2010年7月18日日曜日

サンティアゴ巡礼路のロマネスク教会(1) - Spanish Romanesque Churches along ''El Camino de Santiago''(1)


スペイン全図(Map of Spain)クリックして画像拡大Click on the image to enlarge(For summary in English please see the end of this article)

ハカの大聖堂(The Cathedral of Jaca)

今年の3月から4月にかけて、フランス国境に近いハカ市からマドリッド北方のブルゴス市までの、サンティアゴ巡礼路沿いのロマネスク教会をいくつか訪ねる機会がありました。その中から特に印象に残った教会を、これから何回かに分けてご紹介しようと思います。



(Photo-1)中世の巡礼像(Medieval pilgrim in bronze)

ロマネスク教会とサンティアゴ巡礼
スペインでロマネスク様式の教会がたくさん建てられたのは、他のヨーロッパ諸国と同じく11世紀から12世紀のことですが、その同じ時期にサンティアゴ・デ・コンポステラの聖地を目指す巡礼者たちが、ヨーロッパ各地から大挙してピレネーを越えやって来るようになりました。正確な記録が残っているわけではありませんが、最盛期には20万人とも50万人とも言われるほど、とにかく膨大な数の巡礼者の集団が、毎年サンティアゴに向けて移動したと言います。

スペイン北西部のガリシア地方で、キリストにもっとも近い使徒のひとりとされる、ヤコブの遺骸が「発見」されたのは9世紀はじめのことで、サンティアゴ(聖ヤコブ)崇敬の巡礼はそのころに始まっていますが、それから200年を経てサンティアゴ巡礼熱がせきを切ったようにヨーロッパ全体に広まっていったわけです。

また11世紀は、8世紀のはじめころからイスラム勢力の支配下にあったスペインにおいて、はじめてスペイン北部のキリスト教諸侯が本格的な反攻に転じた時期でもありました。キリスト教勢力とイスラム勢力との戦いを、スペイン史ではレコンキスタ(再征服運動)と呼んでいますが、キリスト教徒軍が苦戦を重ねていた時代に、聖ヤコブ崇敬はヤコブの加護という考え方に発展し、白馬にまたがった聖ヤコブがイスラム軍を蹴散らすという類の奇跡譚が生まれます。そして聖ヤコブはスペインの守護聖人とみなされるようになりました。
キリスト教諸侯は、レコンキスタでイスラム諸王から奪い取った領土に入植をおし進める一方、自らの支配地に次々とロマネスク教会を建てていきます。教会建設は神に感謝しその栄光をたたえるためであると同時に、支配者の交代を知らしめる有効な手段でもあったわけです。

フランス国境からサンティアゴまでの800キロを越える巡礼の旅は、サンティアゴを訪ねるのが最大の目的ではありましたが、同時にその巡礼路に沿う有名な教会や修道院を訪ね、そこに納められている聖人の遺物に触れ、聖人のとりなしによって、罪のゆるしや病気の回復を願う声が聞き入れられるよう、神に祈る旅でした。フランス国境からパンプローナ、ブルゴス、レオンを経てサンティアゴにいたる巡礼路は、その途中に点在する各地の聖地をつなぐ聖地遍歴の道と見ることができます。

聖遺物に触れることで聖人の奇跡にあずかろうと、多数の人々がわれもわれもと先を争うようにして聖人の遺骸や遺品のある聖地におしよせた結果、サンティアゴ巡礼が急速に拡大したわけですが、同時にその巡礼熱がロマネスク教会やゴシック大聖堂建設の引き金にもなりました。

大聖堂を建てるには大変な費用がかかります。そして巡礼者による寄進は大事な財源のひとつでした。そんなわけで、教会の側もすこしでも多くの巡礼者をひきつけようと、いろいろ工夫をこらします。有名な聖人の遺骸や遺品のある聖地には巡礼がたくさん集まるため、それをめぐる争奪戦などもときにはあったようです。また、巡礼者の中には行く先々で仕事を見つけながら放浪に近い生活を送る者もずいぶんいました。そしてそのような巡礼者たちが、教会建設に必要な大量の未熟練労働者供給の役割を果たしたという面もあったわけです。建設機械も大型トラックもない中世では、大きな石を運びそれを積み上げてゆく作業は、人海戦術によるしかなかったからです。

サンティアゴ巡礼は9世紀ころからあったものに違いありませんが、それが11世紀にはいって急速に発展した背景には、巡礼熱がヨーロッパ全体に広がったことに加え、その受け入れ体制が整ってきたことがあります。すなわち道路、橋、宿泊場所、病人の治療施設(施療院)などが国王や地方領主、修道院などの手で整備されたこと、そしてどこでも通用する通貨が流通し始めたこと、などなどです。そしてインフラを整備して巡礼を呼び込むことは、スペインにはかり知れない大きな経済効果をもたらすことにもなったのでした。

11-12世紀すなわちロマネスクの時代は、それまでピレネーで隔たれていたスペインが、巡礼者の大挙来訪とともに北部ヨーロッパに繋がり、社会変動の大きなうねりがスペインにもやってきた時代でした。そしてそれはまた、イスラム勢力の支配がやがておわり、キリスト教勢力が再びスペインを支配するであろうことを、人々が予感し始めた時代でもありました。長いあいだ戦場だった丘で新しい教会のために石を刻む石工は、戦乱に倒れた
人たちのことを思い、平和が訪れた喜びをかみしめながら、のみをふるったことでしょう。スペインのロマネスク彫刻を見て私たちがしばしば感じる、形にとらわれないのびのびした描写、荒削りながら躍動するような生命力などは、まさしくこの時代の産物です。


(Photo-2)ハカ大聖堂の南側に面したメルカード広場(Plaza del Mercado, south side of the Cathedral)(クリックして画像拡大Click on the image to enlarge)

ハカの大聖堂
『サンティアゴ巡礼路のロマネスク教会』の第一回目は、巡礼路の重要な通過点のひとつ、ハカの大聖堂をとりあげることにします。ハカ(Jaca)市はアラゴン州北部のピレネー山脈のふもとに位置し、標高800メートル人口13,000人のこじんまりとした町です。ローマ時代からピレネー越えローマ道のスペインにおける玄関口として知られていましたが、8世紀にイスラム勢力がイベリア半島を制圧すると、早くからキリスト教徒勢力の数少ない抵抗拠点のひとつになり、11世紀にアラゴン王国が成立するとともにその首都になりました。そしてサンチョ・ラミレス(1042-1094)が、1063年に戦死した父の初代アラゴン国王(ラミロ1世)のあとを継いだころから、ハカはサンティアゴ巡礼者やオリエントの産物が、ヨーロッパとのあいだを行きかうピレネー越え交通の要所として、飛躍的な発展の時期をむかえることになります。

サンチョ・ラミレス王は、町づくりの一環としてハカ市に大聖堂を建てることに決めます。いつ建設が始まったのかその記録は残っていませんが、サンティアゴ・デ・コンポステラ大聖堂の着工(1075年)とほぼ同じころというのが通説で、スペインでもっとも古いカテドラルのひとつです。工事はいちど中断されたあと、それから半世紀近くたった1135年ころに完成しました。しかしそのときすでにアラゴン王国の中心はハカではありませんでした。時代の流れに取り残されたいささか不運な大聖堂といえます。しかし政治の中心から外れていたからこそ、ハカ大聖堂が数少ないロマネスクのカテドラルとして残ったことに、歴史の皮肉を見る思いがします。



(Photo-3)ハカ大聖堂(南側のメルカード広場からの眺め)South view of the Cathedral of Jaca(view from the Plaza del Mercado)(クリックして画像拡大Click on the image to enlarge)

スペインの大聖堂は、いずれも13世紀から14世紀にかけて、ロマネスク様式の建物を壊したりあるいは大改装をおこない、ゴシック風に建て直したものがほとんで、ハカのようにロマネスク建築の構造がそのまま残っているカテドラルは貴重な存在と言えます。しかしハカ市がアラゴン王国の中心であった時期はわずか数十年に過ぎず、そのご長い停滞の時期が続いたためか、カテドラルの改装もつぎはぎ的なものに終始し、その結果建物としての統一性が失われることになったのは残念です。



(Photo-4)正面入り口(Portico, main entrance)クリックして画像拡大Click on the image to enlarge

(Photo-5)正面扉(Main door)(クリックして画像拡大Click on the image to enlarge)

教会の正面入り口は西向きの巨大な洞窟のようなポルチコの奥にあり、カテドラルとしてはあまりほかに例を見ない、独特の雰囲気を持っています。天井は初期ロマネスク建築の特徴である半円筒形の石天井です。


(Photo-6)正面入り口の浮き彫り(Tympanum of the main door)クリックして画像拡大Click on the image to enlarge)

正面扉の上の半円形の浮き彫り(この部分をタンパンと呼びます)は、キリストの頭文字のふたつXとPを組み合わせた紋章を、2頭のライオンがとり囲んでいます。ライオンはイエスの復活を象徴する動物とされており、ひじょうに象徴的な色彩の濃い絵柄です。この「キリストの銘」と呼ばれる紋章を教会入り口のタンパンに彫りこむ習慣は、その後アラゴン地方各地の教会で踏襲されることになります。


(Photo-7)教会中央部(身廊)から祭壇方向を見る(View of central altar from the nave)(クリックして画像拡大Click on the image to enlarge)

ポルチコの奥にある正面扉をあけ教会内に一歩足を踏み入れると、強い日差しになれた目には教会の中は真っ暗で、フラッシュを持たない私はあわててしまいました。田舎の教会では賽銭箱にコインを入れると数分間照明がつくことを思い出し、入り口近くにそれらしき箱があったので1ユーロ・コインを入れましたが、いっこうに照明がともる気配はなく、2ユーロ、3ユーロとつぎつぎコインを入れても暗闇のままで、どうしたらいいかと頭を抱えていたところ、通りかかった人が「それ、壊れているんです」と教えてくれました。「そんならそうと、張り紙でもしておけばいいものを」とくやしがりましたがあとの祭り。よくよく見るともうひとつ似たような箱がその隣にあったので、ポケットに残っていた1ユーロ・コインをねじ込むと、ぱっと教会内が明るくなりました。目も大分なれてきたので大急ぎでシャッターを押し続けましたが、あっという間に教会内はまたうす暗がりに戻ってしまいました。大聖堂でコイン照明とはずいぶんな節約ぶりだなと思いましたが、ハカの大聖堂は維持費のやりくりにひと知れぬ苦労があるのかもしれません。

正面にパイプオルガンや祭壇が見えますが、この部分は18世紀末の大改装ですっかりようすが変わってしまった部分です。天井は16世紀の改装でゴシック様式になりましたが、もともとは木組みの天井だったようです。11世紀スペインの建築技術では、これだけ広い天井を石組みにするには不安があったのでしょう。ロマネスク教会にはそぐわない箇所も目に付きますが、しかし教会のベンチに座り、ぶ厚い壁、どっしりとした大きな円柱、その柱頭の彫刻、アラバスター大理石張りの窓などを、薄暗がりの中でしばらく見上げていると、やっぱりこれはロマネスクの大聖堂だなとしみじみ思います。写真-7は身廊(入り口から祭壇の手前あたりまで)に焦点をあわせていますが、この身廊の左右には平行して側廊と呼ばれる部分があり、ロマネスク教会でおなじみの三廊構成になっています。



(Photo-8)身廊と翼廊の交差部分(Intersection of nave and transept) クリックして画像拡大Click on the image to enlarge   

(Photo-9)円蓋(Dome)(クリックして画像拡大Click on the image to enlarge)

ふつう教会の平面図を見ると十字架形をしたものが多く、十字架の下半分にあたるのが身廊で、それと直角に交わる水平部分を翼廊と呼びます。そして身廊と翼廊が交差するいわば十字架のかなめの部分を半円形の石天井にするのが、ロマネスク教会でよく目にする構造です。ハカ大聖堂は典型的な十字架形ではありませんが、身廊と翼廊が交差する箇所は切り石を積み重ねた8辺のドーム状の円蓋に仕上げ、4本のアーチで下から補強してあります。この円蓋はスペインのロマネスク教会ではもっとも古いものとされ、ロマネスク建築の教科書でよく紹介されるものです。



(Photo-10)南の後陣(South apse, view from south isle) (クリックして画像拡大Click on the image to enlarge) 
     
この写真は、右の側廊から南の後陣の方向を眺めたものですが、突き当たりに窓がありその手前に祭壇をそなえた小さな礼拝堂が見えます。祭壇から祭壇のうしろが外に向かって半円形に突き出している部分を後陣またはアプスと呼びますが、この南の後陣のあたりが、教会創建当時の姿をよく伝えるものとされています。


(Photo-11)南入り口の柱廊玄関(South portico facing the Plaza del Mercado)(クリックして画像拡大Click on the image to enlarge)

(Photo-12)南扉(South door)(クリックして画像拡大Click on the image to enlarge)

教会の入り口にはもうひとつ、メルカード広場に面した南扉があり、17世紀に扉の前に写真のような柱廊玄関が設けられました。いまは取り壊されてしまったロマネスク時代の回廊の石柱を再利用したもので、7本の柱頭にそれぞれ彫刻がほどこしてあります。中でもこの南扉の右手の石柱に彫りこんである、旧約聖書「イサクの犠牲」を題材にした柱頭彫刻が有名です。



(Photo-13)イサクの犠牲の柱頭彫刻(Capital of Sacrifice of Isaac)(クリックして画像拡大Click on the image to enlarge)

Photo-14)アブラハムとイサク(Abraham and Isaac)(クリックして画像拡大Click on the image to enlarge)

旧約聖書『創世記』にある、アブラハムが、ひとり息子のイサクを犠牲にせよとの神の命に従い、今にも刃をふりおろそうとした瞬間、天使が現れアブラハムの手をおさえた、という話に題材をとり、わずか数十センチの柱頭のスペースにその場面を刻み込んだものです。作者についての記録がまったく残っていないため、マエストロ・デ・ハカと呼ばれている石工の作品ですが、このほかにも同じ作者の彫刻と判断される作品がいくつか近郊の教会で見つかっており、腕のよい石工だったことがうかがわれます。ロマネスクの時代は、優秀な石工は彫刻家であり、場合によっては建築家でもありました。

この「イサクの犠牲」はたいへん劇的な場面でありながら、聖書にはイサクの年齢その他につき詳しい記述がないため、ラファエロ、カラヴァッジオ、レンブラント、シャガールなど、数多くの古今の画家がそれぞれの解釈でこの場面を描いています。マエストロ・デ・ハカの作品は、イサクの脚の筋肉のつきぐあいなどから、少年というより若者に近いように見えます。



(Photo-15)中央の後陣外観(Central apse) (クリックして画像拡大Click on the image to enlarge)  
 
これは中央祭壇のうしろが半円形に張り出した部分、すなわち中央の後陣を外から見た写真です。18世紀末の祭壇部分の拡張工事でロマネスク様式の後陣が取り壊され、その建材を一部は活用したものの、創建時の後陣とは似ても似つかぬかたちに改装されてしまいました。担当した建築家の見識を疑いたくなりますが、施工者(教会幹部)が実用一点張りの無茶な注文をつけた結果なのかも知れません。



(Photo-16) 南の後陣外観(South apse)(クリックして画像拡大Click on the image to enlarge)

写真(16)は南の後陣を外から見た写真です。となりの中央後陣に押し潰されそうな感じですが、創建時からのロマネスク様式を保つその端正な姿は魅力的です。近くでよく見ると窓のまわりや軒したに紋章や動物の絵柄が彫り込んであります。



(Photo-17)南後陣の軒した部分拡大像(Cornice of the south apse)(クリックして画像拡大Click on the image to enlarge)

写真17は、南の後陣の軒を支えているように見える、「軒持ち送り」といわれる装飾部分を中心に拡大した写真です。風化がはげしく下から見上げるだけでは、なにかの動物が彫ってあるということしか分かりません。軒や窓の周辺には、長方形の切り餅をならべたような装飾が施されていますが、これはハカのチェス模様、ハカのサイコロ模様などと呼ばれるハカ大聖堂特有の模様です。

今回このBlog記事を書きながら、自分で撮った写真をゆっくり見直してみて感じるのは、ハカ大聖堂はロマネスク様式の構造が期せずして残ったユニークなカテドラルだ、ということです。もしハカ市がずっと長いあいだアラゴン王国の中心でありつづけたら、たぶんロマネスクの古い建物は壊され、ゴシックやさらにはバロック風の装飾過多の大聖堂になっていただろう、という気がします。今回ハカを訪問して、教会の予算がかぎられており、聖堂の補修も思うにまかせないのが実情かもしれないとの印象を受けましたが、独特の雰囲気を持つハカのロマネスク大聖堂が、こんごとも長生きしてほしいものと願っています。

ところで、聖ヤコブ殉教の日である7月25日が日曜日にあたる年は、サンティアゴ教会の聖年と定められており、ことし2010年はその聖年にあたります。最近はサンティアゴ巡礼者が毎年増える傾向にあること、そして聖年にはとくにそれが急増するため、ことしは前回の聖年(2004年)に記録した巡礼者数18万人を上回り、20万人をこえる巡礼者がサンティアゴを訪れるのではないかと見られます。なおこの数字はサンティアゴ教会で巡礼としての証明を受けた人のみを指しており、観光・商用目的などでサンティアゴを訪れる人の数は、1,000万人という膨大な数字になるそうです。

(Summary of the article)

During the last March and April I had a chance to visit several Romanesque churches along the pilgrimage route in northern Spain called ''El Camino de Santiago, or The Way of St James ''.
El Camino de Santiago has been registered in the UNESCO's World Heritage List since 1993.
In several articles of this Blog I'll introduce some of the churches which have impressed me most.

''El Camino de Santiago''
The Way of St James, is a collection of old pilgrimage routes which cover all Europe with Santiago de Compostela as final destination. The legend says that in early 9th century the remains of Saint James(Santiago in Spanish) were discovered in Galicia, north western region of Spain. The locals started pilgrimage to Santiago more than 1,000 years ago, but it got a big boost during 11th century and further during 12th and 13th century at the time of the Crusades. Pilgrims from all over Europe, mostly French, started arriving Santiago in hundreds of thousands crossing the Pyrenees every year.
Many Romanesque churches and monasteries were constructed in Spain during that time along the 800 km pilgrimage route which stretches from French border to Santiago.

The 11th century was also the time when Christian lords of northern Spain started effective counter attacks against Muslim rulers who had occupied most part of Iberian Peninsula since 8th century. The movement by Christian lords to regain lost territory to Muslims is called ''Reconquista'', which lasted 7 centuries. During the course of the ''Reconquista'' adoration of Santiago created an image of the Saint as guardian of Christian Spain who would bring the victory in the war against Muslims. Santiago later became the Gurdian Saint of Spain. During 11th and 12 century Christian lords also constructed many Romanesque churches in territories which they had regained through the Reconquista. It was for the glory of the Lord but it also served to show the change of rulers in the recaptured land.
In Spain 11th and 12th century Romanesque era was the time of great changes.

The Catheral of Jaca
The Cathedral of Jaca is the first of the Blog articles series titled ''Romanesque churches along the route of El Camino de Santiago''. The city of Jaca is located in the highland of northern Aragon region. With 30 km from French border across the Central Pyrenees Jaca has been an important strategic point since the Roman era.
With the creation of Aragon Kingdom in 11th century Jaca became its capital and the King Sancho Ramirez(reign 1063-1094) who succeeded his father, the first king, decided to construct a new cathedral. The start of the construction is believed to be at the same period of the cathedral of Santiago(1075). The Romanesque cathedral of Jaca is one of the oldest cathedrals in Spain. It's also one of the few cathedrals which keep Romanesque structure, while most of the Spanish cathedrals have been reconstructed or reformed in Gothic style during 13-15th centuries

Photo 4) & 5)show the huge cave-like portico with the main church door at the end of it. The ceiling of the portico is of barrel vault which is common among early Romanesque churches.

Photo 6)The tympanum above the main door is decorated with a crest symbolising the Christ(combination of letters P & X) which is surrounded by 2 lions. This pattern are often found in other churches of Aragon region.

Photo 7) Once inside the church it was very dark. A coin operating light switch box which,I thought it was, was found next to me. With 1 euro coin inside the box nothing happened. With the 2nd and the 3rd coin the same. When I was becoming desperate, someone passed by and told me that the switch box had been out of service! Quickly found another box and tossed the last euro coin in it, then the church was illuminated. After shooting frantically as quick as I could, maybe for a few minutes, the light went off once again.
The photo 7) shows that the main altar area has suffered significant changes by the reform of late 18th century. The Romaneque style central apse was expanded to make room for a choir with Baroque decoration.

Photo 8) & 9) show the famous dome of Jaca, the oldest Romanesqe cupola in Spain. This dome is cited in many books on Romanesque churches.

Photo 10) is the view of the south apse shot from the isle. The apse has a small altar and it keeps original Romanesque style.

Photo 11 & 12)The church has another door on the south side facing the Plaza del Mercado. The portico on the photo was constructed in 17th century using old columns taken out of the Romanesque corridor of the cathedral which had already been a ruin at that time. The door keeps original decoration except for the tympanum which has apparently lost a part of original carving during later repairs.

Photo 13, 14)The most famous is the capital called ''Sacrifice of Isaac'' which is part of a column attached to the right side of the south door. The story comes from the Genesis 22:1-24 (Hebrew Bible) in which Abraham raised a knife to sacrifice his only son Isaac obeying the God's order, when an angel appeared and held Abraham's hand.The carver is called ''Maestro de Jaca'', because nothing is known of him. It's one of the master pieces of Maestro de Jaca.

Photo 15) is the outside view of the central apse which was reformed in late 18th century. This unusually huge central apse unfortunately remains out of proportion in relation to the rest of the church.

Photo 16)The external view of the beautiful south apse which retains the original shape of Romanesque era. The south apse gives us an idea how it should have been the original central apse. It's unfortunate that the Romanesque central apse has disappeared. The north apse has remained in ruin for some time.

Photo 17) is a close up of the cornice area of the south apse. Modillions are all worn and looking from the ground we can only tell that figures of animals are carved. Cornices and windows are decorated with small square shaped stones. This is called chess or dice pattern of Jaca.

Whenever St James's day (25th July) falls on a Sunday, the cathedral of Santiago de Compostela declares it a Holy Year. Consequently 2010 is the Holy Year. The Holy Years fall every 5 up to 11 years: the most recent one was 2004 when 180,000 pilgrims were certified by the Cathedral. Since the number of pilgrims are increasing every year, it is expected 2010 will surely break the record of 2004.

2010年5月15日土曜日

ミケル・シグアン氏の訃報(Dr. Miquel Siguan died at 92.)

ミケル・シグアン氏の訃報(Dr. Miquel Siguan has passed away at 92)
(Please see the summary in English at the end of this article)

(Dr.Miquel Siguan Feb,2008)

5月10日の朝、『二十歳の戦争』(スペイン内戦回想録)の著者ミケル・シグアン氏が92歳で亡くなった、との報せを電話で受けました。ちょうどそのひと月まえにバルセローナで同氏にお目にかかり、90歳を過ぎても老眼鏡なしで新聞を読み、パソコンに向かって著作活動を続けているシグアン氏の姿を目にしていただけに、一瞬絶句してしまいました。

5月10日付けのバルセロナのLa Vanguardia紙に、「さようなら、シグアン(Adiós, Siguan, adéu)」と題する追悼記事が載りました。その趣旨は、「ミケル・シグアン氏は、フランコ独裁の終焉にともないカタルーニャが自治を回復していらい、今日に至るまでのカタルーニャ文化の現実、すなわちカタルーニャ語とスペイン語の並存という、複数言語共存モデルの生みの親である。同氏は言語心理学者としての実証研究に基づき、分離主義者の主張に抗して多言語の共存モデルを支持すると共に、学校教育におけるカタルーニャ語とスペイン語の統合を説いた。シグアン氏は科学的結論にはこだわるが、道徳の原則以外にはいかなる主義にもとらわれず、わが道を行くタイプの人であった」と、その業績と自由闊達な言動に触れ、異文化の共存を軸とするカタルーニャ社会のあるべき姿を示唆した学識と良識の人、ミケル・シグアンの死を悼む内容になっています。

国内に複数の言語圏を抱える国の難しさは、カナダに住みケベックでの分離独立の動きを目にしてきた私には想像がつきます。カタルーニャの人たちがその固有の言語や歴史にこだわり、徹底して自治を追求しようとする姿勢には、まるでそれが遺伝子に刷り込まれているかのような感じがあります。そして、なぜそうなのかは、すこしカタルーニャの歴史を辿ってみれば私にも分ります。しかしそのこだわりの姿勢が、一歩まちがえば偏狭なカタルーニャ優先主義、別の言い方をすれば排外主義に陥ってしまう危険をはらんでいるように思えてなりません。

カタルーニャの外からは「このままでは、やがてカタルーニャでスペイン語が通じなくなる日が来るのではないか」という、いささか現実ばなれした批判が寄せられる一方、「いまカタルーニャ語の使用を強制しなければ、カタルーニャ語は滅びてしまう」という声をバルセローナでよく耳にします。フランコ独裁体制の数十年間、カタルーニャ語使用に制約を受けた記憶を持つ世代には、そんなせっぱ詰った発言が目立ちます。

しかし、2006年制定のカタルーニャ新自治憲章に定める「カタルーニャの公用語はカタルーニャ語とスペイン語である」という二つの公用語の原則は、州民投票でも支持されたものであり、言葉の問題を含め、カタルーニャ生まれでないスペイン人や、外国人に向けても開かれた社会を目指すのが、カタルーニャの永遠の課題ではないでしょうか。そしてそれこそシグアン氏が常に説いておられたことではないか、と思います。

多分に感情的なカタルーニャ語滅亡論に対して、シグアン氏は「不滅の言語というものはない。ただそれが何十年単位の話なのか、それとも何世紀単位の話なのか、その違いだけだ」とつぶやくように語られたことがあります。この世のものは全ていつかは滅ぶ、という歴史の大きなうねりを見通したうえでのつぶやきだったと思います。
シグアン氏が亡くなられたと聞き、あのときお尋ねしておけばよかった、と思うことがいろいろ心に浮かぶこの頃です。

(Summary of the article)
Dr. Miquel Siguan, ex-dean of the Department of Psychology of the University of Barcelna, died at the age of 92 in Barcelona. He was one of the pioneers of the modern psychology studies in Spain and the author of 27 books. One of them is ''La guerra a los 20 años''(The war at 20 years), a memoir of a young soldier who was drafted in late 1937 by the Republican army during the Spanish Civil War(1936-1939) when he was a philosophy student at the University of Barcelona. The book was published first in Catalan in 2002 and later in Spanish. Thanks to the help of Yoshihiko Uchida, my friend and co-translator, the Japanese version of this memoir was published in September, 2009 in Japan through the Chusekisha, a publisher in Tokyo..

In the morning of May 10(Sun) we got a phone call from Barcelona informing us about the death of Dr. Siguan. Joaquina and I were shocked with the news, because we had met Dr.Siguan in Barcelona in April when he was soon turning to 92. In spite of his advanced age he could read a newspaper without glasses and was still active in writing contributing often articles to La Vanguardia, Barcelona newspaper, as well as for his own blog. (siguan.blogspot.com).

La Vanguardia published an eulogy dated May 10th praising Dr. Siguan as one of the fathers who established co-existence models of Catalan and Spanish language in Catalonia during 70’s and 80’s when Spain was facing transition from Franco’s dictatorship to a democratic state. Dr. Siguan as a psycholinguist studied and brought to Catalonia the Quebec's experience in multilingual education. La Vanguardia also praises that he was always committed to the science and basic moral principles but was free from any dogmatic thinking.

Having lived myself in Canada for some time and have seen the separatist movement in Quebec, I can tell the difficulty of a country with more than one official languages where the word ‘’autonomy’’ or the language easily becomes an emotional issue.
During our annual visit to Barcelona in winter we often hear ‘’Catalan language would die, if it were not forced to use’’ while outside of Catalonia some people say ‘’Soon the Spanish will not be spoken in Catalonia’’, naturally an exaggeration.

With a quick review of the history of Catalonia we can understand why Catalan people give such an importance to the notion of uniqueness of Catalonia and its heritage. But I’m a little bit concerned that giving too much weight on ‘’uniqueness of Catalonia as a nation and use of Catalan language’’ might ending up creating a society comfortable for original Catalan speakers but not for anybody else in spite of the 2006 Statute of Catalan Autonomy which defines clearly the Catalan and Spanish are both official languages of Catalonia.

I believe the future of Catalonia will lie in the effort of all people toward promoting co-existence of languages in Catalonia and creating a society open also to non Catalan speakers which, I believe, was advocated by Dr.Siguan.
To the emotional comments such as ‘’Catalan language would die’’ I would respond next time that all are mortal in this world including languages as a matter of centuries. This concept I learned from Dr. Siguan during our latest conversation.
At the news of his death many questions occur to my mind which should have been asked him in April.

2009年12月17日木曜日

スペイン内戦を記録した写真家Agustí Centelles

Agustí Centelles - Spanish photographer called ''Robert Capa of Spain''(for the summary in English please see the bottom of this page)




スペイン内戦の写真家Agustí Centelles
スペイン内戦の写真家と言えば、大半の人はまずキャパ(Robert Capa 1913–1954)の名前を思い浮かべることだろうと思います。しかしカタルーニャの写真家アグスティ・センテーリャス(Agustí Centelles 1909-1985)は、撮影した写真の量においてもまたその質においても、キャパに勝るとも劣らない内戦の記録を残した人でした。

12月1日のスペイン各紙に、「Centellesの全作品、スペイン文化省が家族から70万ユーロで買い上げ」(現行レートで約9千万円)というニュースが載りました。1万枚を越えるネガフィルムは、そのほとんどが1930年代後半のスペイン激動の時代を記録した写真ばかりです。

Centellesは1909年にバレンシアで生まれ2歳の頃にバルセローナに移っています。家計を助けるため11歳で働き始め、学校に通ったのは一年ぐらい、あとは全て独学の人でした。子供の頃から写真に興味を持ち、新聞社のグラビア印刷部門でしばらく働いたあと、18歳でバルセローナの報道写真家Jopsep Badosaに弟子入りして写真家としての腕を磨きます。そして25歳(1934年)の時、分割払いで買ったライカ一台を手に報道写真家として独立しました。

Leica IIIa, the most popular Leica in 30’s & 40’s.(Centellesが最初に買ったと推測されるLeicaIIIの改良型(外見は変わらず)

Leicaが変えた報道写真
1920年代と30年代は、新聞がグラビア印刷を取り入れたり、米国のLife誌など写真主体の新しい週刊誌が誕生したりで、世界的に報道写真という新しい写真の分野が花開いた時期でした。

それにあわせるようにカメラの世界でも技術革新が進みます。1925年に第一号機が発売されたLeicaは、ボディーは堅牢な金属性、コートのポケットに入る小型サイズながら、既存の映画用35ミリ・ロールフィルムの採用により36枚の連続撮影ができること。またレンズ交換が可能で新聞写真サイズに引き伸ばせる解像度を持つ交換レンズが開発されるなど、従来のカメラのイメージを一変させる革命的な製品でした。そしてドイツの写真機業界では後発だったLeitz社を、一挙に小型カメラ業界のリーダーに押し上げた、ヒット商品でもありました。

第一次大戦の写真を見ると、戦場の兵士達はカメラの前でポーズをとっています。これは当時のカメラは三脚に固定し静止した被写体を撮るものだった、という技術的な制約もあったのでしょうが、肖像写真が主だった時代の写真観の反映でもあると思われます。

しかし高感度ロール・フィルムの開発と、ポケットに入れてどこにでも持ち運べるLeicaの登場により、動く被写体を追いかけるようなダイナミックな写真の撮り方が可能になります。そしてそれをスペインの戦場で実証したのがCapaやCentellesでした。
Centellesはスペインで最初にライカを使い始めた写真家の一人ですが、当時の新聞の編集者の中には、「そんなおもちゃみたいなカメラでは」と、頭から拒否した人もいたそうです。写真を一枚撮るたびにフィルムを差し替える必要のある大型カメラが、プロの道具と考えられていた時代の話です。




Centellesの代表作
La Fábrica社出版のスペイン写真家叢書(Biblioteca PhotoBolsillo, Madrid, 2006)の第15巻で、Centellesの主な作品が紹介されていますが、その表紙に使われている写真が彼の代表作のひとつです。
これは1936年7月19日にバルセローナ市内のDiputación通りで撮ったものとされていますが、共和国政府に対しクーデターを企てたフランコ派の反乱軍兵士を相手に、倒れた軍馬を盾に銃撃戦を展開している突撃警察隊員(guardia de asalto)の写真です。この日Centellesはライカを手に終日バルセローナ市内を駆けめぐり、反乱軍の決起から降伏までの激動の一日を記録しています。

(Photo:courtesy of © Agustí Centelles, VEGAP)Anarchist soldiers leaving for Aragon front(Barcelona,July-1936)
バルセローナからアラゴン戦線に向かうアナキスト民兵部隊(1936年7月)

1936年の夏、Centellesは前線に向かう民兵部隊と共にフリーランスのカメラマンとしてアラゴン戦線に赴き、初期の民兵部隊の戦いを撮りました。1937年には共和国軍兵士として召集されますが、Centellesが手にしたのは銃ではなくカメラでした。東部方面軍政治コミサール本部所属の写真課員として、引き続きアラゴン戦線での戦闘や銃後のバルセローナの模様を記録しています。



(Photo:courtesy of © Agustí Centelles, VEGAP)Victim of air-raid by Franco’s forces(Lerida Nov 2, 1937)フランコ軍によるレリダ市空爆の犠牲者(1937年11月2日)
Centellesは、戦意高揚や宣伝用のいわゆるプロパガンダ写真を撮らざるを得ない立場にありました。しかし共和国軍の写真課員として各地を飛び回るなかで、この夫の遺体を前に号泣する夫人の写真のような、見る者の心を打つ作品をいくつも残しています。この写真も彼の代表作のひとつです。
Centellesは、「死者の写真はクリーンに撮らなくてはならない」とよく口にしていたそうです。報道写真家は死者を悼む気持ちを失ってはいけない、と自らを戒める言葉でもあったのでしょう。
1937年から1938年初めにかけて、北はアラゴン州のピレネー地方から南はテルエルまで、各地の戦闘に従軍したCentellesは、バルセローナに呼び戻され、1938年4月付けで防諜組織の軍事情報局(SIM)所属の写真室長に就任します。実際にどんな業務だったのか詳しいことは分りませんが、のちにフランスに亡命しBramの強制収容所で書きとめた日記を中心とする『ある写真家の日記』(Diario de un fotógrafo, Ediciones Península, Barcelona, 2009)の中で、当時の状況に少し触れています。それから推測すると、フランス亡命に至るまでのバルセローナでの10ヶ月間は、街に出て報道写真を撮るよりも、むしろ内向きの仕事が多かったようです。


『ある写真家の日記』-フランス亡命の記録

(Photo:courtesy of © Agustí Centelles, VEGAP)The Concentration camp at Bram(Aude)ブラムの強制収容所

1939年1月26日のバルセロナ陥落の前日、Centellesは妻と1歳半の長男を父親に託し、写真機材と数千枚にのぼる内戦のネガフィルムを入れた旅行カバンを抱えてフランス亡命の旅に出ます。40万人を越える避難民が殺到して大混乱の国境をやっとの思いで通り抜けましたが、すぐフランス官憲の手で悪名高いアルジュレス(Argèles-sur-Mer)の強制収容所に送りこまれてしまいました。そして一ヵ月後の3月初め、アルジュレスからさらに120キロぐらい内陸に入ったオード県ブラム町(Bram, Aude)の強制収容所に移されます。

Bramは中世の城壁都市として有名なCarcassonneから20キロぐらい西にあり、そこに新設された強制収容所には15,000人から17,000人ぐらいのスペイン人亡命者が収容されました。新設とは言っても、一戸あたり100人を収容する25m x 6mサイズの木造宿舎170戸を、鉄条網で囲んだだけのもので、暴動などを警戒してのことでしょうが、宿舎は15戸(収容者1500人)ごとに鉄条網で区切られ、お互いの行き来には制限があったようです。床に藁を敷いたものがベッド代わりで、暖房はむろんのこと電気もなく、写真で見ると宿舎というよりまるで大きな馬小屋という感じです。

Centellesの日記は1939年1月12日付けでに始まり、バルセローナでの生活ぶりと、家族を置いてひとりフランス亡命の旅に出る悩みを吐露した部分を含んでいます。しかし日記の中心は半年におよぶBram収容所での日常生活の描写です。将来の不安と寒さにさいなまれ、雑居生活に神経をすり減らしながら、バルセローナに残してきた家族のことを思うCentellesの心境や、苛立つ収容者たちがつまらぬことで言い争いを始めたりする姿が、いきいきと描かれています。
Centellesは収容所の中でも写真を撮り続け、有料で警護の警察官や仲間の肖像写真を撮っては、食費の足しにしたこともあったようです。

こんなBramでの生活が半年ばかり続いたあと、運よくCarcassonneのある写真館での仕事が舞い込み、Centellesは1939年9月初めに出所することができました。フランス軍に召集された写真館主の代役として忙しい毎日を過ごしているうちに、フランスは1940年6月末からナチスドイツの占領下におかれてしまいます。そしてやがて始まったレジスタンス運動にCentellesも協力することになり、写真館の地下に秘密の写真ラボを設け、身分証明書の偽造作成などを手伝いました。

しかし1944年1月、ナチスドイツ秘密警察(GESTAPO)の手でCarcasonneのレジスタンス運動関係者の一斉検挙が行われ、Centellesが親しくしていた友人たちもナチスの強制収容所送りになりました。そしてCentellesにもGESTAPOの手が伸びる恐れが出たため、スペイン警察に逮捕されるのを覚悟で、バルセローナに逃れる決心をします。
Centellesは、フランス亡命いらい片時も離さなかったネガ入りの旅行カバンをCarcassonneの下宿先の家主に預け、1944年4月ひそかにバルセローナ市に戻りました。そして家族と合流のうえ、親戚を頼ってタラゴーナ県レウス町に移り住み、パン屋の手伝いをしながら、一家揃って目立たないようにひっそりと暮らします。

内戦直後の混乱した世情が落ち着いたころを見計らって当局に自首し、1947年にはバルセローナに引っ越すことができました。しかし、報道写真家として活動することは認められず、当時38歳のCentellesは宣伝写真などを手がけながら商業写真家として生きてゆくしかありませんでした。

1万枚のネガ
1975年の独裁者フランコの死と共にスペイン民主化の動きが始まったのを見届けたCentellesは、1976年にCarcassonneに出向き、預けてあった数千枚のネガを全て持ち帰ります。こうして内戦の記録を含むCentellesの写真はぶじ散逸を免れたわけですが、1976年に始まったスペインの民主化が、なるべく過去の問題にはお互いに触れないようにしよう、内戦の記憶は封印しよう、という当時の風潮の中で進んだこともあり、Centellesが時には命を賭けて撮り、フランス亡命中も肌身離さず保管した、内戦の記録に対する世間の関心はいまひとつ盛り上がりませんでした。Centellesとその家族にとっては割り切れない思いだったろうと推測します。

Centellesを「スペインのCapa」と呼ぶときには、「世界的に有名なCapaに似た写真家」という理解がその裏にあるような印象を受けます。しかしCentellesはCapaの亜流ではなく、優れた報道写真家でした。ただスペイン内戦に限って言えば、Centellesは戦争を地道に記録した人であり、Capaは戦争に人間のドラマを見出した人だった、という違いを感じます。

Capaは限られた取材日数の制約の中で、ドラマ性のある写真を求めるジャーナリズムの期待に応える必要がありました。そして見事にその期待に応えたCapaにはほんとうに感服します。
しかし、兵士たちと寝起きを共にしながら戦場で撮ったCentellesの写真には、ホテルから車で戦場に駆けつける外国人のCapaには撮れないものがありました。それがCentellesの写真の魅力のひとつだと思います。

最近の新聞報道によると、カタルーニャ自治政府(Generalitat)の一部の人たちは、本来カタルーニャの文化遺産であるべきCentellesのネガを、家族がスペイン中央政府にカネで売り渡したと非難しているそうです。それに対する家族の言い分は、「Generalitatに本当にその気があるなら25年間も時間があった筈だ。しかし、Generalitatはけっきょく何もしてくれなかった。中央政府が買い上げるという話が出たので、急に名乗りをあげただけだ。しかも中央政府とは違って、これから写真をどう公開してゆくつもりなのかGeneralitatには何のアイデアもない。」と反論しています。

Centellesの家族にしてみれば、Christie’sなどオークション会社経由で高い値段で売却する道もあった筈ですが、作品の公開という点を重視し、スペイン政府文化省に譲渡することに決めたのは立派な見識だと思います。もし事実が報道の通りなら、カタルーニャの一部の人たちの批判は、ちょっと的はずれという感じがします。

ともかく貴重な内戦の記録が、コレクターの手に落ちることもなくスペイン政府の手に渡り、こんご一般公開が進む可能性が出てきたのは喜ばしいかぎりです。現状ではひとつひとつの写真についてのデータの整理が不十分のようで、同じ写真でありながら違ったタイトルがついたり、付記される撮影場所や年月日が異なったりするケースを見かけます。これを機会にCentellesの伝記の編纂や、全ての作品についての考証作業が進み、新しい写真集の出版が実現することを願っています。

Centelles生誕百年の今年は、スペイン内戦終結七十周年であると同時に、フランスの強制収容所開設七十周年でもあります。そんな背景もあってのことでしょうが、収容所のあったBram町で最近Centellesの作品展が開かれました。フランス人にとっては余り思い出したくない記憶でしょうが、ちゃんと過去の歴史に向き合おうとする姿勢に敬意を表します。

またスペイン政府の後押しでCentelles国際報道写真賞を創設する構想もある由で、「スペインのキャパ」ではなく、「スペインの報道写真家、Agustí Centelles」が、世界に知られる時代が来ることを期待します。


Agustí Centelles - Spanish photographer called Robert Capa of Spain
(Summary)
Agustí Centelles(1909-1985),a Spanish photographer famous for his photos of the Spanish civil war(1936-39),is often called ''Robert Capa of Spain''.
The Spanish press reported in early December that the Spanish Ministry of Culture had agreed to buy the Centelles’s entire collection of 10,000 photos, mostly of the Spanish civil war era, from the family at 700,000 euros.
According the press some members of the Cataluña’s autonomous government (Generalitat) have bitterly criticized the decision of the Centelles family for selling the photo collection to the Spanish central government alleging it’s a cultural heritage of Cataluña. The family reportedly responded to it saying that the Generalitat had 25 years, if they had really wanted to acquire it indicating also that the Generalitat had ignored the family’s plea of assistance in the past for safeguarding of the collection.

Agustí Centelles was born in Valencia in 1909 but moved to Barcelona at 2. He started the career as professional photographer at 18 as an assistant to Josep Badosa, a popular photographer at the time in Barcelona. In 1934 at the age of 25 Centelles started on his own with a Leica which he had bought on installments. He was one of the first Spanish photographers who used Leica when the majority of professionals were relying on large format cameras.

The Leica camera which was developed by Leitz in 1925 has changed the way of taking photos. Robert Capa and Agustí Centelles proved that a small and versatile 35 mm film camera (‘’like a toy’’ for some traditional press people) could make brilliant photos of the war.

On July 19, 1936, the day of failed military coup in Barcelona, Centelles took the famous photo of 3 militias in urban police uniform(Guardia de Asalto) who were exchanging fire with the rebels with dead horses used as barricade.

As a free-lance war photographer he then followed militia groups, mostly anarchists from Cataluña,who went to the Aragon front to fight against rebel forces led by general Franco. In 1937 Centelles was drafted by the republican government and was handed a Leica instead of a gun. As a military photographer he witnessed, sometimes risking his life, many battles and miseries of the civil war. One of his master pieces is the woman crying in front of the dead husband, casualty of the air-raid in Lerida city.

On January 25, 1939, the previous day of taking Barcelona by Franco’s forces, Centelles chose to go on exile to France leaving his family in Barcelona. He carried with him a small suite case filled with thousands of negatives of the war. He was one of those over 400,000 refugees who tried to escape to France during the two weeks after the fall of Barcelona. He managed to cross the border in chaotic situation but was detained by French police and was sent to the concentration camp established by French government, first in Argèles-sur-Mer, and a month later in Bram near Carcassonne.

We know how hard the life was at the camp through his diary(‘’A diary of a photographer, Bram 1939’’ ) which was published in Catalan and Spanish. Centelles comments in the diary that the French government treated Spanish exiles as if they were criminals. There was no electricity nor heating and the food was poor at the Bram camp for 15,000 exiles, which was considered to be a ‘’model’’ camp by the French government.

Fortunately for Centelles, in September 1939 he found a job at a photo studio in Carcassonne whose owner had been drafted by the French government. Centelles became a free man after 6 months of internment. But the freedom did not last too long. In June 1940 France was occupied by Nazi Germany and the French resistance movement started. Centelles collaborated with the resistance setting up a secret photo lab in the basement of the studio and made forged IDs for resistance members.

In January, 1944 GESTAPO arrested hundreds of members of resistance in Carcassonne including some of the best friends of Centelles who were sent to Nazi’s concentration camp. In view of possible persecution by GESTAPO Centelles decided to return to Barcelona risking the arrest by Spanish police.

In April, 1944 Centelles entrusted the suite case of his negatives to the care of the landlord in Carcassonne from whom he had rented the house and secretly returned to Barcelona. After joining the family he moved to the town of Reus(Tarragona province) where he had relatives and worked as a baker.

In 1947 Centelles turned himself to the police and moved to Barcelona. No criminal charges were laid on him, however Centelles was denied to work as a photojournalist, his specialty. Only choice for a 38 year old ex-photojournalist was to work as a commercial-industrial photographer which he did in the rest of his life.

In 1976 when the transition to democracy started in Spain one year after the death of Franco, Centelles went to Carcassonne and recovered his negatives. However, the attitude of majority of the Spanish people those days was; ‘’not to dig the past, try to forget the painfull memories of the civil war and reach the reconciliation’’. As a consequence the negatives which Centelles had made risking his life and kept as a treasure, did not receive the due attention from the public. It was a disappointment for Centelles and his family. He died in Barcelona in December,1985 at the age of 76.

A series of expositions of his work have been organized in Spain and in France as well. Currently an exposition is on going at the town of Bram as commemoration of 70th anniversary of the end of Spanish civil war and the start of internment of Spanish exiles. With the acquisition of the collection by the Spanish Cultural Ministry the public access to the Centelles’s work is expected to be improved and better organized including future expositions in those countries as USA where Centelles still remains mostly unknown.

2009年11月16日月曜日

スペイン内戦の旅ーテルエル(3)

アンドレ・マルローの『希望』と永遠のスペイン
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アンドレ・マルローとスペイン内戦
アンドレ・マルロー(André Malraux 1901-1976)は、1936年7月にスペイン内戦が始まったとき、共和国政府支援のためいち早く国際航空隊を組織し、内戦の渦中に身を投じた人です。そして航空機に関しては全くの素人ながら、将来の戦争で空軍の果たす重要な役割を予見していた人でした。1936年8月に発足し、のちに ‘’スペイン飛行中隊(Escuadrilla España)‘’ と呼ばれる国際航空隊は、フランス製の爆撃機Potez-540のほか旧式の護衛戦闘機などをあわせ30機前後を保有する部隊でした。マルロー自身もときおり爆撃機に乗り込み、実戦に参加しています。 

約半年間を戦場で過ごしたあと、マルローは1937年2月に国際航空隊が共和国空軍に編入されたのを契機に、戦場を離れ北米での講演旅行など文筆面で共和国支援の活動を続けます。そして、スペイン内戦の経験をもとに執筆した小説『希望』を1937年末に出版したのに続き、1938年の夏からはその映画版『希望―テルエルの山々』(L’Espoir - Sierra de Teruel)の制作に没頭しました。なお小説『希望』の日本語訳は、新潮文庫(岩崎力訳、上下二冊)から1971年に出ています。



 Potez-540 bomber

スペイン飛行中隊(Escuadrilla España)
映画『希望 - テルエルの山々』は、小説『希望』第三篇の後半でテルエルの爆撃行を扱っている部分を、脚本として再構成したものです。映画のあらすじは、1937年2月半ばのある明け方、スペイン飛行中隊の三機のPotez-540がバレンシア近郊の共和国軍飛行場を発進し、テルエル市北方のフランコ軍秘密飛行場の爆撃に向かいます。基地のありかを通報した農民を案内人として指揮官機に同乗させ、フランコ軍の秘密飛行基地を上空から発見し徹底的に爆破しました。(映画では、続けて近くにある重点目標の橋の爆破にも成功することになっています)。
隠密爆撃は大成功でした。しかしその帰途、フランコ軍の別の基地から飛び立ったHeinkel 51戦闘機の攻撃に遭い、一機のPotez-540がテルエル市北東のバルデリナレス村(Valdelinares)近くの山中に墜落してしまいます。
生存者がいるとの通報に、バレンシア基地から指揮官のマニャン(Magnin)が大急ぎで車で救助に駆けつけました。しかし車で行けるのはリナレス・デ・モラ村(Linares de Mora)まで。墜落現場に近い標高1600米を越えるバルデリナレス村までの10キロの急な山道を、歩いたりロバの背に揺られたりして片道三時間をかけて登り、地元の人たちの協力を得てぶじに負傷者を救出し遺体を収容する、という物語です。

秘密飛行場を超低空飛行で探しあて、爆撃に成功するまでの緊迫感、Heinkel 51戦闘機との息を呑む空中戦の場面など、小説も映画もどちらも実戦を経験したマルローならではの描写が際立っています。なおこの『希望』に登場するテルエル空爆の話は1936年の話で、その一年後の1937年12月から1938年2月にかけてのテルエル市攻防をめぐる激戦、いわゆる「テルエルの戦い」とは別物です。



 View of Linares de Mora

Linares de Mora
リナレス・デ・モラはテルエル市の北東80キロ足らずの高地にあり標高1300米、いまは立派な舗装道路が通じていて、テルエル市から車で一時間ちょっとの距離です。しかし70年前のリナレスへの道はずいぶん違った雰囲気だったようです。

小説『希望』の中で、バレンシアから車でやってきた航空隊指揮官のマニャンが、ふもとのモラ・デ・ルビエロスの町からリナレスに向かった時の様子を、マルローはこんな風に描写しています。

「やっとマニャンはリナレスに向けて出発した。そこ(モラ・デ・ルビエロスの町)を出た彼は永遠のスペインに入って行ったのだった。(中略)いたるところ段々畑と岩と木だけなのだ。車が斜面をおりるだびごとに、マニャンは飛行機が絶望的にこの地面に近づいていく情景をまざまざと見る思いだった」
(岩崎力訳新潮文庫(下巻))

「永遠のスペインに入って行った」というのは、フランス語の原文に近い日本語訳なのでしょうが、英語版では‘’At last, Magnin left for Linares. From now on, he was in touch with the very soul of Spain’’(S. Gilbert & A. Macdonald訳)となっています。
この部分は、「まるで中世の昔から時間が止まっているような、いかにもスペインらしい世界に足を踏み入れた」、という意味ではないかと思います。



Linares de Mora(view from the town)

映画『希望 - テルエルの山々』(L’Espoir - Sierra de Teruel)
「リナレスは城壁にかこまれた町である。子供たちが門の両側の城壁によじのぼっていた。」というのが、マニャンの目に映ったリナレス・デ・モラの第一印象でした。
いまは城壁に囲まれた町というよりはもっと開けた雰囲気ですが、リナレスは典型的な過疎地帯で、内戦当時は人口千人くらいの比較的大きな村でしたが、いまでは住民は300人前後にまで減っています。

スペイン共和国政府がなけなしの財布をはたいて拠出した資金援助をもとに、映画『希望 - テルエルの山々』の撮影は、1938年8月からバルセローナ市のモンジュイックの丘にあるスタジオを使って始まりました。バルセローナでは年初いらいフランコ軍とイタリア軍による空爆が激しくなり、停電がひんぱんに起きフィルムの現像にも支障を来たす状態で、ネガは全てフランスに送りパリのパテ社で現像したそうです。
リナレス一帯はすでにフランコ軍の支配地域だったので、墜落機の乗組員を救助する野外シーンは、バルセローナ近郊のモンセラット山で2500人のエキストラを動員してロケをしています。

マルローは、バルセローナ市がフランコ軍の手に落ちる直前まで踏み止まり撮影を続けましたが、1939年1月下旬に撮影機材一式を車に積みこみ、多くのスペイン人亡命者であふれかえっているフランス国境を越えます。撮り残した分はフランスで仕上げ、音楽はダリウス・ミヨーが担当し、映画は1939年6月に完成しました。
内々の試写会では大好評で、1939年8月に一般公開を予定していましたが、フランス政府の検閲に引っかかり陽の目をみませんでした。結局公開されたのは戦後の1945年のことで、その年のルイ・ド・リュック映画賞を受けています。

検閲で公開禁止の決定が出た背景には、フランコ政権の意向を汲んだ当時の駐スペイン大使ぺタン将軍が、ダラデイエ内閣に働きかけたためと言われます。そして1940年6月にフランスを占領したナチスの手で、『希望』のオリジナル・ネガフイルムは廃棄処分されましたが、コピー済みのポジフィルムが別の場所に保管されていたため、全損の難を逃れました。

私の手元にあるのは、2003年にポジフィルムから起こしたフランス製のDVD(スペイン語版)ですが、『テルエルの山々』はまるでサイレント映画でも見るような力強い映像が印象的です。私はこの記事を書くため改めて見ましたが、繰り返し見ても十分鑑賞に堪える作品です。劣悪な環境でよくこれだけの内容の作品を作り上げたものと感心します。

マルローが「テルエルの戦いの同志たちに」と副題をつけた小説『希望』を書いた1937年は、まだスペイン共和国政府の勝利に希望を持てる時期だったのかも知れません。しかしその映画化に取り組んだ1938年後半は、もう内戦が共和国の敗北に終るのは目に見えているという情勢でした。しかしマルローは『希望』の撮影に没頭します。

映画は、山の斜面を埋め尽くすほどのおおぜいの村人たちが、右の拳を高く挙げ連帯の挨拶を送るなか、担架に担がれた負傷者とロバの背にくくりつけた棺を守る人たちの長い長い列が、静かに山道をおりてくる場面で終ります。「もう何も手伝ってもらうことはないので家で休んでくれ」と告げられた老人が、『いや、まだ私にも感謝の気持ちを表すことはできる』と右の拳を高く挙げ、棺を見送る人たちに加わる話は、小説にはなく映画の脚本で付け加えた部分です。

フランコ軍の砲撃がしだいに近づくのを耳にしながらバルセローナに踏み止まり『希望』の撮影を続けたマルローは、たとえスペイン共和国政府に終わりが来ることはあっても、人間の尊厳を踏みにじる勢力との戦いが終わることはない、と固く信じていたのだろうと思います。

そして、まだ死者に対して感謝の気持ちを表すだけのことはできる、と主張する老人の話を脚本につけ加えたり、何千人ものエキストラを動員しダリウス・ミヨーの音楽が響き渡るあの大掛かりな行列の場面を映画の結末としたのは、戦死した全ての同志に対する鎮魂の祈りという面もあるでしょうが、むしろ、ファシズムとの戦いは必ず生き残った者の手で続けられて行く、というマルローの将来への確信を表現したかったのではないでしょうか。マルローはスペイン内戦の次に来るものを予感したからこそ、あえて『希望』という名の映画制作に打ち込んでいたのだろうと思います。


 Mosqueruela, medieval town on the highland east of Teruel

Mosqueruela
リナレス・デ・モラからさらに15キロぐらい山肌ぞいに曲がりくねった道を走ると、モスケルエラ(Mosqueruela)という変わった名前の町に着きます。標高1470米、人口700人くらいの、中世からの古い歴史を持つ町です。この山岳地帯はかつては牧羊が盛んで、モスケルエラは羊毛の集散地として19世紀まで栄えた町です。しかしこの地方は19世紀後半のカルリスタ戦争と呼ばれる内戦の舞台となり、農民は離散し牧羊は壊滅的な打撃を受けてしまいす。



Mosqueruela's city wall

中世の町モスケルエラ
この写真はロマネスク建築を思わせる町の城壁の一部です。モスケルエラの町の歴史は13世紀にまで遡ります。モスケルエラから北東に延びる山沿いの道でつながるこのあたりの山岳地帯を、マエストラスゴ地方(Maestrazgo)と呼びますが、中世の名残りを感じさせる、小さな町に出会うことの多い地域です。



Narrow street of Mosqueruela

永遠のスペイン
私たちが石畳のせまい道をぶらぶら歩いていたとき、買い物の途中らしい老婦人とすれ違いました。「こんにちは」と挨拶したら、「どちらから?」と尋ねられました。一瞬とまどいましたが、「バルセローナから」と答えたところ、「まあ、そんな遠いところから」と本当に驚いた風でした。この老婦人にとっては、400キロ離れたバルセローナは外国のように感じられたのかも知れません。うっかり「日本から来た」などと口にしなくてよかったな、と思いました。

老婦人は、もし私たちが道を尋ねたら、自分の買い物はさておき一緒に案内してくれそうな人でした。アンダルシアでもこんな地元の人たちに出会いました。時代の流れから取り残されたように見えながら、実は昔からの生活のリズムを大切にすることで心安らかな毎日を送り、外来者に出会えば素直に驚き、そして暖かく接することのできる人たち。そんなスペイン人が、マルローの「永遠のスペイン」に住む人たちではなかったかと思います。

2009年4月16日木曜日

スペイン内戦の旅(3)亡命者たちの長い旅



1939年4月1日にフランコ将軍が内戦勝利宣言をして、足掛け3年に及ぶスペイン内戦が終わってから、今年でちょうど70年。ということで、スペインではこのところ内戦終結70周年にちなむテレビ番組や展示会、或いは新聞雑誌の特集記事を含め内戦をテーマにした出版物がずいぶん目に付きます。
その中でも特に目を引くのは、1939年1月末から2月初めにかけて、50万人近いスペイン人がフランコ軍の追求を逃れ一斉にフランス国境に押し寄せた、いわゆる「亡命スペイン人」の話題です。





1939年の年が明けた時点で、バルセロナに向け破竹の勢いで押し寄せるフランコ軍を押しとどめる力はもう共和国軍にはなく、兵士はもとより指揮官の中にも脱走する者が出る始末。共和国軍は徐々に崩壊しつつあるというのが実態でした。
一方バルセロナ市民のあいだでも、食料その他の生活必需品の欠乏が日増しに深刻になり、そのうえたび重なる空襲が続いたこともあり、厭戦気分が広がっている状態でした。そんな状況では、共和国側にまともなバルセロナ市の防衛戦を組織できるはずもなく、共和国政府はバルセロナからフランス国境に近いフィゲラスの町に移転を始めます。そしてフランコ軍は、ほとんど戦闘らしいものもなしに1939年1月26日にバルセロナ市を制圧しました。

内戦が始まって以来、フランコ軍が占領した地域では、共和派の軍人や政治家は勿論のこと、共和派の支持者と見なされるだけで、一般市民も逮捕されたり処刑されたりする例がひんぱんに起きたため、フランコ軍による攻撃が迫ってきた1月下旬ころから、バルセロナではフランスに逃れようとする共和派の人たちの動きが雪崩を打ったように始まりました。
50万人近い亡命者と言えば、全員が手を繋げば東京から大阪にまで届いてしまうほどの人数です。フランスに向け避難しようとする人たちを満載した車やトラックや馬車や、そして中には子供の手を引いて歩く人たちで、バルセロナからフランス国境までの約150キロの道路は大混乱の状態に陥ります。

戦局の成り行きを見れば、大量の共和派の避難民が発生するだろうことは、ある時点で充分予想された筈ですが、共和国政府の対応は後手に回りました。
実際に膨大な数の避難民が受け皿もないままフランス国境に向け動き始めたのを見て、共和国政府は急遽フランス政府に対し15万人の亡命者受け入れを要請しますが、フランス政府は最初この要請を拒否しました。しかし人道上の問題だという内外の批判もあり、1月28日に非戦闘員のみを対象に入国を認めます。
ついで2月5日には武器を持たないという条件で、共和国軍兵士の入国が許可されました。しかし2月10日にはフランコ軍が国境に達したため、フランス政府は再び国境を閉じてしまいます。わずか二週間たらずの間に、20万人を越える共和国軍の兵士と20数万人の市民がピレネー山脈を越え、大混乱のうちにとにかくフランスに入国したわけです。

もともとスペイン国境に近い南フランスの町は、人口数百人、数千人という小さな町がほとんどで、住民も保守的な人たちの多い地域です。そこへ前触れもなく一挙に何万人単位の避難民が押し寄せたのですから、フランス側の受け入れ態勢が整わなかったのは仕方のないことです。
しかし問題は当時のフランスの世論が、スペイン共和国政府に対して好意的でなかったことでした。それに加えてフランコ側は、共和派のスペイン人は革命をめざすアカであり、教会を焼き僧職者を殺戮した犯罪者である、というキャンペーンを張りました。もともと保守的な南フランスの小さな町々の住民が、共和派の亡命者たちを望まざる不法入国者として冷たい目で見たのには、こんな背景がありました。

子供の手を引き、命からがらピレネー山脈を越えて来たスペイン人の―家が、通りかかった家で一杯の水を頼んだら冷たく断られた、という類の証言には事欠きません。そしてほとんどの亡命者は急ごしらえの強制収容所に送り込まれました。
なかでも悪名高いのはアルジュレス・シュール・メール(Argeles sur mer)の収容所です。フランス政府は砂浜に鉄条網を張り巡らせただけで全く何もない浜辺に、何万人というスペイン人の亡命者を、まるで家畜でも扱うように囲いこんだのでした。

70年前にカタルーニャ地方からピレネー山脈越えでスペインの亡命者たちがフランスに入ったルートには、主なものだけで三つありました。私は今年の三月にそのルートのひとつで、スペインのポール・ボウ(Portbou)の町からフランス側の国境の町セルベール(Cerbere)へ抜ける、地中海岸沿いのスペイン亡命者たちの足跡を辿り、その北にあるアルジュレス・シュール・メールの収容所跡を訪ねてみました。

Town of Portbou(Click on the photo to enlarge)

ポール・ボウはスペイン国鉄の終着駅で、トンネルを抜けるともうフランスです。最近の国際列車は軌道の巾を国境の駅でレールに合わせて調整できるようですが、スペイン国鉄は広軌でフランス国鉄とは線路巾が異なるため、昔はパリ発スペイン行きの夜行列車はポール・ボウ駅が終点で、そのあとバルセロナまで行くには、スペイン国鉄に乗り換えたものでした。

ポール・ボウは冬は突風の吹き荒れることが多い町で、むかし一度訪ねたことがありますが、その時はよく晴れた日だったにもかかわらず沖には三角波が立ち、山肌にへばりつくようにつけられた道路を歩くと、海からの突風で吹き飛ばされそうになったのをよく覚えています。ロバート・キャパの有名な作品のひとつに、冬のピレネー越えをする子供づれの亡命者一家の写真があります。

このポール・ボウの国境越えのルートは、スペイン内戦中の最大の激戦地だったエブロ川の戦いで活躍し、いちばんむずかしい撤退のしんがり役をつとめた、タグエーニャ第15軍団長の率いる部隊が辿ったルートでもあります。その共和国軍最後の部隊が国境を越える場面を、私はむかしロバート・キャパの自伝的小説「ちょっとピンボケ」の中で読んだ記憶があります。
それはこんな内容でした。「共和国軍の精鋭部隊がピカピカに磨き上げた銃を肩に、白馬に跨った共和国軍のモデスト将軍の前を右の拳をあげて敬礼しながら行進する。そして涙をこらえ「また戻って参ります」と叫びながら、次々に国境線を胸を張って越えて行く。フランス国境警備隊は驚き、一斉に捧げ銃の姿勢でこれを迎えた」、ということになっていました。
タグエーニャ司令官の回想録を読むと、兵士たちは連日の戦闘と長い行軍で疲労困憊していたようだし、モデスト将軍(当時は大佐)が白馬に乗っていたのどうか、フランス国境警備隊が本当に捧げ銃をしたのか、などはどうもはっきりしませんが、きっとキャパの目には、そうであって欲しいスペイン共和国人民軍の凛々しい姿が二重写しになっていたのでしょう。

Memorial of 100,000 Spanish exiles

フランスとの国境にはスペイン亡命者の記念碑が建てられています。碑文の趣旨は、「10万人のスペイン共和国の市民が三年間のフランコに対する戦いの後、1939年2月にこの道を辿って亡命の途についた。彼らはヨーロッパにおける反ファシズムの戦いの先駆者であった」という内容です。

ただし70年前にこの人たちが国境を越えたときのフランス政府の対応は、まるで共和派のスペイン人は未開発国からの不法入国者であるかのような扱いだった、というのが大方の意見です。
バルセロナの女流作家テレサ・パミエスは当時19歳で、共産党系のカタルーニャ統一社会主義青年連盟の指導者の一人でしたが、国境を越えた時の思い出をこんな風に語っています。「オーバーの上に白衣を着込んだ何人かの男たちが、私たちを家畜運送用の貨車に押し込む前にいろいろ質問をする。シラミはいないか、疥癬を病んでいないか、喀血していないか、性病に罹ってはいないか、金製品を持っていないか、フランスの通貨は持っているか、そして私たち娘に対しては、処女かどうかと尋ねる。フランス語のできるヌリは通訳しながら泣いていた」

Vineyard on the hill

フランス国境の町Cerbereを過ぎて地中海岸沿いに北上して行くと、小高い丘の急斜面は見渡すばかりのぶどう畑が続きます。いつか南スペインのハエン地方で目にした、山の急斜面を埋め尽くしたオリーブ畑を思わせる風景です。ガルナッチャ種のぶどうを主体にした糖度の高いワインの産地で、私たちも試飲してみましたが、ちょっとロゼを甘くしたような口当たりのよいワインでした。

Tomb of Antonio Machado

スペイン国境から北に15キロぐらい海岸沿いに走ると、コリウール(Collioure)の町に着きます。スペイン人の間では、この町は詩人のアントニオ・マチャードのお墓がある場所として知られています。
アントニオ・マチャード(1875-1939)は、今も幅広い愛読者を持つスペインの詩人ですが、 内戦の時には共和国政府支持の立場を鮮明にして、バルセロナ陥落の直前までスペインに踏み止まります。そして1939年1月末、病弱の母親と共にバルセロナからポール・ボウ経由で国境越えをしてコリウールの町にたどり着き、淋しくホテル住まいをしていましたが、一ヵ月後の2月末に失意のうちに亡くなっています。

町の墓地を入るとすぐ目に付く場所にマチャードのお墓があり、いつも誰かが花を手向けているようです。最近になってスペインでは、「マチャードはスペインの誇る国民詩人であり、従ってそのお墓はスペインに移すべきだ」、と主張する人が出てきました。
またコリウールの町がマチャードのお墓を観光資源に利用している、というたぐいの議論も耳にしますが、実際に現地を訪ねてみると、コリウールの町にはマチャードのお墓のありかを示す標識も見当たらず、通行人に何度も道を尋ねながら、やっと墓地にたどりつけたようなしだいで、「マチャードを観光に利用云々」の批判は、的外れだと思います。

Argeles sur mer - a concentration camp for the Spanish exiles was maintained on this beach during 1939 to mid 4o's

コリウールの町からさらに5キロくらい北に進むと、アルジュレス・シュール・メールに着きます。長く何キロにもわたって美しい砂浜が続く海辺の町です。夏は海水浴客で賑わうようですが、70年前にはたぶん地中海岸沿いの寒村のひとつだったのでしょう。

「やっと自由の国フランスに逃れることが出来た」とほっとしたスペインの亡命者たちを待っていたのは、このアルジュレス・シュール・メールの強制収容所でした。
それは収容所とは名ばかりで、最初は全く何もない砂浜をただ鉄条網で長方形に囲っただけでのもので、2月の真冬の時期に身を切るような海からの冷たい風に吹きさらされながら、毛布もなにもない人たちが砂浜を掘り、その穴に身を横たえて寒さをしのぶ「収容所」でした。
もちろん最初はトイレも水もなく、やがて少しずつバラック小屋が建てられますが、衛生状態が悪く赤痢が蔓延したりしたそうです。どういうわけかフランス赤十字は介入せず、わずかに米国と英国のクエーカー教徒が主として子供たちを中心に援助の手を差し伸べたたのと、スイスの国際赤十字からの救援があったのみ。
収容されたスペイン人たちは、寒さと空腹もさることながら、犯罪者なみに扱われ人間としての尊厳を傷つけられたことが、何といっても耐えがたかったと言います。

Old photo of the concentration camp

今回案内してくれたのは、バルセロナ郊外に住むA夫妻でしたが、A夫人の叔父様に当たる方は、内戦の末期に17歳で共和国軍に加わり、そのあと亡命者の一人としてこの収容所で過ごしたようです。
私たちが現地を訪ねたのは3月末のよく晴れた日でしたが、それでもカメラのシャッターを押す手がかじかんでしまうほどの冷たい風が、海から吹きつけていました。
A夫人の叔父様は、経緯はよく分りませんが、最後はナチスがオーストリアに設けたマウトハウゼン(Mauthausen)の強制収容所送りとなり、そこで若い生涯を閉じたということです。そう語りながら、いろんな思いが一挙にこみ上げてきたのでしょう、A夫人はそっと涙を拭っていました。

南フランスには、10箇所を越えるスペインからの亡命者を収容する施設がもうけられましたが、収容所生活を経験した人たちの証言を読むと「スペイン人亡命者は犯罪人扱いされた。フランス政府はスペイン人が長逗留しないようわざと酷い待遇をしたのだ。自由・平等・博愛という言葉はフランス人の間だけのことで、スペイン人には適用されなかった」などの発言が目に付きます。

そんな収容所生活から逃れるため、フランス政府が組織した外国人労働者中隊(CTE)に加わり、フランス軍の陣地構築や弾薬製造工場など危険な作業に従事した元共和国軍兵士の数は、何万人にも上りました。
またフランス外人部隊に志願した人、1940年6月にフランスがドイツ占領下におかれてからは、フランスのレジスタンス運動に参加した元兵士もいました。このうち、数千人の元共和国軍兵士が第二次大戦中に戦死し、さらに数千人がドイツ軍の捕虜としてナチスの強制収容所に送られ死亡しています。

共和派の人たちの中には、もし欧州でファシズムに対する戦争が始まれば、他国に先駆けファシズムと戦っている共和国政府に対し世界の支援が集まるはずだ。それまではフランコとの戦争を戦い抜くべきだ、と考えた人は少なくありませんでした。皮肉なことに内戦に敗れたスペイン共和国の兵士たちは、亡命先のフランスで第二次世界大戦に巻き込まれ、再びファシストとの戦いに命をかけることになったわけです。

亡命者の中には、運良くメキシコはじめラテンアメリカ諸国に移民として受け入れて貰った人たちもいました。その数は2万人前後ではないかと推定されます。これらのラテンアメリカに移住したスペイン亡命者については、また稿を改めて述べようと思っています。

40数万人の亡命者のうち大半が南フランスの強制収容所での生活に絶望し、再び内戦後のスペインに戻ります。しかし帰国と同時にフランコ政府の手で逮捕され、入獄あるいは処刑されるという厳しい処分を受けた人たちが多数にのぼりました。そしてぶじに生き延びた人たちも、その後のフランコ体制下の30数年間を、肩身の狭い思いで暮らすことになります。

 Memorial of Spanish Republicans interned in the concentration camp

砂浜の片隅に、強制収容所があったことを示す看板と記念の石碑が建っています。アルジュレスの町の人たちにとって、いや或いはフランス人にとって、この強制収容所の歴史は忘れ去ってしまいたい記憶のひとつではないかと思います。私たちが石碑を見つめている間に、何人もの人が犬を連れて通り過ぎましたが、誰ひとり立ち止まることはありませんでした。ましてや夏の海水浴客に至ってはなおさらのことでしょう。

歴史上のできごとのうち、歴史を書く人や読む人にとって都合の悪い内容は、とかく忘れ去られたり無視されたりするものです。
しかし、この美しい砂浜にむかし強制収容所があったこと、そしてフランスはファシズムと戦ったスペインの亡命者たちを、この強制収容所に閉じ込めたという事実を石に刻み、その記憶を石碑の形でいつまでも残しておくべきだと考える人たちが、たとえ少数とは言え存在することに、私は歴史にちゃんと向かい合おうとするフランス人の姿勢を見る思いがします。

2008年12月30日火曜日

スペイン内戦の旅ーテルエルの戦い(2)





(このテルエル県の略図をクリックすると画像が拡大されます)


(モラ駅周辺)

スペイン内戦の回想録「二十歳の戦争」の著者ミケル・シグアン(Miquel Siguan)氏は、1938年1月に100人ばかりの若い同期の召集兵と共にバルセローナ市近郊の訓練基地を出発し、列車でテルエル戦線に到着した時の印象をこう述べています。

「今朝目が覚めたとき、列車の窓から見た光景にぼくは驚いた。何度も目をこすったぐらいだ。この汽車の旅では、ずいぶん変化に富んだ風景を次々と見てきたが、これまで目にしたのはどれも耕作地であり、人が住んでいる土地だった。ところが、いま目の前に広がっているのは無人の荒野だ。木も草もなければ、人間がいるという気配がまったく感じられない荒野である。ただのっぺりした平原が、これまた同じように一木一草も見当たらない裸の丘に囲まれているだけなのだ。」


(モラ駅舎)

「線路脇にかなり痛んだレンガ造りの建物があり、村の姿はどこにも見当たらないものの、残っている標識からそれがモラ村の駅らしい。近くを一本の道路が走っているが、それはまったく人気のない平原を一直線に延び、水平線のかなたに消えている。列車とぼくらだけが、このあたりで唯一の生命のしるしというわけだ。」 ………………………………………………………………………………………………
「人里離れた駅のプラットフォームに一団となって集まったぼくらは、まるでわずかばかりの身の回り品を抱えた移民の群れのようだ。」   (第一章「到着」)

テルエルの戦いから70年が過ぎた今年の春、私は「二十歳の戦争」の舞台となったテルエル県を訪ねてみました。この70年の間に開発が進み植林などが行われたということもあるのでしょうが、現地を見たかぎりではモラ駅周辺はたしかに依然として人気のないさびれた場所ではありますが、「木も草もなければ、人間がいるという気配がまったく感じられない荒野である」という回想録の記述とは少し違うな、という印象でした。
或いはこの部分は、家族にもそして緑あふれる故郷のバルセローナにも別れを告げ、激しい戦いが続く冬のテルエル戦線に着いた時の、当時19歳だった著者の心象風景と理解すべきなのかも知れません。
モラ駅、正確にはモラ・デ・ルビエロス(Mora de Rubielos)駅は、町まで15キロ近くも離れている無人駅で、今でも駅の周りには2-3軒の家があるだけで、一日に何本かの列車が発着する時は別なのでしょうが、ふだんは本当に人影もなく、一匹の犬の姿すら見かけない、まことにさびれた雰囲気でした。


(Mora de Rubielos)

モラ・デ・ルビエロス町は、テルエル市から40キロくらいの距離にあり、人口は1,600人でテルエル県東部地方では大きな町です。モラ町のみどころと言えば、14世紀から15世紀にかけて築かれた城壁の一部が残っているのと、同じ頃に町の中心部に建てられたモラ城やゴチック様式の聖マリア教会などが有名です。私たちは数時間滞在して、教会のすぐ前のレストランでコーヒーを飲んだだけでしたが、モラ町はこじんまりとして落ち着いた雰囲気を今も保つ、なかなか味のある町でした。


(Rubielos de Mora - Patio of the City Hall)

モラ町から10キロぐらい東に、ルビエロス・デ・モラ町(Rubielos de Mora)があります。名前が似ていてまぎらわしいのですが、ルビエロス町は人口700人ぐらいの小規模な町ながら、15世紀から16世紀にかけて築かれた城壁や古い建物や教会などがよく保存されていて、石畳の通りを散歩するのがとても楽しい町です。

ルビエロス町は、シグアン氏たち召集兵がモラ駅に到着したあと、迎えのトラックに座ることもできないほどのすし詰めの状態になり配属先の部隊を探してひと晩中あちらこちらと移動したあげく、やっとのことで明け方に町に着き、前線で初めての仮眠をとった場所でもありました。

「日の出も間近になったころ、やっとトラックが停まる。今度ばかりはほんとうに石畳の広場で停まった。トラックを降りる、というよりむしろ全員で転げ落ちる。そして落ちたところでそのままぼくらは横になって眠り込んでしまった。
二十歳の身体というのは、まるでゴムみたいに柔軟で、数時間の睡眠で疲れがすっかりとれてしまう。ぼくらが呼び起こされたときには、もう正午を過ぎていた。」
……………………………………………………………………………………………
「ぼくらが自分でいろいろ調べた結果、ここはルビエロス・デ・モラという古い大きな村で、なかなか豪壮で立派な建物もある。村の通りをぶらぶら歩いていたとき、意外なものに出くわした。戸締り厳重な修道院らしい建物から、男声合唱が聞こえてきたのである。それはどんな歌詞にでも合いそうな鼻歌のように「もしも手紙を寄越すなら おれの居場所はご承知だ テルエル占領したあとは ルビエロスで牢屋入り」と歌っている。一緒に歩いていた仲間たちもぼくと同じくらいびっくりしてしまい、いったいこれはどう説明すればいいのだと、いろいろ想像を巡らせる。でも、彼らは他に用事があるからと、ぼくを置き去りにして行ってしまった。彼らの用とは、ルビエロス村の娘たちは見かけ通り素っ気ないのか、この村には開いている居酒屋は一軒もないのか、確かめたいということなのだ。そんなわけで、ぼくは歌声の漏れてくる窓のそばにひとり残って、その歌についてあれこれと考えてみる。この歌についてはこれからも繰り返し考えることになるのだろう。」    (第一章「到着」)



(第84旅団の宿舎として使われたカルメル会の修道院、The old convent of the Carmelitas Calzados)

悲劇の第84旅団
シグアン氏がルビエロス町で修道院の窓越しに漏れ聞いた歌声の主というのは、前線復帰の師団長命令に不服従を唱えたため「反乱」の罪に問われ、修道院で身柄を拘束されていた第84旅団所属の兵士たちでした。この声の主がその後どうなったのかは分りませんが、この事件で下士官を含む46名の兵士が、裁判を経ることもなく師団長の即決で銃殺刑に処せられています。

1938年1月に第40師団のテルエル市内掃討作戦の先頭に立った第84旅団は、アナキスト民兵部隊を母体に編制された旅団で、2,000人くらいの兵力でした。当時共和国軍を支配していた共産党からは、規律面で問題が多いなどと何かにつけて批判のやりだまに上げられていたアナキスト部隊ですが、そのアナキストが母体の3個旅団(第82旅団、第84旅団、第87旅団)で第40師団が編制された時、国境警備隊の出身者で、メリダ市長を勤めた経験を持つニエト中佐が、新しい師団に共和国軍の規律を徹底させるという責任を担って第40師団長に就任しました。

1937年12月半ばに始まったテルエル市の攻防をめぐる戦いは、1938年1月8日のフランコ軍守備隊の降伏でひとまず共和国側の勝利となりましたが、勝った共和国軍も、例年にない厳しい寒さと雪に苦しみ、兵力の2割から3割を消耗するほどの激しい戦いが一ヶ月近くも続いたため、どの部隊も兵士の大半が病気や疲労で体力の限界に達していたというのが実情でした。中でも第84旅団の場合は、テルエル市内の掃討作戦を指揮した少佐が、テルエル占領に成功すれば長い休暇が与えられ、おまけに報奨金の支給や昇進もある筈だなどと、常識では考えられないやり方で士気を鼓舞したため、兵士たちは基地に戻り休息できる日を夢見て激しい戦いの日々に耐えていました。そして第84旅団の兵士たちに予備軍として一時休養、という待ちに待った命令が伝えられたのは1月半ばのことでしたが、ちょうどまさにその時フランコ軍によるテルエル奪回の猛反撃が始まり、各地で共和国軍の防衛線が破られ始めたため、すでに休養中の各部隊に対しても即時戦線復帰の命令が出されるという事態になっていた時でした。
特に84旅団の機関銃中隊など一部の部隊は、重い機関銃や弾薬を担ぎ、テルエル市近郊の塹壕から傷む足を引き摺りながら歩き続け、やっと一日がかりでルビエロス町の基地にたどり着いた途端、また即時戦線復帰の師団長命令が出たということで、それまでに溜まりに溜まっていた不満が一挙に爆発し、約束が違うとして戦線復帰命令を拒否する動きが起こりました。

ニエト師団長は、第84旅団の兵士たちが宿舎にしていたルビエロス市内の修道院に出向き、前線復帰を拒否する者には交代を派遣するので、武器を上官に預けた上そのむね申し出るよう命じました。実際に不服従を具体的な行動で示したのは旅団員の一割にも満たない200人足らずの兵士だったようですが、その全員が武器を棄てた途端に逮捕監禁され、そのうち下士官を含む46人については裁判なしの即決で銃殺が決まりました。そしてこの46人は、翌朝まだ夜が明けぬうちに理由も告げられずルビエロスの町外れに連行され、トラックから降りたところを機関銃の一斉射撃で銃殺されるという、まるでだまし討ちのような処刑が行われました。

1月8日のテルエル市占領までは、テルエル攻撃の尖兵としてロバート・キャパのカメラにおさまったりして英雄扱いだった第84旅団の兵士たちですが、わずかその10日後に一部の兵士は師団長から「反乱者」の烙印をおされて銃殺され、銃殺刑を免れた者も懲罰部隊送りの処分となりました。そして第84旅団は解隊と決まり、兵士たちはそれぞれいくつかの部隊に分散して配属され、テルエル占領の栄光に輝く第84旅団は消滅してしまいました。

「反乱者」とされたのは、その大半が文字も読めない農民で、内戦が始まると義勇兵としてバレンシアのアナキスト民兵部隊に加わり、ファシストと戦うことに命をかけた勇敢な兵士たちでした。しかし内戦開始から一年が過ぎ、共和国軍が組織化され義勇兵にも軍法が適用される事態になってもその意味がよく理解できなかったようで、師団長命令を拒否した時も、いまだにアナキスト部隊の伝統を信じて、兵士と部隊指揮官とはお互いに苦楽を分かち合う仲間であり、非人間的な命令を拒否しても上官は理解してくれる筈だ、などと思い込んでいた兵士もあったようです。そして上官の命令を拒否することが軍隊では死罪に値する可能性がある、などというのはたぶん彼らにとっては思いもよらないことだったのでしょう。そんな雰囲気の中でも、雲行きが怪しいと感じ混乱に乗じて逃亡した兵士や、過酷な処罰を予期して親しい部下に密かに逃亡を勧めた部隊長などもあったため、そのおかげで命拾いをした兵士がいたということです。

なぜニエト師団長が兵士たちの前線復帰命令拒否に対して常識はずれの過酷な処分で臨んだのか、それを理解するうえで重要だと思われる点がいくつかあります。
そのひとつは1938年1月1日付けの中央参謀本部長より各部隊長宛ての命令で、部隊の士気低下を招く言動に及ぶ者は銃殺を含む厳罰をもって対処するよう指示があったことです。ニエト師団長はこの指令に従い、命令不服従者には銃殺刑をもって対処すべきだと考えた可能性があります。

もうひとつは共和国軍の権力の中枢にいたのは共産党員が多かったということです。ちょうど同じ時期に、第11師団長が部隊員の消耗を理由に第22軍団長の前線復帰命令を拒否したのですが、それが共産党の英雄リステル第11師団長であったため、命令拒否を咎められることもなく、逆に軍団長がその命令を撤回するという結果になりました。おまけにその後リステル師団長はテルエル攻略の戦功で、民兵出身者としては初めての中佐昇進を果たしています。共産党員に対するえこひいきではないか、という批判が出るゆえんです。また共産党が権力を握る共和国軍では、アナキスト部隊はなにかと批判の対象になり易かったという背景もありました。ちなみにニエト第40師団長は社会党員でした。

そしてもう一つは、テルエル市内の掃討作戦の遅れなどで、軍上層部の間でニエト師団長の指揮ぶりにとかくの批判があったことです。従って師団長としては、命令不服従問題でさらに指揮官としての自分の名声に傷がつくことを懸念していたに違いありません。それと師団長は師団付き政治コミサール(政治委員)の意見を聞いてこの問題に対処したようですが、第40師団の政治コミサールは19歳の共産党員で、銃殺刑になった軍曹など下士官を含む46名の兵士を処刑対象者として選んだのもこの政治コミサールだったと言われます。19歳の若さで師団付き政治コミサールになるというのは、よほど本人が有能であると同時に共産党首脳との人脈にも恵まれたエリートだったからでしょう。政治コミサールはその報告書などを通じて部隊指揮官の言動を軍首脳に伝える役目も果たしますから、ニエト師団長は共産党出身の政治コミサールの目を意識せざるを得ない立場にありました。それやこれやで、師団長が第84旅団の兵士たちに対して厳しい態度で臨む姿勢を強調せざるを得ない状況にあったことは確かです。

しかし重さ50キロを越える鉄の固まりのような機関銃を担ぎ疲労困憊して基地に戻ったばかりの兵士たちが、指揮官に約束された長期休暇が反故になったたと憤っている時に、前線復帰命令に従わないからと裁判手続きも経ず即座に銃殺刑に処すべきだと判断したこと、しかも純朴な農民出身の兵士たちをだますようなやり方で身柄を拘束のうえ銃殺した、というような事情を勘案すると、ニエト師団長及びそれを補佐した政治コミサールの見識には疑問を感じざるを得ません。疲労困憊している部下のため、軍団長の前線復帰命令を拒否した第11師団長に比べて、余りにもその姿勢の違いが大きいことを痛感します。また命令拒否の事態に至ったのには、直属の部隊長が部下の兵士をよく掌握していなかったという問題もあるのでしょうが、はっきりしているのは銃殺などの厳しい処分を受けたのは兵士のみで、将校やそれを補佐すべき政治コミサールの責任がどう問われたのかはよく分りません。そしてニエト師団長もこのあと10ヶ月くらいで大佐に昇進しています。

この事件に関する公式な記録としては、第40師団長からレバンテ方面軍司令官に宛てた三頁の報告が残っているだけで、本来なら詳細な記録を残すべき師団付き政治コミサールなどの報告には、本事件の顛末に関する記載は見当たらないようです。実態に照らして過酷過ぎると思われる師団長の処分について、共和国軍首脳は公の記録として残すことを避けたかったのかも知れません。そんなこともあって、この事件は長いあいだ闇に葬られたままになっていましたが、最近になり少しずつその詳細が一般の目に触れるようになりました。


(ルビエロスの城壁)

ルビエロス町は城壁に囲まれ、石畳の通りを通行人と車が共有している古い町です。わずか人口700人くらいの規模の小さな町なのに、古い建物を修復しながらいい雰囲気の街づくりをしているな、と感心させられました

2008年12月11日木曜日

スペイン内戦の旅 - テルエル


テルエル(Teruel)を訪ねる旅
今年三月のイースター休暇の時期にテルエル県を訪ねました。このBlogを一年前に開設した時にご紹介したスペイン内戦の回想録、「二十歳の戦争」の舞台であり、そして内戦の激戦地のひとつとして、当時は世界にその名を知られたテルエル地方を、実際に自分の目で見てみようと思ったからでした。
私が滞在していたバルセローナからは、サラゴサ乗換えの汽車を利用すればテルエル市までは5時間くらいですが、どうせ車がなくては現地に着いてから身動きがとれないだろうということで、車で行くことに決めました。テルエル市はバルセローナから約400キロ、ちなみにマドリッドからだと約300キロ、そしてバレンシア市からは140キロくらいの距離になります。


テルエルの戦い
旅の話を始める前に、まずスペインの内戦はいつ始まったのか、そしてテルエルの戦いとはなんだったのか、についてごくかいつまんでご説明しておきます。。

スペインでは1936年2月の総選挙で左翼選挙連合の人民戦線が勝ち、その結果誕生した左派共和主義政府は、フランスに比べ100年は遅れていると言われたスペイン社会民主化のため、さまざまな改革を実行に移し始めます。しかしこれに反発する右翼勢力が猛烈な反政府運動を繰り広げ、特に都市部では左右両勢力の若者たちによる武力衝突が頻繁に起きるなど、左右の対立が治安の悪化や社会不安をもたらす状態となり、保守的な軍人たちが共和国政府打倒のクーデターを起すための口実を与えることになりました。

1937年7月17日にまずモロッコの駐屯軍が反乱を起こし、それに呼応して7月18日から19日にかけて、スペイン本土各地でも軍部の反乱が起きます。これに対する共和国政府の対応は後手に回りましたが、首都マドリッドやバルセローナ、バレンシアなどの大都市では、労働者や市民が兵営から武器を奪うなどして武装し、また共和国政府に忠誠の立場を保つ一部の軍人や警察とも手を携え反乱軍に対抗したため、軍部の反乱はクーデターとしては成功しませんでした。
しかしスペインは共和国政府が支配する地域とフランコ将軍の率いる反乱軍が支配する地域に二分され、フランコ側はドイツ・イタリアからの軍事援助、共和国政府はソ連からの援助を受け、三年間に亙る内戦に突き進んだのでした。

テルエルの戦いが始まったのは、内戦開始から一年半が過ぎた1938年12月半ばのことで、その少し前に北部戦線で共和派を打ち破り大西洋岸のビルバオやオビエドなどスペインの重要な鉱工業地帯を支配下におさめたフランコが、一挙に首都マドリッド攻略を実行に移すべく着々とその準備を進めていた時期でした。
しだいに追い詰められていた共和国政府は、フランコのマドリッド攻撃を牽制するため第二戦線を開くことにし、県都とはいえ軍事的な重要性に乏しいためフランコ軍の守備が手薄だった、テルエル市をその目標に選びます。

共和国軍は1937年12月15日に12個師団(約10万人)の大軍を投入し、2個旅団(約6千人)のフランコ軍と何千人かのファランヘ党員などが守るテルエルに奇襲攻撃をかけます。
その結果、テルエル守備部隊は兵站路を断たれ孤立してしまいますが、一般市民を巻き込み市内の建物に籠もった上、要所には狙撃兵を配置するなどして徹底抗戦の態度で臨みました。
そのため共和国軍は旧市内の建物をひとつひとつ制圧して行くと言う難しい掃討作戦を余儀なくされ、テルエル市の占領に予想以上の時間がかかったうえ、攻撃部隊の損害が増える結果になりました。

1937年暮れから1938年初めにかけてのテルエル地方は例年になく厳しい冬に見舞われ、この地方には珍しく大雪が降ったり気温が零下20度近くまで下がった日もあったそうです。共和国軍もフランコ軍も兵站に問題を抱えており、寒さへの備えが充分でなかったため、兵士たちは凍傷など寒さによる被害に苦しむことになりました。
防寒具はおろか毛布すら充分とは言えない状態だったので、軍服の下に新聞紙を挟み込み寒さをしのいだとか、夜の歩哨に立った兵士が雪のなかで眠り込み翌朝凍死していた、などなどの話があります。少し誇張はあるでしょうが、「テルエルでは弾に当たって死なずとも寒さで死ぬ」などと言われたゆえんです。
当時の写真を見ると、共和国軍の兵士たちの中には、バレー靴のようなカタルーニャ産のアルパルガタサンダルを履いている者がいます。これで雪の中を長時間歩かされたら凍傷にかかっても不思議はないな、という気がします。

テルエル守備軍救援にかけつけたフランコ軍の増援部隊も、大雪のため一時は立ち往生するような有様で、救援の望みを断たれ食料も弾薬も尽きてしまったテルエル守備隊は、38年1月8日に共和国軍に降伏しました。
共和国政府は、フランコ軍を相手の戦いで勝利を納めたとして、テルエル市の占領を大々的に世界に向けて宣伝します。そして主だった指揮官の中にはその勲功で昇進した人もいます。このテルエルの戦いを報道するため現地入りした外国特派員の中には、ヘミングウエイやロバート・キャパの姿がありました。

もともと共和国政府が牽制作戦として始めたテルエル攻撃でしたが、フランコは一般の予想に反してマドリッド作戦を一時棚上げし、軍事的に余り重要とは思えないテルエル市の奪回を最優先することに決め、1月半ばに12個師団(約10万人)を投入し、500門の砲とドイツのコンドル兵団を含む空軍による火力を組み合わせて、共和国軍を徹底的に叩く作戦に出ます。
その結果両軍をあわせて延べ20万人を越える軍勢がテルエル市周辺で激突を繰り広げ、双方に大きな損害が出る結果になりました。

テルエル攻撃に際しては、共和国軍も精鋭部隊を送り込みましたが、最初の一ヶ月足らずの戦闘でその30%あまりが損害を受けたと言われます。その補充に多数の若い召集兵が前線に送り込まれましたが、フランコ軍の本格的な反撃が始まると、実戦経験のない若い兵士の中にはパニックに陥る者も出て、激しい砲撃とそれに続くフランコ軍の急進撃に、武器を捨て壊走する部隊もでるありさまでした。

共和国軍のテルエル占領からほぼ一ヵ月半が過ぎた2月22日に、フランコ軍はテルエル市を奪回し、二ヶ月を越えるテルエルの戦いは共和国軍の敗北で終ります。
つかの間とは言え勝利の喜びを経験したあとだけに、共和国側の落胆は大きく、前線の兵士の間では士気の阻喪、後衛の市民の間でも負け戦の気分が蔓延するという、大きな問題を残したテルエルの戦いでした。

テルエルの戦闘に参加した兵員数やその損害については、色々な説があり正確なところはよく分りません。
共和国軍は内戦終了と共に壊滅し、50万人と言われた兵力も参謀本部のスタッフもバラバラになり、その殆どが国外に脱出してしまったため、共和国側の詳しい記録が残っていないのがその原因のひとつです。
しかし両軍をあわせて延べ20万人を越える兵員がテルエルの戦場に投入され、捕虜になった分を含めるとその半数近く、すなわち10万人ぐらいの損害が出た、という説が妥当ではないかと見られます。

「二十歳の戦争」(内戦の回想録)
ミケル・シグアン氏の「二十歳の戦争」という内戦の回想録は、激しい戦闘が一段落したあとのテルエル戦線で、若い召集兵として内戦終了までの二年間を過ごした著者が、最前線での日常生活を若干のユーモアを込めて淡々と語っているものです。
シグアン氏は当時バルセローナ大学哲学科に在籍し、学生運動の幹部で当時のエリートでもあったので、望めば後衛で楽な任務につくことも可能でしたが、召集に応じて共和国軍の一兵士として塹壕で過ごすことを選びます。
内戦後は、スペインの大学における心理学研究と教育の分野でのパイオニアとなり、バルセローナ大学の心理学部長を勤めた方です。シグアン氏はことし90歳になりましたが、いまもバルセローナで著作活動を続けておられます。

テルエル市
前置きがずいぶん長くなりましたが、私たちは3月15日の朝9時ころに車でバルセローナを発ち、途中で昼食をとったあと、テルエルまであと160キロくらいのところにあるアルカニース(Alcañiz)のパラドールでひと休みをしました。アルカニースはテルエル県第二の町で、人口は16,000人くらいの落ち着いた雰囲気を持つ町です。
パラドールはもともと観光推進の国策に沿って設立された国営の高級ホテルチェーンで、中世のお城や古い館を改造し四つ星や五つ星のホテルをスペイン各地につぎつぎ開設して行きました。
今は公営企業となり、私たちがテルエル市で泊まったパラドールのように三つ星のホテルもあったりして、最近は中身にだいぶばらつきがあるようですが、アルカニースのパラドールは、お城のような中世のカラトラバ騎士団の僧院を改装した立派なもので、一度は泊まってみたいなと思わせる雰囲気を持ったホテルでした。

テルエル市は人口34,000人くらい、中世からの古い歴史を持つ町です。標高900米くらいですので、三月半ばでも夜になるとちょっと肌寒い感じでした。
テルエルからバレンシアまでは、今は立派なハイウエーが開通して車で一時間あまりとずいぶん便利になりましたが、内戦当時は山沿いの細い道路を峠越えをしながら行く旧道しかなかったため、片道三時間くらいはかかったようです。
テルエルの戦闘を取材していた写真家のキャパは、バレンシアのホテルに滞在し戦場まで車で通っていたそうですが、1938年1月2日の朝テルエル市近くの峠で、前夜からの積雪で数百台の軍用車が峠道のところでで大渋滞を起したため、わずか5キロを行くのに8時間も費やしたそうです。

フランコ軍の守備隊が最後までたて籠もったという、スペイン中央銀行などテルエル市内の中心部にある建物は、共和国軍の市内掃討作戦で徹底的に破壊されましたが、70年が過ぎた今はもうすっかり建てなおされて、それらしい痕跡はどこにも見当たりませんでした。
  

(テルエル市の中心Plaza del Torico)
内戦の時の激戦の場で、いまは観光の名所のひとつになっているのが、小さな雄牛(torico)が石の円柱にちょこんと乗っているトリコ広場です。
毎年7月のテルエルの守護聖人のお祭りでは、雄牛を町に放し若者たちがはやしたてながら一緒に通りを駆け巡るそうですが、雄牛はテルエル市のシンボルマークといった感じです。
なおtoricoはtoroの縮小辞で、小さいということのほかに親しみを込めた言い方でもあります。またTeruelの名前の由来は、そのむかし野生のToro(雄牛)が町を探していた人の道案内をした、という昔話にその起源があるという説もあります。


テルエルの墓地
旧市内のほかに、もうひとつの激戦地だったテルエルの墓地は、テルエル市の北方の街道に沿った丘の上にあり、町の出入りを制する拠点でもあったので、フランコ軍と共和国軍とが墓石を盾に銃撃戦を繰り返し陣取り合戦をした場所でした。当時の弾痕が残る墓石がいくつも見られます。
実はテルエルの墓地のありかがよく分らなかったので、パラドールのフロントデスクでお墓への道を尋ねましたが、若いフロントの担当者はちょっと驚いたような顔で私の顔をしげしげと眺めていました。外国人観光客で墓地へ行く道を尋ねる人は、余りたくさんいないからでしょう。

(今も弾痕の残るお墓)

大聖堂
旧市内の中心部にある大聖堂などムデハル様式の建築は内戦の被害を免れ、1986年に UNESCOの世界文化遺産に指定されて有名になりました。ムデハル様式は中世ヨーロッパの伝統にイスラム文化の伝統を加味したものだと言われます。何となくロマネスクやゴチックにイスラム様式を組み合わせたような、不思議な魅力を感じさせる建物です。


(大聖堂のムデハル様式の塔)

「テルエルの恋人」
もうひとつの名所でどの観光案内書にも載っているのが「テルエルの恋人」でしょう。13世紀に身分の違いから結ばれなかった悲恋の物語りの主人公たちのミイラが、今は晴れて同じ場所に納められているというお話です。14世紀のボッカチオのデカメロンにも同じような悲恋の物語があるそうですが、テルエルの人たちはこちらの方が本家だと考えているようです。このミイラ二体は内戦の時には被害を避けるため尼僧院の地下室に安置してあったそうです。


(テルエルの恋人)

2008年10月29日水曜日

なぜいまスペイン内戦なのか(3)

―フランコは人間性に対する罪で裁かれるべきなのか?―

スペイン内戦とそれに続いたフランコ独裁体制の下で、体制にとり好ましからざる人物と見なされ、不法拘禁されたまま行方が分らなくなっているスペイン人の数は10万人を越えると推定されています。そしてその内の多くは内戦の渦中で正当な裁判を経ることもなく銃殺され、スペイン各地にある共同墓地とは名ばかりの土中に埋められたままになっているのが現状のようです。そしてこのフランコ体制の犠牲者たちは、内戦から70年が過ぎた今も正式に死亡が確認されることもなく、未だに「強制連行による行方不明」の状態にあります。

これらの犠牲者たちの肉親はその殆どがもう子供や孫の世代ですが、二年前からマドリッドの全国管区裁判所に対し20件を越える訴えを重ねていました。その趣旨は、内戦中と内戦直後のフランコ将軍とフランコ体制の指導者は、体制と意見を異にする市民を計画的に抹殺したのであり、それは「人間性に対する罪」を犯したものとして裁かれるべきこと、また共同墓地に埋葬されている筈の肉親を葬るために遺体の発掘と鑑定を求めるという内容です。

これらの訴えを裁判にかけるべきかどうかを予審判事として検討して来たのが、チリのピノチェット元大統領を逮捕しようとして有名になった全国管区裁判所中央予審部のバルタサル・ガルソン判事です。
ガルソン予審判事は10月16日付けで、フランコ将軍とフランコ体制の当時の指導者30数名が、人間性に対する罪を犯したか否かに関し捜査を進めること、また同時に19箇所の共同墓地での遺体発掘を認める、との決定を下しました。その中には詩人で内戦が始まってすぐ殺されたガルシア・ロルカが埋葬されているという、南スペインのグラナダ郊外にある共同墓地も含まれています。

ガルソン判事の決定は犠牲者の家族にとっては朗報ですが、スペインの世論がこれを圧倒的に支持するかとなると、それはまた別問題だと思います。内戦に関する議論になると、未だにスペインでは国民の意見が真っ二つに割れるのが常ですが、特に内戦から70年、フランコの死から30年の時間が過ぎたいま「人間性に対する罪」で50年前のフランコ体制の指導者を裁こうとしても、国民のコンセンサスを得るのは至難のわざでしょう。「何でいまさら古傷に触るのか」、「時間と費用の無駄遣いだ」、「共和派の罪を裁かないのは片手落ちだ」という類の反応が見られます。

本来はガルソン予審判事と歩調をあわせるべき全国管区裁判所の検察部長が、過去の最高裁の判決などを根拠に、この訴訟は全国管区裁判所として取り上げられないとの意見を今年の二月に公にしています。その論拠は、内戦当時の刑法には「人間性に対する罪」の規定は存在しなかったこと、また殺人などの通常犯罪に問われる場合でも、内戦とそれに続くフランコ体制の軍人や官憲を免責にしている1977年の特赦法が適用されること、そしてもし仮に大量殺戮などの罪があったとしても、全国管区裁判所の管轄はスペイン国外の事件に限られること、などの理由を挙げています。

これに対するガルソン判事の論拠は、現時点でスペイン内戦を司法の立場で見直す意図はないが、同じ内戦の犠牲者でありながら、勝利者(フランコ)側の犠牲者には戦後、国がその被害につき詳しい調査を行い補償の措置が取られたにも関わらず、敗者(共和派)は拘禁のうえ拷問されたり、10万人を越える行方不明者が出るという、国としての不公平な扱いが特に1952年頃まで顕著であるのは否定し得ない事実であること。
また今に至っても「強制連行による行方不明」が存在するということは、法的には未だ居所不明の不法拘禁が現在も継続しているということであり、これについては人間性に対する罪の観点から責任者の刑事責任が検討されるべきこと、また1977年の特赦法は重大な人権侵害までを免責とするものではないことなどの理由で、フランコ将軍および当時指導的立場にあった30数名の軍人や政治家の名前を上げ、「強制連行による行方不明」に関しその刑事責任につき取り調べを行うこと、そしてこれら行方不明者の実態を把握するため、7名の専門家による審査グループと10名の司法警察官による捜査チームを立ち上げるとしています。そして司法がいつまでも沈黙を守り続けることは、本来刑事責任を負うべき者に事実上の免責を与えることになりかねない、とも述べています。

但しフランコ将軍はじめ名前の上がっている軍人や政治家の全員がすでに死亡している以上、実際に法廷で裁くことは不可能であり、実際にガルソン判事が今後どうやって予審から訴訟にまで展開して行くのか不明な部分が多々あります。また検察部長が予審判事と対立している現状などを勘案すると、捜査も難航が予想されます。しかし、犠牲者の家族の訴えを玄関払いにするような対応ではなく、いわば火中の栗を拾うような難問に取り組もうとしているガルソン判事の姿勢から、司法の社会的あるいは歴史的な責任とは何か、検事や判事は何のために存在するのか、という司法制度の根底に関わる問いかけを感じます。

1977年の特赦法は、翌年に制定される民主憲法の捨石のような形で、内戦にまつわる刑事責任はお互いに問わないという形で左右の政治勢力の妥協が成立し、血塗られた内戦の歴史の一部を封印したものでした。そして当時の軍部や保守派に、独裁制から民主国家に向けての急速な変化を容認させるためには、この特赦法が必要だったのだ、あれはスペイン民主化のための止むを得ざる対価だったのだ、と今でも多くのスペイン人が口にします。1970年代をスペインで過ごした私は、1975年にフランコが亡くなった時、軍部の動きにみんなが神経を尖らせていた、当時の緊迫した雰囲気を思い出すことがあります。70年代のスペインは内戦にまつわる忌まわしい記憶をお互いに封印することで、国民の和解を図ったとも言えます。しかし同時にそれはフランコ体制の犠牲者への償いを先送りしたことでもありました。

あれから30年が過ぎ内戦を生きのびた世代も残り少なくなり、いずれも90歳を越える時期になったいま、行方不明の肉親を何十年ものあいだ探し続けてきた内戦の犠牲者の家族に、やっと不十分ながら司法の目が向けられようとしているという感じがします。そして、司法の場でいろいろな事実が今後公開されるにつれて、フランコ体制の責任を問うという議論は、予審判事と検察部長の対立だとか今回の予審の成否というようなレベルを越えて、もっと大きな公開の場での議論を巻き起こすテーマになるのではないかと思います。

ひとつの国が、そしてその国民が人間らしさを失わないためには、たとえ忌まわしい戦争についての記憶であってもその封印を解いて記憶を共有し、お互いがそれを忘れないように努めること、そして未だに救いの手が差し伸べられていない犠牲者がいれば救いの手を差し伸べ、未だに葬られていない死者があればそれを葬ること、それはスペイン人にとっても避けて通れない道だろうという気がします。

2008年6月28日土曜日

ロバート・キャパ(Robert Capa)とスペイン内戦(1)


-失われたネガフィルムの謎―

2008年1月末の世界各国の主要紙に、「キャパのネガフィルム、70年ぶりにメキシコで発見」、というニュースが載りました。
ロバート・キャパ(本名Endre Friedmann, 1913-1954)はユダヤ系ハンガリー人で、スペイン内戦が始まった1936年7月にはまだ22歳の無名に近い報道カメラマンでしたが、その年の9月に南スペインのコルドバ県で共和国側の民兵部隊を取材中に、あの有名な「崩れ落ちる兵士」の写真を撮り、一躍戦争写真家として世界にその名を知られることになりました。

この写真は、被写体の民兵がフェデリコ・ボレル(バレンシア県アルコイ町出身の25歳の繊維労働者)と身元が判明しており、また撮影日は1936年9月5日で、場所はコルドバ県セロ・ムリアーノ村の戦場、とデータが揃っているにも関わらず、ネガフィルムが失われていることもあって、「やらせ」ではなかったか、という噂を打ち消すための決定的な証拠に欠けるうらみがありました。

今回メキシコ市で発見されたのは、スペイン内戦の写真が主体のフィルム100本、3,500コマにも及ぶ大量のオリジナル・ネガフイルムで、現物はいまニューヨーク市にある国際写真センター(International Center of Photography)に移され、整理と複製などの作業が行われているところです。まだ「崩れ落ちる兵士」のネガが見つかったという確認はありませんが、そのうち何か手がかりになる情報が発見されることを、キャパの名誉のためにも望みたいところです。
またこれまで未公開の写真や、すでに公表済みの写真であっても、オリジナル・ネガから新たに作成する質の良いプリントが一般に公開されることを、大いに期待しています。

キャパは1939年9月に第二次大戦が始まると、すぐパリを離れ米国に脱出しますが、そのときパリ在住の友人にスペイン内戦などを取材した大量のネガフィルムを預けて行きました。しかしその後このネガの行方が分らなくなり、戦乱のどさくさにまぎれて全てが失われてしまったものとされ、キャパもそう信じ込んでいたようです。そして、キャパが1954年5月にベトナムで第一次インドシナ戦争を取材中に、地雷を踏んで亡くなったこともあり、その後ネガを追跡する手がかりが失われていたのでした。

パリに保管してあったはずのキャパのネガが、なぜ数十年後にメキシコ市在住のベンハミン・タルベル(Benjamin Tarver)という映像作家の所有物としてメキシコで発見されることになるのか、というのはまさにミステリーで、今後の調査に待つしかありません。
これまでに分っているのは、このキャパのネガが入った3個の小型旅行カバンが、1941-42年に駐フランス・メキシコ大使を務めたフランシスコ・アギラル(Francisco Aguilar)将軍の遺品として、将軍の未亡人の所有物になっていたこと。そして、未亡人の甥にあたるタルベル氏が、それを遺産相続していたことが判明しています。
実はキャパの写真に詳しい人たちの間では、この幻のネガフィルムは「メキシコの旅行カバン(Mexican Suitecase)」という名前で、かなり前からその存在が知られていたようですが、やっとニューヨークへお里帰りをしたわけです。

これまでの調べでは、ドイツ軍占領下のパリに保管されていたネガは、スペイン共和国の元兵士に託され、マルセーユに向けて運ばれたらしいこと。そして、スペイン内戦が共和国側の敗北に終わったあと、フランスに脱出しマルセーユ経由でメキシコに移住した共和派の人たちが沢山いたこと。などがパリとメキシコをつなぐ手がかりのひとつとして指摘されていますが、誰がどうやってパリからメキシコまで運んだのか、またどういう経緯でアギラル将軍の手に渡ったのか、などは不明のままです。

メキシコ市の乾燥した気候がフィルム保存には幸いしたのでしょう、70年を経たネガフィルムの劣化は余りひどくはないようです。この中にはキャパの作品以外に、デイビッド・シーモア(David Seymour)が撮った写真と、これまでキャパの恋人ということでしか名前を知られていなかった、ゲルダ・タロ(Gerda Taro)の作品がたくさん含まれています。
ゲルダ・タロ(本名Gerda Pohorylle, 1910-1937)はユダヤ系ドイツ人で、報道写真家としても一流の腕を持ち、初期のスペイン内戦を取材した素晴らしい写真があります。キャパと行動を共にしていたので、キャパの名前で公表された写真の中には、実際には彼女が撮ったものもあると言われています。残念ながら、1937年7月にマドリッドに近いブルネテ戦線で、撤退する共和国軍の混乱に巻き込まれ、戦車に轢かれて26歳の若さで亡くなっています。女流報道写真家としては、世界で初めての戦場の犠牲者でした。ゲルダについては、また回を改めてもう少し詳しくお話しをしようと思っています。

2008年5月5日月曜日

なぜいまスペイン内戦なのか(2)

―1977年の「特赦に関する法律」(Ley de Amnistía)―

前回は「歴史の記憶に関する法律」を話題に取り上げましたが、あの法律にちょうど30年先立つ1977年10月に、「特赦に関する法律」(Ley de Amnistía)が、まだフランコ体制の延長線上にあった当時の議会で成立しています。この「特赦法」は「歴史の記憶に関する法律」といわば表裏をなすものですので、1970年代後半にスペインで起きた民主化体制への歩み(これをtransiciónと称します)とからめて、その要点をごくかいつまんでお話してみましょう。

(独裁体制から民主主義体制へ)
1975年11月にフランコが死ぬと、スペインは独裁政治体制から民主主義体制に向けて大きく舵を切り始めます。38歳で国家元首を継承したフアン・カルロス国王も、そして1976年7月に首相に就任した44歳のアドルフォ・スアレスも、いずれも「フランコ体制」の出身者ではありますが、35年の長期に亙ってスペインを支配してきたフランコ独裁体制を解体して、1978年憲法と呼ばれる主権在民の新憲法を成立させ、スペインを民主主義国家に変えて行くことに力を尽くします。

当時の週刊誌が、「スアレスのハラキリ」というタイトルで、サムライの格好をしたスアレス首相が、自らの出身基盤であるフランコ体制を次々に解体して行く姿を漫画化した挿絵入りの特集記事を載せたことがありました。スアレス首相の勇気には賞賛を送る一方で、長年わがもの顔にスペインを支配してきた独裁体制の終焉をちくりと皮肉る調子の記事でした。そしてそれは当時の庶民の気持ちをうまく言い表したものだったと思います。

スペイン人は当時を振り返って、「あの民主化への移行は本当にうまく運んだ」と口をそろえて言います。それは「もう内乱はコリゴリだ」という気持ちが国民のあいだで過激な言動を抑える作用を果たした一方で、保守的な体質の軍部を過度に刺激しないよう、当時の政治家たちが現実的な妥協を重ねながら慎重にフランコ体制の解体を図った結果でもありました。

(特赦法が生まれた背景)
スアレス首相は保守派の根強い反対を押し切って、1977年4月には共産党の合法化を行い、そして6月に実施された総選挙で第一党の地位を固めると、新憲法制定に向けて与野党の歩み寄りを推し進めます。そして、新憲法を保守派に呑ませるための妥協策のひとつとして「特赦法」が生まれた、という風に私は理解します。

特赦法の狙いは、ひとことで言ってしまえば、「この法律が成立する以前に軍人が犯した反乱の罪ならびに官憲が犯した人権侵害の罪を問わない」ということです。
従って、たとえ1978年12月に施行された新憲法で人権尊重を謳っていても、内戦の犠牲者が過去に遡って人権侵害による被害を訴える法律的な基盤がなくなってしまうということでした。

それは内戦中にフランコ軍の占領地で起こった暴行や殺戮の犠牲になった人たち、或いは官憲による不当逮捕・拷問を経験した人たち、そしてその家族にとっては、耐え難い妥協だったことでしょう。ヘミングウェーの「誰がために鐘は鳴る」の女主人公マリアのように、父親が共和派の政治家であったというだけの理由で、両親はフランコ軍に銃殺され本人は頭を剃られて暴行されたというような話しは、ヘミングウェーの小説の上だけのこととも言い切れないようです。

しかし今でも殆どのスペイン人が「民主化実現のためには、あの特赦法は止むをえなかったのだ」と言います。そして、内戦の記憶がひとりひとりのスペイン人の心の奥深いところで封印される一方、国民の合意という形で1977年の「特赦法」によって、政治的にも内戦の記憶が封印されてしまったのでした。

その特赦法から30年が過ぎ、そして内戦から70年が過ぎた2007年になって、やっと「歴史の記憶に関する法律」が生まれました。そしてこの法律によって、内戦とフランコ独裁の犠牲者に対して、国として人権侵害の事実があったことを公に認め、多分に象徴的な意味合いが濃いとはいえ、何らかの救済措置を講じる姿勢を明確に示したことで、遅まきながら犠牲者の名誉回復を図る動きが正式に認知されたということでしょう。

スペイン内戦の歴史を辿っていると、「戦争の記憶を一度は封印しても、いつかはそれに向き合わねばねらない時が来る」ということを痛感します。そして「戦乱の犠牲者は復讐を求めるべきではない。ふたつに分かれてお互いに殺しあった国民が、和解に達するのがいちばん大事なことなのだ」と自らが内戦の犠牲者でもある詩人マルコス・アナが静かに語るとき、私にはそれがスペイン内戦の歴史を越えて現代に通ずる呼びかけだ、という風に響くわけです。