2010年9月21日火曜日

「サンティアゴ巡礼路のロマネスク教会(2)」 Spanish Romanesque Churches along ''El Camino de Santiago''(2)

サンフアン・デ・ラ・ぺーニャ修道院(Monastery of San Juan de la Peña)
スペイン地図 Map of Spain


(1)修道院への道(The road to San Juan de la Peña)
(Please see the summary in English at the end of this article)

サンフアン・デ・ラ・ぺーニャ修道院(Monastery of San Juan de la Peña)
前回ご紹介したハカ大聖堂から西に20数キロ、急カーブの続く山道を標高1,100米くらいまで一気に登ると、まるで岩山に彫り込んだような異様なその姿と、回廊の彫刻で有名なサンフアン・デ・ラ・ぺーニャ修道院が、とつぜん右手に現れます。ぺーニャ(peña) は岩とか岩山を指すので、サンフアン・デ・ラ・ぺーニャ修道院は、「岩山の聖ヨハネ修道院」という意味になります。

(2)修道院(The Monastery)

サンフアン・デ・ラ・ぺーニャ修道院の歴史と時代背景
この修道院、正確には修道院跡が、どのような事情でそして誰の手でこの岩山に建てられたのか、その起源ははっきりしません。7世紀ころから岩山の洞窟に起居し、瞑想の生活を送る隠修士と呼ばれるごく少数の修道士たちがいた、という伝承はあるものの、修道院として記録に登場するのは10世紀ころの話。有名な修道院ながら、その歴史には謎の部分を含んでいます。

前回にも述べた通り、11世紀の後半にアラゴン王国がサンチョ・ラミレス王(在位1063-1094)のもとで、徐々にイスラム勢力の支配地を侵食し領土拡張の勢いを示し始めたころ、サンフアン・デ・ラ・ぺーニャ修道院はアラゴン王家の霊廟となり、同時にサンティアゴ巡礼路の聖地のひとつとして有名になります。そして王家や貴族からの寄進により拡張工事が進み、11世紀の終わりころには回廊を除き、ほぼ現在の姿に近いロマネスク修道院としての形が整いました。

11世紀後半は、ハカ大聖堂とサンフアン・デ・ラ・ぺーニャ修道院がアラゴン王家の庇護を受け、アラゴン地方での宗教活動の中心として大いに発展した時期です。しかしサンチョ・ラミレス王が1094年7月、自らの将来を賭けたウエスカ攻略戦の最中に戦死したため、長男のペドロ1世がそのあとを継ぎ1096年にイスラム勢力からウエスカを取り戻しますが、12世紀に入るとサンフアン・デ・ラ・ぺーニャ修道院を取り巻く環境はしだいに変わっていきます。地の利を得たウエスカが新しい首都となり、政治や宗教活動の中心がしだいに新しい首都に移って行ったためです。ハカ大聖堂と同じく、サンフアン・デ・ラ・ぺーニャ修道院にも、時代の流れに取り残された歴史があります。

(3)新修道院(現在はホテルと記念館に改装)(New Monastery converted into a hotel)
(4)旧修道院への山道(Mountain road to the Old Monastery)

1675年2月に発生した火災は三日三晩続き、修道院の建物が甚大な被害をこうむったため、1キロぐらい離れた場所に新修道院が建てられましたが、2007年にはその新修道院の建物も改装され、パラドールと呼ばれる4星のホテルと、アラゴン王国とロマネスク修道院の記念館になっています。パラドールからは小型バスがサンフアン・デ・ラ・ぺーニャ旧修道院向けに出ていますが、写真のような中世以来の旧道を歩いてもホテルから20分ぐらいの距離です。


(5)教会と回廊(修道院南面)(South view, Church & Cloister)

おおざっぱに言えば、手前に見える回廊の床から下の部分が「旧教会」(10世紀の前ロマネスク様式の建築)で、それを土台に「新教会」と呼ばれる11世紀以降のロマネスク建築をその上に継ぎ足した構成になっています。なお回廊部分は12-13世紀の建築とされています。



(6)修道院の西面(West view of the Monastery)

これは同じ修道院を西側から道路ごしに眺めたものですが、左の横長の建物が2階建ての修道士たちの居住区で、内部で「旧教会」につながっています。中央に見える教会の建物は、半円形のガラス窓から上が「新教会」、その下が「旧教会」に当たります。なおこの写真では見えませんが、修道院の入り口は建物の左横についています。


前ロマネスク様式の旧教会(10世紀)
(7)旧教会(Old church, pre-Romanesque style)

旧教会(前ロマネスク様式)
この写真は1階(実際には半地下)の修道士たちの居住区から、その奥に位置する旧教会の方向を眺めたものです。旧教会は細長い明り取りの窓が二つあるだけの、まるで洞窟を思わせる雰囲気です。なお奥が明かるいのは人口照明によるものです。
この修道士の居住区は11世紀の拡張工事で付け加えられたものですが、ガイドの説明では、この修道院の初期には20人足らずの修道士と修道女が共同生活をしていたが、修道女たちは11世紀末ころにに数キロ離れたサンタ・クルス・デ・ラ・セロスに創建された女子修道院に移った、とのことでした。この1階の居住区もほとんど陽がささず湿気もあり、住む場所としては最悪ですが、こんな環境に耐えるのも修行の内、苦行が宗教体験を深める、というような見方があったのでしょうか。


(8)二連の祭壇(Twin altars of the old church)

旧教会はまさしく岩山を削って建てたという感じで、ふつうなら二つの祭壇のうしろが半円形に張り出し、明り取りの窓が付くところですが、むろん窓はなく岩盤がむき出しのままです。
この旧教会のように10世紀の建築は、ロマネスク(11-12世紀)に先立つという意味で、前ロマネスク(Pre-Romanesque)様式と呼ばれますが、祭壇前や教会内部の仕切りに使用されている馬蹄形アーチは、前ロマネスク建築でよく見かけるもので、これが建設時期を判断するひとつの手がかりにもなります。
なお祭壇と教会内部が二つに仕切られているのは、修道士と修道女がそれぞれ別の祭壇を必要としたため、という説があります。



(9)壁画(Mural painting)

左祭壇の天井に、12世紀ころの作品と推定される壁画が一部残っています。大半は17世紀の火災で焼け落ちてしまったのでしょう。


貴族たちの霊園
(10)貴族の霊園(Pantheon of Nobles)
(11)貴族の霊園(Pantheon of Nobles) 
(12)貴族の霊園(Pantheon of Nobles)

地下の旧教会を出て新教会に向かう途中に中庭があり、その中庭の左手、岩壁に沿ってアラゴン王国の有力貴族たちの霊園が設けられています。棺を収納した扉には各自の紋章が彫りこんであり、彫刻としてもなかなか立派なものがあります。なお王家の墓はこの霊園の後ろ、外から見えない場所に位置しています。なお中庭の正面奥に見えるのが、1094年に完成したロマネスク様式の新教会への入り口です。


新教会(ロマネスク様式-11世紀)
(13)新教会(Romanesque church)

ロマネスク様式の新教会には三つの祭壇がありますが、地下の旧教会と同じく、いずれも祭壇の奥は岩壁のため窓はありません。写真の明かりは人工照明によるものです。


(14)中央後陣(Central apse)

(15)教会の岩天井(Rock ceiling of the Romanesque church)
祭壇に近い部分は岩天井になっていて、しばらくじっと見つめていると圧迫感を感じるほど、迫力のある天井です。


(16)回廊への扉(Pre-Romanesqsue door to the Cloister)
ロマネスク教会の右手の扉は回廊に通じています。この回廊への入り口は優雅なイスラム風の馬蹄アーチを描いており、地下の旧教会と同時期の作、すなわち10世紀ころの前ロマネスク様式の作品というのが通説です。ただし新教会自体は11世紀のロマネスク建築でありながら、なぜこの入り口だけが1世紀前のものなのかというのは、いろいろ議論のあるところです。もともと地下の旧教会にあったものを移転して再利用した、という説に従っておきます。馬蹄形、鍵穴形など呼び名はいろいろありますが、このイスラム風アーチを見ると、年月を経て磨きぬかれた様式が持つ、端整という言葉がふさわしい美しさを感じます。

(17)馬蹄形アーチ(Horseshoe arch)
これは同じ入り口を回廊の側から眺めたものです。アーチは18個の石で構成されていて、写真ではよく見えませんが、その石のひとつひとつに文字や紋様が刻んであります。「この扉は、信ずる者に天国への道を開く」という意味のラテン語文が彫りこんであるそうです。


回廊(Cloister)
(18)回廊(Cloister)

回廊
教会から一歩足を踏み出すと、吹きさらしの回廊に出ます。ふつう修道院の回廊というのは、四方を壁で囲み、廊下は屋根付きで、中庭には芝生や木々あるいは噴水などを配してあり、修行に疲れた修道士たちの心をなごませるような配慮を感じさせるものですが、この回廊は屋根代わりの岩山が頭上におし迫り、西北からの寒風がもろに吹き付けるというぐあいで、とても心休まるどころではありません。私が訪ねたのは四月初めのことでしたが、身を刺すような冷たい風が吹き、カメラのシャッターを押す手がかじかんで仕方がありませんでした。東方向からは岩山が迫っているため、回廊は西に向かって開いていますが、そのため晴天の日でも日没前の数時間しか陽が当たらないという、なかなか厳しい環境です。

(19)回廊(Cloister)

これは回廊の西の端(写真の左手方向)が、もともと壁で遮蔽してあったらしいことをうかがわせる写真です。赤い矢印で示してある部分が、大火の際に崩壊してしまった西壁の一部かと推測されます。


(20)回廊(Cloister)

これは回廊の南側から教会を眺めた写真ですが、アーチ部分の装飾にハカ大聖堂でおなじみの、「ハカのサイコロ紋様」と呼ばれる切り餅を並べたような紋様が見られます。この回廊は12-13世紀の建築で、ハカ大聖堂よりだいぶ後のものですが, ハカ紋様がいかに広範にアラゴン一帯に広がっていたかを物語っています。


柱頭彫刻
この修道院は、ほかに例を見ない独特の回廊で知られていますが、中でも柱頭の彫刻が見ものです。扱われている題材は、聖書からとった物語、修道院での生活、奇怪な動物などさまざまです。作者についてはロマネスクの常で、確かなことはほとんど何も分かっていません。ただ、作品の質やスタイルの違いから判断して、時代を異にする少なくとも二人、もしくは二つ以上の工房の手になるものであろう、というのが通説です。
そして12世紀ころと推測される初期の作品を手がけた石工を「サンフアン・デラ・ペーニャのマエストロ」(Maestro de San Juan de la Peña)と呼んでいますが、大きな目をむく人物像は、いちど見たら忘れられない、不思議な迫力に満ちています。

なお回廊は17世紀の大火で甚大な被害をこうむり、そのあと長らく修道院自体が見捨てられた状態だったこともあり、教会に隣接している回廊の北側部分には全く何も残っておらず、また岩山に近い東側もその大半が消滅しています。残りの部分も修復の手がはいっているため、柱頭の位置など果たして創建時の通りかどうか、判然としないところがあります。

しかし実際に柱頭彫刻の前に立ってみると、やはり噂にたがわず迫力のある作品が多いのに感服しました。20個を越える柱頭彫刻の中から、私が特にひかれた7個を選んでご紹介しようと思います。この7個の作品全てが、同じマエストロの手になるとの確証はありませんが、その点はさておき、若干私の独断をまじえて補足説明を加えておきます。

アダム(Adam)
(21)アダム(Adam)

旧約聖書のアダムとイブの物語を題材にしたものですが、左隣に立っているはずのイブは、脚の部分を残してすっかり削り取られています。妖艶なイブの姿態が修道院にはふさわしくない、と判断された時代があったのでしょうか。


ヨセフの夢
(22)ヨセフの夢(Joseph's Dream)

イエスの父ヨセフが眠っているとき天使が夢に現れ、「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている。」(『マタイ福音書2-13』)と告げた場面です。

マエストロは、記憶に刻みつけてある福音書のこの一節を繰り返し口にしながら、のみをふるったに違いありません。大変な事態になりそうなお告げを聞くヨセフを、あくまで安らかな表情に仕上げたマエストロは、やはり神の手に全てを委ねることのできた時代の人だったと思います。


カナでの婚礼
(23)カナでの婚礼(Wedding at Cana)

ガリラヤ地方のカナの町で結婚式に招かれ、水をぶどう酒にかえた、というイエスの初めての奇跡を題材にしたもので、「イエスが、水がめに水をいっぱい入れなさい、と言われると、召使いたちは、かめの縁まで水を満たした。」(『ヨハネ福音書 2-7)』)にあたる場面です。


ラザロの死

(24)ラザロの死(The Death of Lazarus)

この作品についてはさまざまな解釈があります。ここでは、イエスがエルサレム近くのベタニアを訪ねたとき、友人ラザロの姉妹マリアが、せっかくのイエスの来訪がラザロの死にまにあわなかったことを、イエスにとりすがって嘆いた場面、という解釈に従っておきます。

『マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足もとにひれ伏し、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょう」と言った。イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、言われた。「どこに葬ったのか。」彼らは、「主よ、来てご覧ください」と言った。イエスは涙をながされた。』(『ヨハネ福音書11-32-35』)

このあと、ラザロがイエスの手で生き返る、という奇跡が起きるわけですが、その場面は隣の柱頭に彫りこんであります。
もともとは彩色がほどこしてあったものらしく、色塗りの跡がかすかに残っているのが目に付きます。マリアの鼻が欠けているのはちょっと残念ですが、イエスもそして杖を手にイエスに従う二人の弟子も無傷のようです。

ロマネスク彫刻の説明に能を引き合いに出す意見を目にしたことがあります。ちょっとした動作や背景の違いで、人物の性格や状況、あるいは時の流れを象徴的に表現する能は、ロマネスク彫刻の象徴的な表現に通じるものがある、という見方です。

ロマネスク美術の素朴なところがいい、という人は結構いますが、この彫刻を眺めていると、素朴なというよりもっと何か深いもの、いろいろな約束ごとを踏まえたうえで、極力説明をはぶいた簡潔な表現が持つ力強さ、とでも言うものを感じます。

わずか数十センチの柱頭スペースに、誰もが熟知している聖書の物語を刻むにあたって、マエストロはよほど考え抜き、説明しなくても分かる部分はすっかり削り落としたうえで、骨太のエッセンス部分だけを刻み付けようとしたのではないでしょうか。
大理石より硬い地場の石材を使わざるを得なかったスペインの石工たちは、あまり細かい細工は得意でなかったなど、技術的な制約もあったかのも知れませんが、私はむしろ、大きな筆で一気にぐいっと一本の線を引くような力強さを愛でた人たちではなかったか、と想像するわけです。

エルサレムに迎えられる
(25)エルサレムに迎えられる(The Triumphant Entry into Jerusalem)

イエスとその弟子たち一行がエルサレムに近づくと、群集はイエスを預言者、あるいは救世主として歓呼の声で迎えますが、そのときイエスは、やがてその人たちの期待を裏切る結果になるだろうこと、そしてまた自らが十字架にかけられる運命にあることも見通していた、という場面です。この作品をマエストロの最大の傑作と評価する人もいます。

「弟子たちは行って、イエスが命じられたとおりにし、ろばと子ろばを引いて来て、その上に服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。大勢の群集が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は木の枝を切って道に敷いた。」(『マタイ福音書21-6-8』)

最後の晩餐
(26)最後の晩餐 (The Last Supper)

最後の晩餐の場面を描いたものとしては、15世紀末ころのダヴィンチの作品が最も有名ですが、この柱頭彫刻は食卓の席順や、イエスと使徒たちの動きに独特なものがあります。ふつうはパンを裂くはずのイエスが、となりのユダに何かを与え、ユダが裏切り者であることを示そうとしている、というのが通説のようです。そしてイエスにもたれかかって居眠りしているらしいのがヨハネ、そのさらに右からヨハネの肩に手をやり、ゆり起こそうとしているらしいのがペテロとされています。

このヨハネは福音書や黙示録の作者で、イエスに最も愛された一人と言われます。説教するイエスのとなりで居眠りをするなど、この彫刻以外にもヨハネの居眠りの場面はいろいろほかにも例があるようです。聖書には食卓の席順など詳しい状況説明があるわけでもないため、それぞれが独自の解釈で晩餐の場面を描くわけですが、最後の晩餐は列席者の間で騒がしいほどの議論があった、という解釈もあります。イエスの左隣にユダを座らせ、晩餐の席で居眠りをするヨハネを刻んだマエストロは、何を語りたかったのでしょうか。

この作品もやはり彩色をほどこした名残が見られますが、写真を撮る立場から言えば、もう少し磨いてホコリをとってくれると見栄えがするのに、という気持ちです。これも忘れがたい作品のひとつです。

石工たちの争い

(27)石工たちの争い(Struggle among stonemasons)

これは聖書とは全く関係のない話で、二人の男が争っている場面です。ツルハシのような道具で相手をなぐりつけているのは、あるいは工事現場で実際にあった場面を再現しているのかも知れません。


サン・フアン・デラ・ペーニャのマエストロに限らず、11-12世紀ころの石工たちは、西ヨーロッパ全体が発展期にある時代を生きた人たちでした。「生活は楽ではないし、まだあちらこちらでいくさは続いているが、だんだん世の中も落ち着いて来た。ひと昔まえに比べればいい時代になった」ということを、多くの人々が実感していた時代です。そして、発展期の社会は、将来は明るいという楽観的な見方を育てます。さらに言えば、たとえ毎日の生活が苦しく、与えられた題材が暗い話であっても、全てを笑い飛ばし一心に石を刻む、勢いあふれる石工が良しとされた時代ではなかったかと思います。特に11-12世紀のスペインはいわば戦国時代で、一介の騎士の出でありながら、キリスト教領主とイスラム勢力の間をうまく泳ぎ、最後はバレンシア国の主に登りつめたエル・シッドのような人物が出た時代です。そんな時代が、底抜けに明るい豪快な作品を生み出したのではないでしょうか。

ロマネスク絵画で、殉教者の拷問・処刑などの場面が、ゴシック以降ほど陰惨なものにならないのは、そのことと関係があるような気がします。いかなる苦難に遭遇しても、それを神の試練だと考えることのできる人たちは、たとえ戦乱の時代にあっても将来への希望を失わなかったのだと思います。絶望感や時代の閉塞感とは無縁の底抜けに明るい石工たちが、何ものにもとらわれずぞんぶんに腕をふるった作品が教会を飾り、多くの人たちがまたそれを良しとした時代、それがスペインのロマネスク時代ではなかったか、とマエストロの作品を眺めながらつくづく思うわけです。

(Summary of the article)
The Romanesque Monastery of San Juan de la Peña
This spectacular monastery is located about 20 km west of the Cathedral of Jaca which was introduced in the last blog article(July18, 2010). The monastery is built into a huge rock at an altitude of over 1,000 meters. The name of the monastery means ''Saint John of the Rock''

The monastery appears on historical documents of the10th century, but a legend says that it was preceded by a group of hermits living in a cave of the rocky mountain since 7th century.
The monastery, same as the cathedral of Jaca, grew during 11th century under the patronage of Kingdom of Aragon, especially during the time of King Sancho Ramirez (reign 1063-1094). The monastery was appointed as the Kindom's royal pantheon and became well known as one of the monasteries on the pilgrimage route of Camino de Santiago. The famous cloister was added during 12-13 century

A big fire occurred in February 1675 which lasted three days and practically destroyed the monastery. A new monastery building was constructed short after that at another location about 1.5 km from the old monastery. In 2007 the new monastery building was transformed into a 4 star hotel and the historical museums of Kingdom of Aragon and the Monastery.

The monastery is composed roughly of two parts; the lower church of 10th century pre-Romanesque style, and the upper church of Romanesque style with an impressive cloister under the huge rock. The cloister was built during 12-13 centuries and contains a series of magnificent capitals carved by so called ''Master of San Juan de la Peña''. Practically nothing is known of the ''Master'' who could have been a group of excellent stonemasons who, during middle ages, did the job of masons, carvers and sometimes architects. Due to significant difference of style and quality among the capitals it is believed that the work was carried out by at least two different ''Masters'' during different periods, being the first one named as the ''Master of San Juan de la Peña''

The 7 capitals shown above are what impressed me most among over 20 capitals of the cloister.
One art critic says that we should pay attention to symbolic expressions employed by the Romanesque artists, especially by carvers, in a similar way as when we watch the Japanese Noh play in which a subtle inclination of the face could mean a great emotion, a short walk could mean miles of trip etc.

2010年7月18日日曜日

サンティアゴ巡礼路のロマネスク教会(1) - Spanish Romanesque Churches along ''El Camino de Santiago''(1)


スペイン全図(Map of Spain)クリックして画像拡大Click on the image to enlarge(For summary in English please see the end of this article)

ハカの大聖堂(The Cathedral of Jaca)

今年の3月から4月にかけて、フランス国境に近いハカ市からマドリッド北方のブルゴス市までの、サンティアゴ巡礼路沿いのロマネスク教会をいくつか訪ねる機会がありました。その中から特に印象に残った教会を、これから何回かに分けてご紹介しようと思います。



(Photo-1)中世の巡礼像(Medieval pilgrim in bronze)

ロマネスク教会とサンティアゴ巡礼
スペインでロマネスク様式の教会がたくさん建てられたのは、他のヨーロッパ諸国と同じく11世紀から12世紀のことですが、その同じ時期にサンティアゴ・デ・コンポステラの聖地を目指す巡礼者たちが、ヨーロッパ各地から大挙してピレネーを越えやって来るようになりました。正確な記録が残っているわけではありませんが、最盛期には20万人とも50万人とも言われるほど、とにかく膨大な数の巡礼者の集団が、毎年サンティアゴに向けて移動したと言います。

スペイン北西部のガリシア地方で、キリストにもっとも近い使徒のひとりとされる、ヤコブの遺骸が「発見」されたのは9世紀はじめのことで、サンティアゴ(聖ヤコブ)崇敬の巡礼はそのころに始まっていますが、それから200年を経てサンティアゴ巡礼熱がせきを切ったようにヨーロッパ全体に広まっていったわけです。

また11世紀は、8世紀のはじめころからイスラム勢力の支配下にあったスペインにおいて、はじめてスペイン北部のキリスト教諸侯が本格的な反攻に転じた時期でもありました。キリスト教勢力とイスラム勢力との戦いを、スペイン史ではレコンキスタ(再征服運動)と呼んでいますが、キリスト教徒軍が苦戦を重ねていた時代に、聖ヤコブ崇敬はヤコブの加護という考え方に発展し、白馬にまたがった聖ヤコブがイスラム軍を蹴散らすという類の奇跡譚が生まれます。そして聖ヤコブはスペインの守護聖人とみなされるようになりました。
キリスト教諸侯は、レコンキスタでイスラム諸王から奪い取った領土に入植をおし進める一方、自らの支配地に次々とロマネスク教会を建てていきます。教会建設は神に感謝しその栄光をたたえるためであると同時に、支配者の交代を知らしめる有効な手段でもあったわけです。

フランス国境からサンティアゴまでの800キロを越える巡礼の旅は、サンティアゴを訪ねるのが最大の目的ではありましたが、同時にその巡礼路に沿う有名な教会や修道院を訪ね、そこに納められている聖人の遺物に触れ、聖人のとりなしによって、罪のゆるしや病気の回復を願う声が聞き入れられるよう、神に祈る旅でした。フランス国境からパンプローナ、ブルゴス、レオンを経てサンティアゴにいたる巡礼路は、その途中に点在する各地の聖地をつなぐ聖地遍歴の道と見ることができます。

聖遺物に触れることで聖人の奇跡にあずかろうと、多数の人々がわれもわれもと先を争うようにして聖人の遺骸や遺品のある聖地におしよせた結果、サンティアゴ巡礼が急速に拡大したわけですが、同時にその巡礼熱がロマネスク教会やゴシック大聖堂建設の引き金にもなりました。

大聖堂を建てるには大変な費用がかかります。そして巡礼者による寄進は大事な財源のひとつでした。そんなわけで、教会の側もすこしでも多くの巡礼者をひきつけようと、いろいろ工夫をこらします。有名な聖人の遺骸や遺品のある聖地には巡礼がたくさん集まるため、それをめぐる争奪戦などもときにはあったようです。また、巡礼者の中には行く先々で仕事を見つけながら放浪に近い生活を送る者もずいぶんいました。そしてそのような巡礼者たちが、教会建設に必要な大量の未熟練労働者供給の役割を果たしたという面もあったわけです。建設機械も大型トラックもない中世では、大きな石を運びそれを積み上げてゆく作業は、人海戦術によるしかなかったからです。

サンティアゴ巡礼は9世紀ころからあったものに違いありませんが、それが11世紀にはいって急速に発展した背景には、巡礼熱がヨーロッパ全体に広がったことに加え、その受け入れ体制が整ってきたことがあります。すなわち道路、橋、宿泊場所、病人の治療施設(施療院)などが国王や地方領主、修道院などの手で整備されたこと、そしてどこでも通用する通貨が流通し始めたこと、などなどです。そしてインフラを整備して巡礼を呼び込むことは、スペインにはかり知れない大きな経済効果をもたらすことにもなったのでした。

11-12世紀すなわちロマネスクの時代は、それまでピレネーで隔たれていたスペインが、巡礼者の大挙来訪とともに北部ヨーロッパに繋がり、社会変動の大きなうねりがスペインにもやってきた時代でした。そしてそれはまた、イスラム勢力の支配がやがておわり、キリスト教勢力が再びスペインを支配するであろうことを、人々が予感し始めた時代でもありました。長いあいだ戦場だった丘で新しい教会のために石を刻む石工は、戦乱に倒れた
人たちのことを思い、平和が訪れた喜びをかみしめながら、のみをふるったことでしょう。スペインのロマネスク彫刻を見て私たちがしばしば感じる、形にとらわれないのびのびした描写、荒削りながら躍動するような生命力などは、まさしくこの時代の産物です。


(Photo-2)ハカ大聖堂の南側に面したメルカード広場(Plaza del Mercado, south side of the Cathedral)(クリックして画像拡大Click on the image to enlarge)

ハカの大聖堂
『サンティアゴ巡礼路のロマネスク教会』の第一回目は、巡礼路の重要な通過点のひとつ、ハカの大聖堂をとりあげることにします。ハカ(Jaca)市はアラゴン州北部のピレネー山脈のふもとに位置し、標高800メートル人口13,000人のこじんまりとした町です。ローマ時代からピレネー越えローマ道のスペインにおける玄関口として知られていましたが、8世紀にイスラム勢力がイベリア半島を制圧すると、早くからキリスト教徒勢力の数少ない抵抗拠点のひとつになり、11世紀にアラゴン王国が成立するとともにその首都になりました。そしてサンチョ・ラミレス(1042-1094)が、1063年に戦死した父の初代アラゴン国王(ラミロ1世)のあとを継いだころから、ハカはサンティアゴ巡礼者やオリエントの産物が、ヨーロッパとのあいだを行きかうピレネー越え交通の要所として、飛躍的な発展の時期をむかえることになります。

サンチョ・ラミレス王は、町づくりの一環としてハカ市に大聖堂を建てることに決めます。いつ建設が始まったのかその記録は残っていませんが、サンティアゴ・デ・コンポステラ大聖堂の着工(1075年)とほぼ同じころというのが通説で、スペインでもっとも古いカテドラルのひとつです。工事はいちど中断されたあと、それから半世紀近くたった1135年ころに完成しました。しかしそのときすでにアラゴン王国の中心はハカではありませんでした。時代の流れに取り残されたいささか不運な大聖堂といえます。しかし政治の中心から外れていたからこそ、ハカ大聖堂が数少ないロマネスクのカテドラルとして残ったことに、歴史の皮肉を見る思いがします。



(Photo-3)ハカ大聖堂(南側のメルカード広場からの眺め)South view of the Cathedral of Jaca(view from the Plaza del Mercado)(クリックして画像拡大Click on the image to enlarge)

スペインの大聖堂は、いずれも13世紀から14世紀にかけて、ロマネスク様式の建物を壊したりあるいは大改装をおこない、ゴシック風に建て直したものがほとんで、ハカのようにロマネスク建築の構造がそのまま残っているカテドラルは貴重な存在と言えます。しかしハカ市がアラゴン王国の中心であった時期はわずか数十年に過ぎず、そのご長い停滞の時期が続いたためか、カテドラルの改装もつぎはぎ的なものに終始し、その結果建物としての統一性が失われることになったのは残念です。



(Photo-4)正面入り口(Portico, main entrance)クリックして画像拡大Click on the image to enlarge

(Photo-5)正面扉(Main door)(クリックして画像拡大Click on the image to enlarge)

教会の正面入り口は西向きの巨大な洞窟のようなポルチコの奥にあり、カテドラルとしてはあまりほかに例を見ない、独特の雰囲気を持っています。天井は初期ロマネスク建築の特徴である半円筒形の石天井です。


(Photo-6)正面入り口の浮き彫り(Tympanum of the main door)クリックして画像拡大Click on the image to enlarge)

正面扉の上の半円形の浮き彫り(この部分をタンパンと呼びます)は、キリストの頭文字のふたつXとPを組み合わせた紋章を、2頭のライオンがとり囲んでいます。ライオンはイエスの復活を象徴する動物とされており、ひじょうに象徴的な色彩の濃い絵柄です。この「キリストの銘」と呼ばれる紋章を教会入り口のタンパンに彫りこむ習慣は、その後アラゴン地方各地の教会で踏襲されることになります。


(Photo-7)教会中央部(身廊)から祭壇方向を見る(View of central altar from the nave)(クリックして画像拡大Click on the image to enlarge)

ポルチコの奥にある正面扉をあけ教会内に一歩足を踏み入れると、強い日差しになれた目には教会の中は真っ暗で、フラッシュを持たない私はあわててしまいました。田舎の教会では賽銭箱にコインを入れると数分間照明がつくことを思い出し、入り口近くにそれらしき箱があったので1ユーロ・コインを入れましたが、いっこうに照明がともる気配はなく、2ユーロ、3ユーロとつぎつぎコインを入れても暗闇のままで、どうしたらいいかと頭を抱えていたところ、通りかかった人が「それ、壊れているんです」と教えてくれました。「そんならそうと、張り紙でもしておけばいいものを」とくやしがりましたがあとの祭り。よくよく見るともうひとつ似たような箱がその隣にあったので、ポケットに残っていた1ユーロ・コインをねじ込むと、ぱっと教会内が明るくなりました。目も大分なれてきたので大急ぎでシャッターを押し続けましたが、あっという間に教会内はまたうす暗がりに戻ってしまいました。大聖堂でコイン照明とはずいぶんな節約ぶりだなと思いましたが、ハカの大聖堂は維持費のやりくりにひと知れぬ苦労があるのかもしれません。

正面にパイプオルガンや祭壇が見えますが、この部分は18世紀末の大改装ですっかりようすが変わってしまった部分です。天井は16世紀の改装でゴシック様式になりましたが、もともとは木組みの天井だったようです。11世紀スペインの建築技術では、これだけ広い天井を石組みにするには不安があったのでしょう。ロマネスク教会にはそぐわない箇所も目に付きますが、しかし教会のベンチに座り、ぶ厚い壁、どっしりとした大きな円柱、その柱頭の彫刻、アラバスター大理石張りの窓などを、薄暗がりの中でしばらく見上げていると、やっぱりこれはロマネスクの大聖堂だなとしみじみ思います。写真-7は身廊(入り口から祭壇の手前あたりまで)に焦点をあわせていますが、この身廊の左右には平行して側廊と呼ばれる部分があり、ロマネスク教会でおなじみの三廊構成になっています。



(Photo-8)身廊と翼廊の交差部分(Intersection of nave and transept) クリックして画像拡大Click on the image to enlarge   

(Photo-9)円蓋(Dome)(クリックして画像拡大Click on the image to enlarge)

ふつう教会の平面図を見ると十字架形をしたものが多く、十字架の下半分にあたるのが身廊で、それと直角に交わる水平部分を翼廊と呼びます。そして身廊と翼廊が交差するいわば十字架のかなめの部分を半円形の石天井にするのが、ロマネスク教会でよく目にする構造です。ハカ大聖堂は典型的な十字架形ではありませんが、身廊と翼廊が交差する箇所は切り石を積み重ねた8辺のドーム状の円蓋に仕上げ、4本のアーチで下から補強してあります。この円蓋はスペインのロマネスク教会ではもっとも古いものとされ、ロマネスク建築の教科書でよく紹介されるものです。



(Photo-10)南の後陣(South apse, view from south isle) (クリックして画像拡大Click on the image to enlarge) 
     
この写真は、右の側廊から南の後陣の方向を眺めたものですが、突き当たりに窓がありその手前に祭壇をそなえた小さな礼拝堂が見えます。祭壇から祭壇のうしろが外に向かって半円形に突き出している部分を後陣またはアプスと呼びますが、この南の後陣のあたりが、教会創建当時の姿をよく伝えるものとされています。


(Photo-11)南入り口の柱廊玄関(South portico facing the Plaza del Mercado)(クリックして画像拡大Click on the image to enlarge)

(Photo-12)南扉(South door)(クリックして画像拡大Click on the image to enlarge)

教会の入り口にはもうひとつ、メルカード広場に面した南扉があり、17世紀に扉の前に写真のような柱廊玄関が設けられました。いまは取り壊されてしまったロマネスク時代の回廊の石柱を再利用したもので、7本の柱頭にそれぞれ彫刻がほどこしてあります。中でもこの南扉の右手の石柱に彫りこんである、旧約聖書「イサクの犠牲」を題材にした柱頭彫刻が有名です。



(Photo-13)イサクの犠牲の柱頭彫刻(Capital of Sacrifice of Isaac)(クリックして画像拡大Click on the image to enlarge)

Photo-14)アブラハムとイサク(Abraham and Isaac)(クリックして画像拡大Click on the image to enlarge)

旧約聖書『創世記』にある、アブラハムが、ひとり息子のイサクを犠牲にせよとの神の命に従い、今にも刃をふりおろそうとした瞬間、天使が現れアブラハムの手をおさえた、という話に題材をとり、わずか数十センチの柱頭のスペースにその場面を刻み込んだものです。作者についての記録がまったく残っていないため、マエストロ・デ・ハカと呼ばれている石工の作品ですが、このほかにも同じ作者の彫刻と判断される作品がいくつか近郊の教会で見つかっており、腕のよい石工だったことがうかがわれます。ロマネスクの時代は、優秀な石工は彫刻家であり、場合によっては建築家でもありました。

この「イサクの犠牲」はたいへん劇的な場面でありながら、聖書にはイサクの年齢その他につき詳しい記述がないため、ラファエロ、カラヴァッジオ、レンブラント、シャガールなど、数多くの古今の画家がそれぞれの解釈でこの場面を描いています。マエストロ・デ・ハカの作品は、イサクの脚の筋肉のつきぐあいなどから、少年というより若者に近いように見えます。



(Photo-15)中央の後陣外観(Central apse) (クリックして画像拡大Click on the image to enlarge)  
 
これは中央祭壇のうしろが半円形に張り出した部分、すなわち中央の後陣を外から見た写真です。18世紀末の祭壇部分の拡張工事でロマネスク様式の後陣が取り壊され、その建材を一部は活用したものの、創建時の後陣とは似ても似つかぬかたちに改装されてしまいました。担当した建築家の見識を疑いたくなりますが、施工者(教会幹部)が実用一点張りの無茶な注文をつけた結果なのかも知れません。



(Photo-16) 南の後陣外観(South apse)(クリックして画像拡大Click on the image to enlarge)

写真(16)は南の後陣を外から見た写真です。となりの中央後陣に押し潰されそうな感じですが、創建時からのロマネスク様式を保つその端正な姿は魅力的です。近くでよく見ると窓のまわりや軒したに紋章や動物の絵柄が彫り込んであります。



(Photo-17)南後陣の軒した部分拡大像(Cornice of the south apse)(クリックして画像拡大Click on the image to enlarge)

写真17は、南の後陣の軒を支えているように見える、「軒持ち送り」といわれる装飾部分を中心に拡大した写真です。風化がはげしく下から見上げるだけでは、なにかの動物が彫ってあるということしか分かりません。軒や窓の周辺には、長方形の切り餅をならべたような装飾が施されていますが、これはハカのチェス模様、ハカのサイコロ模様などと呼ばれるハカ大聖堂特有の模様です。

今回このBlog記事を書きながら、自分で撮った写真をゆっくり見直してみて感じるのは、ハカ大聖堂はロマネスク様式の構造が期せずして残ったユニークなカテドラルだ、ということです。もしハカ市がずっと長いあいだアラゴン王国の中心でありつづけたら、たぶんロマネスクの古い建物は壊され、ゴシックやさらにはバロック風の装飾過多の大聖堂になっていただろう、という気がします。今回ハカを訪問して、教会の予算がかぎられており、聖堂の補修も思うにまかせないのが実情かもしれないとの印象を受けましたが、独特の雰囲気を持つハカのロマネスク大聖堂が、こんごとも長生きしてほしいものと願っています。

ところで、聖ヤコブ殉教の日である7月25日が日曜日にあたる年は、サンティアゴ教会の聖年と定められており、ことし2010年はその聖年にあたります。最近はサンティアゴ巡礼者が毎年増える傾向にあること、そして聖年にはとくにそれが急増するため、ことしは前回の聖年(2004年)に記録した巡礼者数18万人を上回り、20万人をこえる巡礼者がサンティアゴを訪れるのではないかと見られます。なおこの数字はサンティアゴ教会で巡礼としての証明を受けた人のみを指しており、観光・商用目的などでサンティアゴを訪れる人の数は、1,000万人という膨大な数字になるそうです。

(Summary of the article)

During the last March and April I had a chance to visit several Romanesque churches along the pilgrimage route in northern Spain called ''El Camino de Santiago, or The Way of St James ''.
El Camino de Santiago has been registered in the UNESCO's World Heritage List since 1993.
In several articles of this Blog I'll introduce some of the churches which have impressed me most.

''El Camino de Santiago''
The Way of St James, is a collection of old pilgrimage routes which cover all Europe with Santiago de Compostela as final destination. The legend says that in early 9th century the remains of Saint James(Santiago in Spanish) were discovered in Galicia, north western region of Spain. The locals started pilgrimage to Santiago more than 1,000 years ago, but it got a big boost during 11th century and further during 12th and 13th century at the time of the Crusades. Pilgrims from all over Europe, mostly French, started arriving Santiago in hundreds of thousands crossing the Pyrenees every year.
Many Romanesque churches and monasteries were constructed in Spain during that time along the 800 km pilgrimage route which stretches from French border to Santiago.

The 11th century was also the time when Christian lords of northern Spain started effective counter attacks against Muslim rulers who had occupied most part of Iberian Peninsula since 8th century. The movement by Christian lords to regain lost territory to Muslims is called ''Reconquista'', which lasted 7 centuries. During the course of the ''Reconquista'' adoration of Santiago created an image of the Saint as guardian of Christian Spain who would bring the victory in the war against Muslims. Santiago later became the Gurdian Saint of Spain. During 11th and 12 century Christian lords also constructed many Romanesque churches in territories which they had regained through the Reconquista. It was for the glory of the Lord but it also served to show the change of rulers in the recaptured land.
In Spain 11th and 12th century Romanesque era was the time of great changes.

The Catheral of Jaca
The Cathedral of Jaca is the first of the Blog articles series titled ''Romanesque churches along the route of El Camino de Santiago''. The city of Jaca is located in the highland of northern Aragon region. With 30 km from French border across the Central Pyrenees Jaca has been an important strategic point since the Roman era.
With the creation of Aragon Kingdom in 11th century Jaca became its capital and the King Sancho Ramirez(reign 1063-1094) who succeeded his father, the first king, decided to construct a new cathedral. The start of the construction is believed to be at the same period of the cathedral of Santiago(1075). The Romanesque cathedral of Jaca is one of the oldest cathedrals in Spain. It's also one of the few cathedrals which keep Romanesque structure, while most of the Spanish cathedrals have been reconstructed or reformed in Gothic style during 13-15th centuries

Photo 4) & 5)show the huge cave-like portico with the main church door at the end of it. The ceiling of the portico is of barrel vault which is common among early Romanesque churches.

Photo 6)The tympanum above the main door is decorated with a crest symbolising the Christ(combination of letters P & X) which is surrounded by 2 lions. This pattern are often found in other churches of Aragon region.

Photo 7) Once inside the church it was very dark. A coin operating light switch box which,I thought it was, was found next to me. With 1 euro coin inside the box nothing happened. With the 2nd and the 3rd coin the same. When I was becoming desperate, someone passed by and told me that the switch box had been out of service! Quickly found another box and tossed the last euro coin in it, then the church was illuminated. After shooting frantically as quick as I could, maybe for a few minutes, the light went off once again.
The photo 7) shows that the main altar area has suffered significant changes by the reform of late 18th century. The Romaneque style central apse was expanded to make room for a choir with Baroque decoration.

Photo 8) & 9) show the famous dome of Jaca, the oldest Romanesqe cupola in Spain. This dome is cited in many books on Romanesque churches.

Photo 10) is the view of the south apse shot from the isle. The apse has a small altar and it keeps original Romanesque style.

Photo 11 & 12)The church has another door on the south side facing the Plaza del Mercado. The portico on the photo was constructed in 17th century using old columns taken out of the Romanesque corridor of the cathedral which had already been a ruin at that time. The door keeps original decoration except for the tympanum which has apparently lost a part of original carving during later repairs.

Photo 13, 14)The most famous is the capital called ''Sacrifice of Isaac'' which is part of a column attached to the right side of the south door. The story comes from the Genesis 22:1-24 (Hebrew Bible) in which Abraham raised a knife to sacrifice his only son Isaac obeying the God's order, when an angel appeared and held Abraham's hand.The carver is called ''Maestro de Jaca'', because nothing is known of him. It's one of the master pieces of Maestro de Jaca.

Photo 15) is the outside view of the central apse which was reformed in late 18th century. This unusually huge central apse unfortunately remains out of proportion in relation to the rest of the church.

Photo 16)The external view of the beautiful south apse which retains the original shape of Romanesque era. The south apse gives us an idea how it should have been the original central apse. It's unfortunate that the Romanesque central apse has disappeared. The north apse has remained in ruin for some time.

Photo 17) is a close up of the cornice area of the south apse. Modillions are all worn and looking from the ground we can only tell that figures of animals are carved. Cornices and windows are decorated with small square shaped stones. This is called chess or dice pattern of Jaca.

Whenever St James's day (25th July) falls on a Sunday, the cathedral of Santiago de Compostela declares it a Holy Year. Consequently 2010 is the Holy Year. The Holy Years fall every 5 up to 11 years: the most recent one was 2004 when 180,000 pilgrims were certified by the Cathedral. Since the number of pilgrims are increasing every year, it is expected 2010 will surely break the record of 2004.

2010年5月15日土曜日

ミケル・シグアン氏の訃報(Dr. Miquel Siguan died at 92.)

ミケル・シグアン氏の訃報(Dr. Miquel Siguan has passed away at 92)
(Please see the summary in English at the end of this article)

(Dr.Miquel Siguan Feb,2008)

5月10日の朝、『二十歳の戦争』(スペイン内戦回想録)の著者ミケル・シグアン氏が92歳で亡くなった、との報せを電話で受けました。ちょうどそのひと月まえにバルセローナで同氏にお目にかかり、90歳を過ぎても老眼鏡なしで新聞を読み、パソコンに向かって著作活動を続けているシグアン氏の姿を目にしていただけに、一瞬絶句してしまいました。

5月10日付けのバルセロナのLa Vanguardia紙に、「さようなら、シグアン(Adiós, Siguan, adéu)」と題する追悼記事が載りました。その趣旨は、「ミケル・シグアン氏は、フランコ独裁の終焉にともないカタルーニャが自治を回復していらい、今日に至るまでのカタルーニャ文化の現実、すなわちカタルーニャ語とスペイン語の並存という、複数言語共存モデルの生みの親である。同氏は言語心理学者としての実証研究に基づき、分離主義者の主張に抗して多言語の共存モデルを支持すると共に、学校教育におけるカタルーニャ語とスペイン語の統合を説いた。シグアン氏は科学的結論にはこだわるが、道徳の原則以外にはいかなる主義にもとらわれず、わが道を行くタイプの人であった」と、その業績と自由闊達な言動に触れ、異文化の共存を軸とするカタルーニャ社会のあるべき姿を示唆した学識と良識の人、ミケル・シグアンの死を悼む内容になっています。

国内に複数の言語圏を抱える国の難しさは、カナダに住みケベックでの分離独立の動きを目にしてきた私には想像がつきます。カタルーニャの人たちがその固有の言語や歴史にこだわり、徹底して自治を追求しようとする姿勢には、まるでそれが遺伝子に刷り込まれているかのような感じがあります。そして、なぜそうなのかは、すこしカタルーニャの歴史を辿ってみれば私にも分ります。しかしそのこだわりの姿勢が、一歩まちがえば偏狭なカタルーニャ優先主義、別の言い方をすれば排外主義に陥ってしまう危険をはらんでいるように思えてなりません。

カタルーニャの外からは「このままでは、やがてカタルーニャでスペイン語が通じなくなる日が来るのではないか」という、いささか現実ばなれした批判が寄せられる一方、「いまカタルーニャ語の使用を強制しなければ、カタルーニャ語は滅びてしまう」という声をバルセローナでよく耳にします。フランコ独裁体制の数十年間、カタルーニャ語使用に制約を受けた記憶を持つ世代には、そんなせっぱ詰った発言が目立ちます。

しかし、2006年制定のカタルーニャ新自治憲章に定める「カタルーニャの公用語はカタルーニャ語とスペイン語である」という二つの公用語の原則は、州民投票でも支持されたものであり、言葉の問題を含め、カタルーニャ生まれでないスペイン人や、外国人に向けても開かれた社会を目指すのが、カタルーニャの永遠の課題ではないでしょうか。そしてそれこそシグアン氏が常に説いておられたことではないか、と思います。

多分に感情的なカタルーニャ語滅亡論に対して、シグアン氏は「不滅の言語というものはない。ただそれが何十年単位の話なのか、それとも何世紀単位の話なのか、その違いだけだ」とつぶやくように語られたことがあります。この世のものは全ていつかは滅ぶ、という歴史の大きなうねりを見通したうえでのつぶやきだったと思います。
シグアン氏が亡くなられたと聞き、あのときお尋ねしておけばよかった、と思うことがいろいろ心に浮かぶこの頃です。

(Summary of the article)
Dr. Miquel Siguan, ex-dean of the Department of Psychology of the University of Barcelna, died at the age of 92 in Barcelona. He was one of the pioneers of the modern psychology studies in Spain and the author of 27 books. One of them is ''La guerra a los 20 años''(The war at 20 years), a memoir of a young soldier who was drafted in late 1937 by the Republican army during the Spanish Civil War(1936-1939) when he was a philosophy student at the University of Barcelona. The book was published first in Catalan in 2002 and later in Spanish. Thanks to the help of Yoshihiko Uchida, my friend and co-translator, the Japanese version of this memoir was published in September, 2009 in Japan through the Chusekisha, a publisher in Tokyo..

In the morning of May 10(Sun) we got a phone call from Barcelona informing us about the death of Dr. Siguan. Joaquina and I were shocked with the news, because we had met Dr.Siguan in Barcelona in April when he was soon turning to 92. In spite of his advanced age he could read a newspaper without glasses and was still active in writing contributing often articles to La Vanguardia, Barcelona newspaper, as well as for his own blog. (siguan.blogspot.com).

La Vanguardia published an eulogy dated May 10th praising Dr. Siguan as one of the fathers who established co-existence models of Catalan and Spanish language in Catalonia during 70’s and 80’s when Spain was facing transition from Franco’s dictatorship to a democratic state. Dr. Siguan as a psycholinguist studied and brought to Catalonia the Quebec's experience in multilingual education. La Vanguardia also praises that he was always committed to the science and basic moral principles but was free from any dogmatic thinking.

Having lived myself in Canada for some time and have seen the separatist movement in Quebec, I can tell the difficulty of a country with more than one official languages where the word ‘’autonomy’’ or the language easily becomes an emotional issue.
During our annual visit to Barcelona in winter we often hear ‘’Catalan language would die, if it were not forced to use’’ while outside of Catalonia some people say ‘’Soon the Spanish will not be spoken in Catalonia’’, naturally an exaggeration.

With a quick review of the history of Catalonia we can understand why Catalan people give such an importance to the notion of uniqueness of Catalonia and its heritage. But I’m a little bit concerned that giving too much weight on ‘’uniqueness of Catalonia as a nation and use of Catalan language’’ might ending up creating a society comfortable for original Catalan speakers but not for anybody else in spite of the 2006 Statute of Catalan Autonomy which defines clearly the Catalan and Spanish are both official languages of Catalonia.

I believe the future of Catalonia will lie in the effort of all people toward promoting co-existence of languages in Catalonia and creating a society open also to non Catalan speakers which, I believe, was advocated by Dr.Siguan.
To the emotional comments such as ‘’Catalan language would die’’ I would respond next time that all are mortal in this world including languages as a matter of centuries. This concept I learned from Dr. Siguan during our latest conversation.
At the news of his death many questions occur to my mind which should have been asked him in April.

2009年12月17日木曜日

スペイン内戦を記録した写真家Agustí Centelles

Agustí Centelles - Spanish photographer called ''Robert Capa of Spain''(for the summary in English please see the bottom of this page)




スペイン内戦の写真家Agustí Centelles
スペイン内戦の写真家と言えば、大半の人はまずキャパ(Robert Capa 1913–1954)の名前を思い浮かべることだろうと思います。しかしカタルーニャの写真家アグスティ・センテーリャス(Agustí Centelles 1909-1985)は、撮影した写真の量においてもまたその質においても、キャパに勝るとも劣らない内戦の記録を残した人でした。

12月1日のスペイン各紙に、「Centellesの全作品、スペイン文化省が家族から70万ユーロで買い上げ」(現行レートで約9千万円)というニュースが載りました。1万枚を越えるネガフィルムは、そのほとんどが1930年代後半のスペイン激動の時代を記録した写真ばかりです。

Centellesは1909年にバレンシアで生まれ2歳の頃にバルセローナに移っています。家計を助けるため11歳で働き始め、学校に通ったのは一年ぐらい、あとは全て独学の人でした。子供の頃から写真に興味を持ち、新聞社のグラビア印刷部門でしばらく働いたあと、18歳でバルセローナの報道写真家Jopsep Badosaに弟子入りして写真家としての腕を磨きます。そして25歳(1934年)の時、分割払いで買ったライカ一台を手に報道写真家として独立しました。

Leica IIIa, the most popular Leica in 30’s & 40’s.(Centellesが最初に買ったと推測されるLeicaIIIの改良型(外見は変わらず)

Leicaが変えた報道写真
1920年代と30年代は、新聞がグラビア印刷を取り入れたり、米国のLife誌など写真主体の新しい週刊誌が誕生したりで、世界的に報道写真という新しい写真の分野が花開いた時期でした。

それにあわせるようにカメラの世界でも技術革新が進みます。1925年に第一号機が発売されたLeicaは、ボディーは堅牢な金属性、コートのポケットに入る小型サイズながら、既存の映画用35ミリ・ロールフィルムの採用により36枚の連続撮影ができること。またレンズ交換が可能で新聞写真サイズに引き伸ばせる解像度を持つ交換レンズが開発されるなど、従来のカメラのイメージを一変させる革命的な製品でした。そしてドイツの写真機業界では後発だったLeitz社を、一挙に小型カメラ業界のリーダーに押し上げた、ヒット商品でもありました。

第一次大戦の写真を見ると、戦場の兵士達はカメラの前でポーズをとっています。これは当時のカメラは三脚に固定し静止した被写体を撮るものだった、という技術的な制約もあったのでしょうが、肖像写真が主だった時代の写真観の反映でもあると思われます。

しかし高感度ロール・フィルムの開発と、ポケットに入れてどこにでも持ち運べるLeicaの登場により、動く被写体を追いかけるようなダイナミックな写真の撮り方が可能になります。そしてそれをスペインの戦場で実証したのがCapaやCentellesでした。
Centellesはスペインで最初にライカを使い始めた写真家の一人ですが、当時の新聞の編集者の中には、「そんなおもちゃみたいなカメラでは」と、頭から拒否した人もいたそうです。写真を一枚撮るたびにフィルムを差し替える必要のある大型カメラが、プロの道具と考えられていた時代の話です。




Centellesの代表作
La Fábrica社出版のスペイン写真家叢書(Biblioteca PhotoBolsillo, Madrid, 2006)の第15巻で、Centellesの主な作品が紹介されていますが、その表紙に使われている写真が彼の代表作のひとつです。
これは1936年7月19日にバルセローナ市内のDiputación通りで撮ったものとされていますが、共和国政府に対しクーデターを企てたフランコ派の反乱軍兵士を相手に、倒れた軍馬を盾に銃撃戦を展開している突撃警察隊員(guardia de asalto)の写真です。この日Centellesはライカを手に終日バルセローナ市内を駆けめぐり、反乱軍の決起から降伏までの激動の一日を記録しています。

(Photo:courtesy of © Agustí Centelles, VEGAP)Anarchist soldiers leaving for Aragon front(Barcelona,July-1936)
バルセローナからアラゴン戦線に向かうアナキスト民兵部隊(1936年7月)

1936年の夏、Centellesは前線に向かう民兵部隊と共にフリーランスのカメラマンとしてアラゴン戦線に赴き、初期の民兵部隊の戦いを撮りました。1937年には共和国軍兵士として召集されますが、Centellesが手にしたのは銃ではなくカメラでした。東部方面軍政治コミサール本部所属の写真課員として、引き続きアラゴン戦線での戦闘や銃後のバルセローナの模様を記録しています。



(Photo:courtesy of © Agustí Centelles, VEGAP)Victim of air-raid by Franco’s forces(Lerida Nov 2, 1937)フランコ軍によるレリダ市空爆の犠牲者(1937年11月2日)
Centellesは、戦意高揚や宣伝用のいわゆるプロパガンダ写真を撮らざるを得ない立場にありました。しかし共和国軍の写真課員として各地を飛び回るなかで、この夫の遺体を前に号泣する夫人の写真のような、見る者の心を打つ作品をいくつも残しています。この写真も彼の代表作のひとつです。
Centellesは、「死者の写真はクリーンに撮らなくてはならない」とよく口にしていたそうです。報道写真家は死者を悼む気持ちを失ってはいけない、と自らを戒める言葉でもあったのでしょう。
1937年から1938年初めにかけて、北はアラゴン州のピレネー地方から南はテルエルまで、各地の戦闘に従軍したCentellesは、バルセローナに呼び戻され、1938年4月付けで防諜組織の軍事情報局(SIM)所属の写真室長に就任します。実際にどんな業務だったのか詳しいことは分りませんが、のちにフランスに亡命しBramの強制収容所で書きとめた日記を中心とする『ある写真家の日記』(Diario de un fotógrafo, Ediciones Península, Barcelona, 2009)の中で、当時の状況に少し触れています。それから推測すると、フランス亡命に至るまでのバルセローナでの10ヶ月間は、街に出て報道写真を撮るよりも、むしろ内向きの仕事が多かったようです。


『ある写真家の日記』-フランス亡命の記録

(Photo:courtesy of © Agustí Centelles, VEGAP)The Concentration camp at Bram(Aude)ブラムの強制収容所

1939年1月26日のバルセロナ陥落の前日、Centellesは妻と1歳半の長男を父親に託し、写真機材と数千枚にのぼる内戦のネガフィルムを入れた旅行カバンを抱えてフランス亡命の旅に出ます。40万人を越える避難民が殺到して大混乱の国境をやっとの思いで通り抜けましたが、すぐフランス官憲の手で悪名高いアルジュレス(Argèles-sur-Mer)の強制収容所に送りこまれてしまいました。そして一ヵ月後の3月初め、アルジュレスからさらに120キロぐらい内陸に入ったオード県ブラム町(Bram, Aude)の強制収容所に移されます。

Bramは中世の城壁都市として有名なCarcassonneから20キロぐらい西にあり、そこに新設された強制収容所には15,000人から17,000人ぐらいのスペイン人亡命者が収容されました。新設とは言っても、一戸あたり100人を収容する25m x 6mサイズの木造宿舎170戸を、鉄条網で囲んだだけのもので、暴動などを警戒してのことでしょうが、宿舎は15戸(収容者1500人)ごとに鉄条網で区切られ、お互いの行き来には制限があったようです。床に藁を敷いたものがベッド代わりで、暖房はむろんのこと電気もなく、写真で見ると宿舎というよりまるで大きな馬小屋という感じです。

Centellesの日記は1939年1月12日付けでに始まり、バルセローナでの生活ぶりと、家族を置いてひとりフランス亡命の旅に出る悩みを吐露した部分を含んでいます。しかし日記の中心は半年におよぶBram収容所での日常生活の描写です。将来の不安と寒さにさいなまれ、雑居生活に神経をすり減らしながら、バルセローナに残してきた家族のことを思うCentellesの心境や、苛立つ収容者たちがつまらぬことで言い争いを始めたりする姿が、いきいきと描かれています。
Centellesは収容所の中でも写真を撮り続け、有料で警護の警察官や仲間の肖像写真を撮っては、食費の足しにしたこともあったようです。

こんなBramでの生活が半年ばかり続いたあと、運よくCarcassonneのある写真館での仕事が舞い込み、Centellesは1939年9月初めに出所することができました。フランス軍に召集された写真館主の代役として忙しい毎日を過ごしているうちに、フランスは1940年6月末からナチスドイツの占領下におかれてしまいます。そしてやがて始まったレジスタンス運動にCentellesも協力することになり、写真館の地下に秘密の写真ラボを設け、身分証明書の偽造作成などを手伝いました。

しかし1944年1月、ナチスドイツ秘密警察(GESTAPO)の手でCarcasonneのレジスタンス運動関係者の一斉検挙が行われ、Centellesが親しくしていた友人たちもナチスの強制収容所送りになりました。そしてCentellesにもGESTAPOの手が伸びる恐れが出たため、スペイン警察に逮捕されるのを覚悟で、バルセローナに逃れる決心をします。
Centellesは、フランス亡命いらい片時も離さなかったネガ入りの旅行カバンをCarcassonneの下宿先の家主に預け、1944年4月ひそかにバルセローナ市に戻りました。そして家族と合流のうえ、親戚を頼ってタラゴーナ県レウス町に移り住み、パン屋の手伝いをしながら、一家揃って目立たないようにひっそりと暮らします。

内戦直後の混乱した世情が落ち着いたころを見計らって当局に自首し、1947年にはバルセローナに引っ越すことができました。しかし、報道写真家として活動することは認められず、当時38歳のCentellesは宣伝写真などを手がけながら商業写真家として生きてゆくしかありませんでした。

1万枚のネガ
1975年の独裁者フランコの死と共にスペイン民主化の動きが始まったのを見届けたCentellesは、1976年にCarcassonneに出向き、預けてあった数千枚のネガを全て持ち帰ります。こうして内戦の記録を含むCentellesの写真はぶじ散逸を免れたわけですが、1976年に始まったスペインの民主化が、なるべく過去の問題にはお互いに触れないようにしよう、内戦の記憶は封印しよう、という当時の風潮の中で進んだこともあり、Centellesが時には命を賭けて撮り、フランス亡命中も肌身離さず保管した、内戦の記録に対する世間の関心はいまひとつ盛り上がりませんでした。Centellesとその家族にとっては割り切れない思いだったろうと推測します。

Centellesを「スペインのCapa」と呼ぶときには、「世界的に有名なCapaに似た写真家」という理解がその裏にあるような印象を受けます。しかしCentellesはCapaの亜流ではなく、優れた報道写真家でした。ただスペイン内戦に限って言えば、Centellesは戦争を地道に記録した人であり、Capaは戦争に人間のドラマを見出した人だった、という違いを感じます。

Capaは限られた取材日数の制約の中で、ドラマ性のある写真を求めるジャーナリズムの期待に応える必要がありました。そして見事にその期待に応えたCapaにはほんとうに感服します。
しかし、兵士たちと寝起きを共にしながら戦場で撮ったCentellesの写真には、ホテルから車で戦場に駆けつける外国人のCapaには撮れないものがありました。それがCentellesの写真の魅力のひとつだと思います。

最近の新聞報道によると、カタルーニャ自治政府(Generalitat)の一部の人たちは、本来カタルーニャの文化遺産であるべきCentellesのネガを、家族がスペイン中央政府にカネで売り渡したと非難しているそうです。それに対する家族の言い分は、「Generalitatに本当にその気があるなら25年間も時間があった筈だ。しかし、Generalitatはけっきょく何もしてくれなかった。中央政府が買い上げるという話が出たので、急に名乗りをあげただけだ。しかも中央政府とは違って、これから写真をどう公開してゆくつもりなのかGeneralitatには何のアイデアもない。」と反論しています。

Centellesの家族にしてみれば、Christie’sなどオークション会社経由で高い値段で売却する道もあった筈ですが、作品の公開という点を重視し、スペイン政府文化省に譲渡することに決めたのは立派な見識だと思います。もし事実が報道の通りなら、カタルーニャの一部の人たちの批判は、ちょっと的はずれという感じがします。

ともかく貴重な内戦の記録が、コレクターの手に落ちることもなくスペイン政府の手に渡り、こんご一般公開が進む可能性が出てきたのは喜ばしいかぎりです。現状ではひとつひとつの写真についてのデータの整理が不十分のようで、同じ写真でありながら違ったタイトルがついたり、付記される撮影場所や年月日が異なったりするケースを見かけます。これを機会にCentellesの伝記の編纂や、全ての作品についての考証作業が進み、新しい写真集の出版が実現することを願っています。

Centelles生誕百年の今年は、スペイン内戦終結七十周年であると同時に、フランスの強制収容所開設七十周年でもあります。そんな背景もあってのことでしょうが、収容所のあったBram町で最近Centellesの作品展が開かれました。フランス人にとっては余り思い出したくない記憶でしょうが、ちゃんと過去の歴史に向き合おうとする姿勢に敬意を表します。

またスペイン政府の後押しでCentelles国際報道写真賞を創設する構想もある由で、「スペインのキャパ」ではなく、「スペインの報道写真家、Agustí Centelles」が、世界に知られる時代が来ることを期待します。


Agustí Centelles - Spanish photographer called Robert Capa of Spain
(Summary)
Agustí Centelles(1909-1985),a Spanish photographer famous for his photos of the Spanish civil war(1936-39),is often called ''Robert Capa of Spain''.
The Spanish press reported in early December that the Spanish Ministry of Culture had agreed to buy the Centelles’s entire collection of 10,000 photos, mostly of the Spanish civil war era, from the family at 700,000 euros.
According the press some members of the Cataluña’s autonomous government (Generalitat) have bitterly criticized the decision of the Centelles family for selling the photo collection to the Spanish central government alleging it’s a cultural heritage of Cataluña. The family reportedly responded to it saying that the Generalitat had 25 years, if they had really wanted to acquire it indicating also that the Generalitat had ignored the family’s plea of assistance in the past for safeguarding of the collection.

Agustí Centelles was born in Valencia in 1909 but moved to Barcelona at 2. He started the career as professional photographer at 18 as an assistant to Josep Badosa, a popular photographer at the time in Barcelona. In 1934 at the age of 25 Centelles started on his own with a Leica which he had bought on installments. He was one of the first Spanish photographers who used Leica when the majority of professionals were relying on large format cameras.

The Leica camera which was developed by Leitz in 1925 has changed the way of taking photos. Robert Capa and Agustí Centelles proved that a small and versatile 35 mm film camera (‘’like a toy’’ for some traditional press people) could make brilliant photos of the war.

On July 19, 1936, the day of failed military coup in Barcelona, Centelles took the famous photo of 3 militias in urban police uniform(Guardia de Asalto) who were exchanging fire with the rebels with dead horses used as barricade.

As a free-lance war photographer he then followed militia groups, mostly anarchists from Cataluña,who went to the Aragon front to fight against rebel forces led by general Franco. In 1937 Centelles was drafted by the republican government and was handed a Leica instead of a gun. As a military photographer he witnessed, sometimes risking his life, many battles and miseries of the civil war. One of his master pieces is the woman crying in front of the dead husband, casualty of the air-raid in Lerida city.

On January 25, 1939, the previous day of taking Barcelona by Franco’s forces, Centelles chose to go on exile to France leaving his family in Barcelona. He carried with him a small suite case filled with thousands of negatives of the war. He was one of those over 400,000 refugees who tried to escape to France during the two weeks after the fall of Barcelona. He managed to cross the border in chaotic situation but was detained by French police and was sent to the concentration camp established by French government, first in Argèles-sur-Mer, and a month later in Bram near Carcassonne.

We know how hard the life was at the camp through his diary(‘’A diary of a photographer, Bram 1939’’ ) which was published in Catalan and Spanish. Centelles comments in the diary that the French government treated Spanish exiles as if they were criminals. There was no electricity nor heating and the food was poor at the Bram camp for 15,000 exiles, which was considered to be a ‘’model’’ camp by the French government.

Fortunately for Centelles, in September 1939 he found a job at a photo studio in Carcassonne whose owner had been drafted by the French government. Centelles became a free man after 6 months of internment. But the freedom did not last too long. In June 1940 France was occupied by Nazi Germany and the French resistance movement started. Centelles collaborated with the resistance setting up a secret photo lab in the basement of the studio and made forged IDs for resistance members.

In January, 1944 GESTAPO arrested hundreds of members of resistance in Carcassonne including some of the best friends of Centelles who were sent to Nazi’s concentration camp. In view of possible persecution by GESTAPO Centelles decided to return to Barcelona risking the arrest by Spanish police.

In April, 1944 Centelles entrusted the suite case of his negatives to the care of the landlord in Carcassonne from whom he had rented the house and secretly returned to Barcelona. After joining the family he moved to the town of Reus(Tarragona province) where he had relatives and worked as a baker.

In 1947 Centelles turned himself to the police and moved to Barcelona. No criminal charges were laid on him, however Centelles was denied to work as a photojournalist, his specialty. Only choice for a 38 year old ex-photojournalist was to work as a commercial-industrial photographer which he did in the rest of his life.

In 1976 when the transition to democracy started in Spain one year after the death of Franco, Centelles went to Carcassonne and recovered his negatives. However, the attitude of majority of the Spanish people those days was; ‘’not to dig the past, try to forget the painfull memories of the civil war and reach the reconciliation’’. As a consequence the negatives which Centelles had made risking his life and kept as a treasure, did not receive the due attention from the public. It was a disappointment for Centelles and his family. He died in Barcelona in December,1985 at the age of 76.

A series of expositions of his work have been organized in Spain and in France as well. Currently an exposition is on going at the town of Bram as commemoration of 70th anniversary of the end of Spanish civil war and the start of internment of Spanish exiles. With the acquisition of the collection by the Spanish Cultural Ministry the public access to the Centelles’s work is expected to be improved and better organized including future expositions in those countries as USA where Centelles still remains mostly unknown.