2008年6月28日土曜日

ロバート・キャパ(Robert Capa)とスペイン内戦(1)


-失われたネガフィルムの謎―

2008年1月末の世界各国の主要紙に、「キャパのネガフィルム、70年ぶりにメキシコで発見」、というニュースが載りました。
ロバート・キャパ(本名Endre Friedmann, 1913-1954)はユダヤ系ハンガリー人で、スペイン内戦が始まった1936年7月にはまだ22歳の無名に近い報道カメラマンでしたが、その年の9月に南スペインのコルドバ県で共和国側の民兵部隊を取材中に、あの有名な「崩れ落ちる兵士」の写真を撮り、一躍戦争写真家として世界にその名を知られることになりました。

この写真は、被写体の民兵がフェデリコ・ボレル(バレンシア県アルコイ町出身の25歳の繊維労働者)と身元が判明しており、また撮影日は1936年9月5日で、場所はコルドバ県セロ・ムリアーノ村の戦場、とデータが揃っているにも関わらず、ネガフィルムが失われていることもあって、「やらせ」ではなかったか、という噂を打ち消すための決定的な証拠に欠けるうらみがありました。

今回メキシコ市で発見されたのは、スペイン内戦の写真が主体のフィルム100本、3,500コマにも及ぶ大量のオリジナル・ネガフイルムで、現物はいまニューヨーク市にある国際写真センター(International Center of Photography)に移され、整理と複製などの作業が行われているところです。まだ「崩れ落ちる兵士」のネガが見つかったという確認はありませんが、そのうち何か手がかりになる情報が発見されることを、キャパの名誉のためにも望みたいところです。
またこれまで未公開の写真や、すでに公表済みの写真であっても、オリジナル・ネガから新たに作成する質の良いプリントが一般に公開されることを、大いに期待しています。

キャパは1939年9月に第二次大戦が始まると、すぐパリを離れ米国に脱出しますが、そのときパリ在住の友人にスペイン内戦などを取材した大量のネガフィルムを預けて行きました。しかしその後このネガの行方が分らなくなり、戦乱のどさくさにまぎれて全てが失われてしまったものとされ、キャパもそう信じ込んでいたようです。そして、キャパが1954年5月にベトナムで第一次インドシナ戦争を取材中に、地雷を踏んで亡くなったこともあり、その後ネガを追跡する手がかりが失われていたのでした。

パリに保管してあったはずのキャパのネガが、なぜ数十年後にメキシコ市在住のベンハミン・タルベル(Benjamin Tarver)という映像作家の所有物としてメキシコで発見されることになるのか、というのはまさにミステリーで、今後の調査に待つしかありません。
これまでに分っているのは、このキャパのネガが入った3個の小型旅行カバンが、1941-42年に駐フランス・メキシコ大使を務めたフランシスコ・アギラル(Francisco Aguilar)将軍の遺品として、将軍の未亡人の所有物になっていたこと。そして、未亡人の甥にあたるタルベル氏が、それを遺産相続していたことが判明しています。
実はキャパの写真に詳しい人たちの間では、この幻のネガフィルムは「メキシコの旅行カバン(Mexican Suitecase)」という名前で、かなり前からその存在が知られていたようですが、やっとニューヨークへお里帰りをしたわけです。

これまでの調べでは、ドイツ軍占領下のパリに保管されていたネガは、スペイン共和国の元兵士に託され、マルセーユに向けて運ばれたらしいこと。そして、スペイン内戦が共和国側の敗北に終わったあと、フランスに脱出しマルセーユ経由でメキシコに移住した共和派の人たちが沢山いたこと。などがパリとメキシコをつなぐ手がかりのひとつとして指摘されていますが、誰がどうやってパリからメキシコまで運んだのか、またどういう経緯でアギラル将軍の手に渡ったのか、などは不明のままです。

メキシコ市の乾燥した気候がフィルム保存には幸いしたのでしょう、70年を経たネガフィルムの劣化は余りひどくはないようです。この中にはキャパの作品以外に、デイビッド・シーモア(David Seymour)が撮った写真と、これまでキャパの恋人ということでしか名前を知られていなかった、ゲルダ・タロ(Gerda Taro)の作品がたくさん含まれています。
ゲルダ・タロ(本名Gerda Pohorylle, 1910-1937)はユダヤ系ドイツ人で、報道写真家としても一流の腕を持ち、初期のスペイン内戦を取材した素晴らしい写真があります。キャパと行動を共にしていたので、キャパの名前で公表された写真の中には、実際には彼女が撮ったものもあると言われています。残念ながら、1937年7月にマドリッドに近いブルネテ戦線で、撤退する共和国軍の混乱に巻き込まれ、戦車に轢かれて26歳の若さで亡くなっています。女流報道写真家としては、世界で初めての戦場の犠牲者でした。ゲルダについては、また回を改めてもう少し詳しくお話しをしようと思っています。

2008年5月5日月曜日

なぜいまスペイン内戦なのか(2)

―1977年の「特赦に関する法律」(Ley de Amnistía)―

前回は「歴史の記憶に関する法律」を話題に取り上げましたが、あの法律にちょうど30年先立つ1977年10月に、「特赦に関する法律」(Ley de Amnistía)が、まだフランコ体制の延長線上にあった当時の議会で成立しています。この「特赦法」は「歴史の記憶に関する法律」といわば表裏をなすものですので、1970年代後半にスペインで起きた民主化体制への歩み(これをtransiciónと称します)とからめて、その要点をごくかいつまんでお話してみましょう。

(独裁体制から民主主義体制へ)
1975年11月にフランコが死ぬと、スペインは独裁政治体制から民主主義体制に向けて大きく舵を切り始めます。38歳で国家元首を継承したフアン・カルロス国王も、そして1976年7月に首相に就任した44歳のアドルフォ・スアレスも、いずれも「フランコ体制」の出身者ではありますが、35年の長期に亙ってスペインを支配してきたフランコ独裁体制を解体して、1978年憲法と呼ばれる主権在民の新憲法を成立させ、スペインを民主主義国家に変えて行くことに力を尽くします。

当時の週刊誌が、「スアレスのハラキリ」というタイトルで、サムライの格好をしたスアレス首相が、自らの出身基盤であるフランコ体制を次々に解体して行く姿を漫画化した挿絵入りの特集記事を載せたことがありました。スアレス首相の勇気には賞賛を送る一方で、長年わがもの顔にスペインを支配してきた独裁体制の終焉をちくりと皮肉る調子の記事でした。そしてそれは当時の庶民の気持ちをうまく言い表したものだったと思います。

スペイン人は当時を振り返って、「あの民主化への移行は本当にうまく運んだ」と口をそろえて言います。それは「もう内乱はコリゴリだ」という気持ちが国民のあいだで過激な言動を抑える作用を果たした一方で、保守的な体質の軍部を過度に刺激しないよう、当時の政治家たちが現実的な妥協を重ねながら慎重にフランコ体制の解体を図った結果でもありました。

(特赦法が生まれた背景)
スアレス首相は保守派の根強い反対を押し切って、1977年4月には共産党の合法化を行い、そして6月に実施された総選挙で第一党の地位を固めると、新憲法制定に向けて与野党の歩み寄りを推し進めます。そして、新憲法を保守派に呑ませるための妥協策のひとつとして「特赦法」が生まれた、という風に私は理解します。

特赦法の狙いは、ひとことで言ってしまえば、「この法律が成立する以前に軍人が犯した反乱の罪ならびに官憲が犯した人権侵害の罪を問わない」ということです。
従って、たとえ1978年12月に施行された新憲法で人権尊重を謳っていても、内戦の犠牲者が過去に遡って人権侵害による被害を訴える法律的な基盤がなくなってしまうということでした。

それは内戦中にフランコ軍の占領地で起こった暴行や殺戮の犠牲になった人たち、或いは官憲による不当逮捕・拷問を経験した人たち、そしてその家族にとっては、耐え難い妥協だったことでしょう。ヘミングウェーの「誰がために鐘は鳴る」の女主人公マリアのように、父親が共和派の政治家であったというだけの理由で、両親はフランコ軍に銃殺され本人は頭を剃られて暴行されたというような話しは、ヘミングウェーの小説の上だけのこととも言い切れないようです。

しかし今でも殆どのスペイン人が「民主化実現のためには、あの特赦法は止むをえなかったのだ」と言います。そして、内戦の記憶がひとりひとりのスペイン人の心の奥深いところで封印される一方、国民の合意という形で1977年の「特赦法」によって、政治的にも内戦の記憶が封印されてしまったのでした。

その特赦法から30年が過ぎ、そして内戦から70年が過ぎた2007年になって、やっと「歴史の記憶に関する法律」が生まれました。そしてこの法律によって、内戦とフランコ独裁の犠牲者に対して、国として人権侵害の事実があったことを公に認め、多分に象徴的な意味合いが濃いとはいえ、何らかの救済措置を講じる姿勢を明確に示したことで、遅まきながら犠牲者の名誉回復を図る動きが正式に認知されたということでしょう。

スペイン内戦の歴史を辿っていると、「戦争の記憶を一度は封印しても、いつかはそれに向き合わねばねらない時が来る」ということを痛感します。そして「戦乱の犠牲者は復讐を求めるべきではない。ふたつに分かれてお互いに殺しあった国民が、和解に達するのがいちばん大事なことなのだ」と自らが内戦の犠牲者でもある詩人マルコス・アナが静かに語るとき、私にはそれがスペイン内戦の歴史を越えて現代に通ずる呼びかけだ、という風に響くわけです。

2008年4月20日日曜日

なぜいまスペイン内戦なのか?

―「歴史の記憶に関する法律」(La Ley de la Memoria Histórica) ―

(法律第52/2007号)
2007年12月26日に「歴史の記憶に関する法律」がスペインの国会で成立し公布されました。この法律のおもな狙いは、1936年の内戦開始から1975年のフランコ総統の死で独裁政治が終わるまでの40年間に、政治的な理由で不法に投獄されたり処刑されたり、あるいは亡命して外地で一生を終わった人たちを含めて、何十万人にも及ぶと見られるフランコ独裁政権の犠牲者たちの名誉回復を図ろうとするものです。また内戦中に左翼過激派に暗殺された聖職者たちも、この対象に含まれています。

この法律の骨子は、国として上に述べたような人権侵害があった事実を認め、犠牲者の名誉回復のため種々の処置をとること、具体的には、生存者に対する一時補償金の支給、共同墓地に埋葬された遺体の捜索・鑑定への協力、クーデターや独裁政治を賞揚する記念碑その他の撤去、フランコが建てた「戦没者の谷」と称するマドリッド近郊の戦没者記念施設の見直し、内戦及び独裁制に関する歴史資料の保存、亡命者の子孫に対するスペイン国籍の付与、一連のフランコ時代の治安関係法の廃止、などが謳われています。

すでに内戦から70年を経て、生存者がごく少くなっている現状を考えると、経済面での補償措置には実質的な意義はあまりないのでしょうが、犠牲者の家族にとっては、多分に象徴的な色彩が濃いとはいえ、不当な投獄・処刑が行われた事実を国が正式に認め、何らかの救済措置に踏み込んだことは朗報と言えます。

(封印されていた内戦の記憶)
私は1970年代に、フランコ将軍の死を間にはさんで足掛け10年近くをスペインで暮らしました。75年の11月に病床のフランコの死が近いことをラジオで聞いた近所の老人が、「少しは缶詰を買いだめしておかなくちゃ」と呟いていたのが印象に残っています。
あの頃は、内戦を身を以って体験した多くの人たちがまだ健在で、左右の政治勢力の激突がフランコ将軍のクーデターを生み、それがお互いに顔見知りの間ですら憎しみ殺しあうような悲惨な内戦にまで発展した記憶は、スペイン人の心の奥に傷のような形で残っていました。そして「軍人たちがまたクーデターでも起こすんじゃないか」というのは、当時の多くの市民の頭の片隅に常にあった懸念でした。

そして70年代と言えば、だいぶ緩和されたとは言えまだ言論統制があり、政府に都合のいい話しかおおやけには知らされない仕組みでしたので、内戦中にフランコ軍の占領地域で、共和派支持者とみなされた市民に対する暴行や大量虐殺があったことや、内戦終結の後も20万人を越える政治犯が獄中にいて、少なからぬ政治犯の処刑が内戦後も続いたことなどは、うわさ話として耳にすることはあっても、本当に何が起こったのか外国人にはその全貌がなかなか掴み難い時代でした。
そして地元の人たちから内戦についてくわしい話を聞く機会も多くはありませんでした。当時のスペイン人の大半は、余りにも痛ましい身内の戦争について思い出すことも語ることも気が重くて、いわば戦争の記憶に封印をして暮らしていた、というのが実態だったと思います。

(なぜいまスペイン内戦なのか
「歴史の記憶に関する法律」が内戦から70年を過ぎたいまになって成立した背景には、もう武器をとって戦争に参加した世代が90歳を越えるようになり、生き証人の数も少なくなって来たことで、スペイン人の内戦に関する記憶の封印もすっかり解け、冷静に過去を振り返る心の余裕が生まれて来た、という事情があると思います。
そして、フランコ独裁政治の犠牲者の名誉を回復することは、民主主義国家として果たすべき義務である、と言う社会主義労働者党内閣の考え方が大多数の国民に受け入れられた、ということでしょう。
しかし議会最大野党の国民党が法案に反対したことを見ても、必ずしも全国民が諸手を挙げて賛成しているとは思えないので、実際に地方自治体に判断が任される部分、たとえば独裁時代の名残を留めるシンボルマークの撤去などが、どこまで実行されるのか不明な部分があります。
またこの法律に勢いを得て、内戦または独裁政治による被害の補償を求めて、国を訴訟する動きが起こるのではないかという見方もあり、スペイン人にとってまだまだ内戦は完全に終わってはいない、という気がします。

(内戦に題材をとった映画)
このところ内戦をテーマにした映画の新作が毎年紹介されていますが、最近バルセロナで「13本のバラ」と「空を見上げて」という2本の映画を見る機会がありました。「13本のバラ」は内戦が終わった1939年の8月に、統一社会主義青年連盟(共産党系)の活動家とその友人たち合計13人の若い女性たちが、非合法の反政府運動に関わったというだけの理由で、マドリッドで銃殺刑にされた実話に基づく作品です。後半からメロドラマ調になってしまったのはちょっと残念でしたが、当時のマドリッドの緊迫した雰囲気の描写が目を引きました。
「空を見上げて」は、1938年3月のイタリー空軍機によるバルセロナ爆撃をテーマにした作品でした。バルセロナの空爆は3日間に亙り、2千人を越える被害者が出ています。その後の第二次大戦の被害に比べれば大したことはないような感じを受けますが、「非戦闘員を目標にした大都市の空爆」という、いわばそれまでの禁じ手をファシスト軍が使い始めたという意味で、歴史に残る出来事でした。
どちらも映画としての仕上がりは今ひとつという感じですが、バルセロナ市の空爆70周年ということもあり、いずれも暗いテーマにしてはずいぶん話題になった作品でした。

それと、完成はまだ2-3年先ということになっていますが、「オール・アバウト・マイ・マザー」で1999年のオスカー賞をとったペドロ・アルモドバル監督が、パブロ・ネルーダの友人で獄中詩人として名を知られるマルコス・アナの回想録(本名フェルナンド・マカロ。共産党員として内戦に参加、捕虜となり死刑の判決を受けるが、22年を獄中で過ごした後、1961年に釈放)の映画化を構想中、というニュースが今年2月に大々的に報道されました。

アルモドバルの新聞談話によると、この詩人の生涯に惹かれる理由のひとつとして、「フランコから非人道的な扱いを受けたことを、決して忘れはしないが復讐は求めない、という考え方で、しかも内戦の犠牲者が国民和解の妨げになってはならない、という態度を貫いているのに感銘を覚えた」と言っています。

マルコス・アナは19歳から41歳までの22年間を、仲間を救うため拷問に耐え黙秘を守り通して独房で過ごしました。その間に頭に浮かぶ詩を手製のインクで皿の裏に書き付けたりして詩作を続けたそうです。自分を警察に密告した友人の名前が判明しても、それには触れず「いま一番大事なことは、スペイン人が身を以って体験した内戦と、それに続く惨禍を二度と繰り返してはならない、ということだ」と物静かに語る88歳の詩人に、アルモドバルは「最近は何かと言えばすぐ犠牲者が町に出て、甲高く自らの痛みを訴える傾向にある中で、マルコス・アナは内戦犠牲者のあるべき姿を我々に示している」と語っています。

スペイン内戦の歴史を辿っていると、外国人の私ですら、ときおり残り少ない髪の毛が逆立つような思いにかられることがあります。戦争中もそして戦後も、一貫して「和解」は問題外とはねつけ、ファシズムに反対する勢力を徹底して殲滅することしか眼中になかったフランコ独裁政治のあり方を思うとき、「それでも復讐は求めるべきでない。内戦の犠牲者が国民和解の妨げになってはならないのだ」と主張するこの内戦の生き証人の言葉が、ずっしりと重みをもって響く由縁です。そしてその言葉は、きっとスペイン内戦だけに限らない真理を含んでいるのだと思います。

2008年1月14日月曜日

アンダルシアのオリーブ畑ー(2)

パコ・イバニェス(Paco Ibañez)が歌うミゲル・エルナンデス(Miguel Hernandez)の詩

            (この画像をクリックすると拡大できます)


カソーラ(Cazorla)の町からさらに北に行くと標高2000米前後の山がいくつもあり、その山腹にある小さな村をいくつか訪ねたのですが、その途中で切り立つような山肌に、びっしりとオリーブの木が植えられていたのを見て驚いてしまいました。とにかく木の根っこにでもすがらないと、とても登ることも難しいような急な斜面ばかりです。こんな場所にオリーブの木を植えて、手入れや収穫は一体どうするんだろうと不思議で仕方がありませんでした。

Olive field on top of the mountain


今はだいぶ機械化が進んでいるようですが、私が昔スペインで見かけたオリーブの収穫というのは、木の周りにシーツのような白い大きな布を広げ、数人の男たちが輪になって竿でオリーブの実を叩き落す、という実に原始的な人海戦術でした。
立っているのが精一杯の急な斜面で、腰をかがめてオリーブ畑の手入れをやり、収穫期には木につかまりながら実を叩き落す作業をしたであろう、むかしの日雇いオリーブ労働者のつらい生活を思ったとき、今から40年くらい前にパコ・イバニェス(1934- )が歌って評判になった「ハエンのアンダルシア人」(Andaluces de Jaen)の歌詞を思い出したのです。それはミゲル・エルナンデスの詩「オリーブ労働者」(Aceituneros)を、シングソングライターのパコ・イバニェスが、ギターの弾き語りで歌った曲です。

私はこの急斜面のオリーブ畑を目の前にして、なぜあの歌詞が、「オリーブ労働者よ、オリーブの木は地主のものではない、お前達のものだ、奴隷になるな、立ち上がれ」と激しい言葉で呼びかけているのか、その背景がやっと理解できたという感じがしました。そしてまた、なぜこの歌が60年代から70年代にかけてのスペインで、フランコ独裁体制にやり場のない不満を抱いていた若者たちの心を捉えたのか、その理由もよく分りました。
私の友人の「元若者たち」が、学生のころ親には内緒でパコ・イバニェスのアングラ公演に出かけたりしたものだ、と懐かしそうに話しているのを聞いたことがあります。

ハエンのアンダルシア人よ  Andaluces de Jaén,

誇り高いオリーブ労働者よ aceituneros altivos,

本気で答えてくれ、誰が、 decidme en el alma: ¿quién,

誰がオリーブの木を育てたのか quién levantó los olivos?

ひとりで育ったわけはない No los levantó la nada,

お金でも地主でもない ni el dinero, ni el señor,

黙した土地と    sino la tierra callada,

労働と汗と     el trabajo y el sudor.

で始まるこのミゲル・エルナンデスの詩は、スペイン内戦(1936-39)の最中に、共和国の兵士たちや市民の間でずいぶん愛唱されたものだそうです。アンダルシアの戦線では、スピーカーでこの詩をフランコ軍の塹壕に向けて朗読して投降を薦めた、という話もあります。

ミゲル・エルナンデス(1910-1942)はガルシア・ロルカとほぼ同世代のスペインの詩人ですが、貧しい家庭に育ち、羊飼いをやったりしていろいろ生活の苦労をなめたあと、内戦の時には共和国軍の文化委員の肩書きで、南スペインの戦線で共和国政府の宣伝活動に携わっていたようです。その時に作った詩のひとつがこの「オリーブ労働者」(Aceituneros)です。このほかにも、故郷に残してきた妻と生まれたばかりの息子を想う詩など、読む者の心を打つ作品があります。

共和国軍には、将校でも文字が読めないという民兵出身の部隊長がいたそうですから、兵士に至っては文盲は特に珍しいことでもなかったようで、そんな兵士達にも口伝えで愛唱されたというミゲル・エルナンデスの詩は、分り易くてしかも読む者の心を揺さぶるものがあるということでしょう。

彼は内戦後に逮捕され、獄中でも詩を書き続け、31歳の短い生涯を閉じています。

1975年まで35年間も続いたフランコ政権の下では、ミゲル・エルナンデスの作品を自由に発表するのは難しかったので、パコ・イバニェスもたぶん当時の検閲を避ける為でしょうか、歌のタイトルには詩の題名ではなく冒頭の一行を使っています。

私が持っているCD(Universal Musicは、''Paco Ibañez en el Olympia''というタイトルで、パリのオランピア劇場での実況録音版(1969年)です。

ミゲル・エルナンデスの作品は歌がつけやすいということでしょう、フラメンコ歌手を含めて沢山の歌手が彼の詩にメロデイーをつけて歌っています。

それについては、また別の機会にお話し致しましょう。

(スペイン語でミゲル・エルナンデスの作品を読んでみようと思われる方は、次のサイトをご覧下さい。''Aceituneros'' は ''Vientos del Pueblo''詩集に入っています。

http://mhernandez.narod.ru/viento.htm


2008年1月8日火曜日

カタルーニャのロマネスク教会ー(2)


Sant Pere de Graudescales教会



(本文に挿入してある画像をクリックすると、画面を拡大することができます)
今回は普通の観光案内書には載っていない、いわゆる知られざるカタルーニャのロマネスク教会をひとつご紹介したいと思います。

今から2年ばかり前の冬に、バルセロナの友人のG氏ご夫妻が、余り知られていない珍しいロマネスク教会があるのでご案内しよう、と誘って呉れました。場所はバルセロナから北西に100キロ足らずのところで、距離的には大したことはないのですが、途中から川沿いの細い山道を辿って行かねばならないのと、その上あいにくのお天気で霧に巻かれて見通しが悪くなったものですから、雪解けでぬかるんだデコボコ道を、まるで歩くようなのろのろ運転になり、予想以上に時間が掛かってしまいました。

途中で川に渡した木橋があったのですが、橋板が傷んでいてそのうちの何枚かは一部が欠け落ちたりしていましたので、G氏はしばらく橋の上で飛んだり跳ねたりして安全を確認していましたが、念のためみんな車を降りて車体を軽くして橋を渡ったり、などということもありました。
しかも、霧の中を行けども行けどもお目当ての教会が見つからず、「ひょっとして道を間違えたのでは」とか、「そろそろ引き返した方がいいのでは」、などという車中の雰囲気になりかかった頃、とつぜん霧が晴れ、松林の向こうに教会の屋根が見えたので一同大喜びでした。 Sant Pere de Graudescales church

この教会の名前は「グラウデスカレス村の聖ペテロ教会」という、ちょっと舌を噛みそうな名前ですが、10世紀にベネデイクト会の修道院として建てられたのが始まりだそうです。
もうかなり前からグラウデスカレス村は廃村になっており、教会も使われないまま長らく放置されていたようですが、1973年に文化財として今の姿に修復されたということです。

こじんまりした教会で私が持っていたレンズでも全景が写しこめること、そして前から見ても横から見ても実に美しい建物なので、束の間の霧の晴れ間を利用して夢中でシャッターを押していました。 Inside the church 教会の中は、ふだん使われていないこともあり、ごく質素な祭壇とベンチがあるだけで、あとは何の装飾もなくガランとしています。

しばらくするとまた霧が出始めたのでそこそこに引き上げましたが、帰り道に車の窓からうしろを振り返ってみると、教会のあった辺りの松林は再び霧にすっぽり包まれて見えなくなっていました。
まるであっという間に魔法の扉が閉まった、というような感じでした。
私にとっては忘れがたいロマネスク教会のひとつです。

この教会に就ては余り資料も見当たらず、これ以上の詳しい説明は出来ませんが、写真を何枚か添付しておきますのでご覧ください。 Road to the church

Posted by Picasa

2008年1月7日月曜日

アンダルシアのオリーブ畑 - (1)


Town of Cazorla

昨年の4月初めに、オリーブオイルの産地として知られる南スペインのハエン県を訪ねました。首都のハエン(Jaen)市まではグラナダから北に100km足 らず、そしてそこから更に100キロばかり東にある避暑地のカソーラ(Cazorla)の町に泊まって、周辺をドライブして回ったわけです。カソーラは人 口1万人足らずの町ですが、軽井沢並みの海抜800米ぐらいの高地なので、夏場は40度にも達する南スペインの暑さを逃れる避暑客で大変混雑するそうで す。でも私達が訪ねたのはイースター休暇の時期で、ホテルは結構混んでいましたが、道路が混むようなことはなくて助かりました。

グラナダ の飛行場でレンタカーをして、ハエン市に向けて北上し始めると、もうすぐ道路の両側はオリーブ畑となり、あとは行けども行けども緑一色のオリーブの木ばかりです。


Olive field in Jaen

ハエン県には6,000万本のオリーブの木があるという話です。まさか一本一本数えたわけでもないでしょうが、とにかくオリーブ畑から日が昇り、 そしてオリーブ畑に日が沈む、というのが実感になります。
たまに近道をしようとして細い農道を通り抜けたりすると、まるでオリーブの木のトンネルを抜けているような感じで、濃い緑色のオリーブの枝が両側から車に覆いかぶさって来て視界を遮ります。4日間も同じことを続けていると、目を閉じてもオリーブの木にとり囲まれた夢を見るという始末で、もうすっかり船酔いならぬ、「オリーブ酔い」という気分になってしまいました。
オリーブの木は植えてから8年ぐらいで実が採れるようになり、樹齢35-40年くらいがピークで、あとは次第に老齢化して70-80年でもう実は採れなくなるそうです。何だか人間の寿命みたいです。

お天気の方は、もともと雨が少ない地方の筈なのに、どういうわけか連日の雨に祟られて、望遠レンズまで付けて2台も持ってきたカメラを取り出すチャンスもありません。

Jaen in the rain


しばらく行くと、車のはるか右斜め前方の山の中腹あたりに、白壁の家が固まって、雛壇のように山肌からせり出している村が見えてきました。それにベールを被せたような霧が掛かっていて、まるで話しに聞いた桃源郷のような風景だったのですが、残念ながらそれもただ土砂降りの雨の車窓から眺めるだけで、あっという間に通り過ぎてしまいました。チャーチルの肖像写真などで世界的に有名な、カナダの写真家ユースフ・カーシュが、「私の本当の傑作は、私の記憶にしかない写真である」という意味のことを言っています。「逃がした魚はいつも大きい」というのは、釣り人だけの嘆きではなさそうです。


Baeza - Semana Santa




ハエン市から東に50キロぐらい、時間にして45分ばかり走るとバエサ(Baeza)の町に着きます。お隣のウベダ(Ubeda)と併せて5年前に世界文化遺産に登録されましたので、観光案内書などにも載っているかと思います。バエサは人口2万人足らずのこじんまりした町ですが、ローマ時代からの歴史を持つ古い町で、南スペインには珍しいロマネスクの教会があったりして、いまでも中世の雰囲気を残すなかなか味のある町です。

私達がバエサを訪ねた日もあいにくの雨模様のお天気で、地元の人たちは南スペインでは大事な年中行事である、イースター(Semana Santa)の行列が台無しになるのでは、と心配そうな表情で熱心にTVの天気予報を見つめていました。聞いてみるともう一年も前から準備を始めていて、鼓笛隊はじめ関係者はみんなリハーサルも済ませているので、何とか行列が出る時間だけでも雨が止んで欲しい、と真剣な表情です。

Paso entering the Cathedral of Baeza

カテドラルの入り口に人だかりがしていたので近寄ってみると、行列に使う山車(スペイン語では’’Paso’’)を大聖堂に持ち込み、マリア像をお載せする準備が始まるらしいと分りました。雨除けの大きなビニール袋で覆った山車が着いたのでカメラを構えたら、隣りに立っていた老人が私の手を押さえて「一寸待て」という合図をしました。写真を撮ってはいけないのかなと一瞬思ったら、どうも未だタイミングが早すぎる、と言うことらしいのです。山車がカテドラルの入り口に半分ぐらい運び込まれたところで、包んであった布とビニールのカバーを少し外して、ほんの一瞬だけ山車の素肌を披露するというわけです。ちょうど踊り子がスカートを一寸つまんで持ち上げる、という感じです。
あっという間に山車はカテドラルの中に運び込まれてしまいましたが、銀細工を周りに張り詰めた実に立派なものでした。隣の老人は私の顔を見て「撮れたか?」と聞いてきましたので、デジカメの再生で画面を見せてあげたら、ウンウンとうなずいて満足そうでした。見知らぬ観光客にもこうやって声を掛けてくれるのが、南スペインの旅の良さです。

2007年12月9日日曜日

アンダルシアのLos Pueblos Blancos(白い村)


アンダルシアのLos Pueblos Blancos(白い村) で耳にした Vaya con Dios





(Arcos de la frontera)昨年の春Los Pueblos Blancosの呼び名で知られる、スペイン南部のアンダルシア地方にある小さな村をいくつか訪ねました。
小高い丘にへばりつくように立ち並ぶ家々が、どれも壁を真っ白に漆喰で塗り固めてあり、村全体が真っ白に見えるので、この名が付いたようです。

私はもともと運転が苦手な上に、オートマチックの車しか運転できないときていますので、あらかじめセビーリャのレンタカー会社には小型のオートマチック車の確保を申し入れてあったのですが、いざ現地に着いてみると予約した筈の小型車はなくて、オートマチックはボルボ60sが一台あるだけという返事です。訪ねる先は曲がった細い山道が多いと聞いていたので内心困ったなと思いましたが、車なしでは身動きがとれないので、やむなく大きな車を借りる羽目になってしまいました。

セビーリャの町を出て、南に向かうハイウエーを走っているうちは実に快適だったのですが、その日泊まる予定の、中世の雰囲気を感じさせる城塞都市アルコス・デ・ラ・フロンテラへ着いたら、丘の上のホテルに通じる石畳の道の途中に、左右のミラーが触れそうなぐらい狭い石造りのトンネルがあり、まずそれを潜り抜けるのにひと汗かいてしまいました。歩道車道の区別なんてない石畳の町ですから、沢山の通行人をよけながらやっとのことでホテルにたどり着いた、という感じでした。

Zahara de la Sierra


アルコスには3泊してそこを拠点に、あちこちに点在するPueblos Blancosをいくつか見て回りました。途中で山羊の群れが道路を横切っているところに出くわして、仕方なく車を停めて山羊が通り過ぎるの待ったり、というのんびりしたひと時を過ごしたあと、Zahara(サハラ)村に着きました。
車を坂の下に止めて村の坂道をあえぎながら登っていた時、いまどき田舎でも珍しいまるで歌舞伎の黒子みたいな黒装束の老婦人とすれ違ったので、''Hola''と気軽に挨拶をしたら, '' Vaya con Dios ''(バイヤ・コンデイオス) という返事が返って来たので、私は一瞬あっけにとられて、すたすたと坂道を下って行く老婦人の後姿をいつまでも眺めていました。

確かにむかしスペイン語の授業で、Vaya con Diosは古い言い回しの別れの挨拶である、と習ったのは記憶にあります。私がスペインで暮らしたのは、フランコがまだ生きていた時代を含めて10年近くになるのですが、一度もこの言葉を耳にしたことはありませんでした。その後も何回かスペインを訪ねていますが、実際にこの挨拶を聞いたのは今回が初めてのことでした。そのあとコーヒーを飲んでひと休みした時に、村のバーの主人に尋ねたら、まだ年配の女性の中には古風な挨拶をする人がいるんですよ、と笑っていました。
私は四国で瀬戸内海を眺めながらのんびり育ちましたが、夏休みが終わって東京の大学に戻るため汽車に乗ろうと家を出る時、もうその頃は腰の曲がっていた祖母が私を見上げながらいつも口にしたのは、「ほな、気いつけてなあー」でした。Vaya con Diosを耳にしたとき、あの伊予弁のちょっと間延びのした別れの挨拶を思い出したのです。

Grazalema


アンダルシアの人たちの人情の良さ、いわゆるホスピタリテイーについては随分いろんな人から聞いていましたが、私たちがある町で道に迷ってしまい同じところを車で堂々巡りしていたところ、それに気づいた年配の土地の人が自分の車は交差点に放ったらかしのまま小走りにやって来て、「とにかく俺の車にについて来い」と言って、ハイウエーの入り口まで先導して呉れたなどということもありました。
Los Pueblos Blancosは、名前が知られている割にはいわゆる観光ズレしている部分が余り目立たず、スペインの田舎の良さを感じさせて呉れた楽しい旅でした。

Veger

2007年12月1日土曜日

カタルーニャのロマネスク教会-(1)

Sant Pau del Camp教会



バルセロナ市の周辺にはロマネスク様式の教会が沢山ありますが、私がついカメラを向けたくなってしまうのは、11世紀から12世紀頃にかけて、ロマネスクの教会が各地にたくさん建てられた頃の雰囲気を今でも窺がわせて呉れる、質素でしかも小さな鄙びた教会です。そんな教会のいくつかを私のアルバムの中から拾ってご紹介してみようと思います。


Cloister of 13th century




まず第一回目は、バルセロナ市内にあるSant Pau del Camp教会です。
この教会は観光案内書にも載っていますので、ご存知の方もいらっしゃるかと思いますが、観光客でいつもごった返しているRambla通りから、西の方角に向かって10分くらい歩いた住宅地域にあります。
教会の名前はカタルーニャ語で「町外れの聖パウロ教会」という意味です。当初は修道院としてバルセロナ旧市街の城壁の外、つまり町はずれに建てられた為、それが呼び名に結びついたものでしょう。今ではアパートがびっしり立ち並んでいる教会の周辺も、その当時は一面に麦畑だったり、放し飼いの羊が群れていた人里離れた場所でした。今は目抜き通りになっているRamblaも、その頃は川だったそうです。

この教会の特徴は、バルセロナ市内では数少ないロマネスク様式を保つ古い教会だということ、それに加えて、今でも市民のための教会として活動を続けているということです。私の友人の一人も、むかしこの教会で結婚式を挙げました。


Cloister

この回廊の写真は今から7年前に撮ったものです。
Sant Pau del Camp教会はその頃は一般公開の時間がごく限られていて、訪ねても中に入れないことがよくありました。その日はちょうど10人くらいの年配の信者相手にミサが始まったところでしたが、この教会の見どころは回廊(13世紀の作)なので、すぐ忍び足で右横の扉をくぐり回廊に出て何枚か写真を撮りました。
回廊の内側は飾りに植木鉢がいくつか置いてあるだけの実に質素なもので、当時は観光に訪れる人も少なく、カメラのシャッター音と自分の靴音が気になるほど、実に静かな雰囲気でした。

ことしの春久しぶりで訪ねた時には、観光客用の入り口が新設されいつでも回廊を見ることが出来るようになっていました。ただし、入場料を取られるのはいいとして、あの質素な回廊の内側がまぶしいほど真っ白な割り石で一面に覆われ、石畳が見えなくなっていたのには驚きました。太陽光線にぎらぎら輝く割り石の床は、薄暗い回廊の雰囲気にそぐわなように思いますが、いったい誰が考えついたことなんでしょう。その意味では、私の古いデジカメ(Canon G2)の写真にも歴史的な価値があると思っています。

その起源を10世紀頃にまで遡る古い歴史を持つSant Pau del Camp教会は、バルセロナ市内で手っ取り早くロマネスク教会を見るには便利な場所です。

2007年11月1日木曜日

ブロッグ開設のご挨拶

スペインはむかし住んだことがあって少しは土地勘もあり、スペインに関してはある程度のことは知っていると自分では思い込んでいました。
ところが、今年の春グラナダの近くに住むスペインの友人を訪ねたおり、「近くに詩人のガルシーア・ロルカの墓があるけど見て行かないか」と言われて、松林の中にある質素な共同墓地に案内された時に私のよく知らないスペインが目の前にある、という感じがしました。
いや、もっと正確に言えば、私がこれまでは何となく気が重くてわざと目をそらせて来た内戦前後のスペインの歴史が、そこに埋まっているという感じでした。
その友人の話では、内戦の混乱にまぎれて確かな記録も残っておらず、果たしてその共同墓地にロルカの遺体があるのかどうか、DNA鑑定でもしなければ誰にも分らないとのことでした。
  
グラナダに出掛ける前に、偶然バルセロナで「戦争のニュース」というスペイン内戦前後のラジオニュースを編集したセミドキュメンタリー映画を見る機会があり、ロルカが殺された頃のスペインの左右激突の社会情勢が記憶にあったので、簡素な石の墓標に「ロルカだった、みんな」という墓碑銘が刻み込んである背景が、少しは理解できるような気がしたのでした。

それに加えて、グラナダの旅からバルセロナへ戻った頃に、「二十歳の戦争」という、共和国軍の一兵士としてテルエルの戦闘に参加した元大学教授の回想録を入手する機会があったりして、あれやこれやで今年になってから、「どうもスペイン内戦の歴史に引き寄せられているな」、という感じが強くするようになりました。

私はロマネスクの教会が好きで、これまでバルセロナの近辺で見かけるたびにその写真を撮って来ました。これらのロマネスクの教会はその千年近くの歴史の間に、きっと色々と血塗られた歴史も見て来たのには違いないでしょうが、カメラを通して覗くと今は苔むした佇まいしか目に付かず、ひんやりとした教会の中に一歩入ると、中は本当に静かで心の休まる思いがします。しかしスペイン内戦の歴史は、70年たった今日でもまだちょっと血の匂いが付き纏うような感じで、落ち着いてロルカの墓にカメラを向けるのは難しくて、シャッターを押すのをためらってしまいました。

このブロッグ開設を思い立ったのは、「二十歳の戦争」(La guerra a los 20 años)という、実にユニークな内戦の回想録を紹介したいと考えたことと、それを読み進むうちにスペイン内戦の歴史について私が学んだことや、今でも疑問に思っている事をいろいろ述べてみたいと考えたからです。そしてその合間に、私が訪れたカタルーニャ地方のロマネスクの教会などを、気軽に写真をまじえて紹介して行きたいと思っています。
  
歴史学の素養のない者が書くことゆえ、かなり大雑把な発言が多いとは思いますが、もし同好の士がおられるならば忌憚のないご意見をお伺いしたいと願っていますし、又もしも先達の方からのご教示が得られるならば誠に幸いです。