が変わるところから、二人の石工の作とするのが通説です。そして全く作者の名前が分からないため、前半を担当したのが初代のマエストロ(11世紀末ころ)、後半を二代目マエストロ(12世紀初めころ)と呼ぶことにしています。


(浮き彫りパネル)(Reliefs by the first maestro)
8枚の浮き彫りのうち6枚が初代マエストロの作品とされています。その中からとくに有名な3枚を選びました。浅い浮き彫りで細部が大事だと思われるため、一部拡大した写真を添付しておきます。いずれも11世紀末の作品とされているものです。


(9)十字架降下(Descent from the Cross)クリックして拡大(Click to enlarge)


(10)十字架降下(Descent from the Cross)クリックして拡大(Click to enlarge)

画面の左に、イエスの傷ついた手にそっと頬をよせる聖母マリアを配し、その深い悲しみとマリアのやさしさを描こうとしたマエストロは、やはりロマネスクの人だったと思わせる作品です。プラド美術館にある、15世紀フランドルの画家ヴァン・デル・ヴァイデンの名画では、聖母マリアは気絶しています。時代が下るにつれ、しだいにドラマティックな描写になるようです。


(11)エマウスの弟子たち(Disciples at Emmaus)クリックして拡大(Click to enlarge)

(12)エマウスの弟子たち(Disciples at Emmaus)クリックして拡大(Click to enlarge)

イエスが復活して、エルサレム近くのエマウスで二人の弟子の前に現れた、というルカ福音書の場面です。この逸話はイエスの弟子たち、すなわち使徒たちの深い宗教体験を象徴するものだといわれます。帆立貝を縫い付けたサンティアゴ巡礼者の衣装を身にまとうイエスの姿に、シロスの修道士たちは、親しい永遠の同伴者を見たに違いありません。

厳しい修道生活に疲れたとき、あるいは信仰に迷いが生じたとき、この浮き彫りの前にたたずむ修道者の姿を、私は思い浮かべます。ロマネスクの時代には、シロス修道院の彫刻は単なる装飾ではなく、それは修道者が目には見えぬ神を身近に感じるための、架け橋のようなものであったはずですし、またいまもそうだろうと思います。シロス修道院の彫刻作品の迫力は、そこにあるという気がします。


(13)不信のトマス(Incredulous Thomas)クリックして拡大(Click to enlarge)

(14)不信のトマス(Incredulous Thomas)クリックして拡大(Click to enlarge)

ヨハネ福音書にある、復活を信じない使徒トマスが、イエスの脇の傷口に手を触れている場面です。初代マエストロは、この場面にはいあわせなかったはずの聖パウロを、イエスの向かってすぐ右隣りに配しています。生前のイエスに会ったこともなければ、当初はユダヤ教のラビ(律法学者)を志し、キリスト教徒迫害に回った過去をもつ聖パウロを、イエスにもっとも近い弟子として描くことで、見ても信じないトマスとイエスを見ずして信じたパウロを対比させているわけです。
聖パウロへのかくべつの思い入れと、そしてマエストロが「信ずる」ということについて、深く考えをめぐらす人であったらしいことをうかがわせる作品です。初代マエストロは修道士ではなかったか、と私が考えるひとつの理由です。


(柱頭彫刻)

64個の柱頭彫刻は、初代マエストロと二代目マエストロの作にほぼ等分される、というのが定説です。その中からいくつかの作品をご紹介します。

初代マエストロの柱頭彫刻(Capitals by the first maestro)



(15)植物文様(Vegetable pattern)クリックして拡大(Click to enlarge)


(16)獅子の頭を持つ怪鳥(Mystical birds)クリックして拡大(Click to enlarge)


(17)怪獣像(Mystical animals)クリックして拡大(Click to enlarge)

初代マエストロの柱頭彫刻は、ごくまっとうな植物文様もありますが、奇怪な鳥や動物を装飾化した図柄がたくさん目につきます。異様な図柄の説明は、ペルシャじゅうたん、オリエントの織物、装飾写本の挿絵などからヒントを得たという説、彫刻家の遊び心をあげる説、また全ての絵柄が悪との戦いなど何らかの象徴であるという説、とさまざまです。

たしかに、現代の私たちにはただ異様なものとしか映らない図柄にも、ちゃんとした出所があり、またそれぞれが何かの象徴であるのかも知れません。しかし奇怪な動物を描いた柱頭彫刻で回廊を飾ることが、世俗との関係を絶ち、物質や肉体の欲望を超克しようとする修道士たちに、いったいどんな意味を持っていたのか、という素朴な疑問が残ります。当時の修道院関係者の間でもきっと議論を呼んだに違いありません。
年代はさらに何十年もあとの話ですが、12世紀に革新的修道会として発展したシトー修道会は、宗教芸術を修行のさまたげとみなし、その価値を否定します。そしてそこから、教会には木の十字架のほか装飾的なものはなにも置いてはならない、という禁欲的なシトー会則が生まれます。

初代マエストロは、スペインのロマネスクではめったにお目にかからない、象牙細工のようなこまかな彫りをみごとに硬い石に刻む腕を持った人でした。しかし浮き彫りの制作では、テーマが新約聖書の物語という周知の内容であること、それに8枚組みパネルのような大作では絶対に失敗がゆるされぬため、新しい試みは極力さけ、技法面でも手堅く手馴れた彫りに徹したはずです。
しかし、柱頭彫刻の場合には、自らの能力の限界に挑戦する覚悟で、新しいテーマや技法に命がけで取り組んだと思います。30数個の作品の中には、彫り進むうちにつぎつぎとアイデアが浮かび、自然にノミが動いてどんどん図柄が変化していったような作品があったかもしれません。シロス修道院回廊の柱頭彫刻は、初代マエストロが修道士たちに向かって投げかけた、正解のない永遠の問い、常識への挑戦ではなかったのでしょうか。

これだけ優れた腕をもつ初代マエストロですが、その作品はシロス修道院いがいには見あたらないようです。中世の工人たちは定住せず、仕事を求めて遍歴の生活を送るのが常だったといわれるだけに、ふしぎなことです。しかし、もし初代マエストロが修道士であれば、修道院を出ることはできなかったわけで、その点もマエストロが修道士ではなかったかと私が想像する理由です。

二代目マエストロの柱頭彫刻(Capitals by the second maestro)
初代マエストロは回廊の完成を見ずして亡くなったようです。そしてそのあとをついだ二代目のマエストロは、初代が残した作品との連続性に留意しながら、独自の展開を図ります。二代目マエストロもたいへん優れた腕の持ち主でした。そしてその活躍の時期にあたる12世紀は、スペイン各地でロマネスク芸術がいっせいに花開き始めたころでした。

(18)編み籠文様(Basketwork pattern)クリックして拡大(Click to enlarge)

二代目マエストロも奇怪な動物の柱頭彫刻をたくさん彫っていますが、こんなすなおな編み籠文様の作品もあります。


(19)エジプトへの逃避(Escape to Egypt)クリックして拡大(Click to enlarge)

これはマタイ福音書にある、聖母マリアがイエスを懐に抱いてエジプトに逃れる場面です。二代目マエストロが、いかにもロマネスクらしい温かみのある人物などの描写に秀でた人だったことを、うかがわせる作品です。



(20)教会(Church of the monastery)クリックして拡大(Click to enlarge)

修道院の教会部分は、18紀にロマネスク教会を取り壊して、ネオクラシック様式にすっかり改装されてしまいました。惜しいことをしたと思います。しかし途中で改装資金が続かなくなり、回廊部分はロマネスク建築がそのまま手つかずで残ったのだそうです。



(21)CD of the Gregorian Chant by Choir of the Monasteryクリックして拡大(Click to enlarge)

シロス修道院のグレゴリオ聖歌隊は有名で、EMIからCDが出ています。礼拝の時間には美声を聴かせてくれるそうですが、残念ながら私たちはその機会に恵まれませんでした。

シロス修道院には宿泊所があり、外部の者にも修道院の生活を垣間見る機会を与えてくれる仕組みがあります。修道院のウェッブサイトによれば、受け入れの条件は男のみ、滞在日数は3日から8日の間、費用は食事つきで一泊38ユーロ(約4千円)となっています。
スペインのロマネスク修道院の多くが観光の対象となり、まるで博物館のようになりつあるなかで、中世の伝統と遺産を守りながらしかも開かれた修道院をめざす、サントドミンゴ・デ・シロス修道院には感服しました。


(Summary in English)
The Romanesque abbey of Santo Domingo de Silos, a Benedictine monastery known for its cloister and Gregorian Chant, is located in the land of Castilla, about 240 km of Madrid, 60 km from Burgos. The origin of the monastery is estimated to be during the late 9th century when the area used to be the battle field of the ''Reconquista'' (war of Spanish Christian lords against Islam rulers).

In 1041 Santo Domingo(Saint Dominic) was appointed by King Fernando I of Leon as the prior of the monastery which had been ravaged by Islam forces led by Al-Mansur who conducted incursions all over Spain from Barcelona to Santiago during the late 10th century. Prior Domingo not only achieved the reconstruction of the monastery during his 32 years of tenure but also made it one of the most important centres for spiritual and cultural activities in Romanesque Spain. The monastery is famous for its 2 story cloister which is decorated with the most beautiful stone carvings of the time. Also it is known for an illuminated manuscript copy of '' Beatus commentary on the Apocalypse'' now owned by the British Library, or enamelwork which preceded to those of Limoge.

In 1076, three years after his death, prior Domingo was canonized and became Santo Domingo. The monastery was named after the saint and a flood of pilgrims started arriving to visit the saint's remains. It was also the time when the pilgrimage to Santiago de Compostela got a big boost all over Europe.

The monastery was consecrated in 1088 but the construction continued. It is believed that the 2 carvers worked on the decoration of the cloister. As is common with Romanesque art nothing is known of these artists. One is called ''the first maestro'' and another ''the second maestro''
The first maestro made 6 out of 8 large reliefs which are placed one pair at each corner of the cloister. Out of 64 capitals the first maestro apparently made the first 30 something during the 11th century and the rest was done by the second maestro during the early 12th century. Both are excellent artists, but the first maestro is outstanding in carving on hard stones with fine details like ivory carving which is uncommon in Spanish Romanesque especially in late 11th century.

We visited the monastery in an early hour of March, 2010. It was a very cold and overcast day. There were no other visitors and the silence was the word to describe that morning in the cloister.
Only the lower cloister was open for the public visit. Santo Domingo de Silos is one of the few Romanesque monasteries in Spain where monks are still leading a monastic life. There was something genuine.

I've decided to convert the photos of the cloister into black and white, because no color matches to what I saw and felt on that day in the cloister.