2012年1月28日土曜日

スペイン・ロマネスクの旅(5) - Puente la Reina & Santa María de Eunate

プエンテ・ラ・レイナとエウナテの聖母教会
スペイン全図(Map of Spain)
サンティアゴ巡礼路図(Routes of St. James Way, by courtesy of Gronze.com)

プエンテ・ラ・レイナとエウナテの聖母教会

一昨年から数回にわたってアラゴン地方のロマネスク教会をいくつかご紹介してきましたが、今回はアラゴン州の西に隣接する、ナバラ地方のサンティアゴ巡礼路沿いのロマネスク教会を取り上げることにします。

Puente la Reinaの町を行く巡礼

プエンテ・ラ・レイナ-王妃の橋(Puente la Reina)

ヨーロッパ各国からフランスを経由してサンティアゴに向う巡礼路はいくつもありますが、ピレネー山脈の手前で二つのルートに集約されます(上掲の巡礼路図参照)。ひとつはトゥールーズからピレネーのサンポルト峠を越えハカに下る道。もうひとつはサン・ジャン・ピエ・ド・ポール(Saint Jean-Pied-de-Port)からロンセスバリェスを経由しパンプローナに下る「フランス道」(Camino francés)と呼ばれるルートです。ハカ経由のルートを「アラゴン道」と呼ぶこともありますが、ハカからはまっすぐ西に向い、ナバラのプエンテ・ラ・レイナの町で「フランス道」に合流します。

パンプローナの南西25キロの地点にあるプエンテ・ラ・レイナは、王妃の橋という町の名が示すとおり、橋があることで人が集まり発展した町です。サンティアゴ巡礼者の中には工人、行商人、大道芸人、レコンキスタに参加する騎士たちなどなど、実に雑多な人がまじっており、中にはそのままイベリア半島に定住してしまう者も多かったと言われます。スペイン各地にVillafrancaという名前の町がありますが、これはフランク人(すなわちピレネー以北の外来人)の町、すなわちもともとは免税特権などを与えられた外国人居住区を意味する言葉だったようです。サンティアゴ巡礼は11-13世紀ころのヨーロッパにおける一大人口移動でもあったわけです。

「王妃の橋」の建設は11世紀半ばころと推定されていますが、全長110米、道幅4米の堂々たるロマネスクの石橋です。ナバラ王国全盛期のサンチョ大王(在位1004-1035年)の王妃が巡礼のために寄進した、などの説もありますが、記録が全く残っていないため本当のところはよく分かりません。ただ11世紀のスペインでこれほど大きな石橋をかける大工事が実現したについては、やはり王家の強力な後ろ盾があったと見るのが自然だろうと思います。観光客も含めての話でしょうが、今でも毎年3万人くらいがこの橋を渡るそうです。

写真(1)プエンテ・ラ・レイナのメインストリート(The main street of Puente la Reina)クリックして拡大(Click to enlarge)
写真(2)橋の入り口(The gate of the bridge)
写真(3)橋を渡る巡礼者(Pilgrims on the bridge)

プエンテ・ラ・レイナを訪れたのは昨年4月末のずいぶん陽射しの強い日でした。私たちを追い越した巡礼者たちは、ブエン・カミーノ(Buen Camino!よい巡礼の旅を)とお互いに挨拶を交わしながら橋を渡って行きました。ふつうならブエン・ビアッヘ(Buen viaje!よい旅を)と言うところです。カメラを肩にぶらぶら散歩していた私にも、巡礼者から''Buen Camino!'' と声がかかったりしました。

橋のたもとで写真を撮っていたとき、ベルギーからやって来たという若い巡礼者に出会ったので挨拶したら、彼女は「今回はもうプエンテ・ラ・レイナで終わり。でもまた来ます。サンティアゴ巡礼は、いちど始めるとやめられなくなるんです」とつぶやいたあと、しばらくじっと川の流れを見つめていました。


エウナテの聖母教会(Santa María de Eunate)

プエンテ・ラ・レイナの町を出て、Camino de Santiagoの標識を見ながら東に5キロばかり行くと、麦畑の向こうに八角形の屋根を持つエウナテの聖母教会が見えてきます(写真 5)。教会というより礼拝堂と呼びたくなる小さな教会ですが、「フランス道」に近いことから巡礼たちの間でも大変人気のある、魅力あふれる教会です。

写真(4) 巡礼路の道路標識(Sign of the pilgrimage road)
写真(5) エウナテの聖母教会遠望(Santa María de Eunate church)


スペイン・ロマネスクではよくあることですが、この聖母教会もほとんど何も記録が残っていないため、いつ誰が建てたものかよく分かりません。エルサレムの墳墓教会を思わせる独特の八角形をしていることから、いろいろ想像力をかきたてられるわけですが、サンティアゴ巡礼が最もさかんであった12世紀半ばころの建築、と見るのが定説のようです。周囲を発掘したとき巡礼の遺体とおぼしきものが出てきたということで、ここにはもともと巡礼救護院がありその一部が礼拝堂の形で残ったのではないか、とする見方が有力です。別にエウナテという村落があるわけでもなく、無人の野原にぽつんと礼拝堂が建っているだけです。中世では霧のたちこめた時や夕暮れ時には、教会の鐘の音が巡礼たちの道しるべになったそうですが、この聖母教会の屋根の塔にも灯りがともされ、巡礼たちを導いたのだろうという説があります。


写真(6) 聖母教会西面の図(Santa María de Eunate,West view)

写真6は西側から聖母教会を眺めた写真ですが、礼拝堂の周りを八角形のギャラリー(アーチのつながり)がぐるっと取り巻いています。左手に見えるのが北ゲート(正面の入り口)です。


写真(7)北正面ゲート(North gate)
写真(8)北正面扉(North door)
写真(9) 北正面扉の装飾(Decoration of the North door)

丹念に石を磨き上げ、そしてひとつひとつの石をていねいに積み上げていった、12世紀の石工たちの心意気がそのまま伝わってくるような、そんな飾り気のない美しさが、この聖母教会の魅力だと思います。ただし北の正面ゲート(写真7)をくぐるとすぐ目に付く北扉(写真8)の周囲には、若干の装飾がほどこしてあります。単純な植物文様の繰り返しのほかに、男の顔とそのあごひげがとぐろを巻く柱頭彫刻のような、独特のスタイルの作品(写真9)がいくつか目につきます。なおこの北扉は現在は閉め切った状態で、西扉が教会の入り口として使われています。


写真(10)東からの眺め(View from the East side)
写真(11) ギャラリーの柱頭彫刻(A capitel of the gallery)

写真(10)は東から北ゲートの方向を眺めた図ですが、手前のアーチは後世に修復されたもので、柱には何の装飾もありません。しかしその奥に見えるアーチの柱頭には彫刻があり、北ゲートの周辺にだけオリジナルのロマネスク・ギャラリーが残っているらしいことをうかがせます。柱頭彫刻はだいぶ風化が進んでいますが、植物文様と怪獣などの絵柄が主体です。


写真(12)後陣を眺めた図(Apse & modillion)
写真(13)軒持ち送りの怪人面像-左(Modillion of monstrous faces-Left)
写真(14) 軒持ち送りの怪人面像-中央(Modillion of monstrous faces-Center)
写真(15) 軒持ち送りの怪人面像-右(Modillion of monstrous faces-Right)

北ゲートから左手(東方向)に向って進むと後陣に出ます。張り出した後陣の軒下に「軒持ち送り」(写真13-14-15)と呼ばれる、かなり風化した装飾がありますが、ここには怪人面が彫りつけてあります。


写真(16)教会入り口(西扉)(West door-church entrance)
写真(17)後陣(祭壇)方向の図(View of the altar)
写真(18)教会天井と8本のリブ(8 Ribs on the ceiling)

西扉(写真16)から薄暗い教会に入ると、中は数十人でいっぱいになりそうな広さです。しかし意外に天井が高いという感じがします。天井を見上げると、八角形の屋根を支える八本の四角いリブ(写真18)が目に付きますが、これはイスラム建築から学んだものだと言われます。エウナテの聖母教会は、ユニークな設計と石工のていねいな仕事ぶりで、なりは小さくとも力強い印象を与える、いかにもスペインらしいロマネスク教会です。

写真(19)エウナテで拝観記念のスタンプを捺す巡礼たち(Pilgrims at the church of Eunate)


巡礼について

先日トロントで観た映画 ''The Way'' はサンティアゴ巡礼の物語でした。主人公Tom Avery(マーティン・シーン主演)はカリフォルニアで成功した眼科医でしたが、サンティアゴ巡礼に出かけた息子がピレネー山中で遭難死したとの電話をフランス警察から受け、とるものもとりあえず遺体引き取りのためスペイン国境に近いSaint Jean Pied de Portの警察署にかけつけます。そして遺体安置所で息子のリュックを目にしたとたん、自分が息子の身代わりとなってサンティアゴ巡礼路を歩き、その遺灰を途中で撒こうという衝動にかられる、というところから話が始まります。

電話で秘書に患者のアポイントを全てキャンセルするよう伝えたあと、重いリュックを背負ってひたすら聖地に向かって歩き続けるTomの毎日を、カメラが追いかけるという内容でした。制作者の狙いは、主人公がカリフォルニアで長年に亘って築き上げた地位を投げ捨て巡礼に出ることで、いわば社会的にいちど死に、そして巡礼の行為を通じて新しいTom Averyに生まれ変わる姿を、映像を通じて描こうとしたのだろうと思います。映画としての出来ぐあいについてはいろいろ議論のある作品でしょうが、''West Wing''で大統領役を演じたマーティン・シーンが、老骨の背骨に食い込むリュックの重みに耐えながら、何か見えないものに向って挑むという感じで、口をへの字に曲げ石畳を蹴りつけるようにして歩く姿と、背景になったスペインの景色が印象的でした。

巡礼というのは、Tomのように住み慣れた土地を離れ、家族や親しい友人にも別れを告げ、異邦人としてひとり見知らぬ土地の霊場を巡り歩く、というのがもともとの姿だろうと思います。スペイン語で巡礼者をペレグリーノ(peregrino)と言いますが、その語源をたぐるとラテン語の「野を行く人」になり、そこから「故郷を離れてさすらう人」、「異邦人」というような意味が派生しているようです。

中世の巡礼は、奇蹟による病気治癒など現世利益を求める面もあったでしょうが、霊場で聖者の遺物に触れこの世で犯した罪が許され死後に魂が救われるよう、神へのとりなしを聖者に祈願して歩くものだったと思います。中世の巡礼行は過酷な旅で、途中で病気になったり亡くなる巡礼者もけっこういたようで、まさしく命がけの旅でした。

それにも関わらず、最盛期の12世紀には毎年何十万人にものぼる膨大な数の巡礼者を命がけの旅に駆り立てたと言われる、「サンティアゴへ!」というあの強烈な衝動は、奇蹟を信じることもできず、またキリスト教の贖罪の考えにもなじみの薄い私たちには、なかなか理解しがたいものがあります。

しかしピレネーの峠を越え聖地に向かう800キロの巡礼路を、足元を見つめながらただひたすら歩き続けるだけの、苦行の連続とも言えるサンティアゴ巡礼に私たちが何とも言えぬ親近感を覚えるのは、できることなら全てを打ち捨て見知らぬ土地をひとりさまよい歩きたい、という秘めた願望が誰にもあることと、そしていつかは中世の巡礼者のように、全てに別れを告げ、ただひとりあの世に向けて旅立たねばならぬ日が来る、と私たちが考えているからではないでしょうか。

(Summary in English)
The town of Puente la Reina, 25 km S.W. of Pamplona, is the important junction where various routes of El Camino de Santiago(St. James Way) will meet into one; El Camino francés(The French Way).
We visited Puente la Reina last April and saw many pilgrims crossing the famous Puente la Reina (Queen's bridge) on their way to Santiago saying ''Buen Camino!'' to each other. That's the salute of pilgrims. The Queen's bridge is of 110m long and is considered to be one of the largest 11th century Romanesque style bridges still in use in Europe. Every year about 30,000 people, pilgrims and tourists combined, cross this bridge.

The Santa María de Eunate, a tiny unique octagonal plan Romanesque church, is located at about 5 km east of Puente la Reina. It is one of the most popular churches among pilgrims in this area.
Very little is known about this church, but it is estimated to have been constructed in mid 12th century most probably as part of a large hospital for the pilgrims. An octagonal gallery circles around the church. It is rather austere in decoration but the workmanship of masonry is exemplary. Inside the church we see the 8 ribs reinforcing the octagonal shaped roof. This style is considered to be an influence of Islamic architecture.

For its form reminiscent of the Church of the Holy Sepulchre in Jerusalem, there are a lot of speculations about the origin of this church. Archaeological excavations have discovered some burials carrying the St. James' shells and the most people agree that the place of the church should have been the place of a hospital for pilgrims. It's a tiny but an impressive Romanesque church.

2011年12月26日月曜日

スペインロマネスクの旅(4) ピレネー山麓セラブロの教会群(Romanesque Churches of Serrablo)

セラブロの教会群(Romanesque Churches of Serrablo)




フランス国境Formigalのスキー場(Ski slope at Formigal, French border)
Photo(1)ガリェゴ川上流の貯水池(Gállego River-reservoir)
Photo(2)ガリェゴ川(Gállego River)


セラブロの教会群(Churches of Serrablo,Huesca)

標高2,000米を越えるピレネー山中に水源を持つガリェゴ川は、フランスと国境を接するアラゴン州の北部 をゆっくり蛇行しながら、州都サラゴサ市の近くでエブロ川に注ぐ全長215kmにわたる川ですが、このガリェゴ川の上流にセラブロ(Serrablo)と呼ばれる地域があります。セラブロは、ガリェゴ川沿い40 kmの範囲内に10数ヶ所の小さなロマネスク教会が集中しているので有名な場所です。

げんざい私たちが「セラブロの教会群」と呼んでいるものは、そのほとんどが1970年代から地場のボランティア団体「セラブロ友の会」(Amigos de Serrablo)のメンバーが、週末などを利用してこつこつと修復してきた初期ロマネスク建築の礼拝堂が大半を占めています。17か所とされるセラブロの教会群のうち、じっさいに私が訪ねることのできたガリェゴ川沿いの5箇所の教会を、北から順にご紹介しようと思います。


歴史的背景
8世紀初めにほぼイベリア半島全土を制圧した、コルドバを首都とするイスラム勢力(ウマイア朝)は、サラゴサを中心にエブロ川流域からピレネーに至る一帯を上部辺境領と定め、サラゴサに太守をおきアラゴン州の大半とカタルーニャ州の一部を統治する体制をとっていました。いっぽう当初はピレネーの山岳地帯に追いつめられていたアラゴン地方のキリスト教徒勢力も、10世紀にはいると徐々に反攻に転じ、レコンキスタ(再征服運動)の大義名分を掲げてイスラム辺境領の侵食を開始します。そして、その過程で新しく支配地になったガリェゴ川上流地帯を領地として確保するため、入植を進めていきました。入植を担ったのは、隣国ナバラやアラゴンのキリスト教徒、そしてそれまでイスラム勢力の支配地に住んでいたキリスト教徒たちでした。イスラム支配下に住むキリスト教徒をモサラベ(mozárabe)と呼びますが、モサラベの中には当時の先進文化であるイスラムの建築や装飾の技能を身につけた者が多く、彼らはスペイン・ロマネスクに先立つモサラベ様式の建築・装飾の担い手でもありました。

そんな時代、すなわち10世紀半ばころから「セラブロの教会群」の通称を持つ小さな教会が、入植地につぎつぎと建てられていったと考えられています。ただしこれには異論があり、これら小教会群の建設時期は11世紀後半以降であるとする意見も根強く、研究者の間で意見が分かれている状態です。

ということで、私は「セラブロの教会群は、10世紀半ばに始まり足がけ2世紀にわたる長い期間に建てられた、プレロマネスクと初期ロマネスク様式が混在する教会群である」という説に従うことにします。なお「モサラベ様式」についてもいろいろ意見がありますが、ここでは「イスラム文化の影響を強く受けた、ロマネスクに先立つ10世紀ころのイベリア半島の美術・建築様式」と理解しておきます。


1) フォルミガル(バサラン)の礼拝堂(Church of Basarán at Formigal)


Photo(3) バサランの礼拝堂後陣(Church of Basarán at Formigal-Apse side)
Photo(4) バサランの礼拝堂北面(Church of Basarán at Formigal - North view)

一番北に位置しているのがフォルミガル(Formigal)町の礼拝堂です。Formigalはフランスとの国境にある標高1600mのスキー場としてこのところ発展を続けている町ですが、1970年代初めに30kmばかり南のバサラン(Basarán)にあった小さなロマネスクの礼拝堂を解体のうえ移転して復元し、町づくりの目玉にしました。もともと存在しなかった鐘塔を新たに付け加えたりした部分を除けば、おおむね正確な復元と見ていいようです。商業化の波に乗せられたのではないかとの批判があるかも知れませんが、崩れ落ちそうな古い教会には誰も目を向けようとしなかった時代に、ロマネスク礼拝堂を復元し後世に残しておこうとした試みのひとつ、と私は受け取っています。


2) ガビンの聖バルトロマイ教会(Curch of San Bartolomé at Gavín)


Photo(5)西からの図(West view)
Photo(6)拡大図(West side close view)
Photo(7)南からの図(South side)
Photo(8)鐘塔拡大図(Bell tower - Mozarabe style)

ガビン(Gavín)は人口100人足らずの集落ですが、聖バルトロマイ教会は、集落から少しはなれた谷あいのわずかな平地を利用して建てられていて、セラブロの教会群の中ではもっとも古いものに属する教会です。セラブロの教会群の建設時期に関してはいろいろ説が分かれていますが、ここでは「聖バルトロマイ教会は10世紀半ば頃のモサラベ様式の建築」との説に従っておきます。

この教会をロマネスクに先だつモサラベ建築と見なす根拠は、鐘塔と後陣の形やその装飾が、イスラム建築や西ゴート王国時代(6-8世紀)の建築の影響を強く受けている点にあります。鐘塔はミナレット(モスクに付随した塔)を思わせるところがあり、また後陣(教会の右手側、写真(7)参照)の形が四角であるのは、西ゴート王国時代の教会建築の特徴であること(ロマネスクでは、後陣は半円形に外に向けて張り出すのがふつう)。などなどの点をあげ、聖バルトロマイ教会はスペイン・ロマネスクに先立つ10世紀のモサラベ様式の建築であると見なすわけです。

確かにこの教会の鐘塔をじっと眺めていると、馬蹄形アーチの三連窓とその下に日輪をかたどったらしい装飾が、塔の四面それぞれに施してあるのが目をひきます。私たちがふだん見慣れたロマネスクとはだいぶ違う、とつくづく思います。あとでいろいろ修復・改修の手が入っていることもあり、建築年代に関して正解はないのかも知れませんが、やはり私はロマネスク以前の10世紀創建説に同意したくなります。


3)オリバンの聖マルティン教会(Church of San Martín at Oliván)


Photo(9)教会全図(San Martín, parish church of Oliván)
Photo(10)教会内部(Interior of the church)

オリバン(Oliván)は人口40人、ガビンよりもさらに小さな集落ですが、聖マルティン教会は教区教会として、今も地元の人たちの生活に密着した存在です。セラブロの教会群はそのほとんどが文化財となり、いまは教会として機能していないものが多いなかで、聖マルティン教会は実に珍しい例と言えます。

教会内部の写真(写真(10))を見ると、天井・屋根は木組みになっていますが、これはセラブロの教会群に共通する点です。ロマネスク建築に多く見られる半円形の石天井は、それを支える壁にたいへん大きな荷重がかかり、へたをすると天井が陥没する恐れがあるため、いろいろ工法に工夫をこらすわけですが、これらの教会群を手がけた工匠たちにはまだそれだけの技術力がなかったということでしょうか。この教会は1977年に「セラブロ友の会」による修復が完了しています。


4) ブサの聖ヨハネ教会(Church of San Juan at Busa)



Photo(11) 聖ヨハネ教会遠望(Veiw of the church of San Juan)
Photo(12)後陣方向からの図(View of the apse side)
Photo(13)南方向の図(South side)
Photo(14)教会入り口の装飾(Entrance door)
Photo(15)教会内部(祭壇方向)(Interior-altar)
Photo(16)教会内部(祭壇から西方を眺めた図)(Interior-view toward
the west)
Photo(17)三連窓(Window with 3 openings)
Photo (18)後陣(Apse)

ブサ(Busa)の聖ヨハネ教会は、礼拝堂の名がふさわしい小さな教会です。たぶん中世にはブサと呼ばれる集落の中心に位置していたのでしょうが、集落は消滅し教会だけが残ったようです。創建は11世紀後半とされ、セラブロの教会群の中では新しい部類に属します。スペイン内戦のときこの一帯は戦場になり、聖ヨハネ教会も被害をこうむりましたが、それでも中世以来の原型を最もよくとどめている例とされています。1970年代に「セラブロ友の会」の手で修復作業が始まり1977年に作業を終えましたが、その後1989年に最終的な手直しが行われ、現在に至っています。

セラブロの教会群は、いずれも装飾らしいものがあまり見あたらないのがその特徴ですが、教会の扉の上(写真14)に珍しくヤシの葉らしい装飾が彫り込んであります。これをアラビア語の祈りのことばと見る意見もありますが、実際にはどうなんでしょうか。もしそうだとすれば、キリスト教会の入り口になぜアラビア文字が?という疑問が湧きます。もっとも、10-12世紀ころのレコンキスタについて語る場合、イスラム文化は征服者によってイベリア半島ににもたらされた当時の先進文化であり、アラビア語を学び、イスラム風の衣装をまとうことにあこがれる人たちも多かった、という事情は忘れてならないところだと思います。
キリスト教スペインとイスラム・スペインの関わりについては別の機会に述べるつもりですが、同じ対イスラム戦争といっても、イベリア半島の「レコンキスタ」の歴史には、イスラムを抹殺すべきものとしか考えいなかったらしい、東方十字軍の歴史とは異なるものがある、ということだけ指摘しておきます。

祭壇から西方面を眺めた写真16では、三連の馬蹄形アーチ窓がシルエットになって見えます。これを外から見たのが写真17です。馬蹄形アーチはイスラム建築で多用され、モサラベ建築にもそれが引き継がれています。この三連アーチ窓は、「セラブロ友の会」のシンボルマークにも使われています。

後陣の写真(写真18)の軒下部分に、30本ばかりの短い円筒形の石材が装飾としてはめ込んであります。この円筒形はモールディング(繰り形)と呼ばれますが、後陣にまるではちまきでも締めたような形の装飾は、セラブロの教会群に共通する独特のものです。

聖ヨハネ教会の壁は、切り出した粗い石をそのまま積み上げたもので、建築技術の面だけを取り上げれば、稚拙なものとの評価を受けるかも知れません。しかしこの小さな教会には、11世紀の工人たちが祈るようにしてひとつひとつの石を積み上げていった、その武骨な手のぬくもりを感じさせるようなところがあります。それはまた、田舎のロマネスク教会でときどき出会う、素朴な木彫りのマリア像にも通じる暖かさです。


5) ラレデの聖ペテロ教会 (Church of San Pedro at Lárrede)


Photo(19) 聖ペテロ教会 - 鐘塔と後陣(View from the street)
Photo(20)南面の図(South side)
Photo(21)南入り口(South side -church entrance)

ラレデ(Lárrede)は人口14人、教会に隣接して数軒の家があるだけで、村とも呼べないごく小さな集落です。しかし聖ペテロ教会は堂々とした鐘塔を備え、セラブロの小教会群のなかではその規模と完成度においてひときわ抜き出た存在です。聖ペテロ教会は11世紀半ば頃に腕のよい工匠が手がけた建築であり、その現場で技術を習得した工人たちが、周辺の小さな教会の建設に携わったのであろうと推測されています。

三連のアーチ窓を持つ鐘塔は、シリア南部で見られるモスクの塔に似ているなど、イスラム建築の影響を指摘する見方があり、また後陣の連続したアーチ装飾については北イタリア・ロンバルディア建築の影響がよく指摘されます。モサラベ様式とロンバルディア様式が混在する、11世紀半ばころのガリェゴ川周辺の建築を代表する教会です。ほとんどのセラブロ地域のロマネスク教会が見捨てられた状態にあった中で、聖ペテロ教会だけは早くから注目を集め、1930年代に最初の修復が行われています。その後も何度か修復が行われ、数年前には鐘塔の修理がなされました。

「セラブロ友の会」(Amigos de Serrablo)は800名ていどの会員を持ち、この40年ばかりの間に一貫して地元の教会群の修復に従事してきた実績を持つ組織です。ビデオで会員の仕事ぶりを見る機会がありましたが、ハンマーひとつを手に屋根に上って、スレートかわらを一枚一枚丹念に敷いていく場面でした。ひとつの教会を仕上げるのには、たとえ人海戦術で取り組んでも相当な時間がかかりそうで、ずいぶん忍耐の要る作業だなと思いました。対象が礼拝堂的な小さい教会なので、ボランティア活動に頼るやり方でいいのでしょうが、やはり何といっても、初期ロマネスクの礼拝堂を忠実に復元したいと願う会員たちの熱意が、これだけの実績を生んだのだと思います。
カタルーニャでロマネスクのイメージにそぐわない、余りにも手を入れ過ぎた「ロマネスク」教会を目にして絶句した経験があるだけに、原形の復元を尊重する「セラブロ友の会」人たちの真摯な態度に感銘を覚えました。

(Summary in English)
Romanesque Churches of Serrablo
Serrablo is an area on the west bank of the Gállego River in the Northern part of Aragon. The river's source is in the Pyrenées which mark the border with France. There are 17 small pre-Romanesque or Romanesque churches which date back to 10-12 centuries. These small but very attractive churches are located within 40 km range along the upper west bank of the River Gállego.
This article is to introduce 5 churches of them which I visited during the spring of 2010.
In early 1970's the ''Association of Friends of Serrablo'' was formed by the volunteers who were committed to restoring the Romanesque churches in this area. Most of the churches had been in bad shape due to negligence of long time. The members of the Association, now with 800 membership, have dedicated their week ends or vacation time to the restoration work.

1) Church of Basarán at Formigal

This tiny church was moved in early 1970's from Basarán to the French border town Formigal which has been growing as a ski resort. The bell tower was added at the time of reconstruction and is not original. The reconstruction seems authentic except for the bell tower.
Photo(3)(4)

2) Curch of San Bartolomé at Gavín

This is one of the oldest among the churches of Serrablo. The bell tower shows sign of the Mozarabe style which is a modified Islamic art and architecture introduced mostly into the 10th century Spain by the hand of Christians living in Muslim Spain. There are different opinions as to the time of construction of this church; mid 10th century or 11th century. But I agree to the theory that the church should have been constructed in mid 10th century at the early stage of the Reconquest along the upper Gallego river.
Photos(5)(6)(7)(8)

3) Church of San Martín at Oliván

This is one of the few parish churches currently active. Most of the Serrablo churches remain as place of visit but not for worship.
Photos (9)(10)

4) Church of San Juan at Busa

This church is considered to be one the most faithful reconstruction of the original church which was constructed in mid 11th century. It was damaged during the Spanish Civil War of late 1930's but has been restored in 1970's. Busa seems to have been a village during the medieval time, but the village has disappeared except for this church. It's of a simple construction but has a lot of charm. A frieze of pipe shaped mouldings and blind arches are typical decoration of Serrablo churches. The window with 3 openings composed of horseshoe arches is also a fine example of Mozarabic influence and is used as a symbol mark for the Association of Friends of Serrablo.
Photos(12)(13)(14)(15)(16)(17)(18)

5) Church of San Pedro at Lárrede

The most famous among Serrablo churches for its size and quality of architecture. The construction time seems to be in mid 11th century. A good example of combination of Mozarabic and early Romanesque style. San Pedro of Lárrede represents the churches located in the upper Gállego river banks.
Photos(19)(20)(21)

2011年10月12日水曜日

スペインロマネスクの旅(3)アルケサル城(Castle of Alquézar)

アルケサル城と聖マリア修道院教会(Church of Santa María de Alquézar)

スペイン全図-(For the summary in English please see the end of this article.


Photo(1)アルケサル遠望(View of Alquézar)
Photo(2)アルケサル城と聖母マリア教会(The Castle and the St. Mary's Church of Alquézar)

アルケサル城(Castle of Alquézar)
アラゴン地方のウエスカ市(Huesca)から東に50 km、ピレネー山脈の裾野にあたるアルケサル(Alquézar)は、中世の雰囲気を残す人口300人くらいの小さな町。
サラゴサに本拠を置くイスラム勢力が、9世紀初めころ城塞を築いたのがその起源で、町の名もアラビア語で城塞を意味するアル・カスル(Al-Qasr)に由来すると言われます。アラゴン王サンチョ・ラミレスがアルケサルを攻略したのは1067年。城塞には修道院が設けられましたが、聖マリア修道院教会が完成したのはそれから30年後の1099年、サンチョ・ラミレスはその5年前にウエスカで戦死しており、献堂式がとり行われたのは長男ペドロ一世の時代でした。

レコンキスタの進展と共に、アルケサルの戦略上の重要性は急速に失われ、城も教会も一時は荒れ果てたようで、14世紀に回廊がゴシック様式で再建され、また聖母マリア教会は16世紀に建て替えられています。

ということで、現存する建物をロマネスク建築と呼ぶわけにはいきませんが、たとえ回廊の一部のみとはいえ、他に例を見ない独特のロマネスク柱頭彫刻が残っているため、アルケサル城を『スペイン・ロマネスクの旅』に含めることにしました。


Photo(3)教会入り口(Church entrance)

アルケサル城は、ロアレ城とはちがって宮廷がおかれたわけでもなく、また当時は名ばかりのアラゴン国王だったサンチョ・ラミレスには、のちにロアレ城改築につぎ込んだような豊富な資金もなかったはずなので、アルケサルの城塞も教会も、当初は質素なものであったろうと推測します。

Photo(4)回廊(Cloister)

回廊(Cloister)
回廊は一辺が10米前後の不等辺四辺形をしていますが、これは丘の上の狭い城塞の中に、
修道院や教会を建て込むための苦肉の策だったと思われます。現存する回廊は14世紀にロマネスクの柱や柱頭を活用して再建されたもので、回廊の壁に残る壁画もゴシック時代の作品です。
ロマネスク時代の作と言えるのは、写真の向って右側(北側)の一連の柱頭彫刻のみで、残りはすべて14世紀以降のものです。


柱頭彫刻(Romanesque Capitals)

Photo(5)アダム誕生(Creation of a man)
これは旧約聖書の創世記にある「主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった」(創世記第2章-7)の場面を表したものとされています。4人の天使に囲まれた神には三つの顔がありますが、これは三位一体の教義を示すものと言われます。神は横抱きにしたアダムの耳に右手を当て、生命を吹き込んでいるように見えます。スペインの柱頭彫刻ではほかに例を見ない、実に珍しい絵柄で、いちど見たら忘れられない作品です。赤色の彩色のなごりも場面に変化を与えています

Photo(6)回廊北側(ロマネスク柱頭のある側)から見た図(Cloister-North side)

Photo(7)耕すカイン(Cain plowing with beasts)
回廊北側に数個並んだロマネスク柱頭彫刻の真ん中に位置する、2頭の動物に犂を引かせて土地を耕すカインを描いた、とされるもの。

Photo(8)回廊北東方向を見た図(Cloister-North East view)
Photo(9)アダムとエバ(Adam & Eve)
Photo(10)ノアの箱舟(Noa's Arc)
Photo(11)聖ペトロほか(Saint Peters & others)

現存するアルケサルの柱頭彫刻は、旧約聖書の創世記を題材にしたものが多いのが特徴ですが、もともと浮き彫りのような浅い彫りは、風化が進み詳細の見分けがつきにくいものもあります

Photo(12)ヘロデ王誕生日の饗宴(Herod's birthday party)
Photo(13)ヘロデ王と洗礼者ヨハネ(Herod and John the Baptist)
これは新約聖書に題材をとったもので、写真(12)はヘロデの誕生祝いの饗宴の場面で、下方の真ん中にエビのように体を曲げて踊るサロメの姿が描かれています。写真(13)は左がヘロデ、右が首をはねられた洗礼者ヨハネ、その周りを何匹かの蛇が取り囲むという絵柄。

Photo(14)回廊の北東を眺める図(N.E. view of the cloister)
Photo(15)司教と聖職者たち(Bishop and clergymen)
Photo(16)パンを練るサラ(Sara preparing bread)
Photo(17)アブラハムの犠牲(Abraham's sacrifice)
写真(14)は回廊の北東の角に位置するふたつのロマネスク柱頭。回廊そのものは、ロマネスクの素材を活用して14世紀に再建されており、背景にゴシック壁画の一部が見える。
写真(16)は、アブラハムの妻サラがパンを焼こうとしている場面。
写真(17)はアブラハムが神の命に従い一人息子のイサクをいけにえに捧げようとしたとき、天使が現れ羊を身代わりに差し出すようすすめた、という旧約聖書(創世記22章)の場面で、「イサクの犠牲」と呼ばれることもあります。画面の下半分は、イサクの身代わりに雄羊を焼く図です。羊がまるでロバのように見えるのもご愛嬌です。

アラゴン地方のロマネスクを代表する、ハカ大聖堂、サン・フアン・デ・ラ・ペーニャ修道院、ロアレ城などの有名な柱頭彫刻に比べると、アルケサルの作品が見劣りするのは否めません。保存状態もあまり良くはないし、美術作品としては稚拙とも言えるアルケサルの柱頭彫刻に、私はスペインのロマネスクを訪ねてしばしば出会う、技の巧拙を越えたふしぎな魅力を感じます。

19世紀後半に、ピレネーの山村で聖石信仰について聞き取り調査を行ったあるフランスの考古学者の報告の中に、「そのむかし、人間がまっとうだった頃は、誰もが聖なる石を信じていた。石に祈り、そして石を敬っていたものだ。私は今も石を信じている」という村の古老の言葉が引用されているそうです。
その老人の発言は、カトリック教会からは異物崇拝、異教として排除される類のものであったし、聖石信仰そのものがすでに19世紀には消滅しつつあったのでしょうが、現代の私たちにとっては、何か忘れていたものを思い出させてくれるような響きを持つ言葉です。

カナダ西海岸の先住民族ハイダ族は、巨大なトーテムポールを数多く残していますが、作業を始める前にまず「トーテムポールを彫らせて頂いてよろしいか」と木に向って尋ねる習慣があったそうです。
アルケサルの柱頭彫刻に私たちが不思議な魅力を感じるのは、「人間がまっとうだった頃」の聖石信仰と、ロマネスク彫刻が無縁ではないことに、あらためて気付かせてくれるからではないか、私にはそんな気がしてなりません。

中世の町アルケサル

Photo(18)古い通り(A street of Alquézar)
Photo(19)中世の名残りをとどめる民家(Entrance of an old house)
photo(20)町の広場(Plaza of the town)

アルケサル城の拝観を終え、古い家並みが連なる石だたみの坂道をぶらぶら歩きながら下って来ると、町の広場に出ます。おみやげを売る店があるわけでもなく、広場をはさんで2軒のレストランがあるのみ。時がゆっくり流れるような印象を与える町でした。

(Summary of the article)
Castle of Alquézar
Alquézar(comes from ''Al-Qasr'' meaning castle in Arabic) is a small town 50 km east of Huesca. Moslems constructed a fortress in the early 9th century on a hill top of the town which was reconquered in 1067 by King Sancho Ramirez of Aragón. The Moslem fortress was converted into a castle-monastery but Alquézar quickly lost strategic importance during the following centuries. The Romanesque monastery and church became a ruin. In the 14th century the cloister was reconstructed making use of the Romanesque material. The Santa María church, originally consecrated in 1099, was reconstructed in the 16th century. The Romanesque of Alquézar is, as a consequence, limited only to a part of the cloister, but it's worth a visit.

The capitals are carved mostly based on the story from Old Testament. The carving is simple and not up to the level of perfection of the Aragonese Romanesque icon such as Jaca cathedral, San Juan de la Peña monastery or Loarre castle. But Alquézar has the charm of its own.